ある日の昼下がり、台所で電話が鳴った。

「はい、日向荘です。――あ、先輩?」

 翠の声が一段階明るくなる。
 猫たちは、それぞれの定位置から耳だけそちらへ向けた。

 電話の相手は、動物病院時代の先輩だった。
 話はすぐ本題に入る。

「猫の保護施設、立ち上げるんですか」

 包丁を持つ手が止まった。

「手伝ってくれないか、って……」

 メンフィスが食器棚の上から身を乗り出す。
 マリは窓辺で毛づくろいをやめた。

「場所は……わりと遠いなあ」

 電話を切ったあとも、しばらく翠はその場に立ち尽くしていた。

 * * *

「行くんですか?」

 夕方、食堂で皿を並べながら、悠誠が恐る恐る聞く。

「うーん……行きたい気持ちはあります」

 翠は、ポテトサラダの入った皿をテーブルに置いた。

「前に助けられなかった子がいて。
 あのときのこと、今でも夢に見るんです」

 ラスムスが、食器棚の上で目を細める。

「だから、今度こそ、って思う反面……」

「日向荘を離れたくない?」

「ですね。ここも、私にとっては“守りたい場所”になっちゃったので」

 言いながら、翠は猫たちの皿を見渡した。
 みんな、いつも通りの位置でご飯を待っている。

「行ったら、戻ってこられない気もして」

「戻ってくるって決めて行けばいいんじゃないですか?」

 思わず口を挟んでから、自分で驚く。
 悠誠は、もっと引き止めるような言葉を言うと思っていた。

「戻ってきてほしくないんですか?」

「めちゃくちゃ戻ってきてほしいですよ」

 即答すると、翠が吹き出した。

「ですよね」

「でも、行きたい気持ちも本当なんですよね。
 だったら、“行って戻ってくる”って選択肢もあっていい気がして」

 自分でも不思議だった。
 怖がりなくせに、背中を押すようなことを言っている。

 メンフィスが椅子の足もとにやってきて、悠誠の足に頭をこすりつけた。
 重たい存在感が「それでいい」と言っているみたいだった。

 * * *

 その夜、翠は布団の上で丸くなったマリに向かってつぶやいた。

「もし行ったらさ、みんな怒るかな」

 マリは大きなあくびをひとつしてから、翠の胸の上に移動した。

「怒るけど、許すと思うわよ」

 そんなふうに言っている気がした。

 日向荘は、逃げ込んできた人のための場所。
 でも、ここを出ていく人の背中を押す場所であってもいい。

 翠は、天井を見つめながらゆっくり息を吐いた。

 怖い。
 けれど、少しだけ楽しみでもある。