-音文学楽- 物語を調べに乗せて


〈この調べとともに〉
 ベートーヴェン
 ピアノソナタ第23番 ヘ短調 op.57  熱情(アパッショナータ)


隣のレッスン室から漏れ聞こえてくるのは、マエストロが奏でるピアノソナタ。
演奏家としては既に円熟期に入っているが、青年のような情熱がひしひしと伝わってくる。
若さと老練さの止揚。これこそが彼の唯一無二の魅力なのだと隣の部屋で耳を傾けていた弟子は改めて思う。

しかし、今日の音色はいつもと違う。弟子は訝しく思った。微妙ではあるが、フォルティッシモにいつもほど『魂の叫び』が感じられないのだ。
初老のピアニストの振る舞いは普段通り、泰然自若としているが、やはりあの一通の手紙が彼の演奏に影響を与えていることは否めない。

人を増やしましょうかと師匠に持ちかけたが、元来人とのつきあいが苦手な彼はそれを頑なに拒んだ。
だからこそ、唯一心を開いてくれている自分が絶対に彼を守らねばならないと愛弟子は決意を新たにする。

おや、音楽が止まった?

師匠が練習を始めてまだ十分も経っていないのに、ピアノソナタの一楽章の演奏がぷつりと途切れた。
もしやと思い、弟子はそっと部屋から廊下に出る。

来週のリサイタルを中止にしないと命を失うことになるぞ、という旨が書かれた脅迫状が師匠の元に届いたのは一昨日のことだ。
警察官が定期的に巡回してくれてはいるが、大ピアニストの邸宅は広すぎて隙がありすぎる。

弟子は開け放たれているレッスン室のドアから恐るおそる中を覗き、目を見開いた。

「師匠!」

グランドピアノの手前の床には開かれた楽譜が落ちており、その上に今世紀五指に入ると言われるピアニストがうつ伏せの状態で倒れていた。

幸い、心音と呼吸は認められ、外傷は目につかないが、呼びかけても応答はない。
師匠の体を動かしていいものか判断しかね、スマホで救急車を呼び、警察に連絡した。

ピアノや周りの物に触るのも良くないとは思ったが、不自然に床に開かれている楽譜が気になった。
その横には赤ペンが転がっている。

楽譜に近づいてよくよく見ると、第一主題が始まってすぐの、嵐のようなフォルティッシモに赤丸がつけられている。
中盤で感情が爆発するフォルティッシモに赤丸が、そして再現部で勝利を宣言するフォルティッシモにも赤丸が。

ペンが側にあるという状況からすると、それらの印はつけられてからさほど時間は経っていない。
師匠が記したものなのか? もしくは犯人が?
そして、三つのフォルティッシモの赤丸の意味は?

救急車もパトカーも、なかなか来ない。
弟子は焦ってはいるものの、何をしていいかわからなかった。



「お待たせしましたー」

弟子は、ハアっと息をつく。やっと来たか。サイレン音は気づかなかったが、救護、警察どっちだ?

「すみません、『予約したのしてないの』でちょっと揉めましてね」
そう言って部屋に入ってきたのは、ウーバーイーツのロゴが入ったバッグを抱えた男だった。

「お、やっと来たか!」

弟子は腰を抜かさんばかりに驚いた。
意識不明で横たわっているはずのマエストロがむくっと起き上がったからだ。

「し、師匠!……これはいったいどういうことですか?」
「やあ、すまんすまん、飯も食わんで練習を始めたら貧血気味になってな」
彼はそう言いながら配達スタッフから品物を受け取り、paypayで決済を済ませた。

弟子には解せぬことがあった。床に転がっていた楽譜を拾い上げ、師匠に近づく。
「ひとつお聞きしますが、この楽譜、三つのフォルティッシモに赤丸がついておりますよね。これは……」
「ああ、見ての通りだ」
「……見てもわからないので質問したのですが」

「三つのFF。
 ファストフード (Fast Food)、
 フライドポテト (French Fries)、
 フィレオフィッシュ (Filet-O-Fish)
 ……フォルティッシモの記号を見たら無性に食いたくなってのう」

「……それで、ウーバーイーツに頼んだんですか」
「まあそういうことじゃ、少し多めに頼んどいたから、君もどうじゃ?」
「……遠慮しときます……まあ、ご無事で何よりです(もう知らん)」

 師匠がマックの紙袋からフィレオフィッシュを一つ取り出し、かぶりついた瞬間、パトカーと救急車のサイレンが同時に聞こえた。