2017年、夏。
京都は祇園祭の熱気に包まれていたが、私の心は祭りどころではなかった。
私の部屋の机には、台湾の動物病院から送られてきた書類のコピーと、
日本の農林水産省の申請フォームが山積みにされていた。
私たちは役割を分担していた。

私が日本で手続きを調査、書類を作成し、スケジュールや予算を管理する「司令塔」
美玲が台湾で猫たちを病院へ連れて行く「実行部隊」だ。
理屈の上では効率的な分担だった。だが、精神的な負担は圧倒的に美玲の方にかかっていた。

7月初旬のある夜、美玲から電話がかかってきた。
受話器の向こうの彼女の声は、ひどく湿っていた。
『今日、マイクロチップを入れてきたの……』
猫の個体を識別するためのISO規格のチップ。
これを首の後ろの皮下に埋め込まなければ、すべての手続きは始まらない。
それは直径二ミリ、長さ十二ミリほどの円筒形をしている。
小さな猫の体にとっては、決して小さくない異物だ。

『針がね、すごく太いの。注射針なんかよりずっと太くて……』
美玲が鼻をすする音が聞こえた。
『平平(ピンピン)が暴れて、ネットに入れられて。安安(アンアン)なんて、
恐怖でお漏らししちゃって…ごめんなさい、ごめんなさいって押さえつけて……』
言葉が途切れ、嗚咽に変わる。
『ねえ、裕。これって本当に正しいことなの?人間のエゴじゃないの?
日本に行きたいのは私で、あの子たちはここでも幸せなのに』
彼女の問いかけは、鋭いナイフのように私の胸に突き刺さった。

私は京都の涼しい部屋で、キーボードを叩いているだけだ。
実際に猫たちの悲鳴を聞き、その震える体を抱きしめているのは彼女なのだ。
痛み分けすらできない自分の無力さが歯がゆかった。
中止するなら今だ、という悪魔の囁きが聞こえた。
だが、私は心を鬼にして、受話器を握りしめた。
「美玲、聞いてくれ」
努めて冷静な声を出す。
「かわいそうなのは分かってる。胸が張り裂けそうだ。
でも、ここで止めたら、僕たちは一生一緒には暮らせない。
平平たちとも離れ離れになる。それこそが、一番かわいそうな結末じゃないか」
『……でも』
「今が一番しんどい時だ。ここを乗り越えれば、あとは待つだけだから。頼む、頑張ってくれ」
それは半分、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
電話を切った後、私はやり場のない感情を押し殺すように、再び書類の山に向かった。
私ができることは、一文字の記載ミスも出さないことだけだ。
彼女と猫たちの痛みを、無駄にしないために。

数日後。最大の難関である「狂犬病抗体検査」の日がやってきた。
ワクチン接種の効果を確認するため、採血をして日本の検査機関へ血清を送るのだ。
この数値が基準(0.5IU/ml)を超えていなければ、すべては振り出しに戻る。
結果が出るまでの二週間、私たちは祈るような気持ちで過ごした。
もし数値が足りなかったら?
高齢の阿福(アーフー)に、これ以上ワクチンを打って体に負担をかけて大丈夫なのか?
悪い想像ばかりが膨らんだ。毎晩のように、検査結果が「不合格」で戻ってくる夢を見た。

8月の初旬。ポストに1通の封筒が届いた。
一般財団法人生物科学安全研究所からの通知書だ。
震える指で封を切る。三枚の証明書が入っていた。
平平、基準値クリア。
安安、クリア。
そして阿福も――クリア。
「よし……っ!」

私は誰もいない部屋で拳を突き上げた。すぐに美玲にLINEで写真を送る。
数秒で既読がつき、スタンプが連打されてきた。泣き顔のクマと、ハートマーク。
まずは第1関門突破だ。これでようやく、私たちはスタートラインに立つことができた。

その夜のビデオ通話は、久しぶりに明るい雰囲気に包まれた。
「よく頑張ったね、みんな」
画面の向こうで、美玲が猫たちにおやつをあげている。
平平が嬉しそうに喉を鳴らす音が、マイク越しに聞こえてきた。
私は机の上に広げたカレンダーを見た。
ここからが、法律で定められた「180日間の待機期間」だ。
狂犬病の潜伏期間がないことを証明するための、長い長い足止め期間。

採血を行った日が、7月9日。
そこから百八十日を数えていく。8月、9月、10月……
指でなぞっていく私の指が、翌年のカレンダーへと移る。

180日目が明けるのは、1月の上旬だ。
「少しだけ余裕をもって、1月11日だ」
私が呟くと、美玲が画面を覗き込んだ。
「え?」
「猫たちを日本に入国させる日だよ。2018年1月11日」
美玲が手元の手帳で確認し、小さく頷く。
「1月……まだ半年もあるのね」
ため息混じりの彼女の言葉を聞いて、私はある提案を思いついた。
それは、これまで曖昧にしていた私たちの「結婚」の時期を決定づけるものだった。
「美玲。僕たちの入籍日も、その頃にしよう」
「えっ?」
「入籍して、一緒に暮らし始める日を、その日に合わせるんだ。
猫たちが海を渡れる日が、僕たちの新しい人生の始まりだ」
これまでは、人間の都合―
―私の仕事の決算時期や、彼女の退職時期――で結婚のタイミングを計っていた。
だが、違う。
優先順位の第1位は、いつだってこの小さな家族たちであるべきだ。
彼らが日本へ渡航できる日が、私たちが家族になる日だ。
美玲の表情が、ぱあっと明るくなった。
「素敵。すごく素敵よ、裕」
「だろう? 1月11日。ワンワンワンの日だけど、僕らにとっては猫の日だ」
「ふふ、そうね」
画面の端で、阿福が大きなあくびをした。まるで「やっと決まったか」と呆れているようだった。

その日から、私たちのすべての予定は「2018年1月11日」からの逆算で動き出した。
猫の飛行機搭乗の手配。京都の新居探し。家具の購入。
そして美玲の部屋の退去準備。
ゴールは見えた。あとはテープを切るだけだ。
私たちはそう信じて疑わなかった。
この長い180日間の待機期間が、猫たちの心を少しずつ、
しかし確実に蝕んでいくことになるとは、まだ知らずに。