扉を開けた瞬間、ふわっと、陽だまりみたいな匂いがした。
古い木の床と、干したばかりの布団と、どこかで鳴っている猫の喉の音が混ざっている。
「藤原悠誠さんですね。ようこそ、日向荘へ」
明るい声に顔を上げると、エプロン姿の女の人が立っていた。
肩までの黒髪をひとつにまとめ、真っ直ぐこちらを見る目が印象的だ。
「管理人の緑川翠です。よろしくお願いします」
「あ、藤原です。お世話になります」
久しぶりに初対面の人と話して、声がわずかに上ずる。
ごまかすように、思わず何度も頭を下げてしまった。
「荷物、多いですね。お部屋まで運ぶの、手伝いますよ」
「いえ、大丈夫です。持てますから」
そう言い切った瞬間、いちばん上の段ボールがぐらりと揺れた。
「あっ」
とっさに手を伸ばした俺より早く、細い腕が箱を支える。
「危ない。こういうのは、二人で持ったほうが早いです」
翠はにかっと笑うと、段ボールをひょいと持ち上げた。
その動きが軽すぎて、思わず見とれてしまう。
「二階の一番奥が藤原さんの部屋です。こっちです」
先に立って階段を上がる翠の足元から、黒いものがぬるっと伸びてきた。
「わっ」
細い尻尾が、俺の靴紐にするりと絡みつく。
「ラスムス、邪魔しないの」
翠が軽く注意すると、黒猫はつまらなそうに尻尾を離し、階段の途中で座り込んだ。
黄色い目が、じっとこちらを観察している。
「猫、大丈夫ですか?」
「はい。むしろ会いたくてここに来たぐらいで」
正直に答えると、翠の表情がぱっと明るくなる。
「それは心強い。ここ、猫中心の生活なので」
二階の廊下には、爪とぎや小さなベッドがいくつも並んでいた。
人間の通り道は、その合間を縫うように細く伸びている。
「転びそうになったら、手すりか猫タワーにつかまってください。猫は避けてくれませんから」
「了解です……」
その冗談めいた説明に、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
* * *
案内された部屋は、六畳の和室だった。
窓の外には隣家の屋根と、遠くのビルの看板が見える。
「畳は去年張り替えました。ゴロゴロ転がして大丈夫です。エアコンも新しいですよ」
「ありがとうございます」
「あ、それからここにはひとつだけ特別なお願いがあって」
翠が畳の端を指さす。
そこには小さな猫用ドアがついていた。
「この扉は、いつでも開けておいてあげてください。猫たちが好きなときに出入りできるように」
「わかりました」
「何かあったら、すぐ呼んでくださいね。私は一階の管理人室にいますから」
そう言って出ていこうとした翠の足元に、茶トラの大きな猫が転がり込んできた。
「メンフィス。早速あいさつ?」
猫はどっしりと横たわり、じろりとこちらを見る。
やがてゆっくり立ち上がり、畳を踏みしめて俺のほうへ歩いてきた。
「この子が、日向荘のボスです。認められれば、たぶん平和に暮らせます」
「ボス……よろしくな」
恐る恐る頭を撫でると、メンフィスは鼻を鳴らし、俺のスニーカーに額をこすりつけた。
その仕草ひとつで、知らない街の知らない部屋が、少しだけ「自分の場所」になった気がした。
翠が部屋を出ていくと、急に静けさが降りてきた。
段ボールの山と、茶トラの背中と、自分のため息だけがそこにある。
「……さて」
どこから片づけるか考えながら、隅に置いたひときわ大きな箱に目が止まる。
ガムテープの端には、自分の字でメモが貼ってあった。
『危ないから最後に開けること』
三年前の俺が書いた、くだらない冗談めいた注意書き。
中身は、元恋人からもらった写真や手紙、旅先のキーホルダー。
別れを決めた日に全部まとめて箱に入れ、「いつか平気で開けられるようになったら開けよう」と蓋を閉じた。
それから三年。
箱は、開かないまま引っ越し先だけ増えていった。
「……後でいいか」
視線をそらして、別の箱に手を伸ばす。
本と衣類を出していると、白い前足が段ボールのふちを叩いた。
「いたた……?」
白地にぶち模様の猫が、ふちから顔を覗かせている。
「マリです。この子、見張り担当なんですよ」
振り向くと、翠がマグカップののったお盆を持って立っていた。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「あ、コーヒーで」
「はい。砂糖はお好みでどうぞ。マリ、その箱の中身はまだダメです」
マリは素知らぬ顔で箱の縁に前足をかけたまま、じっと俺を見つめる。
まるで「隠しているもの、ちゃんと見張ってるからね」と言っているみたいだ。
湯気の立つマグカップを両手で抱えると、ようやく体の芯まで温かさが届いた。
「ここ、ちょっと変わった下宿ですけど」
翠が窓の外をちらりと見てから続ける。
「しんどい日は、何もしないでゴロゴロしてても大丈夫です。猫と一緒に昼寝してたら、大体のことは半分ぐらい軽くなりますから」
「半分も?」
「残りの半分は、ごはんでなんとかなります」
その言い切り方が頼もしくて、思わず笑ってしまう。
足元では、いつのまにか三毛猫が丸くなっていた。
小さな体が喉を震わせるたびに、床越しに低い振動が伝わってくる。
「……効きますね、これ」
「パイパーは、落ち込んだ人センサーが敏感なんです」
そこまで聞いたところで、急激な眠気が押し寄せてきた。
昨日までほとんど眠れていなかったことを、思い出す。
「猫たちが起こしに来たら、一階にご飯を食べに来てください」
そう言って部屋を出ていく翠の後ろ姿が、少しだけぼやける。
畳の匂い。
猫の体温。
まだ開けられない箱。
全部を抱えたまま、まぶたが落ちていく。
こうして俺の、やわらかな檻の中での暮らしが始まった。
古い木の床と、干したばかりの布団と、どこかで鳴っている猫の喉の音が混ざっている。
「藤原悠誠さんですね。ようこそ、日向荘へ」
明るい声に顔を上げると、エプロン姿の女の人が立っていた。
肩までの黒髪をひとつにまとめ、真っ直ぐこちらを見る目が印象的だ。
「管理人の緑川翠です。よろしくお願いします」
「あ、藤原です。お世話になります」
久しぶりに初対面の人と話して、声がわずかに上ずる。
ごまかすように、思わず何度も頭を下げてしまった。
「荷物、多いですね。お部屋まで運ぶの、手伝いますよ」
「いえ、大丈夫です。持てますから」
そう言い切った瞬間、いちばん上の段ボールがぐらりと揺れた。
「あっ」
とっさに手を伸ばした俺より早く、細い腕が箱を支える。
「危ない。こういうのは、二人で持ったほうが早いです」
翠はにかっと笑うと、段ボールをひょいと持ち上げた。
その動きが軽すぎて、思わず見とれてしまう。
「二階の一番奥が藤原さんの部屋です。こっちです」
先に立って階段を上がる翠の足元から、黒いものがぬるっと伸びてきた。
「わっ」
細い尻尾が、俺の靴紐にするりと絡みつく。
「ラスムス、邪魔しないの」
翠が軽く注意すると、黒猫はつまらなそうに尻尾を離し、階段の途中で座り込んだ。
黄色い目が、じっとこちらを観察している。
「猫、大丈夫ですか?」
「はい。むしろ会いたくてここに来たぐらいで」
正直に答えると、翠の表情がぱっと明るくなる。
「それは心強い。ここ、猫中心の生活なので」
二階の廊下には、爪とぎや小さなベッドがいくつも並んでいた。
人間の通り道は、その合間を縫うように細く伸びている。
「転びそうになったら、手すりか猫タワーにつかまってください。猫は避けてくれませんから」
「了解です……」
その冗談めいた説明に、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
* * *
案内された部屋は、六畳の和室だった。
窓の外には隣家の屋根と、遠くのビルの看板が見える。
「畳は去年張り替えました。ゴロゴロ転がして大丈夫です。エアコンも新しいですよ」
「ありがとうございます」
「あ、それからここにはひとつだけ特別なお願いがあって」
翠が畳の端を指さす。
そこには小さな猫用ドアがついていた。
「この扉は、いつでも開けておいてあげてください。猫たちが好きなときに出入りできるように」
「わかりました」
「何かあったら、すぐ呼んでくださいね。私は一階の管理人室にいますから」
そう言って出ていこうとした翠の足元に、茶トラの大きな猫が転がり込んできた。
「メンフィス。早速あいさつ?」
猫はどっしりと横たわり、じろりとこちらを見る。
やがてゆっくり立ち上がり、畳を踏みしめて俺のほうへ歩いてきた。
「この子が、日向荘のボスです。認められれば、たぶん平和に暮らせます」
「ボス……よろしくな」
恐る恐る頭を撫でると、メンフィスは鼻を鳴らし、俺のスニーカーに額をこすりつけた。
その仕草ひとつで、知らない街の知らない部屋が、少しだけ「自分の場所」になった気がした。
翠が部屋を出ていくと、急に静けさが降りてきた。
段ボールの山と、茶トラの背中と、自分のため息だけがそこにある。
「……さて」
どこから片づけるか考えながら、隅に置いたひときわ大きな箱に目が止まる。
ガムテープの端には、自分の字でメモが貼ってあった。
『危ないから最後に開けること』
三年前の俺が書いた、くだらない冗談めいた注意書き。
中身は、元恋人からもらった写真や手紙、旅先のキーホルダー。
別れを決めた日に全部まとめて箱に入れ、「いつか平気で開けられるようになったら開けよう」と蓋を閉じた。
それから三年。
箱は、開かないまま引っ越し先だけ増えていった。
「……後でいいか」
視線をそらして、別の箱に手を伸ばす。
本と衣類を出していると、白い前足が段ボールのふちを叩いた。
「いたた……?」
白地にぶち模様の猫が、ふちから顔を覗かせている。
「マリです。この子、見張り担当なんですよ」
振り向くと、翠がマグカップののったお盆を持って立っていた。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「あ、コーヒーで」
「はい。砂糖はお好みでどうぞ。マリ、その箱の中身はまだダメです」
マリは素知らぬ顔で箱の縁に前足をかけたまま、じっと俺を見つめる。
まるで「隠しているもの、ちゃんと見張ってるからね」と言っているみたいだ。
湯気の立つマグカップを両手で抱えると、ようやく体の芯まで温かさが届いた。
「ここ、ちょっと変わった下宿ですけど」
翠が窓の外をちらりと見てから続ける。
「しんどい日は、何もしないでゴロゴロしてても大丈夫です。猫と一緒に昼寝してたら、大体のことは半分ぐらい軽くなりますから」
「半分も?」
「残りの半分は、ごはんでなんとかなります」
その言い切り方が頼もしくて、思わず笑ってしまう。
足元では、いつのまにか三毛猫が丸くなっていた。
小さな体が喉を震わせるたびに、床越しに低い振動が伝わってくる。
「……効きますね、これ」
「パイパーは、落ち込んだ人センサーが敏感なんです」
そこまで聞いたところで、急激な眠気が押し寄せてきた。
昨日までほとんど眠れていなかったことを、思い出す。
「猫たちが起こしに来たら、一階にご飯を食べに来てください」
そう言って部屋を出ていく翠の後ろ姿が、少しだけぼやける。
畳の匂い。
猫の体温。
まだ開けられない箱。
全部を抱えたまま、まぶたが落ちていく。
こうして俺の、やわらかな檻の中での暮らしが始まった。


