白い前足の毛並みを整えてから、マリは窓辺のクッションに座った。
 朝日がガラスに反射して、自分の姿がぼんやり映る。

 ひげの角度、よし。
 耳の向き、よし。
しっぽのカーブ、よし。

 今日も可愛い。
 これなら、いつ写真を撮られても問題ない。

 問題は、自分ではなく人間側だ。

「翠、そのジャージはないわねぇ……」

 廊下を行き来する管理人の姿が、すりガラス越しに見える。
 色あせたジャージに、普通のエプロン。
 髪はひとまとめで、化粧は最低限。

 清潔感はある。
 でも「恋の雰囲気」からは、ほど遠い。

 マリはしっぽをぱたぱた揺らしながらため息をついた。
 この家には、もったいない人間が二人いる。

 一人は翠。
 もう一人は、数日前にやってきた悠誠。

 どちらも悪くない顔と声を持っているのに、自覚が薄すぎる。

 * * *

 台所では、朝ごはんの準備が始まっていた。
 翠が冷蔵庫から卵を取り出し、まな板の前に立つ。

「マリ、遊びに来たの?」

 足元をうろついていたマリが抱き上げられる。
 頬に押し当てられると、洗剤と柔軟剤の匂いがした。

「今日はオムレツにしようかな」

 その言葉を聞いて、マリはそっと腕から抜け出した。
 壁際のフックには、エプロンが二枚ぶらさがっている。

 ひとつは、いつもの無地。
 もうひとつは、白地に小さな猫の刺繍が入った新顔だ。

(はい、今日の主役はあなたね)

 マリは椅子からジャンプし、フックの前に飛びついた。
 わざと無地のエプロンに爪を引っかける。

 布がずるりと滑り、床に落ちた。

「あっ、もー、マリ」

 翠が拾い上げようとして、ふと隣を見る。
 使われないままぶらさがっている猫刺繍のエプロン。

「……たまには、こっちでもいいか」

 小さくつぶやいて、翠は猫エプロンを手に取った。

 マリは心の中でガッツポーズを決める。
 第一段階、成功。

 * * *

「おはようございます」

 食堂に悠誠が入ってきた。
 猫エプロン姿の翠を見て、ぴたりと足を止める。

「そのエプロン……似合ってますね」

 ぽろっとこぼれた言葉に、翠が耳まで赤くなる。

「え、ああ、たまたま。落ちてたから」

「落ちてた、って……」

 ぎこちない会話をよそに、猫皿の前ではメンフィスたちが順番を守ってご飯を食べている。

 マリはテーブルの下から、人間二人の顔を見比べた。
 うんうん、と満足げに頷く。

 最初の褒め言葉は大事だ。
 ここから、少しずつ増やしていけばいい。

 * * *

 その日の昼過ぎ、玄関のチャイムが鳴いた。
 隣の家のおばあさんが、買い物袋を下げて立っている。

「翠ちゃん、トマト安かったから、ついでに買ってきたよ」

「ありがとうございます。助かります」

 そこへ、悠誠が廊下に顔を出した。

「こんにちは」

「あら、この前引っ越してきたお兄さんね。もう慣れた?」

「はい、おかげさまで」

 マリは靴箱の上から、その様子を眺める。

「二人とも、歳近いの?」

「たぶん同い年くらいです」

「付き合ってるの?」

「「えっ」」

 声がぴったり重なった。
 翠も悠誠も、同時に真っ赤になる。

「ち、違います! ただの管理人と住人で!」

「そうそう、下宿の……その……」

 どもる二人に、おばあさんはにやりと笑った。

「まあ、今はそうでも、そのうちわかんないわよ?」

 そう言って、軽い足取りで帰っていく。

 玄関に残された、気まずくて甘い空気。
 マリは、わざとらしく大きなあくびをしてみせた。

 * * *

 夜、居間のテレビでは昔の恋愛ドラマの再放送が流れていた。
 ソファに翠、テーブルの向こうに悠誠。
 マリは背もたれの上に陣取っている。

「懐かしいな、これ。学生のころ友だちと観てたんですよ」

「最終回で泣きすぎて、次の日目腫れてバイト行ったんじゃないですか」

「……よくわかりましたね」

 翠が苦笑し、ポテトチップスを一枚つまむ。

 画面の中では、登場人物が「忘れられない恋」について語っている。
 音楽が少し大げさに盛り上がったところで、翠がリモコンに手を伸ばした。

「こういうの、ちょっとこそばゆくないですか?」

「まあ、現実はこんなにきれいにいかないですよね」

 悠誠がマグカップをいじりながら、視線を落とす。

 マリはタイミングを見計らって、リモコンの上に飛び乗った。

「うわっ」

「マリ?」

 ボタンが押され、ドラマの音量が少し上がる。
 劇的な音楽が居間に響いた。

 画面の中で、主人公が言う。

『忘れられない恋ってさ、終わった恋のことだけじゃないと思うんだ』

 その台詞に、翠の手が止まった。

「忘れられないままでも、前に進めるなら……それはそれで、悪くないんじゃないですかね」

 ぽつりとこぼした言葉は、テレビの台詞よりずっと小さな声だった。

「忘れられないままでも、いいんですかね」

 悠誠も、マリの背中越しに画面を見つめる。

「忘れようとして忘れられないなら、無理に消そうとしなくても。
 箱にしまったままでも、ちゃんと今の自分で誰かを好きになれたら……私は、そのほうが好きです」

 マリはそっとリモコンからどき、翠の膝に移動した。
 喉を鳴らしながら、二人の表情を確認する。

 どちらの顔にも、言葉にならない気持ちの影があった。

(まったく。仕事が多いわね、この家は)

 そう思いながら、マリは安心させるようにもう一度喉を鳴らした。