プレイリストノベル - 音文学楽、物語を調べに乗せて -

〈この調べと ともに〉
 エンゲルベルト・フンパーディンク
 夕べの祈り
 歌劇「ヘンゼルとグレーテル」より

   ♪

膝をすりむいて、手のひらにかすり傷をつけて、血だらけで覚えた自転車の乗り方。この齢になってから乗ったことはないけれど、多分、いやきっと楽々と乗りこなすことができると思う。一生忘れないバランス感覚。
では、『歌』はどうなのだろうか? 体を鍛え、それそのものを楽器にして、想い描いたイメージを声(音)にする。
七十を過ぎ、イメージと、それに追いつかない体力のギャップに悩む日が多くなった。

でも。

ここまで、一端(いっぱし)のソプラノ歌手としてやってこられたのは、すべて、幼馴染みのマッテオのおかげ。

彼が町の教会の少年合唱団(今は少年少女合唱団)で私をボーイソプラノの代役に立ててくれてから、私の声と音楽を認めてくれる方々に恵まれ、隣りの大きな街の歌劇団に加わることができた。あとから聞いた話だけど、その街でオルガンの勉強をしていたマッテオの強い後押しもあったらしい。

生まれた町にたまに戻る。マッテオは彼の希望通りに、その町で教会のオルガン奏者兼、少年少女合唱団の指導者を務めている。教会にいる彼のもとを久々に訪ねた。
聖堂に一歩入ると、迎えてくれたのは、古びた木の椅子と蝋燭の匂い……懐かしさが胸を絞めつける。

「やあジュリア、相変わらず元気に歌っているらしいね」
「マッテオ、久しぶり……元気だなんて。私もそろそろ潮時よ」
「そんなことはないだろう。たまにここで子どもたちの前で歌ってくれる歌を聴く限り、君の声は一生モノだ」
「その『一生』自体も、そろそろ怪しくなっていると思うけど……お互いにね」
私はマッテオが病を患い、先が長くないとの知らせを受けていた。彼の顔色や振る舞いを見る限り、そのような気配は感じられなかった。

でも。

今、彼に頼まないと、後悔するような気がした。これも神様の思し召しなのだろう。

「ねえマッテオ、一緒に歌って下さらない?」
「? ……ああ、お安いご用さ。ピアノで伴奏もつけるよ……で、曲は?」

「……ヘンゼルとグレーテルの二重唱『夕べの祈り』」

「え! だってその曲は女声の二重唱だろう?」

「そうだけど、私、知ってるの。あなたがカウンターテノールをずっと練習してることを」
「え! 誰から聞いたの?」
「私たちが団にいたころの合唱団長さんからよ。彼が亡くなる少し前にね……マッテオは、声変わりでボーイソプラノを失ったけど、それに代わる美声を手に入れたって」

彼はしばらくピアノの椅子に座ったまま黙っていたが、ボソッとつぶやいた。
「わかった……というか僕がそれを望む。君ともう一度歌ってから、神に召されたいと思っていたから」
「縁起でもないことを言わないで。あなたがいなくなると、この街の歌好きの子供たちが途方に暮れるわ」
「その時のために、君がいる」

彼は、会話をやめ、ピアノを弾き始めた。
彼の指先が、ほんの少しだけ鍵盤を愛惜するように震えていた。

夕べの祈りの伴奏。
夜の木々に集まり、こぼれ落ちる雫のような音の粒。

彼の目くばせとともに、二人で同時に静かに声を発する。私は、歌い続けて喉を疲弊させたため幾分しわがれてしまった声で。彼は、やや音程を当てる命中率の落ちた、ファルセット(裏声)で。

思い出す。自転車に乗れない私に手を貸してくれ、何時間も何日も練習につき合ってくれた彼のことを。
その彼を巻き添えにして、二人で自転車の下敷きになってしまったことを。

多分、今でも自転車に乗れると思う。
多分、あの頃の二人より、私たちが歌うデュオはへたくそだ。

でも、笑いあえる。自転車の下で二人で顔を見合わせてそうしたように。

自転車を漕ぐように、私たちは何度でもあの頃に戻っていける。


深い森の中で、天使にお守りをお願いしながら。
ぐっすり眠って、素敵な夢を与えてくださることを神に祈りながら。

二人は、二人のために。

歌う。