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風に揺れる千の花

〈この調べと ともに〉
 ニコライ・リムスキー=コルサコフ作曲
 交響組曲『シェヘラザード』作品35


――――

トントン。

「どうぞ」
「おばあちゃま、入っていい?」
「ええ、いいわよ……こんな夜遅くに、どうしたんだい、眠れないのかい?」
「うん、お外の風の音がビュービューいってて。ちょっと恐いの」
「そうかい、じゃあ久しぶりに一緒に寝ようかね」
「ありがとう」
孫娘は、安堵の表情を浮かべ、祖母のベッドに潜り込んだ。

「ねえ、お願いがあるの。『サウロンと千の花の物語』、聞かせて」
「おや、そんなお話、よく知っているわね?」
「お母さまから聞いたの。この村の昔のお話をおばあちゃまから聞かせてもらったって」
「そうかい……でも、ちょっと恐いお話だから、どうかしらね」
「お母さまは五歳の時に聞かせてもらったっておっしゃってたわ。私もこの間、五歳になったんだもん」
「あらあら、ついさっき風の音が恐いって言ってたくせに」
「……それはいいの!」
「そうね、そろそろお話してもいい年頃なのかもねえ、わかったわ。でもね、恐かったらそう言ってね。あと眠くなったらいつでも寝ていいからね」
「うん、わかった」

二人は一つの枕を分けあって、向かい合う。

「むかしむかしね、といってもおばあちゃんが若いころのお話。この村に魔物がやってきたの。名前はサウロン」
「魔物? サウロン?」
「ええ、実はね、その魔物の正体は、この村出身の若者で、以前はおとなしくて優しい子だったんだけどね、外の世界に旅に出かけて、魔の国で魔物に変えさせられちゃったの。姿形まで恐く醜くなってしまって」
「そうなんだ、でも、なんでこの村に帰ってきたのかしら?」
「どうやら悪魔にそそのかされて、ここも魔の国みたいに変えようとしたの。彼がやってきたときは方々のお家に火がつけられ、教会が破壊されて、ほんとうにひどいありさまだったわ」
「ええやだ、恐い……」
「大丈夫? やめとこうか?」
「……ううん、続けて」

「サウロンは村の丘のてっぺんにあるお屋敷を奪って自分のすみかにしたの。それで、『俺様の花嫁になる娘を連れてこい』と言って、村中の娘が選ばれ、順番に嫁いでいったわ」
「花嫁さんなのに『順番』ってどういうこと?」
「……それがね、せっかくお嫁さんになっても、サウロンの気に障るとね、殺されちゃったの」
「ええ! それは可愛そう」
「そうなの。それで村中の娘が次々と殺され、最後に残ったのが、花屋の長女、名前はシェーラ。その子のお父さんは、娘をお嫁さんに出すのを嫌がったんだけど、村長さんにどうしてもって言われてねえ。そうしないと村を滅ぼすって、サウロンから脅されてたのよ」
「で、どうしたの?」
「お父さんがシェーラに泣いて頼むと、その子はにっこり笑って、『うん、行ってくる』って言ったの」
「えー、私はそんな勇気ない」

「次の日、シェーラは丘の上の屋敷に行ったわ……ゼラニウムの小さな鉢植えを持って……お父さんに頼んで貰ったのよ」
「ゼラニウム?」
「ええ。それをね、丘の上の屋敷の前にあるお庭に植えたの。お庭っていっても、地面がむき出しで、なーんにも生えてなかったんだけどね」
「どうしてそんなことをしたのかな」
「そうねえ、なぜかしら。それでサウロンも怒ったわ。『余計なことはするな』って。でもシェーラは逆に尋ねたの」
「へえ、何て?」
「『ゼラニウムの花言葉ってしっていますか?』って」
「どんな花言葉?」
「『あなたがいて幸せです』っていうのよ。それを聞いてサウロンは少し気分がよくなったみたい。そしてお屋敷の寝室に入り、彼女はお話を続けたの。」
「どんなお話?」
「昔、この村に優しい青年が住んでいました、その人は、村はずれの野原で迷子になっている女の子を助けました。その女の子は、『ありがとう、あなたに助けられて幸せです』ってお礼を言いました。青年はそれを聞いて『こちらこそ、その言葉が僕の慰みにもなる』って言いましたとさ……そんなお話よ」

「ふーん、で、サウロンは?」
「『ふん、つまらん話だ。……明日はもっと面白い話をきかせてくれ』って言ったそうよ」
「そうなんだ、そのお花屋のお姉さん、殺されなかったんだ」
「そうね、でも次の日もお話する約束をしてしまったから、彼女は実家にお花を取りに戻ったの」
「またお花を?」
「そう。今度は、アネモネの小鉢」
「アネモネはどんな花言葉?」
「『はかない恋』……そのお花をまたお庭に植えたの」
「またサウロンに怒られたかな?」
「余計なことするなって怒られたわ。でも彼、お話の続きが聞きたかったみたい」
「ねえねえ、どんなお話?」
「女の子は、野原で助けてくれた青年に恋をしてしまいました。でも、その恋は受け入れてもらえないだろうと、小さな胸のうちにそっとしまっておいたのです」
「そんなお話でお姉さん、殺されなかった?」
「うん、もっと聞かせてくれって。だからその娘はまたお家に花を取りに帰ったの」
「今度は?」
「フリージアのお花。花言葉は『純粋な気持ち』」
「それもお庭に植えたのね」
「ええ。そしてサウロンに、お話の続きを聞かせたの……助けられた女の子は、純粋な恋心を持ちながら暮らしていたこと」
「その女の子、助けてくれた人には会えなかったのかな?」
「女の子が村中探しても、その人は見つからなかった。どうやら旅に出てしまったみたい」
「それからシェーラとサウロンはどうしたの?」
「彼は何を気に入ったんだか、シェーラのお話を次の日も、その次の日も聞いたの。その度に彼女はお花を用意して、お庭に植えて」
「それで、二人はどれくらいそうしてたの?」
「なんとね、千日」
「へえ! そしたらお花も千?」
「その通りよ。シェーラは丘の上のお庭に千の花を植えたのよ」
「そして最後は……やっぱり殺されちゃったの?」
「彼女は、そろそろかなって、殺されるのを覚悟してたの。そして自分がしなくちゃいけないことも決心してた」
「しなくちゃいけないこと?」
「だから、シェーラはね、白いチューリップの鉢を持っていって庭に植えた」
「白いチューリップ……花言葉は?」
「失われた愛。彼女の決心の言葉」
「どういうこと?」
「彼女はね、小さくて細い剣をチューリップと一緒に隠し持ってたんだ」
「なんでそんなものを?」
「最後の物語が終わったとき、それでサウロンを刺した」
「ええ! でも、小さな剣で魔物を殺せるの?」
「サウロンは自分が刺されるとわかっていたのに、逃げないで自分から胸を差し出したのよ」
「どうして?」

 祖母は少し間を置いて答える。
「多分だけどね、シェーラの最後のお話を聞いたからかな」
「どんなお話だったの?」
「彼女は『今までのお話に出てきた女の子とは、私、シェーラのことです。そして、旅に出た人とは、あなたです』と打ち明けたのよ」
「そうだったの! サウロンもびっくりしてたでしょ?」
「ううん、それがね、最初にお話を聞いたときから、そうじゃないかなって思ってたんだって」
「だからサウロンはシェーラを殺さなかったの?」
「そうかもね……彼女は言ったわ。『だから、今でもあなたのことを愛しています。でもあなたは多くの人の命を奪いました。あなたへの愛を失ってでも、そして私の命を失ってでも、その償いをさせてもらいます』って。サウロンは『ああ、わかった』と言って、小さな剣を受け入れたの……サウロンがこの村に帰って来たのは、ただ悪魔にそそのかされたから、という理由だけじゃないのかもね」
「ふーん、それでシェーラは助かった?」
「そう。そのあと彼女も自分を剣で刺そうとしたんだけど、サウロンが最後の力を振り絞って、それを止めたの」
「そうなんだ」
「それで最後に彼は言ったの。『シェーラが語ってくれた千の物語を君の子供や孫に伝えていってほしい。君のために、いや僕のために』って……それから、ゼラニウムの花言葉を子守歌にして、歌ってくれって。だから私、いやシェーラは、サウロンの体を抱きながら子守歌を歌ったの……あなたに会えて本当に幸せ、って」

「なんか、恐いっていうより悲しいお話ね。でも、子供や孫にって……ちゃんとお話、伝わったのかしら?」
「どうかしらね。さあ、すっかり夜遅くなっちゃったから寝ましょう」」

その子は、祖母の話をもっと聞きたかったが、睡魔には勝てなかった。
栗色の髪を撫でられ、額にキスされると自然に両目が閉じた。

「おやすみ」
「お、おやすみなさい……おばあちゃま」

部屋の中では、微かだけど優しく、あの子守歌が聞こえ。
部屋の外は、風もおさまり、静かな夜が戻っていた。

庭では、千の花が微かに揺れている。