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作曲家の幸福度数

〈この調べと ともに〉
 ジョアッキーノ・ロッシーニ : 『アルジェのイタリア女』序曲

   ♪

「ねえ、あの人ね?」

「え?」
まさに曲を始めようとしたその瞬間、オーボエのタカコが指さした。
釣られて、楽器を構えていた室内楽メンバー全員が音楽室の壁を見上げる。
「ほら、上の段の右から三番目のおじさん」
「ああ、ロッシーニか?」
「なんか一人だけ違くない?」
「どこが?」
「肌の色ツヤ……テカリがハンパない」
「そうかな?」
「ほら、周りの連中みてごらん、ほかの作曲家は青白かったり、不機嫌だったり、怒り顔してるじゃない? この人、いかにも幸せ! って感じ」
「確かにな、フラれっぱなしとか、早死にしたりとか、そういう作曲家が多いからな」

「ロッシーニは実際、作曲して、トップ歌手と結婚して、美味いもん食って、レストランやって……作曲家にしては長生きしたらしいから幸せだったんじゃない? 『ロッシーニ風』なんて呼ばれる料理もあるくらいだし」
「へえ! それ、最高の人生じゃない?」
オケメンバーの蘊蓄話を聞いて、ロッシーニに負けず最高の人生を送りそうなタカコが目を輝かした。

「こら、始めるぞ!」
コンマスが弓をぶんぶん振り回した。

弦のピチカートから始まる。
トゥッティ(全員合奏)で一音鳴らされると、タカコのドソロが始まる。
のびやかに、ほがらかに。どうもこのオーボエ吹きはロッシーニと気が合うらしい。

曲は、歌劇『アルジェのイタリア女』の序曲。
どんなあらすじかと言うと、アルジェのちょいワル太守ムスタファ、マンネリ妻に飽きて「イタリア女子サイコー! サイコー!」と浮気心。そこにナイスバディなイタリア美女イザベッラが難破して現る。ムスタファ、デレデレで彼女をゲットしようとするも、イザベッラは一枚も二枚も上手! 恋人を隠れ蓑に、太守をアホな儀式に参加させ、酒飲ませてグデングデン。最後はイタリア人仲間と「バーイ!」とばかりに船で脱出。残された太守は「オレってバカ…」と反省(たぶん)。妻に土下座してハッピーエンドという、笑いとドタバタ満載の恋の騒動記!……というとちょっと乱暴か。
確かにタカコの言う、最高の人生を送った作曲家らしい作品かも知れない。

クラリネット(僕)のソロのあと、軽快なテンポでメロディーが刻まれ、恋の駆け引きを予感させる。
やがてロッシーニ・クレッシェンドとも呼ばれる独特の音量の上げ方で盛り上げ、聴いている人をオペラの世界に引き込んで序曲は終わる。

今、演奏しているのは、フルオーケストラではなく、室内楽の少人数編成。
僕が入っている高校オケの顧問の先生が何か表彰されたとかで、明日の夜お祝いパーティーがあり、その余興として駆り出される。
職権乱用な気もするが、ギャラとパーティ―料理にありつけるから、まあいいか。
そう言えば、顧問の先生もなかなか肌のテカリがいい。

「ねえ、ごちそう。おいしいお店、探して」
「は?」
アルジェのイタリア女の合わせが終わって、次の曲の練習が始まる前、隣りに座っているタカコから声がかかる。
横を向くと、リードを見つめ、ひたすら削っている。削りながら話しかけてきたのだ。
彼女はたいてい楽器を吹いているか、リードを削っているかのどっちかだ。
この子に言わせると、『リード削りは演奏の一部』なんだとか。

「そのロッシーニ風ってやつ」
「な、なんで?」
「来週私、誕生日なの」
「……う、うん知ってる」
「まあ、嬉しい! だから連れてって」

"ロッシーニ風 レストラン 東京" でググってみる。
一休レストランや、食べログで何件か紹介されているが……

「あのこれ、大変申し上げにくいんですが、高校生の小遣いで食べられるようなもんじゃなさそうです」
「あら、そうなの? じゃあいいよ、ファミレスとかで。ロッシーニ風はプロポーズの時までおあずけね」
「え?」

オーボエやファゴットの演奏者は変態、じゃなくて変人が多いというオケならではの都市伝説があるが、タカコを見ていると、ただの都市伝説じゃないよなって思えてくる。
さっきみたいに、いざ演奏を始めようという瞬間にロッシーニの写真を指さしたり、ひたすらリード削っていたり(これはしょうがないか)、本気なのか冗談なのかわからないことをよく口にする。
そして、オケの男子には、常識人でおしとやかな女子よりも、こういう一風変わったキャラの子の方が人気があったりする。僕もその男子の一人だけど。



翌日、顧問の先生のお祝いパーティーが盛大に開かれた。
僕たち室内楽編成の演奏も、その場を盛り上げるのに一役買った。

演奏のミッションから解放され、オケメンバーもパーティー料理にありつく。

「おう、あるじゃん! ちょっと来て」
ビュッフェコーナーをウロウロと物色していたタカコから、歓びの声があがった。
保温型の銀の大皿の上に確かにそれはあった。
「牛フィレ肉のロッシーニ風、牛フィレ肉にフォアグラをのせ、スライスしたトリュフをちらしております。ソースは「ペリグー」という、フォンドボーと甘口マディラ酒に刻んだトリュフを加えた、芳醇なソースでございます」
脇にいた宴会場スタッフが説明しながら、タカコと僕の取り皿に盛り付けてくれた。
牛フィレ肉、フォアグラ、トリュフと、パワーワード満載だ。多分僕の人生で初めて口にするものばかりだ。

僕とタカコは、空いている席を見つけ、一緒に座った。
彼女の取り皿は、ロッシーニ風だけでなく、エビチリ、お寿司、サーモンマリネとモッツァレラチーズのカプレーゼなど、幸せそうな料理で満載だ。

五分間。
無言の時間が続いた。そして皿の上の料理を全部平らげ、彼女は口元のナプキンで拭い、ハアっと満足そうに息をついた。

「あー、美味しかった。幸せ」
「……すごい集中力だったね」
「うん、ロッシーニのテカテカハッピ―な世界に迷い込んでた」
「それは何より」
「あー、私も彼のように幸せな人生を送りたいわ」
僕は、テカテカツヤツヤになったタカコのポートレートが、音楽室のロッシーニの隣りに並んだ絵図を想像した。

「でも、幸せってなんだろうね」僕はつぶやく。
「おう、君は哲学者かね?」
「いやだって、ロッシーニだって、死ぬ間際まで幸せを感じていたか、わからないじゃん」
「君の死生観では、うまいもの食ってそのままポックリ逝くのが幸せってことかな?」
「いやそうじゃなくて……だって、名曲をたくさん作って、晩年は不遇で、三十五歳で死んでしまったモーツァルトを不幸な人と呼んでいいのだろうか?」
「いや、いくら名曲を残して、今夜みたいに、はるか彼方のニッポンという国のお祝いパーティーで、彼のセレナーデを演奏したところで、モーツァルトにとっちゃどうでもいいことじゃない? だいたい死んじゃってて本人はわかんないんだし」
「身も蓋もないなあ」
「そうかしら、でもやっぱ私は『うまいもの食ってそのままポックリ逝く』方がいいな」
「そっちかい、タカコの死生観は!」

彼女はひと口ウーロン茶を飲み、続ける。
「ねえ、君はどんな老後を夢見てる?」
「老後? そんなの考えたことないや……だって僕たちまだ高校生だぞ」
「そう? 私はちゃんとイメージあるよ」
「え! どんなの?」

彼女は視線を上げ、ぼんやりとパーティー会場の豪華なシャンデリアを見つめる。

「リードを削っている」

「何それ、今と変わんないじゃん」
「そう、変わってなければいいなあって……そして私の傍らには」
「傍らには?」
僕は少しドキドキする。
「そう。あ・な・た」
「ボ……ボク?」

「うん、私がリードを削りながら、あなたの最期を看取っているの」
「おい!」

いつか高級フレンチレストランで『ロッシーニ風』のディナーを食べて、タカコにプロポーズする日が来るのか?

未来のことは誰にもわからない。
まずは、来週のタカコの誕生日だ。