◇ ◇ ◇

翼を得たピアノと少女

〈この調べと ともに〉
 グリンカ=バラキレフ編:ひばり

   ♪
ポーン

誰もいない音楽準備室から聞こえるピアノの音。
別に怪談話をはじめようというわけではない。

その音が、彼女のピアノとの出会いだった。

「ごめんなさい!」
準備室のドアを開けると、ショートヘアのその子は慌ててアップライトピアノのふたを閉めようとした。

「あぶない!」
私は慌てて手を伸ばす。

「いてて……」
そう声をあげたのは私の方だった。

「あ! ゆかり先生、大丈夫ですか!」
「うん、平気平気……このピアノ、おんぼろで、ふたのストッパーが壊れてるから気をつけてね」
「は、はい……ごめんなさい……でも、おんぼろじゃないです……ピアノ」
「?」
「きれいな音が出ます」
「そうね、誰も弾かないけど、一応音楽室のグランドピアノと一緒に時々調律してもらってるしね」
「音色もすてきです」
「そうかしら?」
「ゆかり先生、目をつぶってもらえますか?」

よくわからないけど言われたまま目を閉じた。

ポーン

ポーン・ポーン・ポーン

少女はまず単音で、次に和音でピアノを鳴らした。
澄んだ、透明な音色。確かに綺麗だ。

「見た目はボロボロだけど、目を閉じると美しいの」
その子は、独り言のようにつぶやいた。

私は恥ずかしくなった。
見かけに囚われていて、『準備室に放置された、おんぼろピアノ』くらいにしか考えていなかった。
音楽の教師のくせに。

「あなたは確か、この間入学した、一年二組の……保科 梢(こずえ)さん?」
たった二十人の新入生の名簿を思い出す。

「ホシナ ショウって読みます」
「そうなんだ! ごめんごめん」

「ショウちゃんって呼んでいい?」
「はい」

「ショウちゃんは、ピアノ習ってるのかな?」
「いえ……うちはピアノなんて買えません」
「そうなんだ……でも、ピアノ好きなんだ」
「うん! ……はい」
そう返事をした時の目の輝きを私は今でも憶えている。

「教わりたい?」
「はい、でもお金が」

後で担任の先生に聞いて知ったことだが、彼女は人が多かったり騒がしい場所が苦手で、母親が少しでも静かな環境で育てたいと、母子二人きりで、この田舎町に越してきたそうだ。彼女の母親は、食品加工会社で朝から晩まで働いているそうだ。

「じゃあね、放課後、ちょっとだけ先生がレッスンしようか?」
「でもお金が……」
「ははは、うちの児童からお金とったら、おまわりさんに捕まっちゃうよ」
「じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「うん、約束だから、一人でここに来ないで、職員室で私を呼んでね、そしたら一緒にここに来て三十分くらい、一緒に練習して、そのあと先生は職員室に戻るから、三十分、一人で練習して終わったらまた職員室に来て」
「はい、わかりました……ありがとうございます。ゆかちゃん先生、じゃなかった! ゆかり先生」
「ふふ、ゆかちゃん先生でいいよ。みんなそう呼んでるし」

念のため、ショウちゃんの母親に連絡し、放課後はピアノを練習して帰ることを伝えた。お母さんは恐縮したが、しばらくは練習の後、彼女を自宅まで送った。
首都圏のベッドタウンのマンモス校での教職に疲れ果て自ら志願して、この山あいの町の小学校に赴任した私。
それと、ショウちゃんの境遇を重ね合わせていたのかもしれない。

彼女はまったくピアノが弾けず、まずは姿勢やポジションから始めたが、文字通り、日に日に上達していく。

「まずは右手でこの音符、弾いてみようか?」
「上手ね……じゃあ左手でこっちの音符、弾いてみようか?」
「すごいね、じゃあ両手でやってみようか?」
「すごい! いきなり両手でできちゃうんだね」

こんな感じで、教えたことを吸収し、熱心にハノンやエチュードに取り組む。



三年生のころには、同学年の子がコンクールで挑戦するような曲も弾けるようになっていた。
そうなると、教える立場としては、欲も出てくるし、不安にもなる。私なんかが教えていていいのだろうか。

音楽準備室の外で弾かせてあげたい。コンクールにも出してあげたい。そのために、いい先生につかせてあげたい。

夏休みのある日。
私は、この町から電車で三十分ほどの地方都市にショウちゃんを連れていった。
ここでは、音大の同窓生、戸倉先輩がピアノ教室を開いている。コンクールで実績をあげる教え子が何人もいて、わざわざ新幹線で通ってくる子もいるという。

二台グランドピアノが並んだ広いレッスン室に案内され、そのうちの一台のピアノ椅子にショウちゃんが座った。

今練習している、『モーツァルトのピアノソナタ第二番 ヘ長調』を弾く。

ボロボロだった。
指が鍵盤からはずれ、いつもの音色が出せない。何度もミスして止まる。
アップライトピアノとグランドピアノの違いだけが原因ではなかった。

同じ部屋でレッスン待ちをしていた子供たちがクスクスと笑う。

帰りの電車の中、隣に座ったショウちゃんが私の腕にすがり、すすり泣く。

「ごめんなさい……でも私、音楽準備室のピアノがいい。それで、ゆかちゃん先生に教わりたい」

本当に悪いことをしたと思う。この子に人前でピアノを弾かせてはいけなかったのだ。
「ショウちゃん、私こそごめんね……つらい思いさせちゃって。これからも私と一緒にピアノをやろうね」



その後も、音楽準備室でのショウちゃんと私のレッスンは続く。このピアノから、どうやったらこんなに美しく、透明で、暖かくて、繊細で、大胆な音が引き出せるんだろう? 
みんなに彼女のピアノを聴かせてあげたい。でも、それはできない。

そのもどかしさは、彼女自身も感じているらしく、個人練習のとき、こっそり様子を見に行くと、ピアノの音が音楽室から聞こえてきた。ときどきグランドピアノに挑戦しているようだ。

小さな籠の中にとじこもりながらも、バタバタとあがく小鳥。なんとかそこから出してあげられないものなのだろうか。



ショウちゃんが五年生になったとき。
この学校は来年の新学期から隣り町の学校に併合されることが決まった。

いずれそのときが来ることはわかっていたが、あのアップライトピアノと音楽準備室にお別れする時期が早まってしまった。
そして私は、都市部の学校に赴任することが内定している。
彼女はそれでも放課後欠かさず、練習を続けた。私が出勤の時は、夏休みも、冬休みも。

「ショウちゃんは、あっちの小学校に行ってもピアノ、続けるよね?」私はこわごわとたずねる。
「いいえ……もう十分です。このピアノ、いっぱい弾けましたし。先生にもいっぱい教わりました」

背が伸び、髪も伸び、少し大人っぽくなった少女は微笑んだ。しかし、その表情には少しの寂しさが漂っていた。

カノジョハ、カゴノソトニ、デタガッテイル。



この小学校の最後の卒業式が終わったあと、学び舎に感謝し別れを告げるイベントが催されることになった。
この小さな町で生まれ育った大人たちも集まる。

私は賭けに出ることにした。

「ショウちゃん。もしも、できればでいいんだけど、『感謝の会』でピアノを弾いてみない?」
「え! そんなの絶対無理です」
「言い方悪かった……あのアップライトピアノ君の音をみんなに聴かせてあげたくない?」
「そ、それは」
「この学校が廃校になったあと、あのピアノがどうなるのかはまだわからない。でも最後に、あの美しい音色をショウちゃんの手で響かせてあげてほしいの、きっと喜ぶと思う」
「私もそうしてあげたい……弾いてみます」



三月の午後。
二十名ばかりの卒業生とその保護者。だけでなく、在校生、教職員、そして町の大人たちが体育館に集まった。
これだけ多くの人がここに座っているのを私は見たことがない。
ひょっとしたら、過去では当たり前の風景だったのかも知れない。

卒業生や在校生の代表が、この学び舎での思い出を語り、あいさつする。
「大昔の卒業生」の大人たちも、しみじみと昔話をする。

「最後の校歌」が参加者全員の合唱で歌われた後、小さなリサイタルが開かれた。

ステージの上ではなく、小さな体育館の床面に置かれたアップライトピアノ。
たくさんのパイプ椅子が、それを囲むように配置し直された。

夕暮れせまる体育館。
スポットライトが、ポツンと灯る。

「いけそう?」
「はい。あのピアノと一緒なら……」
少女は目を閉じ、私の手を三十秒ほど握ったあと、その光に向かって歩いていった。
彼女がピアノ椅子に座ると、体育館のざわめきが少し落ち着く。

鍵盤に手が乗せられる。
そのまま、完全な静寂が訪れるときを待った。

そして。

「私の相棒を紹介します」
と、小声ながらも、はっきりと聴衆に伝え。

右手一本でメロディーを紡ぎ出す。

曲は、グリンカ作曲、バラキレフ編曲の『ひばり』

左手も添え、静かに旋律をつなげる。
まるで、ピアノに語りかけるように。

やがて左手の伴奏が始まり、曲が動き出す。

私はそのリズムに載せ、彼女との出会いから今日までのことを回想する。

準備室でポーンと鍵盤をはじいていた少女。
上達するのにあわせて笑顔も増えていく。
私が無理やりピアノ教室に連れて行き怯えさせ、涙させてしまったこと。

そんな経験を経て、少しずつ演奏も彼女自身も大人っぽくなっていく。

大きな山のアルペジオを合図に、ヴィルトゥオーソ(高度な演奏技巧)的な要素が加えられ、メロディーが再現されていく。
演奏は大胆さを増し、その頂点でアルペジオが連なる。

そのとき、私は見た。
いいえ、きっと。私以外のそこにいた人々全員が幻視したはず。

それほど高くない体育館の天井が無限の空に変わり。
天空に向かって羽ばたく、ひばりを。

小さなピアニストも、目を閉じたまま顔を上げ、それを見送るにように。
しなやかに腕を動かす。

そして、今までおんぼろのピアノと過ごした時間をしまい込むように、優しく暖かく、曲を終えた。

翼が生えた彼女とピアノは、二人で手を携えカゴから抜け出し、自由の空を手に入れた。



それから十五年がたち、私は仕事で併合先の小学校を初めて訪れた。
児童玄関を上がってすぐのスペースにそれは置かれている。

この小学校の卒業生が弾いていたアップライトピアノ。
古びているけれど、世界で活躍するピアニストを育てた、伝説のピアノ。
伝説のピアノだけど、だれでも自由に弾けるピアノ。

その日も、一年生らしい女の子が、鍵盤をポーンとはじき、
「きれい」
と耳を澄ましていた。