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名もなき王女のパヴァーヌ

〈この調べと ともに〉
 モーリス・ラヴェル
 なき王女のパヴァーヌ

   ♪

通っている美大の絵画学科の先生から口うるさく「この大学にいるうちに、『○○といえば佳澄(私の名前)』と言えるような、独自の価値を見つけてほしい」と要求され続けている。

自分なりの持ち味を何にするか、それに関して迷いは無かった。進路を美術に方向転換するまでは、ピアノ一辺倒、コンクール一辺倒の青春時代を送ってきたからだ。

音楽の道は厳しかった。練習量に比べると、一瞬でしかない本番のために血の滲むような努力を繰り返す。でも、さらにその一瞬のミスが全てを無にする。本番のプレッシャーを感じやすい私、『一瞬』に縛られた過ぎた私は、ますます自分を辛くしていった。

高校の途中で、鍵盤から手を離し、『空間』の世界、美術の道を選んだ。元々『描くこと』は嫌いじゃなかった。
高二からの出遅れで美術の予備校で学び、共通テストで得点のベースを稼ぎ、美大に入学することができた。
そこは強烈な個性が集まる場で、『独自の価値』を見つけよと先生が連呼するのも無理もない。
例え画力があっても、爪痕を残せなければ埋没する。埋没したら、作品の鑑賞者も企業の採用担当も見向いてれくれない。まだ道は決まっていないが、画家になるにしても、デザインの仕事を選ぶにしても、埋没してしまったら、そこから這い上がることはできない。

『時間』を扱う音楽の道を選ばずに『空間』を相手にする美術の道を選んだ。ほんとうにそれが正しかったのか。私に適性があるのか? 美大での一年目を終える初春に、大きな不安と迷いが生じてしまっている。

「あれ、佳澄ちゃんじゃない?」
大学の入試期間となり、キャンパスへの出入りが制限されていることもあり、私は千葉の実家に戻ってきている。画材を買おうと最寄りのターミナル駅で電車を降り、改札口を出た所で声をかけられた。

振り返ると、警告音とともに自動改札口に通せんぼされた若い男性。
「ちょっと待てて、精算するから」

「誰だっけ」と少し不審に思いながらも精算機にスイカを入れている男性を待つ。

「千住君?」
改札口から出てきた男性の、やや太めの眉を見て思い出した。小学校から通っていたピアノ教室のレッスン仲間だ。
子供の頃から短髪で、いつも日焼けしていて、どっちかというとわんぱくボウズ風だったのに、今は髪を肩まで垂らし、そこから色白の顔を覗かせている。

私は途中でピアノ教室をやめてしまったので、彼と会うのは少し気まずい。どちらかといえばスパルタ式のレッスンで、千住君はビシバシと鍛えられ、音も上げずにピアノに向き合い、ピティナはじめ数々のコンクールで優秀な成績を納め、芸高から芸大のピアノ科に進んだはずだ。

「久しぶり、千住君」
「久しぶり、さっき反応薄かったから忘れられてるかと思った」
「いや、そんなことはないけど……昔とだいぶ格好が変わってたから」
「佳澄ちゃんは、あんま変わんないね。あの頃と」
それをどうとっていいのかわからないけど、一応愛想笑いで返した。
「たしか美大に進んだんだっけ? 今受験休みかな」
「そう。学校は多摩でここから遠いので一人暮らし。今は少しの間実家に帰ってきてるの。学校に入れないから、絵を描くにしてもMac使うにしても実家の方がやりやすいし。千住君は?」
「僕は、京成線で一本だから、学校は自宅通い。今日はリサイタルの打ち合わせで出かけてたんだけど」
「すごいね、もうそんなことやってるの? 流石は教室一の神童ね」
「いや、リサイタルっていっても小さな場所だし、学校の仲間と二人、対バンだけどね」
「にしてもすごいよ……大学に上がってからはコンクールとかは出てないの?」
「うん、流石にピティナで燃え尽きた。今はピアノでできることを色々試している……そうだ、確か佳澄ちゃんは美大の絵画学科だったよね?」
「うん、そうだけど?」

「こんどのリサイタル、こんなことやるんだ」
そう言ってかれは背負っていたリュックを下ろし、チラシを取り出した。
それにはコンサートのタイトルが大きく書いてあった。
『絵画に調べを乗せて』

「まあ、よくあるっちゃあるんだけどね、絵画に、ちなんだ曲を相棒と代わりばんこに弾くんだ」
「ふーん、ラヴェルとドビュッシーとムソルグスキーか……」
「うん、僕はパヴァーヌ、そして展覧会の絵を相棒と『二台ピアノ』でやる……君、絵を描いていてピアノも弾くから興味あるんじゃないかと思って」
「ピアノはもう……でも、おもしろそう」
「そう! よかったら席をとっておくから来ない?」
長髪をかき上げながら嬉しそうに言うので思わず誘いに乗ってしまった。
実はピアノを弾くのをやめてから、コンサートからも足が遠のいていた。



コンサート会場は、渋谷にある広いライブハウスだったが、しっかりフルコンのピアノが二台並んでいる。わざわざ借りて運搬したのだろうか?
まさに『対バン』だ。さすがにスタンディングではなく、フロアに椅子が並べられている。

ピアノの両サイドにはイーゼルが立てられ、その上に画集が開かれている。何名かの観客がそれを覗き込んでいる。

彼も、もう一人の奏者もピアノ業界ではそこそこ名が通っており、座席に満員になった。

プログラムにざっと目を通す。
どの曲もピアノ弾きには馴染み深い曲だし、私も遊び程度に弾いたことがある。
でも、今回のテーマ『絵画に調べを乗せて』というタイトルとともに書かれた曲の解説は、こうやって見るとなかなか興味深い。

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モーリス・ラヴェル
なき王女のパヴァーヌ

ルーブル美術館で展示されている、ベラスケスの描いたマルガリータ王女の肖像画からインスピレーションを受けたという説もあるそうだが、事実がどうかは定かではない。

クロード・ドビュッシー
月の光

ベルガマスク組曲の中の一曲。
ヴァトーの絵画に触発された詩人、ポール・ヴェルレーヌの詩集『艶なる宴』の一遍。さらにドビュッシーはこれに触発され、音楽にした。

モデスト・ムソルグスキー
展覧会の絵

建築家であり画家であるハルトマンの展覧会を訪れたムソルグスキーがピアノ曲として作曲したもの。
のちにラヴェルが管弦楽曲として編曲している。

―――――

千住君がステージ脇からフラりと現れた。
黒いデニムに黒いシャツと、随分カジュアルなステージ衣装だ。
拍手に迎えられ、ピアノの前まで移動するとペコリとお辞儀をして髪をかき上げた。いくぶん背が伸びて、いくぶんスリムになったように見える。

ピアノ椅子に座るや否や、いきなり弾き始める。その辺、昔から変わっていない。

プログラムに書いてある解説によると、一説に『なき王女』のモデルと言われる、マルガリータ王女は十七世紀のスペインハプスブルク家の王女で、外交手段として十五歳で結婚し、その後不遇な結婚を重ねた末に短い生涯を閉じたお姫様だそうだ。

パヴァーヌとは中世ヨーロッパの宮廷舞曲で、ラヴェルの作品はゆったりとした二拍子で曲の全体が進行していく。

私の記憶では、千住君は超絶技巧を得意としていたはずだが、こんなに静寂に、やや抑え目の情緒で音を紡ぐとは思っていなかった。

確かに、かつて栄華を極めた王家の郷愁と、その王女として必ずしも幸せとはいえない生涯を送ったマルガリータの悲哀が表現されていると言えば、そのようにも感じられる。

だが、彼の演奏は、私に少し違う情景を想い浮かべさせ、夢の世界に誘(いざな)われるような幻覚を引き起こした。



私は、宮殿の廊下を歩いていた。すれ違う者は誰もいない。両脇の窓の外は暗闇だ。
自室の扉を開ける。
やや古ぼけてはいるが、高貴な人物のために造作された部屋。
そして鏡台の前の椅子に座り、自分の姿を見る。鏡の中の人物は、十九歳の私よりも少し若いか。十五・六歳のややあどけない、ヨーロッパ系の顔立ち。ライトブラウンのアップの髪、着ているものは白を基調としたシンプルなワンピースだが、仕立ても生地も上品だ。

鏡でその顔を見た瞬間、自分が何者かを知る。というより、佳澄という日本人の女性が、この女の子に憑依しているといった方が正しい表現のような気がする。

私は南欧の小さな王国の王女だった。父君と母君は、つい先日、訪問中の国でやや陰謀めいた不慮の事故で亡くなり、その瞬間女王となった私がこの国を治めていくことになってしまった。

ここは、夢の中か。
タイムトラベルで迷いこんだ世界か。
それとも、異世界に転生してしまったのか。

いずれにしても、私は『この国のこれから』を選択せねばならない立場に置かれている。

姫は少しだけ考え、決意した。
この国を閉じる。そして、隣国の要求通りその国に併合され、わが国民の委ねることを。みんなの幸せを願い。

その結論に従えば、自らの命を絶ち、後継ぎを残さないことを内外に示さねばならない。
幼い女王は毅然と自分の運命を受け入れた。

目の前の鏡で、女王の、いや私の顔を見つめる。
静かに微笑んでいる。それには気負いや不安や恐怖はかけらも混ざっていない。
色彩でいえば、鏡の中にブルーと名のつくトーンは全くみられない。

『つかの間の女王』は、着ていたワンピースをスルリと落とし、鏡の前に全裸で立った。
月光に照らされた裸身は、完璧な造形、神の手による芸術だった。

彼女は何語かわからない言葉でささやく。

さようなら、と。

その挨拶は、自分に向けたものか。それとも、私にか。



辺りは明るく、ライブハウスの床に置かれた椅子がガタガタいう音が聞こえた。
聴衆たちが感想を口にしながらホールを後にしていく。

目の前の景色がぼやけ、滲んでいる。

どうやらコンサートは終わったようだ。
ドビュッシーとムソルグスキーは聞きそびれた。というより私の耳には入ってこなかった。

空いた隣の席に、全身黒づくめの男性が座る。
「今日は来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ、素晴らしい演奏を聴かせてくれて……というと嘘になるね。ごめん、ラヴェルの途中から意識が飛んでた」
「どういうこと?」

私は少し迷ったが、彼がパヴァーヌを演奏している間に起きていたことを話した。

「そうか、それは不思議だ」
千住君は、私が演奏を最後まで聴いてくれなかったことで特に不機嫌になる様子もなく、首をかしげた。

「実は僕も同じようなイメージを浮かべながら演奏していたんだ」
「え……そうしたら私、千住君のイメージを受け取っていたってこと?」
「……いや、そうとも言いにくい。だってあの世界、あの王女は僕が想像したものかどうか正直よくわからないんだ」
「どういうこと?」
「どこからかわからないけど、それが降ってきた。僕はそれを感じながらピアノを弾いた」



家に帰ると、私はイーゼルの前に座った。
あの記憶がなくならないうちに。

私は春休みの間に、肖像画を描き終えた。
鏡の前で、純白の裸体で淋しく微笑む少女の姿を。

二年に進級し、油彩画の授業の課題発表の日。
私は千住君に電子ピアノを担いで来てもらい、私の絵の前でパヴァーヌの演奏してもらった。

それ以来、彼のピアノと私の絵画の共演を度々行っている。

音楽を絵画に。
絵画を音楽に。

お姫様の赤みがかった頬には、
描いた覚えがない涙が一筋。

その相互作用が生み出す世界を大切にしたい。
私はそう思う。
彼にも、そう思ってくれたらと願う。