猫付き下宿・日向荘 やわらかな檻の中で、忘れられない恋を

 その箱が開いたのは、ほんのささいな事故だった。

 押し入れの奥から物音がしたので覗いてみると、マリとラスムスが段ボールの上で取っ組み合いをしていた。

「ちょ、ちょっと待って、それは」

 慌てて近づくより早く、ラスムスの蹴った後ろ足が、ガムテープの端を思い切りはがす。

 べりっ、という大きな音。
 ふたが半分浮き上がり、中身が少しのぞいた。

 写真の角と、折りたたまれた手紙の束。

 時間が止まったみたいに、体が動かなかった。

「……ごめん」

 ラスムスが小さく鳴く。
 マリも、気まずそうに箱から降りた。

 そこへ、様子を見に来た翠が顔を出す。

「どうしました?」

「いえ、その……」

 説明しようとして、言葉が見つからない。
 箱のふたの隙間から、懐かしい文字がのぞいていた。

 * * *

「触らないほうがよければ、今すぐ閉めますけど」

 翠が静かに言う。
 声の調子から、何が入っているのか、だいたい察していそうだった。

「……大丈夫です。いつか開けようとは思ってたから」

 自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
 手のひらだけ、じっとり汗ばんでいる。

 膝の上には、いつの間にかパイパーが乗っていた。
 喉の音が、荒い呼吸をなだめてくれる。

「前の恋人の、ですね」

「はい」

 隠しても仕方がないと、素直に頷く。

「三年前に別れたんですけど、片づける勇気が出なくて。
 箱に入れて、見ないようにしてただけで」

「箱ごと捨てる、っていう選択肢はなかったんですか?」

「ありました。けど、捨てたら本当に全部なかったことになる気がして」

 楽しかった日々も、あのときの自分も、一緒に消えてしまいそうで怖かった。

「でも、持ち歩いているのも、正直重いです」

 半分笑いながら言うと、翠も同じように笑った。

「わかります。私も似たような箱、三つぐらい持ってますから」

「三つ……」

「仕事のことと、実家のことと、あと……猫のこと」

 言いながら、翠は箱の前に膝をついた。

「見たくないなら、私が代わりに中身確認しますよ。
 見ても大丈夫そうなやつだけ、外に出して」

「そんな、悪いですよ」

「じゃあ、一緒に見ましょうか」

 差し出された手は、驚くほど温かかった。

 * * *

 二人で向かい合って座り、箱の中身を少しずつ取り出していく。
 写真、チケットの半券、書きかけの手紙。

 笑っている自分。
 泣きはらした目元。
 どうしようもなく若い表情。

「……ちゃんと、好きだったんですね」

 翠の言葉は、責めるでもなく、ただの感想みたいに聞こえた。

「はい。たぶん、全力で」

「全力で好きだったことって、なくならないほうがいいと思います」

 翠は、写真の束をそっと揃えた。

「でも、今の藤原さんが持てる分だけ持ち歩ければいいので。
 重くなりすぎたら、箱ごと押し入れに戻せばいいし」

「勝手に見ちゃって、すみません」

「猫が勝手に開けたので、セーフです」

 マリとラスムスが、気まずそうに尻尾を揺らす。
 パイパーは写真の上で丸くなり、喉を鳴らした。

「この箱、どうします?」

「……全部捨てるのは、やっぱりやめます」

 少し考えてから答える。

「いくつかだけ、小さな箱に移して。
 あとは、今度こそ“押し入れの奥”にしまいます」

「じゃあ、小さい箱、今度買ってきますね」

 翠が立ち上がる。
 その背中を見送ってから、ふと気づいた。

 押し入れの奥でずっと重石みたいに感じていた箱が、さっきより少し軽く見える。

 やわらかな檻の中で。
 忘れられない恋は、完全に消すものじゃなく、持ち歩き方を変えるものなのかもしれない。