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さくらのうた

〈この調べと ともに〉

 福田洋介
 さくらのうた
 (2012年度 全日本吹奏楽コンクール 課題曲Ⅰ)

   ♪

ある種、心の病を抱えていることがわかったのは、つい最近のこと。
でも、今はそんなことはどうでもいい。

こんな私が、ここまで育ってこられたのも……そして、生きようと思えるのも。
実樹先輩の静かな励ましと、少し悲しそうな笑顔があったからこそ。



「デモ演奏を聞いて、みんなもわかっているだろうが、この曲は全体的に抒情的な統一感のあるメロディーで構成されている。木管も金管もだ」

2012年。吹奏楽部員全員の投票でコンクールの課題曲に選んだのが、「さくらのうた」。

顧問であり指揮者でもある田中先生が私を見つめ、続ける。
「そのトップバッターは、佐奈君だ。君のピッコロが、すべての流れを創る」
私はその瞬間に足元の床が抜けてしまったような錯覚に陥った。

わ、私がすべてを決める?

ただただ、両親にプレゼントしてもらったピッコロが好きで好きで、『フルートパート』じゃなくて、『ピッコロのスペシャリスト』になりたくて、ブラバンに入部した私が?

「じゃあ、譜読みを始めよう」

先生が優しくタクトを下ろしてくれたが、私はそれに応える音を出すことができなかった。

その日以来、練習が恐くなった。

私がフルートや他の木管のパートにメロディーを受け渡せない日々が続く。
先生もつきっきりで、出だしのパート練習につきあってくれた。

余計に状況は悪化していく。

その時、私はみんなと一緒に何かをやることが苦手だということを思い出した。
小さい頃からそうだった。
期待されればされるほど、みんなと一緒にやっていることを意識すればするほど体が動かなくなった。
小学生の頃の記憶がよみがえる。リレーとか、学芸会の劇とか、クラスでのグループ発表とか。

土曜の午後、音楽室の準備室。今日こそは、私を課題曲からのメンバーからはずしてください、いや、これからもみんなに迷惑をかけるのでブラバンを辞めますと伝えようと、部員管理の責任者であり、副部長であり、トランペットのパートリーダーでもある実樹先輩と向かい合う。
勇気を振り絞るのに少し時間がかかった。

「佐奈ちゃんのピッコロの音色、可愛くて好きだなあ」
先に口を開いたのは先輩だった。

「だからね、『さくらのうた』、早く始まらないかなって待ってるんだ。無茶苦茶ドキドキしながらね」
実樹先輩はそう言って自分の胸を押さえた。

ピッコロから始まる木管のメロディーのあと、トランペットの『どソロ』が待っている。実樹さんはいつもそれを完璧に歌い上げる。優しく、少し悲しげに。

意外だった。
「先輩でも、緊張するんですか?」
「当り前じゃない。管楽器なんて、唇やリードの状態で、ちゃんと音が出るかどうかなんて吹いて見ないとわからないんだから」
「それ、すごくわかります……だから、私なんかが一番最初に音を出すのなんて……」

「おっと! 佐奈ちゃんが、最初に音を出してくれるからね、アタシも安心して吹けるんだ」
「私なんか、足を引っ張っているとしか……」
「ううん、ちゃんと気持ちを伝えてくれている」
「でも、ちゃんと音にならなくて」

実樹先輩は、あごにトランペットのマウスピースを当て、準備室の天井を見上げた。
「じゃあね、ひとつだけ、アタシの秘技を伝授しよう」
「秘技……ですか?」
「うん。佐奈ちゃんは、楽器を吹いている時、誰と演奏している?」
「……課題曲の出だしは、田中先生、始まったらフルートの吉田さんと三宅さんと、クラの長堀先輩と……それからラッパの実樹先輩」
「アハハ、そんなにいっぱいの人と一緒にやってると思ったらプレッシャー感じるよね」
「え?」
「私の場合はね、みんな謎の生命体にしちゃう」
「え?」
「フルートの子もクラの子も異次元空間で生きる、可愛い生き物にしちゃう」
「え!」
「この際、田中先生には消えてもらおう」
「え!」
「でもね、佐奈ちゃんだけは、ホンモノの佐奈ちゃん。だって一番一緒に演奏したいんだもの」
「……実樹先輩はいつもそんなことイメージしながら楽器を吹いているんですか?」
「いつもってわけじゃないけどね、なんか緊張してるなっていうと時のおまじないみたいなものね」

正直驚いた。いつも余裕の表情でトランペットを鳴らす先輩が、頭の中でそんなことを思い描いてたなんて。

「まあ、ものは試しってやつでね。よかったらやってみて……来週も部室で会おうね」
そう言ってマウスピースに息を吹き込んで楽器をブルンと言わせながら、先輩は音楽室に戻っていった。

今日こそは、辞めよう。
そう決心していたのに、実樹先輩に先延ばしされてしまった。



「自分で思ってるほど、ピカピカライトを浴びてるわけじゃないから」

先生も先輩もそう言うけど、準備ができてステージの照明が灯る瞬間、いつもその光の強さに気圧される。まぶしくて何も見えない。
「よく見るとね、客席で降り番の後輩が手を振ってるの、見えるよ」
クラの友美がそう言うものの、とてもそんな余裕はない。

「田中先生のアイコンタクトがあったらね、あとは佐奈ちゃんの思うがままの世界。だって先生、音はだせないんだもの(笑)。好きに初めていいよ」

いつも練習前に、そして今日、関東大会当日もステージ裏で実樹先輩がかけてくれた言葉。

先生がタクトを構えたのを合図に、私は目を閉じ、(悪いけど)指揮者の存在を消した。
そして私は異空間の中で可愛い謎の生き物たちと共にいる。
自分のタイミングでピッコロに暖かい息を吹き込む。
謎の生き物たちは、私の音色に寄り添う。

そして。
私は、ハッキリとイメージする。実樹先輩の姿だけを。
金管楽器の域を超えて、優しく滑らかにメロディーを奏でる演奏家のシルエットを。



審査結果の発表の時。
私は実樹先輩の隣りの席にいた。
先輩は私の手を握った。その手は震えている。私も震える手で握り返す。

うちは全国大会常連。でもその名前は呼ばれなかった。

みんなが背を丸めて席にうずくまっている中、先輩はすくっと立ち上がり、後ろを向いた。

「みんなゴメン。私のせい! そしてみんな、本当にありがとう!」
そう言って笑顔で手を振った。
隣りの席だから、こわばって涙をこらえているセンパイの表情がよくわかった。



卒業式の日、吹奏楽部の在校生が式典の伴奏を行う。
式が終わると、楽団席後ろの紅白幕の裏に先輩たちが来てくれた。

実樹先輩の優しい笑顔を見ていると涙が止まらなかった。
「先輩……ほんとうにありがとうございます。おかげでなんとかここまで」
「なに言ってんのよ! ブラバンなんてね、私たち目の上のタンコブがいなくなってからが面白いんだから。これからも、めいっぱい楽しんでね」

それが先輩が残してくれた最後の言葉だった。



勤め始めてから、一人暮らしを始めてから三年目。
会社の仕事も人間関係も、すべてがうまくいかない。

私はみんなと一緒に何かをやることが苦手だということを思い出した。
きっと、今の仕事を辞めて他のことを始めても、うまくいかない。

医者に通い、薬をもらいながら何とか日々をしのいでいる。

いつものように疲れ切ってアパートに帰ったある日。
今でも連絡を取り合っている唯一のブラバン仲間、クラの友美からLINEが入った。
それは、実樹先輩が病気で亡くなったことを知らせるメッセージだった。
もう、ひと月以上前のこと。今さらだけど、後輩OBでお香典を集めているとのこと。

頭が真っ白のまま、シャワーを浴びる。
買って帰ったコンビニメシはそのまま冷蔵庫に入れた。

髪も乾かさずにベッドに倒れ込む。

先輩の寂しげで優しい笑顔が目に浮かぶ。

ここで私、折れちゃいけないんだ。
……オレチャ、イケナイ。

気がつくと、私は異空間に立っていた。
それは私が関東大会の時にイメージした世界だ。

何か、周りに「可愛い生き物」の気配を感じる。
その向こう側に、女性が佇んでいた。

私は弱音を吐く。
「もう、これ以上、私は……私を続けることはできません」

先輩は少し悪戯っぽく微笑む。
「なに言ってんのよ! 人生なんてね、私みたいなタンコブがいなくなってからが面白いんだから。これからもめいっぱい楽しんでね」

そう言って、鼻歌を歌い始めた。
それは、課題曲「さくらのうた」の出だし、
私のピッコロパートだ。

私はそれに、トランペットのメロディーを重ねる。

先輩は頷き、微笑んだ。