出発の朝は、思ったより静かだった。

 まだ日が昇りきる前の玄関。
 スーツケースとリュックと、猫型のキーホルダー。

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 短い言葉を交わして、翠は外へ出た。
 猫たちはそれぞれのやり方で見送る。

 メンフィスは玄関マットの上でどっしり座り、しっぽを一回だけ振った。
 マリは靴箱の上から、「ちゃんと帰ってきなさいよ」と言いたげに目を細める。
 ラスムスは窓辺でじっと背中を見送り、パイパーは最後まで翠の足首に身体をすり寄せていた。

 玄関の戸が閉まる音が、家の奥まで静かに響く。

 日向荘が、半分だけ空になった。

 * * *

「じゃ、とりあえず……朝ごはんだな」

 悠誠は、冷蔵庫のメモを何度も読み返しながら、猫皿を並べた。
 順番を間違えないように、左からメンフィス、マリ、パイパー、ラスムス。

「大丈夫か、俺」

 不安しかないが、猫たちは意外と落ち着いていた。
 メンフィスがいつも通りの位置に座っているだけで、台所の空気が少し安定する。

 人間の朝ごはんは、簡単なトーストとスープ。
 焦がしそうになったパンを、マリがじっと睨んでいる。

「わかってるよ、今度は焦がさない」

 言い訳すると、マリが鼻を鳴らした。

 * * *

 数日もすると、日向荘の新しいリズムができてきた。
 洗濯かごは相変わらずメンフィスの指定席で、
 パイパーは在宅仕事の合間に膝に乗ってくる。
 ラスムスは、窓の鍵がちゃんと閉まっているか毎晩確認して回る。
 マリは、リビングの片隅に小さな花瓶を倒れない程度にいたずらしながら、さりげなく部屋を彩った。

 悠誠は、慣れない家事と仕事をなんとか両立させようとしていた。

「藤原さん、今日も生きてますか?」

 ときどき、翠からメッセージが届く。
 写真つきで送られてくるのは、新しい保護施設の猫たち。

『今日の新人さん。ビビりだけど、ごはんはよく食べる』

『この子、パイパーに似てません?』

『あ、ラスムスっぽい子もいました』

 悠誠は、日向荘の日常を返す。

『メンフィス、洗濯かご独占中』
『マリ、花瓶を毎日少しずつ動かす』
『ラスムス、窓パトロールきっちり』
『パイパー、相変わらず人の膝事情に詳しい』

 画面越しのやりとりなのに、距離は思ったほど遠く感じなかった。

 * * *

 ある夜、仕事で軽いトラブルがあり、悠誠はまた少し落ち込んでいた。
 あの日ほど深刻ではない。
 でも、胸の奥に小さな石がひとつ転がっている。

 パイパーが当然のように膝に乗り、
 メンフィスが背もたれの後ろで寝息を立てる。

 マリは机の上のスマホを前足でつつき、画面を点灯させた。

 メッセージアプリの通知がひとつ。
『今日、帰る日決まりました』

 短い文章に、胸の石がころんと音を立てた。

『おかえりって言う準備、しておきます』

 そう返すと、すぐに既読がついた。

 やわらかな檻の中で、誰かを待つ時間は、思っていたよりずっと忙しくて、悪くなかった。