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四億百万キロメートルの追走曲

 〈この調べと ともに〉
  ヨハン・セバスティアン・バッハ
  二つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調 BWV 1043

 ♪

「達也、聞こえるか?」

 20分後

「ああ、今日はだいぶ調子がいい方だよ。最近は磁気嵐のせいか、上りの通信状況は問題ないけど、地球からこっちに届く電波が今いちだな」

 20分後

「そうか……保ってくれるといいんだがな」

 20分後
 
「どうしたんだ、和也? まさか南に何かあったのか?」

弟の返事を20分待たねばならない。焦れる。

「ああ、今日いっぱい彼女の体も保ってくれるかどうか……だそうだ」

20分後

「やっぱりそうだったのか……こんな時に地球にいてやれなくてすまない。どうか俺の分もしっかり看取ってやってくれ」

20分後

「達也、実は南から頼まれていることがある……二人の競演でバッハのドッペルを聴かせてほしいそうだ……最後のわがままだからと」
ドッペルとはバッハの「二つのヴァイオリンのための協奏曲」の俗称だ。二台のヴァイオリンが旋律の追いかけっこをするコンチェルト。

20分後

「聴かせてやりたいのは山々だけど、それは無理だろ。この時期、火星と地球との距離は、四億百万キロメートル、電波が到達するのにはこの通り、二十分かかる。タイミングの合わせようがない」

20分後

「できないことはない。万一のことを考えて準備はしてある。以前録画しておいたんだ。僕のセコバイ(2ndヴァイオリン)と弦楽合奏だけでドッペルを。これからデータを送信するから、それにストバイ(1stヴァイオリン)を合わせて弾いてくれ。僕と弦のメンバーはタイムラグの時間を綿密に計算して演奏を始める。こっちも同じ録画をメトロノーム替わりにしてテンポを合わせる。南の病室に運び込まれたモニターとオーディオセットで、火星と地球の演奏が合成されたものを彼女の耳元に届ける。……一応、ネットで世界中にも配信される。そっちに持っていったヴァイオリンはちゃんと手入れしてあるんだろ? チューニングは444ヘルツだ。じゃあ、こっちもスタンバっておくからな。一楽章だけでいい。頼んだそ、『達也と僕の』南のために 」

来るべき時が来てしまった。
俺の火星での滞在予定日数は千五百六十日。多分そのうちのいずれかが南との別れの日になるのは目に見えていた。
地球から遥か離れた場所にいる俺ができることは何もない。和也が手配してくれた録音を使って、ヴァイオリンを聴かせてあげることを除いては。



基地の通信ルームに楽譜、譜面台、そして楽器を用意し、ウォーミングアップとチューニングを済ませる。なかなか地球上と同じ環境にはできないが、火星基地の室内の温度・湿度の状態はそんなに悪くはない。

録画データが地球から送られてきた。
モニタに映像が映し出される。弦楽器の小編成の前に和也が楽器を抱えて佇んでいる。俺も地球上で何度も合わせたことのある音楽仲間たちだ。

楽器を構え、少し間をおいて和也が合図を出し、セコバイと弦楽合奏からドッペルが始まった。
過去に録画したものだろうが、今同じ時間を共有している錯覚に陥る。

和也に倣い、俺は弓を動かす。細心の注意を払い、オケと同期するように。和也のメロディーをなぞるように追いかける。時には和也が俺の後をぴったりとついてくる。
俺達双子だからなせる演奏だと自負している。

ベッドで寝ているはずの南にどう聞こえているのか、見えているのか。全く見当がつかないが、
ただ目の前の動画に合わせて弾くしかない。

逃げる、追う。
追う、逃げる。
伴奏に援護されながら、かわりばんこに繰り返す。

俺のソロが始まった瞬間、アクシデントが起きた。動画も音声もプツリと途絶えてしまったのだ。

このタイミングで磁気嵐か?
俺の演奏は地球に届いているのだろうか?
まったく何もわからない。
わからないけど、演奏を止めるわけにはいかない。

テンポキープ。
俺は懸命に弓を動かす。
届いてくれ! 南に。
とどけ! 地球のみんなに。

俺は目を閉じ、二十分遅れで弾いているはずのアンサンブルーのメンバーを想いながら弾いた。

きっと和也が完璧に俺のソロを引き継ぎ、かっこいい演奏を南に聞かせているはずだ。

やがて、頭のなかには宇宙のように透き通った暗闇が広がる。

その真ん中に。
一人の少女。

俺と和也が二人で練習していると、名指揮者のように胸を張って堂々とタクトを振って笑っていた、小さいころの南の姿。

いったい、ここはどこだろう。

彼女は今、時間と空間を越え、地球と火星のバッハの追走曲を繋ぐ。

彼女の指揮に合わせ、俺も和也も、そして弦楽器のメンバーも演奏に没頭する。楽器を最大限に響かせる。

ややリタルダンドをかけて一楽章の演奏が終わった。

彼女は、胸に手をあて、丁寧にお辞儀し。
ヴァイオリンのデュオと弦楽メンバーを手で指し示し、拍手した。

そして、消えた。



約二時間ほどして、地球からの交信が復活した。

南は俺達の演奏を聴きながら息をひきとったと和也からの報告があった。

看護師さんが握らせてくれたタクトを胸に、微笑みながら旅立ったとのこと。

そうだ。彼女は音楽の旅に出たのだ。

宇宙が似合う、大バッハの音楽をめぐる旅に。

だから、俺達は奏で続ける。

どこまでも南を追いかけて、とびきりのヴァイオリンの音色を届けるために。