◇ ◇ ◇

~まだ見ぬ青を探して~ 時々カルテット


〈この調べと ともに〉

 ヨハネス・ブラームス
 ピアノ四重奏曲第三番ハ短調 作品60


 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
 ピアノ四重奏曲第一番 ト短調 K.478

 エドワード・エルガー
 愛の挨拶

   ♪

出演依頼

「アオイお姉ちゃん、『どうってことないカレー』、三人分ください」
 金曜お昼の常連、トモちゃんがいつものように大きめのトートバックを両手で差し出す。
「はい、毎度ありがとうございます! トッピングは?」
「鶏とナスとほうれん草を三人分」
 私はトートバッグを受け取ると、中から鍋を取り出し、カレールーをお玉で三人分入れる。
 鍋をバッグに戻し、紙製の容器にトッピングの具材を入れ、鍋の上に載せる。
 代金を受け取り、バッグをゆっくり渡す。
「熱いから、気をつけてね」
「うん、ありがとう」
 トモちゃんは少し重そうに、でも嬉しそうにトートバックを提げて会釈した。ドアを開けてあげると、もう秋なのに、まだまだ生温かい空気が店に入りこんでくる。

 大学を出て、町田にある叔父が営む「ワインとカレーとコーヒー」のお店でバイトしている。
 なんだか香りがぶつかり稽古しそうな品揃えだが、奥さんの名前「和香子(ワカコ)」を店名にして、その三文字を推しのメニューとしたそうだ。「ワカコ」さんは、一度離婚届を突きつけて、叔父のもとを去った。しばらく叔父は落ち込んでいたが、やがて脱サラしてこのお店を始め、めでたく和香子さんは戻り、復縁した。

 しかし、「どうってことないカレー」とは、ネーミングとしてはいかがなものか。カレーのメニューはもう一つあって、叔父は、半分スープカレーみたいな「スパイシーマサラサラ」(これもネーミングとしてどうか)を人気商品にしようと目論んでいた。お母さんが作ってくれそうな「どうってことないカレー」をオサエとして用意して、いかにもやる気のないネーミングでメニューに加えたが、なかなかどうして、「スパイシーマサラサラ」よりも注文数は多い。叔父はそのへんのところ、いまいち納得していないようだ。「お鍋で持ち帰り一割引き」はいいサービスだと思う。地球に優しいし、ホール仕事も楽だし。

 楽なので、このようなことをぼーっと考えていると、カウンターに置いたスマホがぼやっと光った。LINEに「小久しぶり!」と友人からのメッセージが入っている。同じ音大でヴィオラを習っていたルリからだ。
“電話していい?”
 超シンプルなメッセだ。いいよ、と返すと十秒も待たずスマホが震える。叔父に目配せして、スマホを片手にバックヤードに引っ込む。

「アオイ、久しぶり。電話大丈夫だった?」
「うん、叔父の店のバイトだけど、今、お客ゼロ」
「……お店、大丈夫?」
「はは、持ち帰り客でなんとか採算とれてるし、バイト代も出てる。ところでどうしたの?」
「アオイさ、今もピアノ弾いてる?」
「え、うん。母のピアノ教室を手伝ったり。あと、このお店にアップライトのピアノがあって、お客さんからリクエストあった時に、メジャーなクラシックとかアニメとか弾いてる」
「じゃあ、大丈夫ね…… 実は、大江戸響に地方の方から室内楽の出演依頼があってね。予定があえばオケのメンバーを派遣するんだけど、あいにく定演のハイシーズンと重なっちゃってて」
「え、どういうこと?」

 ルリは、大江戸交響楽団というプロオケの事務局で働いている。演奏家になれなくても、音楽に関わる仕事はしたかったのだ。その気持ちはわかる。

「出演してみませんか?」
 ルリは、スケジュールが合うか聞いてきた。

「え!…… で、メンバーは?」
 嫌な予感がした。

「アオイとスイと、アサギと私と……また四人でやってみない?」
 そうなるよね。というかそれしかないだろう。

「二人には聞いてみたの?」
「アサギは二つ返事。スイはアオイがよければ、だって」
 外堀埋めてきやがったな。
「やっぱり、あたしが最後か。……で、場所はどこ?」
「北海道の紋別。ギャラはいいし、食べ物も美味しいよ」

オホーツクの街と海と老夫婦

「まもなく着陸態勢に入ります。いま一度シートベルトをお確かめください」

 羽田発、一日一往復の「オホーツク紋別空港」直行便に乗って、二時間足らず。所要時間は前もって調べておいたが、機内アナウンスを聞いて、えっもう着陸? という驚きがあった。
 窓から外を眺めると、眼下にはオホーツク海が広がり、陽の光を浴びて白く反射している。
 私の隣の席にアサギ、その隣の席には「チェロ様」がベルトで固定され、通路の向こうには、ルリとそして……スイが並んで座っている。

 私たちは、同じ「元」音大の同級生。二年の時に「ピアノカルテットを勉強したいので、メンバー募集中!」とスイが書きこんだオンラインの学内掲示板を見て応募し、四人は出会った。始めのころは、異なる楽器の音色の融合が新鮮で、夢中になって練習し、教授のレッスンも受けた。大学主催の室内楽演奏会や自主コンサートなどに出演もした。
 でも、三年になり「将来の限界」が何となく見え始めると、どことなく四人の関係も音楽も、ぎこちなくなり始めていた。今一つ、演奏がかみ合わない。気持ちが揃わない。

 そんな時、スイが私にコクった。私は戸惑った。今までスイはどんな気持ちで私と接してきたのだろう? これからスイにどう向き合えばいいんだろう? スイの告白に私は何も答えられず、惰性でズルズルとカルテットを続けた。アサギとルリも、何があったか察したようで、気まずさが伝染している。
 カルテット演奏による卒業試験と卒業演奏会を何とか無難に終えて間もなく。スイが「以上で解散!」と一方的にカルテット解散宣言し、四人はバラバラのまま卒業していった。たまに連絡をとりあっていたルリ以外の二人が今何をしているのか知らない。コンサートを引き受けたということは、楽器は続けているようだ。

 ジェット機がぐるりと旋回を始め、機体を傾けるとオホーツク海と陸地の際に、一日一便の着陸を待っている滑走路が見えた。

 手荷物を受け取り、スイとルリは航空会社から貸し出されたケースから楽器を自分のケースを移し替えた。
 そこに老夫婦が寄ってきた。ルリが声をかける。
「高橋さんですね? ご連絡さしあげた前崎と申します」
「ああ、お電話ではいろいろと無理いってすみません。今回のコンサートを依頼した高橋です。皆さん、本日は遠いところおいでくださり、ありがとうございます」
「いえいえ、あっという間でしたよ」
 ルリは私たちを紹介し、高橋夫妻のステップワゴン(多分寒冷地仕様)に乗せられ、紋別の市街地に向かった。

「お昼はまだですよね? 何か食べたいものありますか? 宿泊先の宴会室を練習用に予約しているので、ホテルのレストランでもいいですが」
「ボク、ラーメン食べたいです!」
 アサギが遠慮なく無邪気にリクエストする。
「そうですか……えーっと。では、寄り道ついでにあそこに行きましょう」

 向かった先は、氷海展望塔、アザラシシーパラダイス、流氷科学センターなど、紋別の見どころが集まったゾーンで、流氷砕氷船「ガリンコ号」乗り場の中にあるラーメン店。塩、醤油、みその定番メニューの他に「ガラムマサラらーめん」という文字を発見! カレー屋の看板娘として、頼まないわけにはいかない。私以外の三人は見事に、塩、醤油、みそと注文が別れた。
 高橋夫妻はサイダーを飲みながら、4人がうまいうまいと食べる様子を嬉しそうに眺めていた。

 建物の中は、いつの間にやら社会科見学に来たらしい、たくさんの小学生が「ガリンコ号」の乗船待ちしていて、賑やかになっていた。

「せっかくだから、オホーツクの海を見ていきましょうか」
 私たちは高橋さんの提案に賛成し、楽器を建物の事務室に預け(高橋さん、顔が利くなあ)、送迎バスに乗り、昔テレビの再放送で見たウルトラ基地のような氷海展望塔「オホーツクタワー」に向かった。

 三階の展望テラスから展望デッキに出て、並んで海を眺める。
「海の色、混ざり合ってるね」
 アサギが独り言のように言う。確かに。北の海は暗くて深い青色と勝手にイメージしていたが、この海は濃いブルー、淡いブルー、そして南国の海のエメラルドグリーンなど、多彩な色が折り重なっている。
 高橋夫人がデッキに出てきた。
「今日はこの色ですね……私の好きな色。オホーツクの海は、深いブルーだったり、黒っぽく見えたりと、表情豊かですよ」

 夫人は、海の一点を見つめながら、静かに語り始めた。
「みなさんに演奏をお願いした理由を、まだ主人から話してなかったみたいですね。実は、息子夫婦と孫娘へのプレゼントなんです」
「それは素敵ですね。お孫さんのお誕生日とかですか?」
 私は、自分たちの腕前はヨコに置いておいて、なんて贅沢なプレゼントだろうと思い、尋ねる。

「実は、孫娘のアイは、去年病気で亡くなりました。十三歳でした。明日はアイの一周忌です」
「……そ、そうだったんですか。それとは知らず、ごめんなさい」
 3人をちらっと見ると、驚きと困惑をそれぞれの顔に浮かべていた。

「気にしなくていいのよ。ただね、息子夫婦はそれ以来元気がなくなってしまってね。自分たちがもっと早く体調の変化に気づいてあげられれば、早くお医者さんに見せてあげられれば……と。だから、湿っぽい一周忌よりも、あの子が好きだった音楽で、お父さんとお母さんに元気になってもらおうと思ったの」
 高橋夫人の心中はわからないが、少し笑み浮かべながら淡々と話す。

「お孫さん、アイちゃんも何か楽器をやっていたのですか?」
 とルリが聞く。
「スイさんと同じ、ヴァイオリンを習っていました。でもこの街はブラスバンドが盛んで、アイの周りにはヴァイオリンなど、弦楽器を習っている子がいなかったの。入院して楽器に触れなくなってからは、アイは『ヴァイオリンをもっと弾きたいな、弦楽器で一緒に音を合わせたら、どんな音がするんだろう? もう弾くことはできないのかな?』って寂しそうに言うの。だから私はそのたびに『何言ってるの、退院したら、お気に入りの“愛の挨拶”を聞かせてね』ってお願いしていたわ」

 再びステップワゴンに乗り、ホテルへと向かう。私たち4人は終始無言だった。

 アイちゃんに音楽をプレゼントする演奏家として、私たちはふさわしいメンバーなのだろうか。今回用意した曲は、これでよかったんだろうか。そして何よりも、「弦楽器で一緒に音を合わせたら、どんな音がするんだろう?」という期待に、今の私たちが応えることができるのだろうか?

もやもやリハーサル

 高橋さん夫婦が予約してくれたホテルにチェックインし、荷物を置いてリハーサルの準備をする。泊まる部屋はツインルームで、ルリが気をきかせてくれたのか、スイ+ルリ、アサギ+私の部屋割りになっている。アサギのチェロケースは、背負うタイプのハードケースで、小柄なアサギが背負うと、ほとんど全身チェロになる。  
 今、アサギは保育士をやっていて(そういえば学生時代、アサギは早々に保育士の勉強をしていた)、たまに保育所でチェロを弾いてあげるそうだが、アサギがチェロを背負う姿を見て、子供たちはカブトムシをイメージしたらしく、「カブちゃん先生」と呼ばれているとのこと……人気の「カブちゃんのゴソゴソ這いまわり」をホテルの部屋で実演してくれた。

 高橋さん夫妻が見守る中、アップライトピアノ付きの宴会室でリハーサルを始めた。久しぶりの4人の音合わせだ。それぞれ、腕は鈍っていない。スイはいかにもソリスト然として堂々とメロディーを奏で、ルリは正確無比に音を刻む。アサギは童顔に似合わず(失礼)、大人っぽい音色を響かせる。

 でも。

 私たちが「以上で解散!」した頃と何も変わってないのでないか? よそよそしく、気持ちが揃わない。そう思っているのは私だけか。

 全曲を通してみて、気になった点を確認し、部分合わせが終わると、
「だいたいオーケーだね。明日もよろしく!」
 スイがリハーサル終了宣言をする。それを合図に弦楽器メンバーは楽器をケースにしまい、宴会室を出て行った。
 ピアノの鍵盤を拭いていると、高橋さん夫妻がそばに寄ってきた。感想を聞くのが怖い。
「実は、弦楽器のアンサンブルを生で聴いたのは初めてだったのですが、イメージと違いました」

 高橋さん(夫)の率直なコメントが来た。すでに振り込まれたギャラを返上したい気分だ。

「……ご期待に沿えず、すみません」

「いやいや、そういうことじゃありません。ちょっとした発見です。アンサンブルは、楽器と楽器、音色と音色のぶつかりあいが醍醐味のひとつなんですね」
 高橋さん(妻)も隣でニコニコしてうなずいている。

 そうか。大事なことを忘れていた。私たちがカルテットを組んで間もないころ、レッスンをつけてくれた先生にも同じことを言われたじゃないか。
「高橋さん、ありがとうございます。明日はアイちゃんに、みんなにもっともっといい演奏を聴いてもらいます」
 家に帰る高橋さん夫妻をロビーまで見送って、深々と頭を下げた。

露天風呂の決意

 レストランでオホーツクの恵みを堪能してその余韻に浸っていると、スイから提案があった。
「なあ、オレたち四人で露天風呂行かない?」
 相変わらず、「オレっ子」だ。気は進まないが、断る理由もない。ここは紋別で唯一、温泉の出るホテルだそうだ。私だけもじもじしていると、
「美女が四人も揃って、『お風呂回』はマストだろ。いくよ!」
 スイの意味不明な説得文句で、なかよく・強引に露天風呂行きとなった。

 風呂場は、大浴場にサウナ、そして露天風呂となかなかの充実ぶりだ。幸い、外の露天風呂には誰も入っておらず、体を洗うと、風雅な木製の屋根がついた石組みの風呂を四人で占領した。

 小柄で童顔・ボクっ子ながらも胸部の発達具合のいいアサギが、まあまあの発達具合のスイに話を振る。
「ねえ、スイって今なにやってんの?」
「んー、ガールズバーで働きながら、目ぼしいコンクールに出たりしてる」
「えー、じゃあスタッフの女の子、入れ食いじゃん!」
 ちょちょっ、アサギ、何ド直球で突っ込んでんのよ!
「いやあ、別にオレから誘ってるわけじゃないけど、何人か言い寄ってくるんだよね」
 スイも真面目に答えるな! 話題を変えよう。私は無理やり口を開いた。

「こ、コンクールに出てるってことは、今でもヴァイオリニストを目指してるの?」
「あー、『あわよくば』ってのもあるけど、今はレベル維持みたいなもんかな」
 といいつつも、そこそこメジャーなコンクールで、そこそこの結果は出しているようだ。

「あと、今でもオレはヴァイオリニストだぜ。ヴァイオリン弾いてるんだから」
 スイはやや不満そうに付け加える。確かにそうだ。
 彼女のヴァイオリンは、テクニック・表現力とも図抜けていて、聴く人の心にずんずん入りこんでくる。憧れてしまう。でも、プロになるのもプロでやっていくのも、才能と努力だけじゃ足りない。

「そんなことよりアオイさー、オレたちになんか言いたいことあるんじゃねーの? 夕飯の時からなんかソワソワしてるし。誰かにコクりてーのかと思ったぜ」

 さすがスイは鋭い。でもちょっと違う。
「な、なに言ってんのよ!そんなのじゃないわよ。……でも、明日の演奏について、みんなに私の思っていることを伝えておきたい」

 みんなの視線が集まる。今ここで言うのが正解なのか。でもアイちゃんと家族たちに、私たちの精一杯を聴いてほしい。

「オホーツクの海を見て思ったの。『いろんな青』がぶつかりあい、でも調和している。私たちも、もっとぶつかりあっていいと思う。その方がもっといい音楽になる」

 湯気の向こうでルリが小首をかしげる。
「なんとなくわかるような、わからないような。確かに一緒に弾いていて中途半端感はあったわ。でも、ぶつかりあってバラバラな演奏になるのは怖い」
 スイが引き取る。
「オレもアオイやルリと同じようなことは感じてた。でも、どうすればいいのかわからない。きっと言葉で説明されてもわからない……そうだアオイ、お前さんが大概、曲の出だしを弾くんだからさ、音でオレたちに伝えてくれないか。アオイの答えをさ」
 アサギが乗っかる。
「それ賛成! アオイはそういうの、うまいピアニスト。ボクたちは、アオイの気持ちにしっかり応える。アイちゃんに喜んでもらえるように。あ、でも『ぶつかり稽古』、ココでもしとこうよ」
 言うや否や、アサギがそのミニマムボディをぼよん、いやドシンドシンとぶつけてきて、お湯がバシャバシャ跳ねる。次々とターゲットを変えて体当たりしてくるので、辟易としながらスイが声を張り上げる。
「わかったわかった、キミのお風呂回の役割は十分果たされた!」

 少しだけ部屋でお酒飲んで寝ない?と酒豪のルリから誘われたが、やりたいことがあるからと断って、アサギを人質に出して部屋に戻った。スーツケースから五線紙と筆記用具を取り出し、スマホと一緒にテーブルに並べる。

森の中の音楽会

 朝食のバイキングは圧巻だった。オホーツクの海のもの・山のものが、これでもか! とずらりと並び、その中でも一番目を惹いたのは、大皿にてんこ盛りのホタテの貝柱刺し。子供の頃から、ホテルの朝食バイキングで、ついつい取りすぎて食べられなくなり、親に救援を頼むという悪行を繰り返してきた私。いい年してその過ちは繰り返すまいと、自制を試みた。玉砕した。
 同じ過ちを犯した四人は合議の上、高橋さんが用意する予定のランチ弁当は、謹んで辞退させていただこうという結論に至った。

 苦しいお腹をさすりながら何とか演奏用の衣装や楽器などを持ってロビーに降りていくと、すでに高橋さんが迎えに来ている。これから車に乗せてもらい、コンサート会場に移動する。場所は、紋別の隣町、遠軽にある山荘。隣町といっても、車で一時間以上かかる。食べ物を消化する時間がとれて助かる。ステップワゴンは私たちと楽器を乗せ、霧の残る山道を走っていく。

 車はこんもりとした森の中の駐車場に停まった。山荘というが、白い壁に三角屋根のお洒落な建物がいくつも並び、行ったことはないが、どこかヨーロッパのリゾートホテルを連想させる。
「紋別からけっこう離れてますが、今日はどうしてここをコンサート会場に選んだのですか?」
 私は、車から荷物を降ろし終わった高橋さんに尋ねた。
「ここはね、アイが小学五年生の夏休みに両親に連れてきてもらって、すごく楽しかったらしくてね。思い出話を何度も聞かされました。今日は、親戚や同級生だった子たちも来てくれます」
 そうだったのか。でもこんな素敵な場所をコンサート会場にできるなんて、高橋さん、つくづく顔が利くなあ。

 なるべく「本番その場の力」を大切したいと、私たちは、リハーサルは最小限にとどめ、段取りを確認し、弁当を食べて体を休めた。弁当は……高橋さんから、いや絶対にお腹が空くからとキャンセルを断られた。それが正解だった。

 やがて、一台、二台と駐車場に車が入ってくる。マイクロバスもやってきた。停まると制服姿の子供たちが降りてくる。

 私たちはあらかじめ申し合わせて、海の街のコンサートらしく、ブルー系の衣装を用意していた。でもここは森の中……それは気にしないことにして、「勝負服」に着替える。楽譜を確かめ、楽器を持って控室からコンサート会場である山荘のロビーに向かった。

 ロビーには、建物のあちこちから集めたらしい不揃いな椅子が並べてある。すでに五十人位か、中学生からご老人まで、様々な世代のお客さんがその椅子に座っている。高橋さんを目で探すと、ロビーの端の方で山荘の責任者らしい方に、深々と頭を下げている。顔が利くわけじゃない、高橋さんは今日のために、すごく一生懸命なんだ。

 私たちがロビーの入り口で待機していると、ほどなくして高橋さんが一組の夫婦を連れてきた。
「アイの両親です」
 アイちゃんのお父さんがお辞儀をし、謝意を述べる。
「みなさま、こんな遠い所まで、よくおいでくださいました。コンサートの話を父から聞いて、びっくりしました。嬉しくもあり、少し困惑もしています。我々家族のことなのに、こんなに大勢の人を巻き込んでしまっていいものかと」
 しきりに恐縮する高橋さん(父)に私は答える。
「いいえ、私たちはこの場に呼んでもらえたことに大変感謝しています。アイちゃんのことを想える貴重な時間をいただきました。多分、この会場に聴きに来てくださった方みなさん、そう思っていますよ」
 カルテットのメンバーはうんうんと頷く。
 アイちゃんのお母さんは、小さなフォト・フレームを両手で持っている。写真にはヴァイオリンを抱え、微笑む少女の姿があった。
 ルリがお母さんに頼む。
「あの、差支えなければ、アイちゃんのお写真、近くで見せてもらえますか」
 お母さんは快諾し、前に進む。四人は、写真の中のアイちゃんと見つめあい、そして目を閉じる。
「ありがとうございました。では行ってまいります。どうぞごゆっくり、アイちゃんと楽しんでください」

 お客さんの間を縫って、ロビー真ん中の暖炉脇にセットされたグランドピアノに私たちは向かう。
窓はすべて開け放たれ、森からのさわやかな空気と淡い光が入り込んでくる。

 チューニングを始めると、ざわついていた客席が静まり、私たちは椅子から立って礼をする。
拍手が起こり、私たちは笑顔で応えた。

ブラームス
ピアノ四重奏曲第三番ハ短調

 この曲が今日のコンサートにふさわしいかといえば、ノーだ。でも、この曲からアイちゃんに弦楽器のアンサンブルの響きを感じて欲しい。

第一楽章:
 カルテットのメンバーに目配せし、私は鍵盤に一撃を加える。

 弦楽器は物悲しいメロディーで返すが、それもつかの間。アレグロ・ノントロッポに入ると、ぶつかり合いの始まりだ。
 スイも、アサギも、ルリもこの一撃の意味を理解し、応えてくる。ぶつかり合うだけではない。二つの楽器のメロディが絡まりあい、時には引いて相手の様子を見る。テンポの緩急も音量の変化も、真剣にぶつかり合い、組み合っているからついていける、反応できる。自分の音を主張し、相手の出方をみる。

第二楽章:
 スケルツォのテンポに乗り、緩急のアクセントをつける。時にはタイミングを合わせて、時にはタイミングをずらして。私たちは別々の旋律とリズムを繰り出しながら、ひとつの到達点を目指す。

第三楽章:
 アサギのチェロが歌う。こいつ、こんなに可愛い顔して、ほんと艶っぽい音出すなあ。

 私はやさしく鍵盤を押さえ、彼女を引き立てる。これにヴァイオリンとヴィオラが加わる。艶っぽさなら負けないよ、とスイ。私だってこんな色気が出せますのよ、とルリ。うんうん、みんないいオンナだ。

第四楽章:
 スイのヴァイオリンがぐいぐい引っ張る。

 ちゃんとついてきてるぞと私は主張する。ルリは、スイのオクターブ上の演奏にぴったりと吸い付いて離さない。ヴァイオリンの音の隙間にチェロが、ヴィオラが、ピアノが入り込んでくる。
 そして、ぶつかり合いは落ち着き、お互いの語り合いへ。
 テンポを落とし、それぞれの心情を吐露し、強い音で四重奏曲を締めくくる。

 始めに、ほーっというため息が聞こえ、それが拍手に変わった。客席のみんなにはどう聞こえたのだろうか。 
 客席の後ろの方には、二組の夫婦の姿があった。前の方で聴いてくれればいいのに。
 高橋さんは、Vサインをつくった手を上げて、小さく左右に振っている。

 さて次の曲。

 私はピアノの楽譜立てのあたりに手をつき、うつむいて目を閉じる。
 そして声に出ない言葉で伝える。

「想って」

モーツァルト
ピアノ四重奏曲第一番ト短調より 第二楽章

 自分でもどのくらいそうしていたかわからない。気持ちの整理ができ、目を開けると、カルテットの仲間は、こちらを見て微笑みながら楽器を構えている。早く始めようよ、と。
 客席では、多くの人々が目を閉じて、音楽が始まるのを待っている。私は自分なりの想いを音にしていく。カルテットの仲間は、それぞれの想いで音を引き継ぐ。 

 アイちゃんに会ったことはないけれど、きっと素敵な子だったんだろうな。お父さんとお母さん、おじいちゃんとおばあちゃんに愛され、幸せな日々を送ったんだよね。今日が、アイちゃんの幸せな思い出のアルバムの1ページに加わることを心より願っています。
 私たちは、写真に映っていたアイちゃんのことを想いながら演奏を続け、最後に2つの音を丁寧に置いた。

 目を閉じていたお客さんたちが次々と目覚めていく。静寂の中、だんだんと拍手が沸き起こる。
 私たち四人は立礼する。

 予定では、今日のプログラムはここまで。
 でも、お客さんは何かを予感しているのだろうか。席を立たない。

 私は、メンバーに手書きの楽譜を配る。手渡された3人は、楽譜を見てハッとし、そして軽く頷く。

 少しざわついている空気の中で、私は短いイントロを弾き始める。

 エルガー、「愛の挨拶」。

 スイが慈しむように音を紡ぎだす。客席は静まり返る。

 スイはゆっくりと主題の旋律を終わらせると、繰り返すはずのメロディーを弾く前に、ヴァイオリンを膝の上に置いた。

 私は驚いたが、すぐに理解し、というより感じとり。テンポを戻し、曲を先に進める。

 スイがハミングでメロディーを歌う。

 すると。

 どこからともなく。

 いや、きっと、あの森の方から。

 ヴァイオリンが聞こえてくる。
 かすかだけど、しっかりと。私たち四人に誘いかけてくる。

 私たちも、そのメロディーに寄り添う。
 
 展開部から再現部へと、小さな旅をするように。
 私たち「五人」はアンサンブルを愉しんだ。
 

 後日、コンサート会場となった山荘のホームページに、イベントの記録としてプログラムが掲載された。
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      ~~~

  森の午後のコンサート
  2023年9月10日(日)13:00~

  〈曲目〉

  ヨハネス・ブラームス
  ピアノ四重奏曲第三番ハ短調 作品60

  第一楽章 Allegro non troppo
  第二楽章 Scherzo. Allegro
  第三楽章 Andante
  第四楽章 Finale. Allegro comodo

  ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

  ピアノ四重奏曲第一番 ト短調 K.478

  第二楽章 Andante

  エドワード・エルガー
   愛(藍)の挨拶

  〈演奏〉

  青とりどりクインテット

  ヴァイオリン:高橋 藍

  ヴァイオリン:大下 翠

  ヴィオラ:前崎 瑠璃

  チェロ:中村 浅葱

  ピアノ:神田 碧

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帰路へ

 翌日、四人は朝食バイキング会場で顔を合わせた。
「あー、はまなす通り。あそこはヤバいわ」
 幾分青い顔をしたルリが、力なくぼやく。

 昨夜はコンサートの打ち上げと称して、「まんま昭和の映画のセット?」と思えるくらいノスタルジックな飲食店街に四人で繰り出した。もちろん昭和は知らないけど。
 海の幸を堪能し、私とアサギは一件目でホテルに戻ったが、ルリとスイは炭火焼の店で二軒目、流氷をイメージしたカクテルが飲めるバーで三軒目、とハシゴしたらしい。朝食バイキングの盛りは、二人とも控え目だ。

 十時ごろ、高橋さんがホテルに迎えに来てくれることになっている。私たちは、もう一度あの海を見ておきたく、少し早めに迎えに来てもらえるようお願いしておいた。
 チェックアウトしてロビーで待っていると、ステップワゴン(多分寒冷地仕様)が停まったが、降りてきたのは、高橋さんの息子さん夫婦だった。
「さすがに父と母は疲れたみたいで。よろしくお伝えください、と言付かっております」
 四人とも、心配そうな表情を浮かべると、
「いや、何かのフラグじゃないですよ。多分、私たち夫婦にお礼をいう権利を渡してくれたんじゃないかな思います」

 息子さん夫婦は改めて私たちに向き直り、深々と頭を下げる。
「昨日は本当にありがとうございました。何が起きたのか…… なんだか夢のような一日でした」
 奥さんがつけ加える。
「アイが、そばにいました」

 四人の中で一番「社交的対応」ができるルリが代表して返礼する。
「こちらこそ、コンサートに呼んでいただき、ありがとうございます。夢のようですけど、あの会場にいた人みんなが確かに体験しました。アイちゃんといっしょに音楽を愉しみました」
 ルリは、お二人ともお元気そうですね、とつけ加えた。

 「オホーツクタワー」の展望デッキで、四人は無言のまま海を見つめる。

 ルリから電話をもらい、コンサートを引き受けて、四人は再会し、森の中の山荘で演奏した。
 この体験を通じて、私たちは、何か、変わったのだろうか。何か、わかったのだろうか。

 ぶつかり合って、寄り添って、分かち合うこと……かな。

「アオイ、それって演奏のこと? 人間関係のこと?」
 突然アサギの声が私の思考に入り込んできた。
「え! やばっ!言葉に漏れてた? はずぅっ……って……両方だよ」
「え、いいんじゃない。同感」
「でもね、アオイは偉い。ボクたちが酒でいい気分なってる時に、ひとりでYouTube見ながら『愛の挨拶』をチェックして、耳コピして、楽譜を書いちゃったんだよ! ボク、部屋に戻ってそれ見て、思わず後ろからムギューってしたくなっちゃった」
 実際にやったじゃないか!あの感触が脳裏いや背中から離れない。
 スイとルリは私たちのやり取りを聞いて、笑いながら、そうそう偉い! と頷く。

 車に戻ると、高橋さんからもう一か所寄りませんか、すぐソコなんで、と提案があった。

 一分もかかるか、かからないか。
 広い草原のなかに、「それ」はあった。

「なんじゃこれ!」「やばくない?」「なんでここに?」「でか!」

 私たちはそれぞれの感嘆の声とともに空を見上げた。
 オレンジがかった赤と白に配色された巨大なオブジェ? モニュメント?
「カニの爪」がハサミを突き出し、紺碧の空を切り裂かんとばかりに屹立している。

「すごいでしょ」と高橋さんがやや自慢げに言う。
「昔は、これと『鮭の親子』と『ピラミッド』も一緒に海に浮いていたそうですが、どこかに行っちゃいました」

 鮭の親子? ピラミッド? シュールすぎないか? 
 頭のなかを? マークでいっぱいにしながら、オブジェの壁を触って確かめていると、スイが寄ってきた。

 スイは私の背中をカニの爪の壁面につけさせると、ドンと左手をつき、右手の人差し指と親指で、私のあごをクイッと上げた。一瞬見つめあってフリーズしたが、正気を取り戻し、ぐいとスイの体を両手で押し戻す。

「ハハハ! 壁ドンじゃなくて『蟹ドン』って言いたいだけじゃん!」
 アサギには大ウケだ。スイは、おいおいオレより先に言うなよ、と悔しがっていた。
 コラ、ややこしいマネするな!

旅の始まり

 秋に入ったとはいえ、東京の空気は湿っぽく、蒸し暑い。旅の疲れは抜けきらず、だらだらとバイトする今日このごろ。十月に母のピアノ教室の発表会があり、準備と子供たちのレッスンで忙しくなるので、叔父には悪いがもう少し、だらついていよう。
 叔父は、お土産に買った「オホーツク紋別ホワイトカレー」をウマいウマいと、まかない飯代わりに食べている。カレー屋としての矜持はないのか?

 こんなくだらないことをぼーっと考えていると、カウンターに置いたスマホがぼやっと光った。
 LINEに「電話していい?」とメッセージが入っている。ルリからだ。
「いいよ」と返信すると、秒でスマホが震える。

「元気?」
「絶好調!」
「アオイってそんなリアクションするキャラだっけ? まあいけど。あのね、十一月に室内楽コンサートの出演依頼があって……あいにく大江戸響のメンバーは、定演と重なっちゃってて」

 デジャヴュだ。

「で、今度はどこ?」
「広島県の呉、というとこ」



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