猫付き下宿・日向荘 やわらかな檻の中で、忘れられない恋を

 戻ってくる日は、雨上がりだった。

 朝まで降っていた雨がやみ、雲の切れ間から薄い陽ざしがのぞいている。
 玄関の前で、悠誠は落ち着かない手つきで鍵をいじった。

「メンフィス、そこでどっしり座ってると、足の踏み場が……」

 ボス猫は玄関マットの真ん中で丸くなっている。
 マリは靴箱の上、ラスムスは窓辺、パイパーはドアのすぐ横。

 全員、スタンバイ完了だ。

 ガチャリ、と鍵の回る音。
 戸が開き、湿った外気が流れ込む。

「ただいま戻りました」

 最初に出てきた言葉は、「おかえりなさい」ではなく「お疲れさまでした」だった。

「……お疲れさまでした」

 自分でもおかしくなって、笑ってしまう。
 翠も同じタイミングで笑った。

「ただいま、です」

 靴を脱ぐ前に、パイパーが足首にしがみつく。
 メンフィスが玄関マットごと身体を押しつけ、マリが肩に飛び乗り、ラスムスは少し離れたところからゆっくり瞬きを送る。

「みんな、元気そうでよかった」

 翠の目の端に、うっすら涙がにじんでいた。

 * * *

 食堂のテーブルには、ささやかな「おかえりなさい」メニューが並んでいた。
 唐揚げとポテトサラダと、少しだけ奮発した刺身。

「向こうはどうでした?」

「大変でした。でも、楽しかったです」

 翠は箸を動かしながら話す。

「保護施設って、きれいごとだけじゃないんですけど。
 それでも、“今度は助かった”っていう瞬間が、ちゃんとあって」

 ラスムスが、食器棚の上でしっぽを揺らす。
 その言葉に、少し救われたように見えた。

「日向荘が恋しくなるくらいには、ちゃんと働いてきましたよ」

「それは良かったです」

「ちゃんと寂しがってくれました?」

「それは……」

 言いかけて、視線が泳ぐ。
 マリがテーブルの下から「正直に」と言いたげに足に頭を押しつけた。

「けっこう、寂しかったです」

 ようやく絞り出した言葉に、翠が笑う。

「けっこう、ですか」

「かなり、に訂正します」

 笑い声が重なり、猫たちの耳が心地よさそうにぴくりと動いた。

 * * *

 食後、二人で居間に座った。
 テーブルの上には、お土産のお菓子と、施設の猫たちの写真。

「この子、パイパーに似てません?」

「似てますね。たぶん性格も似てます」

 写真を眺めながら、話は自然と日向荘のことに戻る。

「芝居がかった言葉は苦手なんですけど」

 写真を一枚戻してから、翠が真面目な顔になった。

「戻ってきていい場所があるって、すごく心強かったです。
 あっちでうまくいかない日も、“帰れる家がある”って思うだけで、踏ん張れたので」

「……よかった」

「藤原さんも、そう思ってくれてると嬉しいなって」

「思ってますよ」

 即答してから、改めて言う。

「ここに戻ってきてくれて、ありがとうございます。
 翠さんのいない日向荘、半分くらい色が薄かったので」

 それは、告白というにはやっぱり足りない。
 でも、前よりずっと正面から向けた言葉だった。

「こっちこそ、留守番ありがとうございました」

 翠はそう言って、少しだけ目を伏せた。

「もうちょっと落ち着いたら……その、例の“ちゃんと話すやつ”、します?」

「……はい。そのときは、猫たちにも見られてるんでしょうけど」

「メンフィスが一番プレッシャーかけてきそうですね」

 二人が同時にボス猫を見ると、メンフィスは知らん顔で毛づくろいを続けた。

 * * *

 その夜。
 押し入れの奥には、あの大きな箱の代わりに、小さな箱がひとつしまわれていた。

 元恋人との記憶は、消えたわけではない。
 ただ、持ち歩く形が変わった。

 本棚の一番上には、新しく買ったアルバムが置かれている。
 日向荘で撮った写真だけを集めるつもりの、まだ中身のないアルバム。

 メンフィスがソファの背もたれで寝そべり、
 マリが窓辺で毛づくろいをし、
 ラスムスが屋根の上から月を見上げ、
パイパーが誰かの膝で喉を鳴らす。

 やわらかな檻の中で。

 逃げ込むために選んだはずの場所が、いつのまにか外へ踏み出す勇気をくれる場所になっていた。

 忘れられない恋は、過去だけのものじゃない。
 今ここにある気持ちにも、ゆっくりと名前を与えていく。

 猫たちの寝息と、人間たちの笑い声が重なる夜。
 日向荘という小さな下宿の時間は、これからも静かに続いていく。