高いところは、静かでいい。
ラスムスは二階の窓から身を乗り出し、となりの家のひさしに前足をかけた。
夜風がひげを揺らし、街全体の匂いが鼻の奥に流れ込む。
下の廊下では、まだ人間たちが動いている。
食器が触れあう音。
テレビの笑い声。
水の流れる音。
そういう気配から、すこし離れたい夜もある。
軽く後ろ足をけり出して、屋根の上に飛び移る。
ここは、ラスムスのお気に入りだ。
* * *
「ラスムス、窓開いてるからねー。そろそろ戻っておいでー」
二階の廊下から、翠の声がした。
いつもの調子の、少し高めの声。
返事をするつもりは、まだなかった。
ラスムスは屋根瓦の温度を確かめながら、ゆっくり座り込む。
けれど、時間がたつにつれて、声の色が変わっていく。
「ラスムス、本当にいない?」
階段を行き来する足音がせわしなくなる。
部屋のドアがひとつずつ開いては閉まっていく。
「さっきまでここにいたんだけどな……」
「窓、ちゃんと閉めてたはずなのに」
翠の声に、不安の匂いが混じった。
胸の奥をぎゅっとつかまれたみたいな音。
ラスムスはしっぽを小さく揺らす。
前にも一度、こんな声を聞いた。
消毒液と薬草の匂いがする場所。
ケージの扉が開いて、走り出した小さな背中。
遠くで鳴ったブレーキの音。
ラスムスは頭を振り、その記憶を追い払う。
* * *
「やっぱり探しに行きます」
玄関の鍵が回る音がした。
少し間をおいて、もうひとつ。
「俺も行きます。一人で歩かせるの、なんか心配なので」
「でも、明日仕事じゃ……」
「どうせ気になって眠れないですから」
冷たい夜気が流れ込み、人間二人分の足音が外へ出ていく。
玄関の灯りが消えた。
ラスムスは立ち上がり、屋根の端まで移動した。
二人の背中を見下ろしながら、屋根から屋根へとついていく。
懐中電灯の光が揺れ、電柱や植木の影が伸び縮みする。
「ラスムスー!」
曲がり角ごとに、翠が名前を呼ぶ。
その声は、さっきよりもずっと弱々しい。
「ラスムス、どこ行ったんだよ……」
悠誠も、不慣れな声で続ける。
人間はすぐ、最悪のことを考える。
いなくなった、もう戻ってこない、って。
その不安の裏には、たいてい前に本当にいなくなった何かの記憶がある。
* * *
少し離れた公園の前で、二人は立ち止まった。
街灯の下で、翠の顔色はすっかり青白い。
「すみません、付き合わせちゃって」
「いえ……俺も、怖くて」
「怖い、ですか?」
「だって、ラスムスいないと、あの部屋、急に広くなりそうで」
言葉を選びながら、悠誠が続ける。
「この家に来てから、大事なもの増えたなって思うんですよ。
猫も、翠さんも、近所のおばあさんも。
増えたぶんだけ、いつか失うのが怖いっていうか」
ラスムスはフェンスの上に飛び乗り、耳を傾ける。
「前に付き合ってた人と別れたとき、もうあんなふうに誰かを大事にしたくないって、一瞬思って。
その箱もそうですけど……」
「押し入れの、大きな箱」
翠が小さく言う。
見ていたのか、と悠誠が目を丸くする。
「ごめんなさい。パイパーが勝手にふたの上で寝てて、つい」
「……あの子、そういうとこありますよね」
ふたりとも、少しだけ笑う。
「怖いです。猫たちのことも、翠さんのことも、大事になればなるほど」
「私もです」
翠は懐中電灯を握りしめた。
「前に働いてた病院で、逃げちゃった子がいて。
首輪だけ見つかって、身体は最後まで見つからなくて。
今でも、あのときもっとこうしていればって考えると止まらなくなるんです」
震える声。
ラスムスはフェンスの上で目を細める。
「だから、さっきラスムスがいないって気づいたとき、あのときの感じが一瞬で戻ってきちゃって。
心臓、変な音して……」
「……戻りましょうか」
悠誠が、そっと提案する。
「ラスムス、たぶん帰り道知ってますよね。
俺たち、いったん戻って、おやつ置いて待ちませんか」
翠が顔を上げる。
少しだけ、息が整ったようだった。
「戻ったら、ラスムスに怒られそうですね。勝手に心配してって」
「そのときは、ちゅーるでご機嫌とりましょう」
二人が並んで歩き出す。
ラスムスは、公園のフェンスから電線へ、電線から屋根へと移動しながら、それを見送った。
心配されるのは、嫌いじゃない。
けれど、あの声の震えは、できればあまり聞きたくない。
ラスムスはため息をひとつつき、日向荘の窓辺に戻った。
そっと窓をひっかくと、すぐに内側から鍵が回る。
「ラスムス!」
「……どこ行ってたんですか、心配したんですよ」
涙目で抱きしめられ、ラスムスは小さく鳴いた。
ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる。
高いところの静けさも悪くないが、こういう夜も、悪くない。
ラスムスは二階の窓から身を乗り出し、となりの家のひさしに前足をかけた。
夜風がひげを揺らし、街全体の匂いが鼻の奥に流れ込む。
下の廊下では、まだ人間たちが動いている。
食器が触れあう音。
テレビの笑い声。
水の流れる音。
そういう気配から、すこし離れたい夜もある。
軽く後ろ足をけり出して、屋根の上に飛び移る。
ここは、ラスムスのお気に入りだ。
* * *
「ラスムス、窓開いてるからねー。そろそろ戻っておいでー」
二階の廊下から、翠の声がした。
いつもの調子の、少し高めの声。
返事をするつもりは、まだなかった。
ラスムスは屋根瓦の温度を確かめながら、ゆっくり座り込む。
けれど、時間がたつにつれて、声の色が変わっていく。
「ラスムス、本当にいない?」
階段を行き来する足音がせわしなくなる。
部屋のドアがひとつずつ開いては閉まっていく。
「さっきまでここにいたんだけどな……」
「窓、ちゃんと閉めてたはずなのに」
翠の声に、不安の匂いが混じった。
胸の奥をぎゅっとつかまれたみたいな音。
ラスムスはしっぽを小さく揺らす。
前にも一度、こんな声を聞いた。
消毒液と薬草の匂いがする場所。
ケージの扉が開いて、走り出した小さな背中。
遠くで鳴ったブレーキの音。
ラスムスは頭を振り、その記憶を追い払う。
* * *
「やっぱり探しに行きます」
玄関の鍵が回る音がした。
少し間をおいて、もうひとつ。
「俺も行きます。一人で歩かせるの、なんか心配なので」
「でも、明日仕事じゃ……」
「どうせ気になって眠れないですから」
冷たい夜気が流れ込み、人間二人分の足音が外へ出ていく。
玄関の灯りが消えた。
ラスムスは立ち上がり、屋根の端まで移動した。
二人の背中を見下ろしながら、屋根から屋根へとついていく。
懐中電灯の光が揺れ、電柱や植木の影が伸び縮みする。
「ラスムスー!」
曲がり角ごとに、翠が名前を呼ぶ。
その声は、さっきよりもずっと弱々しい。
「ラスムス、どこ行ったんだよ……」
悠誠も、不慣れな声で続ける。
人間はすぐ、最悪のことを考える。
いなくなった、もう戻ってこない、って。
その不安の裏には、たいてい前に本当にいなくなった何かの記憶がある。
* * *
少し離れた公園の前で、二人は立ち止まった。
街灯の下で、翠の顔色はすっかり青白い。
「すみません、付き合わせちゃって」
「いえ……俺も、怖くて」
「怖い、ですか?」
「だって、ラスムスいないと、あの部屋、急に広くなりそうで」
言葉を選びながら、悠誠が続ける。
「この家に来てから、大事なもの増えたなって思うんですよ。
猫も、翠さんも、近所のおばあさんも。
増えたぶんだけ、いつか失うのが怖いっていうか」
ラスムスはフェンスの上に飛び乗り、耳を傾ける。
「前に付き合ってた人と別れたとき、もうあんなふうに誰かを大事にしたくないって、一瞬思って。
その箱もそうですけど……」
「押し入れの、大きな箱」
翠が小さく言う。
見ていたのか、と悠誠が目を丸くする。
「ごめんなさい。パイパーが勝手にふたの上で寝てて、つい」
「……あの子、そういうとこありますよね」
ふたりとも、少しだけ笑う。
「怖いです。猫たちのことも、翠さんのことも、大事になればなるほど」
「私もです」
翠は懐中電灯を握りしめた。
「前に働いてた病院で、逃げちゃった子がいて。
首輪だけ見つかって、身体は最後まで見つからなくて。
今でも、あのときもっとこうしていればって考えると止まらなくなるんです」
震える声。
ラスムスはフェンスの上で目を細める。
「だから、さっきラスムスがいないって気づいたとき、あのときの感じが一瞬で戻ってきちゃって。
心臓、変な音して……」
「……戻りましょうか」
悠誠が、そっと提案する。
「ラスムス、たぶん帰り道知ってますよね。
俺たち、いったん戻って、おやつ置いて待ちませんか」
翠が顔を上げる。
少しだけ、息が整ったようだった。
「戻ったら、ラスムスに怒られそうですね。勝手に心配してって」
「そのときは、ちゅーるでご機嫌とりましょう」
二人が並んで歩き出す。
ラスムスは、公園のフェンスから電線へ、電線から屋根へと移動しながら、それを見送った。
心配されるのは、嫌いじゃない。
けれど、あの声の震えは、できればあまり聞きたくない。
ラスムスはため息をひとつつき、日向荘の窓辺に戻った。
そっと窓をひっかくと、すぐに内側から鍵が回る。
「ラスムス!」
「……どこ行ってたんですか、心配したんですよ」
涙目で抱きしめられ、ラスムスは小さく鳴いた。
ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる。
高いところの静けさも悪くないが、こういう夜も、悪くない。



