出発の日が、カレンダーの中でじわじわと近づいてきた。

 冷蔵庫の横には、メモが一枚貼られている。

『ゴミの日 燃える:水曜・土曜/燃えない:第二・第四金曜』
『メンフィスは洗濯かご優先』
『パイパーは落ち込んでそうな人の膝に乗せること』
『マリは構いすぎ注意』
『ラスムスは窓の開けっぱなし禁止』

 最後の行だけ、やけに大きな字で書いてある。

「なんか、ラスムスだけ扱いが違いません?」

「前科持ちですからね、あの子」

 出発前夜の食堂では、いつもより少し豪華なご飯が並んでいた。
 唐揚げとポテトサラダと、猫たち用の特別おやつ。

「本当に、行っちゃうんですね」

「本当に、行っちゃいますね」

 ふたりとも、冗談みたいな口調で言う。
 視線はなかなか合わなかった。

 * * *

 片づけがひと段落したあと、二人で縁側に座った。
 猫たちは、それぞれお気に入りの場所に散っている。

 夜風が、少しだけ冷たい。

「行ってみようと思います」

 先に口を開いたのは翠だった。

「怖いですけど。
 あの子のことを、いつまでも“やらなかった後悔”の象徴みたいにしておきたくなくて」

「……うん」

「でも、戻ってきてもいいって、言ってくれましたよね」

「はい。何回でも戻ってきてください」

 ようやく視線が合った。
 街灯に照らされた翠の頬は、ほんのり赤い。

「藤原さんは、どうします?」

「俺は、ここにいます」

 言ってから、心臓が跳ねた。

「ここで仕事して、猫たちと暮らして。
 翠さんが戻ってきたとき、“いないほうが楽だったな”って思わないくらいには、ちゃんとしておきたいです」

 それは、告白というには足りなくて。
 引き止めるには、少し優しすぎる言葉だった。

 翠は、少しだけ笑った。

「そんなこと思いませんよ、多分」

「多分、ですか」

「絶対って言うと、嘘になりそうで」

 はっきり言えないところが、その人らしいと思った。

「戻ってきたら……そのとき、もっとちゃんと話してもいいですか」

「ちゃんと、って?」

「今はまだうまく言えないことを、言葉にできるかもしれないので」

 翠は、しばらく黙って夜空を見上げた。
 遠くで電車の音がした。

「その約束、覚えておきます」

 静かな返事だった。

 告白未満。
 さよなら未満。

 はっきり名前のつかない気持ちだけが、やわらかな檻の中でゆっくり温まっていく。