2017年の秋は、雨が多かった。
8月に抗体検査をクリアしてから、私たちはカレンダーの×印を数えるだけの日々を送っていた。



180日。半年。
言葉にしてしまえば短いが、それは季節が二つ巡るほどの長さだ。
その間、私たちは何もできない。ただひたすら、
狂犬病という見えない悪魔が潜伏していないことを証明するために、時間を浪費し続けなければならない。
だが、その「何もしない時間」こそが、猫たちにとっては最も残酷な毒だったのだ。

異変は、美玲の部屋の風景が変わるのと同時に始まった。
1月11日の渡航へ向けて、美玲の部屋では引っ越しの準備が進められていた。
日本へ持って行けない大きな家具―
―ソファ、本棚、ダイニングテーブル――が、
一つ、また一つと粗大ゴミとして運び出されていく。
代わりに部屋を埋め尽くしていくのは、無機質な茶色の段ボール箱だ。
ガムテープを裂く音が、乾いた部屋に響く。
生活の匂いが消え、殺風景になっていく部屋。
猫たちが爪を研いでボロボロにした愛着のあるソファも、もうない。
それと比例するように、猫たちの様子がおかしくなっていった。

最初に壊れたのは、繊細な妹猫の安安(アンアン)だった。
10月に入った頃、美玲とのビデオ通話で、安安の姿が見えなくなった。
『クローゼットの天袋に入り込んで、もう三日も出てこないの』
美玲の顔色は、画面越しでも分かるほど悪かった。目の下に濃い隈ができている。
『ご飯を入り口に置いてるんだけど、私が寝静まった頃に1口か2口食べるだけで……』
カメラを持ってクローゼットの中を映してもらうと、闇の奥で、2つの金色の目が怯えきって光っていた。
それは、かつて私たちが愛した、あの甘えん坊の安安の目ではなかった。
獲物を警戒する、野生動物の目だった。

次に、兄の平平(ピンピン)が豹変した。
あれほど人懐っこく、誰にでもスリスリと寄ってきていた彼が、
美玲が手を伸ばした瞬間に「シャーッ!」と激しく威嚇したのだ。
画面の向こうで、美玲の指から血が滴り落ちるのが見えた。
『……痛っ』
「大丈夫か!?」
『平気、ちょっと引っかいただけ……』
美玲は笑おうとしたが、その表情は引きつっていた。
平平は段ボールの山の上に駆け上がり、全身の毛を逆立てて唸り声を上げていた。
その姿は、見えない敵と戦っているようだった。

そして、長老の阿福(アーフー)。
彼は暴れもしなければ、隠れもしなかった。ただ、静かに枯れていった。
いつもなら丁寧に整えている自慢の銀色の毛並みが、ボサボサに荒れ始めた。
グルーミングをしなくなったのだ。
さらに、トイレ以外の場所で粗相をするようになった。
美玲が大切にしていたラグマットの上で、彼は虚ろな目で尿を漏らした。

美玲はすぐに阿福を病院へ連れて行った。
どこか内臓が悪いのかもしれない。あるいは、未知の感染症か。
しかし、検査結果は私たちをさらに困惑させた。
『身体的な異常はありません。血液検査の数値も正常です』
獣医は首を傾げて言ったという。
『強いて言えば、ストレスでしょう。引っ越し準備の騒音や、埃に反応しているのかもしれません』

ストレス。
確かに環境は変わった。だが、それだけでここまで劇的に衰弱するものだろうか。
今までだって家具の配置換えくらいはあった。
その時は、新しい配置を楽しんでいた彼らが、なぜ今回はこれほどまでに拒絶反応を示すのか。
原因が分からなかった。
原因が分からないから、対処のしようもなかった。
日に日に痩せていく猫たち。その姿を見るたび、私たちの心も削られていった。

ある深夜、美玲から着信があった。
彼女の声は、震えを通り越して、掠れていた。
『裕……やっぱりもう、やめよう』
「美玲?」
『あの子たち、死んじゃうわ。ご飯も食べないし。このままじゃ、日本に着く前に死んでしまう』
彼女は泣いていた。
『今日ね、平平が私のこと、噛んだの。本気で。
血が止まらなくて……でもね、噛んだあとの平平の顔を見たら、あの子、泣いてたの』
美玲の嗚咽が響く。
『私、毎日、猫たちに質問しているのよ』
美玲は絞り出すように言った。
『「どこか痛いの?」「何が怖いの?」「どうしてご飯を食べないの?」って。
 膝をついて、目を見て、一生懸命聞いたわ。でも、あの子たちには私の声が届かない。
 ただ怯えた目で見返してくるだけ。言葉が通じないって、こんなに絶望的なことだったのね』

彼女の声が震える。
『目の前にいるのに、まるで分厚いガラスの壁に隔てられているみたい。
 私の言葉は、あの子たちにはただの雑音にしか聞こえていないのよ』
『なんでなの?どうしてこんなに苦しむの?私が何をしたっていうの?』
美玲の悲痛な叫びに、私は言葉を失った。
私たちがやっていることは、すべて彼らのためだ。家族一緒に暮らすための準備だ。
それなのに、なぜ彼らはこんなにも傷つき、私たちを拒絶するのか。
私たちの愛は、彼らにとっては毒でしかないのか。

『もう見ていられない。日本に行かなくてもいい。
 ここでずっと暮らせば、また元に戻るかもしれない。ねえ、裕、……』
懇願する彼女の言葉に、私はなんと答えていいか分からなかった。
ここで中止にすれば、猫たちの命は助かるかもしれない。
だが、それは私と美玲の未来を諦めることを意味する。
画面の向こうの部屋は、段ボールの壁に囲まれ、まるで巨大な迷宮のように見えた。
その中で、言葉の通じない者同士が、互いの心を傷つけ合いながら、出口を見失っていた。

電話を切ったあと、私は京都の寒空の下、ベランダで呆然と立ち尽くしていた。
無力だった。
司令塔を気取って書類を完璧に揃えても、
肝心の猫たちがなぜ苦しんでいるのか、その理由さえ分からない。
美玲があれほど必死に問いかけても、答えは返ってこなかったのだ。
どうすればいい。
何が彼らをここまで追い詰めているんだ。
このまま理由も分からずに、私の家族は崩壊してしまうのか。

絶望的な沈黙の中で、私はただ祈ることしかできなかった。
誰か教えてくれ。
彼らが何を考え、何に怯えているのか。
その答えを知る者は、人間の世界にはどこにもいなかった。
少なくとも、その時の私はそう考えていた。