「なあ」
ふと足元で、人間ではない何かの声がして、はっと視線を下に移す。
「へ……?」
そこにいたのは、ふわふわもふもふの毛をした——猫だった。
グレーと黒と白と。数種類の色の毛の中に埋まるようにして二つの赤茶色の瞳がこちらに向けられている。目に近いところにつぶれたような鼻があって、なというかそう。いわゆる“ブサかわいい”と呼ばれる品種の猫だった。
反射的に私は一歩後ずさる。
「ね、猫ちゃん、びっくりさせないでよ」
誰もいないと思っていたので、猫が一匹存在していたことに驚いつつ、ひっそりと距離を置く。
普通の野良猫なら人間が近づくと逃げ出すだろうと思っていたのに、その猫はあろうことか、また一歩こちらに近寄って来た。
もしかしてあれか。
人間慣れしている観光地の猫的な。
「猫ちゃん、悪いけど私は餌なんか持ってないんだよ〜」
苦笑いを浮かべながらまた猫から離れようとする。
実は私、猫アレルギーなのだ。
猫が近づくと鼻がむずむずしてくるので、特に野良猫にはできるだけ近寄らないようにしている。それなのに、そんな私の心中も知らず、ブサかわ猫はすり寄るようにしてどこまでもついてきた。雨が降っているので本殿の屋根の下を行ったり来たり。どうして私はリクルートスーツで猫と追いかけっこをしているのだろうかと心の中でツッコミをいれる。
「もう、待てってば」
どれくらい追いかけっこを続けていただろうか。
一分、いや五分ぐらい続けていたような気がする。
不意に後ろから人語が聞こえてきて、私は「は?」と立ち止まる。
「だーかーらー、待てって。何回も言わせにゃいで」
じいっとブサかわ猫へと視線を合わせる。
い、今、この猫喋った……?
いやいや、まさかね。そんなはずない。うん。就活できっと疲れているせいだ。
なんとか自分に言い聞かせて、再び一歩踏み出した時だ。
「おい美似衣、聞こえてにゃいのか!?」
ピタリ。
名前を呼ばれて、再び私は立ち止まった。
そして、ゆっくりと振り返り、視線を下の方へと向ける。
「あの、間違っていたら大変申し訳ないのですが。今あなた、私の名前を呼びましたか? いやね、就活の疲れで自分がおかしなことを言っているって分かってるんです。ついに幻聴が聞こえ始めたかって。だから念のため、確認しているだけなんですけれど。まさか猫が人語を喋るはず——」
「さっきからにゃにをごたごたと言ってるにゃ。就活で疲れたのかどうか知らにゃいけど、妄想ばかりして現実逃避してないで、いい加減現実を受け入れろにゃ。オレは確かに人間の言葉を喋れる猫にゃ。美似衣はおかしくなってないにゃ」
「……」
私の言葉を遮って、淡々とツッコミを入れてくる猫を見て、私はとうとう頭がおかしくなってしまったのかと思った。
「えっと……正気?」
正気かどうか疑うべきなのは、私の頭である。
「正気も本気。オレは美似衣に話をしに来たんだにゃ」
「……まじ」
ようやくここで、現実を受け入れる方向へと意識が動いていることに気づいた。
あまりにも現実離れした現象が目の前で起こって、気が変になりそうだったのだが、実のとことろちょっと面白いと感じている自分もいた。
現実は就活でうまくいかなくて、停滞している私の毎日。そんな一日に、摩訶不思議な喋る猫が現れて私を御伽話の世界へ連れて行ってくれる——頭の中で繰り広げられた妄想に、ふふっと思わず笑みがこぼれた。
「急に笑い出すなんて気持ち悪いにゃ」
猫がジト目で私を睨む。
さっきから思っていたことだが、この喋る猫、だいぶ口が悪くない?
妄想ばかりして、とか。気持ち悪い、とか。
猫ってさ、癒しの生き物じゃん。ふわふわもふもふに癒される私の物語はどこにいったの!?
心の中でそうツッコミながら、にんまりと乾いた笑みを彼に向ける。
「気持ち悪くて悪かったね。こちとら就活でストレスが溜まってて、妄想でもしていないと自分を保っていられないの」
「そうにゃのか、かわいそうな人間だにゃ」
猫に同情されて、なんとも言えない気分にさせられた。
“かわいそうな人間”というところはぜひとも否定させていただきたかったのだが、あいにく今そんな元気すら残っていない。
「で、あなたはどうして私の名前を知ってるの? 私に話しかけてもごはんは出てこないよ」
とりあえず、喋る猫についてはなんとか無理やりその存在を受け入れて、気になっていることを尋ねた。
すると、猫は「ふふん」としたり顔で私に急接近して、ニッと口元を緩めた。犬歯がきらりと見えて、歯茎が剥き出しになると“ブサかわ”が“ブサ”のほうへ寄っていく気がした。
「どうして名前を知っているかは秘密! ごはんはねえ、どっちかと言うと提供する側にゃ」
「提供する側……? それってどういう」
私が質問し終わらないうちに、「それもまた今度話すにゃ」と話を遮られた。
結局何も教えてくれないってこと?
ふと足元で、人間ではない何かの声がして、はっと視線を下に移す。
「へ……?」
そこにいたのは、ふわふわもふもふの毛をした——猫だった。
グレーと黒と白と。数種類の色の毛の中に埋まるようにして二つの赤茶色の瞳がこちらに向けられている。目に近いところにつぶれたような鼻があって、なというかそう。いわゆる“ブサかわいい”と呼ばれる品種の猫だった。
反射的に私は一歩後ずさる。
「ね、猫ちゃん、びっくりさせないでよ」
誰もいないと思っていたので、猫が一匹存在していたことに驚いつつ、ひっそりと距離を置く。
普通の野良猫なら人間が近づくと逃げ出すだろうと思っていたのに、その猫はあろうことか、また一歩こちらに近寄って来た。
もしかしてあれか。
人間慣れしている観光地の猫的な。
「猫ちゃん、悪いけど私は餌なんか持ってないんだよ〜」
苦笑いを浮かべながらまた猫から離れようとする。
実は私、猫アレルギーなのだ。
猫が近づくと鼻がむずむずしてくるので、特に野良猫にはできるだけ近寄らないようにしている。それなのに、そんな私の心中も知らず、ブサかわ猫はすり寄るようにしてどこまでもついてきた。雨が降っているので本殿の屋根の下を行ったり来たり。どうして私はリクルートスーツで猫と追いかけっこをしているのだろうかと心の中でツッコミをいれる。
「もう、待てってば」
どれくらい追いかけっこを続けていただろうか。
一分、いや五分ぐらい続けていたような気がする。
不意に後ろから人語が聞こえてきて、私は「は?」と立ち止まる。
「だーかーらー、待てって。何回も言わせにゃいで」
じいっとブサかわ猫へと視線を合わせる。
い、今、この猫喋った……?
いやいや、まさかね。そんなはずない。うん。就活できっと疲れているせいだ。
なんとか自分に言い聞かせて、再び一歩踏み出した時だ。
「おい美似衣、聞こえてにゃいのか!?」
ピタリ。
名前を呼ばれて、再び私は立ち止まった。
そして、ゆっくりと振り返り、視線を下の方へと向ける。
「あの、間違っていたら大変申し訳ないのですが。今あなた、私の名前を呼びましたか? いやね、就活の疲れで自分がおかしなことを言っているって分かってるんです。ついに幻聴が聞こえ始めたかって。だから念のため、確認しているだけなんですけれど。まさか猫が人語を喋るはず——」
「さっきからにゃにをごたごたと言ってるにゃ。就活で疲れたのかどうか知らにゃいけど、妄想ばかりして現実逃避してないで、いい加減現実を受け入れろにゃ。オレは確かに人間の言葉を喋れる猫にゃ。美似衣はおかしくなってないにゃ」
「……」
私の言葉を遮って、淡々とツッコミを入れてくる猫を見て、私はとうとう頭がおかしくなってしまったのかと思った。
「えっと……正気?」
正気かどうか疑うべきなのは、私の頭である。
「正気も本気。オレは美似衣に話をしに来たんだにゃ」
「……まじ」
ようやくここで、現実を受け入れる方向へと意識が動いていることに気づいた。
あまりにも現実離れした現象が目の前で起こって、気が変になりそうだったのだが、実のとことろちょっと面白いと感じている自分もいた。
現実は就活でうまくいかなくて、停滞している私の毎日。そんな一日に、摩訶不思議な喋る猫が現れて私を御伽話の世界へ連れて行ってくれる——頭の中で繰り広げられた妄想に、ふふっと思わず笑みがこぼれた。
「急に笑い出すなんて気持ち悪いにゃ」
猫がジト目で私を睨む。
さっきから思っていたことだが、この喋る猫、だいぶ口が悪くない?
妄想ばかりして、とか。気持ち悪い、とか。
猫ってさ、癒しの生き物じゃん。ふわふわもふもふに癒される私の物語はどこにいったの!?
心の中でそうツッコミながら、にんまりと乾いた笑みを彼に向ける。
「気持ち悪くて悪かったね。こちとら就活でストレスが溜まってて、妄想でもしていないと自分を保っていられないの」
「そうにゃのか、かわいそうな人間だにゃ」
猫に同情されて、なんとも言えない気分にさせられた。
“かわいそうな人間”というところはぜひとも否定させていただきたかったのだが、あいにく今そんな元気すら残っていない。
「で、あなたはどうして私の名前を知ってるの? 私に話しかけてもごはんは出てこないよ」
とりあえず、喋る猫についてはなんとか無理やりその存在を受け入れて、気になっていることを尋ねた。
すると、猫は「ふふん」としたり顔で私に急接近して、ニッと口元を緩めた。犬歯がきらりと見えて、歯茎が剥き出しになると“ブサかわ”が“ブサ”のほうへ寄っていく気がした。
「どうして名前を知っているかは秘密! ごはんはねえ、どっちかと言うと提供する側にゃ」
「提供する側……? それってどういう」
私が質問し終わらないうちに、「それもまた今度話すにゃ」と話を遮られた。
結局何も教えてくれないってこと?



