猫付き下宿・日向荘 やわらかな檻の中で、忘れられない恋を

 その日、悠誠は一日中パソコンの前から動けなかった。
 画面の左上には、取引先からのメールが開きっぱなしになっている。

『今回のデザイン案ですが、方向性が当初のイメージとかなり異なります』

 そこまではよくある文章なのに、そのあとに続く一文が重かった。

『今後の継続依頼も含めて、一度見直したいと思います』

 つまり、この仕事を続けるかどうか白紙に戻す、ということだ。

 マウスを握る手に力が入り、画面がじわりと滲む。

「……そっか」

 小さくつぶやいた声は、自分でも驚くほど軽かった。
 軽くしておかないと、どこかが壊れそうだった。

 * * *

「藤原さん、ご飯できましたよー」

 一階から翠の声がする。
 返事をしようとして、喉がうまく動かなかった。

「……すみません、あとで」

 なんとかそれだけ返して、パソコンを閉じる。
 部屋の明かりもつけないまま、畳に横になった。

 天井の木目が、妙にくっきり見える。
 胸の奥がじわじわ熱くなって、目元までせり上がってくる。

 涙をこらえようとすると、逆に息がうまく吸えなくなった。

 そこへ、畳を踏む小さな音がした。

「……パイパー?」

 三毛猫が、そっと胸の上によじ登ってくる。
 何も言わず、ただ喉を鳴らして座った。

「今日は、来なくていいよ」

 情けない声で言っても、パイパーは動かない。
 じんわりとした重さと温度が、胸の真ん中あたりに落ちてくる。

 喉の奥で詰まっていたものが、音を立てずにほどけた。

「……やばいな」

 涙がこぼれた。
 顔を覆おうとしても、パイパーが邪魔をする。

 両手で抱きしめると、小さな体がふわふわと震える。
 喉の振動が、手のひらに伝わってきた。

 泣き声は出なかった。
 ただ、静かに水だけが流れた。

 * * *

「藤原さん、入ってもいいですか?」

 襖の向こうから、控えめな声がした。
 パイパーがぴくりと耳を動かし、それから動かなかった。

「……どうぞ」

 襖が少しだけ開き、翠が顔を覗かせる。
 暗い部屋と、胸の上に乗ったパイパーと、涙で濡れた畳。

「あ、ごめんなさい。本当に具合悪かった?」

「いえ。ちょっと……仕事でやらかして」

 説明になっていない説明でも、翠には十分だったらしい。
 彼女は何も聞かず、部屋の隅に座った。

「お茶、ここに置きますね」

 湯気の立つマグカップが、手の届く位置に置かれる。
 それから少し考えて、翠は畳にごろりと横になった。

 パイパーをはさむように、悠誠と向かい合う形になる。

「なんで寝転がってるんですか」

「起きてると、慰めようとして変なこと言っちゃいそうなので」

 天井を見たまま、翠が言う。

「仕事のことって、下手に励まされると、余計つらくなるときありません?」

「……あります」

「だから、今日は何も言いません。
 代わりに、同じ天井見てます」

 パイパーが、喉を一段階大きく鳴らした。
 二人のあいだで、小さなストーブみたいに暖かい。

 しばらく、三人で黙って天井を見つめた。

 木目はさっきよりぼやけている。
 息の仕方も、少しだけ思い出してきた。

「……俺、誰の役にも立ててないなって思って」

 ようやく、ひとことだけ言葉が出た。

「立たなくても、ここにいていいですよ」

 翠は、あっさりと言った。

「ここは、逃げてくる場所でもあるので。
 役に立とうとしてくたびれた人が、一回ちゃんとくたびれてから立て直す場所です」

「そんな下宿、聞いたことないです」

「うちはそうなんです。猫付きなので」

 パイパーが、満足げに目を細める。
 自分の仕事ぶりを褒められたときの顔だ。

 胸の上の重みが、さっきよりも心地よく感じられた。

 やわらかな檻の中で。
 ただ息をしているだけで許される夜も、たまには悪くない。