おれはメンフィス。
 日向荘一階和室所属、体重六キロ超、この家一帯の統括担当だ。

 朝、窓から差し込む光を背中に浴びて起き上がる。
 まずやることは決まっている。
 廊下の真ん中にどっしり寝そべって、人間の一歩目を見張ることだ。

 眠れているか。
 変なため息をついていないか。
 肩が落ちていないか。

 それを確かめるのが、おれの仕事。

 今朝、見慣れない足音が近づいてきた。
 まだこの家のリズムに馴染んでいない、ぎこちない歩き方。

 新入りだ。

 角から現れた若い人間は、寝癖のついた頭をぺこりと下げた。

「……おはようございます」

 おれはゆっくり瞬きを返す。
 人間は口で挨拶するが、おれたちはまぶたで「ここは安全だ」と伝える。

「藤原さん、起きました?」

 奥から翠の声。
 エプロンの紐を揺らしながら近づいてきた。

「メンフィスに朝の挨拶できました?」

「えっと……なでるのが通行料って聞きました」

 新入り――悠誠は、恐る恐るおれの頭を撫でた。
 力は弱いが、指先は悪くない。

 おれは喉を鳴らす。
 それが「通ってよし」の合図だ。

 * * *

 日向荘には、古くからの決まりがある。
 一番最初にご飯を食べるのはおれ。
 次にマリ。
 そのあとパイパーとラスムスで、人間は最後。

 皿の場所も順番も決まっている。
 代々のボス猫が守ってきた流れだ。

 だから、おれも守るし、みんなにも守らせる。

「はい、みんなのご飯」

 翠が猫皿を並べる。
 位置は問題なし。
 おれは最前列左端の皿の前に座る。

 そこへ、見慣れない音が混ざった。

「じゃあ藤原さんは、こっちのテーブルどうぞ」

「猫たちの前で食べちゃっていいんですか?」

「いいんです。ここは“猫の前でちゃんとご飯を食べる場所”なので」

 テーブルの上に、人間用の皿が置かれた。
 新入りのイスが、ぎこちなく引かれる。

 ……ふむ。

 おれはしばらく皿を見つめ、それから悠誠の足元まで歩いていった。

 椅子の脚の横に座り、前足をちょい、と持ち上げる。

「え、なでろってことですか?」

 そうだ。

 人間のご飯の前には、猫をなでる。
 猫に挨拶してから食べる。
 それが日向荘の朝の流れ。

 悠誠が、おれの頭を撫でる。
 さっきよりも、指に少し力が入っていた。

「お、許可が出ましたね」

 翠が笑う。
 ようやくおれは自分の皿に戻り、落ち着いて朝ご飯に集中した。

 新入りは、まだ何も知らない。
 でも、覚える気はありそうだ。

 * * *

 午後の廊下。
 洗濯機が止まる音がして、翠が洗濯物の入ったかごを抱えて上がってくる。

「メンフィス、ちょっとそこどいて」

 おれは素直に廊下の端に移動する。
 かごは二階の端、陽のよく当たる場所に置かれた。

 ここは、おれの昼寝席でもある。

 まだ温かいタオルの上に身体を沈めると、遠くで玄関のチャイムが鳴った。
 誰かが来たらしい。

 ……と、そのとき。

「ここ、ちょっと借りますね」

 悠誠が、段ボールを両腕に抱えて近づいてきた。
 かごの上に、どん、と置こうとする。

 おれは慌てて前足を伸ばし、段ボールを押し返した。
 かごごと床に落ちる。

「うわっ、ごめん!」

 驚いた悠誠が、おれを抱き上げる。
 悪気はないことはわかる。だが、ここは譲れない。

 おれはするりと腕から抜け出し、かごの上に戻って座り直した。

「メンフィス、洗濯かごはお昼の指定席だからねー」

 ベランダから顔を出した翠が、苦笑しながら説明する。

「……指定席」

「そう。荷物置くと怒られます。主にメンフィスに」

 悠誠が、申し訳なさそうにもう一度おれの頭を撫でた。

「知らなかった。ごめんな、ここメンフィスの場所なんだな」

 撫で方が、さっきより丁寧になっている。
 おれは許すことにして、タオルの上で丸くなった。

 この家のきまりは多い。
 けれど、きまりを覚えるほど、人間も少しずつ楽に息ができるようになる。

 今日はひとつ。
 明日は、またひとつ。

 * * *

 夜、二階の廊下を歩いていると、新入りの部屋の前で足が止まった。
 ドアの隙間から、かすかな明かりが漏れている。

 猫用ドアはきちんと開け放たれていた。
 おれはそこからするりと入り込む。

 押し入れの前に、悠誠が座っていた。
 例の大きな箱の前だ。

 箱の上には、パイパーがちょこんと座っている。
 細いしっぽを揺らしながら、中身を見るでもなく見守る姿勢。

 悠誠の指先が、ガムテープの端を触ったり離したりしている。

「……いつか、開けられる日が来るのかな」

 小さくこぼれた声に、パイパーが喉を鳴らす。
 おれは箱の脇に陣取り、その重さを確かめるように前足を乗せた。

 重たい箱は、無理にこじ開けない。
 軽くなるまで、そばで見張る。

 それもまた、日向荘の家訓のひとつだと、おれは思っている。