思うような答えが得られなくて、私は「むう」っと頬を膨らませた。
「てか、あなたちょっと近づきすぎ! もうちょっと離れてよ」
「どうしてにゃ? 人間はみんなオレたちみたいなもふもふがそばに来たら喜ぶものじゃにゃいのか」
「それ、偏見だからっ。確かにもふもふは可愛いけど……。私、猫アレルギーなの。特にあなたみたいな野良猫に近寄られたら、鼻水が止まらなくなるのっ」
パッパと猫を追い払うように、手をひらひらと振ってみせる。猫は「猫アレルギー?」と私の言葉を繰り返して「そうだったのにゃ」となんだかはっとした様子でぽつりとつぶやいた。
「どうかした? 猫アレルギーの人間なんてこの世にごまんといるから。だから次人間に近づく時は気をつけて」
「……分かったにゃ」
さっきまでの小憎らしい喋り方はどこにいったのか、突然しゅんとした様子で私から一歩離れる猫を見て、私はなんだか申し訳ない気分にさせられた。
雨はいまだ降り止まない。今日はこのあとずっと降り続けるのだろうか。
雨は憂鬱なはずなのに、この猫と話していると不思議と少しだけ気分が和らいでいることに気づく。
二人の間に気まずい空気が流れ出したので、話を逸らそうと、違う質問をしてみる。
「そういえばあなた、名前はなんていうの?」
いつまでも、「あなた」とか「猫」と呼ぶのはやりづらいので、名前を聞いてみた。
すると猫は首を傾げて「うーん」と考え込む。
「たぶん、名前はまだない」
どこかで聞いたような有名なフレーズだなと思いつつ、名前がないのか、と困った。
名前がないならどう呼んだらいいんだろう。
すっかりこの猫とまだ話すつもりでいることに、自分自身気づかない。
「美似衣がつけてほしいにゃ」
「えっ、私が?」
思ってもみなかった要望が飛んできて面食らう。
生まれてこの方動物を飼ったことがない私は、もちろん動物に名前をつけた経験もない。
猫は、期待のまなざしで私をじっと見つめる。律儀に私との間に距離を保っているところを見て、胸がぽわりと温かくなった。
「人間たちはみんなオレみたいなもふもふに名前をつけるだろ。だから美似衣もつけて」
「だからそういうの、偏見だって。でも……まあそうね。名前がないと呼びづらいし。う〜ん」
地面を打ちつけるワルツのような雨音を聞きながら、目の前の猫に命名をすべく、必死に頭を回転させた。
「じゃあ、“ぶにゃ助”」
「ぶ、ぶにゃ助!?」
猫——いや、ぶにゃ助が目を丸くして驚く。確かに変な名前だという自覚はある。だけど、どう見てもこの子に「ミルク」とか「いちご」とか可愛らしい名前は似合わないんだもん。
私は、「却下」と言われるかなと思い、ひやひやした。
しかし、ぶにゃ助は「ぐぬぬ」と唸り声を上げたあと、予想に反して「分かった」と頷いてくれた。
「え、いいの? ぶにゃ助で」
「自分がつけたんだろ」
「そうだけど……気に入らなかったんじゃないの?」
「いや、いい。美似衣がつけてくれたならにゃんでもいい」
「……」
殊勝な言葉が彼の口から出てきて思わずきゅんとする。
口の悪い彼にそんなふうに言われるなんて思ってみなかった。しばらくじっとぶにゃ助けを見つめて固まってしまっていた。
「おい、にゃんだよ。名前も決まったことだし、これからよろしくにゃ」
「う、うん。って、これからも会うの、私たち」
「当たり前だにゃ。なんて言ったって、オレは美似衣を癒しに来たんだからにゃ!」
得意げに胸をそらして宣言するぶにゃ助を見て、「おお、まじか」と素直に驚いてしまう。
「私を癒しに来てくれたんだ。でもあいにく、私は猫アレルギーなんだけど」
「そこだにゃ……せっかく来たのに、このオレのもふもふに触れてもらえないなんて、どうすればいいにゃ……」
途方に暮れた様子で目を細めるぶにゃ助がなんだかおかしくて、思わず「ふふっ」と笑みがこぼれた。
「あ、笑った」
「え?」
ぶにゃ助が私の顔を覗き込む。つぶらな瞳——もとい、つぶれた瞳がきゅるると何かを語りかけるようだった。
「美似衣、初めて笑ったにゃ」
「え、そ、そう?」
そう指摘されてはたと我が身を振り返る。
確かに……ここ最近、行き詰まる就活に辟易として表情筋が固まっていたように思う。面接をしていない時間も、ついお先真っ暗な未来のことばかり想像してしまって、好きだった映画鑑賞も読書もできなくなっていた。
「オレは美似衣の笑った顔、好きだにゃ」
口が悪い猫のくせに、生意気だなぁ……と思うかたわら、誰かに笑った顔を好きだと言われたのは初めてで、照れ臭かった。
「も、もう! 変なこと言わないで」
「あ、素直じゃにゃいやつ」
ぷい、と横を向くと、ぶにゃ助がくっくっくっと笑う声が聞こえてきた。
横目に見るぶにゃ助の目と耳と鼻に、既視感を覚えてはっとする。
あれ私……ぶにゃ助のことをどこかで……。
いや、勘違いだ。だって私は猫アレルギーで、普段から猫には近づかないようにしているんだもん。ぶにゃ助とどこかで会ったことがあるなんて、そんなはずない。
「とにかく、就活のことなんて一時の悩みだにゃ! 必要以上に気にすんにゃバカ」
さっきは“かわいそうな人間”と同情してきたはずなのに、今度は励ましてくれるのか。
それにしても、「気にすんなバカ」だなんて、どこでそんな言葉覚えたのだろう。
「あ、雨が止んだにゃ。オレはそろそろ帰るにゃ」
ぶにゃ助に言われて気づく。いつのまにか雨が上がっていた。
「え、帰るの?」
「帰るけど、どうしたにゃ」
「いや、なんでもない」
もっと話したい——なんて、口が裂けても言えなかった。
ぶにゃ助と話すことでいつの間にか心のストレスがちょっとだけ軽くなっていたなんて、本人を前にして言えるわけがない。私はいつだって素直になれない人間だから。
「またここに来れば会えるにゃ」
まるで、「また会おう」と言ってくれているようで、ほっとしている自分がいた。
ぶにゃ助に会えるなら、就活も頑張れるかもしれない。
久しぶりに胸に沸いた前向きな気持ちが、明日の私の未来をちょっぴり明るいものにしてくれる——そう思えた。
「てか、あなたちょっと近づきすぎ! もうちょっと離れてよ」
「どうしてにゃ? 人間はみんなオレたちみたいなもふもふがそばに来たら喜ぶものじゃにゃいのか」
「それ、偏見だからっ。確かにもふもふは可愛いけど……。私、猫アレルギーなの。特にあなたみたいな野良猫に近寄られたら、鼻水が止まらなくなるのっ」
パッパと猫を追い払うように、手をひらひらと振ってみせる。猫は「猫アレルギー?」と私の言葉を繰り返して「そうだったのにゃ」となんだかはっとした様子でぽつりとつぶやいた。
「どうかした? 猫アレルギーの人間なんてこの世にごまんといるから。だから次人間に近づく時は気をつけて」
「……分かったにゃ」
さっきまでの小憎らしい喋り方はどこにいったのか、突然しゅんとした様子で私から一歩離れる猫を見て、私はなんだか申し訳ない気分にさせられた。
雨はいまだ降り止まない。今日はこのあとずっと降り続けるのだろうか。
雨は憂鬱なはずなのに、この猫と話していると不思議と少しだけ気分が和らいでいることに気づく。
二人の間に気まずい空気が流れ出したので、話を逸らそうと、違う質問をしてみる。
「そういえばあなた、名前はなんていうの?」
いつまでも、「あなた」とか「猫」と呼ぶのはやりづらいので、名前を聞いてみた。
すると猫は首を傾げて「うーん」と考え込む。
「たぶん、名前はまだない」
どこかで聞いたような有名なフレーズだなと思いつつ、名前がないのか、と困った。
名前がないならどう呼んだらいいんだろう。
すっかりこの猫とまだ話すつもりでいることに、自分自身気づかない。
「美似衣がつけてほしいにゃ」
「えっ、私が?」
思ってもみなかった要望が飛んできて面食らう。
生まれてこの方動物を飼ったことがない私は、もちろん動物に名前をつけた経験もない。
猫は、期待のまなざしで私をじっと見つめる。律儀に私との間に距離を保っているところを見て、胸がぽわりと温かくなった。
「人間たちはみんなオレみたいなもふもふに名前をつけるだろ。だから美似衣もつけて」
「だからそういうの、偏見だって。でも……まあそうね。名前がないと呼びづらいし。う〜ん」
地面を打ちつけるワルツのような雨音を聞きながら、目の前の猫に命名をすべく、必死に頭を回転させた。
「じゃあ、“ぶにゃ助”」
「ぶ、ぶにゃ助!?」
猫——いや、ぶにゃ助が目を丸くして驚く。確かに変な名前だという自覚はある。だけど、どう見てもこの子に「ミルク」とか「いちご」とか可愛らしい名前は似合わないんだもん。
私は、「却下」と言われるかなと思い、ひやひやした。
しかし、ぶにゃ助は「ぐぬぬ」と唸り声を上げたあと、予想に反して「分かった」と頷いてくれた。
「え、いいの? ぶにゃ助で」
「自分がつけたんだろ」
「そうだけど……気に入らなかったんじゃないの?」
「いや、いい。美似衣がつけてくれたならにゃんでもいい」
「……」
殊勝な言葉が彼の口から出てきて思わずきゅんとする。
口の悪い彼にそんなふうに言われるなんて思ってみなかった。しばらくじっとぶにゃ助けを見つめて固まってしまっていた。
「おい、にゃんだよ。名前も決まったことだし、これからよろしくにゃ」
「う、うん。って、これからも会うの、私たち」
「当たり前だにゃ。なんて言ったって、オレは美似衣を癒しに来たんだからにゃ!」
得意げに胸をそらして宣言するぶにゃ助を見て、「おお、まじか」と素直に驚いてしまう。
「私を癒しに来てくれたんだ。でもあいにく、私は猫アレルギーなんだけど」
「そこだにゃ……せっかく来たのに、このオレのもふもふに触れてもらえないなんて、どうすればいいにゃ……」
途方に暮れた様子で目を細めるぶにゃ助がなんだかおかしくて、思わず「ふふっ」と笑みがこぼれた。
「あ、笑った」
「え?」
ぶにゃ助が私の顔を覗き込む。つぶらな瞳——もとい、つぶれた瞳がきゅるると何かを語りかけるようだった。
「美似衣、初めて笑ったにゃ」
「え、そ、そう?」
そう指摘されてはたと我が身を振り返る。
確かに……ここ最近、行き詰まる就活に辟易として表情筋が固まっていたように思う。面接をしていない時間も、ついお先真っ暗な未来のことばかり想像してしまって、好きだった映画鑑賞も読書もできなくなっていた。
「オレは美似衣の笑った顔、好きだにゃ」
口が悪い猫のくせに、生意気だなぁ……と思うかたわら、誰かに笑った顔を好きだと言われたのは初めてで、照れ臭かった。
「も、もう! 変なこと言わないで」
「あ、素直じゃにゃいやつ」
ぷい、と横を向くと、ぶにゃ助がくっくっくっと笑う声が聞こえてきた。
横目に見るぶにゃ助の目と耳と鼻に、既視感を覚えてはっとする。
あれ私……ぶにゃ助のことをどこかで……。
いや、勘違いだ。だって私は猫アレルギーで、普段から猫には近づかないようにしているんだもん。ぶにゃ助とどこかで会ったことがあるなんて、そんなはずない。
「とにかく、就活のことなんて一時の悩みだにゃ! 必要以上に気にすんにゃバカ」
さっきは“かわいそうな人間”と同情してきたはずなのに、今度は励ましてくれるのか。
それにしても、「気にすんなバカ」だなんて、どこでそんな言葉覚えたのだろう。
「あ、雨が止んだにゃ。オレはそろそろ帰るにゃ」
ぶにゃ助に言われて気づく。いつのまにか雨が上がっていた。
「え、帰るの?」
「帰るけど、どうしたにゃ」
「いや、なんでもない」
もっと話したい——なんて、口が裂けても言えなかった。
ぶにゃ助と話すことでいつの間にか心のストレスがちょっとだけ軽くなっていたなんて、本人を前にして言えるわけがない。私はいつだって素直になれない人間だから。
「またここに来れば会えるにゃ」
まるで、「また会おう」と言ってくれているようで、ほっとしている自分がいた。
ぶにゃ助に会えるなら、就活も頑張れるかもしれない。
久しぶりに胸に沸いた前向きな気持ちが、明日の私の未来をちょっぴり明るいものにしてくれる——そう思えた。



