主計町茶屋街の川沿いの通りはとても静かで、観光客でにぎわうひがし茶屋街とは違う落ち着いた趣が漂っていた。
ひんやりとした秋風が首筋を撫でて、トレンチコートに思わず首を埋める。
右手に流れる浅野川の流れはとても静かで、冬に向かってしんしんと冷えていく自分の心を表しているみたいで、そっと目を背けた。
その代わりに、そのまま視線を右手のひらの中にあるスマホへと向ける。画面に映し出されているのは、新着メールの画面だ。送り主は、東京にあるとある不動産会社。
【一次面接結果のお知らせ】
件名を見るだけで、一次試験に合格したのか不合格だったのか分かってしまう。怖くてうっすらとしか開けていなかった目は、その一文を見た途端、だらしなく開いた。
【小坂純恋様
先日はお忙しい中、弊社の採用試験にお越しくださいまして誠にありがとうございました。
さて、慎重に選考をいたしました結果、誠に遺憾に存じますが、今回は〇〇様の採用を見送らせていただくことになりました。何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。末筆ながら、小坂様の今後の益々のご活躍をお祈り申し上げます。】
これまで何度も目にしてきた、いわゆる「お祈りメール」の文面に嫌気が差して、画面を閉じる。
「〝〇〇様〟ってテンプレのまんまじゃん」
企業側の単純ミスに、どうにも自分のことなんて眼中にありませんと言われているようで、心がくしゃくしゃに縮んでいく。
「これで五十社目かぁ」
記念すべき、不合格五十回目!
就職浪人の小坂さんはなんと今年、すでに五十社目の会社から不採用通知をいただきましたっ! お疲れ様です! はあくしゅっ!
……と、無理やり気持ちを盛り上げようと脳内でセルフ慰労会を繰り広げているところで、またスマホに新着メールが来たという通知が届いた。
【先程のメールに誤りがございました】
件名を眺めて、また「はあ」とため息を吐く。
自分に興味がないと言ってきた企業の謝罪メールなんて、読んだところで虚しくなるだけだ。私はそっとスマホの画面を閉じる。
九州の実家を出て、石川県金沢市にある芸術系の公立大学を卒業して半年。去年、大学四年生のときに、「イラストレーターになる」という夢を追うために一般企業には就職せずに、フリーで活動すると決意してから就活をしなかった。実際四年生の時点でSNSを通してそれなりにイラストの仕事をいただけていたので、イラストとアルバイトで生計を立てられると思っていたのだ。
だけど、現実はそう甘くなかった。
大学を卒業した直後、九州で暮らしていた母が肺の病気で倒れてしまったのだ。
病院で医者に「即入院が必要」と言われ、母はそのまま総合病院に入院することになった。それ以降、一度も退院できずに入院生活を送っている。父親は私が物心つく前に離婚していて、母は女手一つで私を育ててくれていた。常に仕事に忙しく、それでも私に十分にお小遣いをくれて、休みの日にはできるだけ私を楽しませようといろんなところへ連れて行ってくれた。その分、無理をすることが多かったのだろう。長年の疲労が蓄積された結果かもしれないと思うと、やりきれない気持ちになった。
母が倒れたことをきっかけに、私は九州に帰ろうと思ったんだけれど……。
『純恋、よく聞きなさい。九州に帰って来んでいい』
倒れてすぐにお見舞いに来た私に、母は強い意志のこもった表情で私にそう言ったのだ。
『あんた、叶えたい夢があるっちゃろ? それやったら、お母さんのことは考えなくていい。自分の夢を追いかけな』
母の愛情たっぷりに言葉に、胸が締め付けられるような心地にさせられた。
母の近くにいたい。だけど、それでは確かに夢からは遠ざかることになるだろう。九州からでも仕事はできるけれど、この先自分の可能性を広げていくために、東京に出ることも考えていた。一度九州に帰ったらきっともう、東京どころか金沢にも行かなくなってしまうと思う。金沢には仕事上、在学中に繋がった縁もあり、今すぐ金沢から離れるのも考えにくい。
このまま九州にとどまるか。
金沢に戻り、夢を追いかけるか。
究極の選択に迫られて、私は結局母の言葉に従い金沢へと舞い戻った。
だが、このままフリーのイラストレーターとアルバイトだけでは、仕事を失ったとき、母を心配させてしまうのではないかと感じた。それに、母の入院費だってこれからどんどんかさんでいくだろう。母は「保険で賄えるから純恋は気にせんで」と言うが、そういうわけにもいかない。そりゃ保険である程度は支払いができるとはいえ、自己負担しなければならない費用もそれなりにある。母が辛い思いをしているのに、私だけが夢を追いかけるだけじゃだめだ。きちんとした会社に入って、まずは母を安心させよう。イラストレーターの仕事は副業でもできるだろうから——と考えた結果、大学を卒業してから就職活動を開始することになったのだ。
就職活動とイラストレーターの仕事も、最初は両立するはずだった。でも、思うように就活が進まず、身も心もすり減っていく中で、イラストレーターの仕事をやめた。それまで続けていたカフェのアルバイトも、いつ呼ばれるか分からない企業の面接に備えて、やめてしまった。
そして、今。
就職浪人生、というのが今の自分を表現するのにぴったりなのだろうか——貯金を切り崩しながら生活をしている私は、こうして五十社目の企業の採用試験に落ちてしまった。残る持ち駒——まだ面接など進んでおらず、応募だけ済ませている企業は、ゼロだ。
「万事休すってとこか」
冷静に考えれば、今すぐまた新たに採用試験を受ける会社を探すべきなのだが、今まさに「お祈りメール」をもらったばかりの私には、荷が重すぎた。
主計町茶屋街の川沿いの道には、時折すれ違う人がいるけれど、一人、二人ほど。平日ということもあって、観光客はほとんどいない。自分以外が誰もいない異世界に迷い込んだかのように、静けさが漂っていた。
石畳の道をコツコツと踏み鳴らしながら進んでいく。目的地があるわけではなかった。今はただ、この何とも言えない寂しさに身を沈めていたくて、前へと進んでいく。左手に立ち並ぶ町家のような建物は、昔ながらの料亭や茶屋である。店先の千本格子の目隠しがずらりと連なっているように見えて、趣のある光景に心がほっと和んでいく。
どれくらい歩いただろうか。
途中、細い横道があるところを通り越して少ししたところに、一風変わった店の看板が目に飛び込んできた。
「『忘れ物しぐれ堂』……?」
主計町茶屋街には数度訪れたことがあったけれど、こんな変わった看板は見たことがない。ふと立ち止まって店の風貌を眺める。外観は他の店と同じように千本格子が特徴的な町家風の店だった。おそらく、看板だけ最近新しく付け替えたのだろう。真新しい木彫りの看板だけが浮いて見えた。
千本格子の間から漏れている橙色の光を見るに、営業はしていそうだ。
私は、何かに誘われるようにして引き戸の取っ手に手をかける。そのまま、扉をガラガラと横に引いた。
「失礼します……」
つい、就活の面接の時の癖で「こんにちは」ではなく「失礼します」が口から漏れる。
扉を少し開けると、途端にどこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
おばあちゃんちの匂い……。
今は亡き祖父母の家の木の温もりにあふれたあの匂いを思い出して、胸がつんとした。
扉の向こうには、かなり雑多なものであふれた空間があった。入り口から少し入ったところから奥の空間に、古い棚や椅子、絵画、陶磁器、書画、茶道具などが所狭しと並べられている。入り口付近には、『保管棚』と『販売棚』という小さな札のついた棚が、二つ並んでいた。その棚の中には、ネックレスや時計、指輪、ノート、鞄、ベルトなどが丁寧に置かれている。
骨董品屋さん……だろうか。
でも看板には、『忘れ物しぐれ堂』と書いてあった。
もしかして、〝忘れ物〟を売っているお店?
私は、時折電車の駅なんかで見かける「忘れ物屋さん」を思い浮かべた。電車の中で乗客が忘れていたベルトなんかを駅構内で販売しているお店を見たことがある。
でも、陶磁器や椅子を忘れる人なんて聞いたことがない。
不思議に思いながらぐるりと視線を巡らしていると、お店の奥の一角——ちょうど座敷が敷いてある場所で、五十代ぐらいの一人の男性が一眼レフカメラを布で磨いているところを見かけた。あまりにも静かなので気がつかなかった。でも、よく考えればお店の人がいないはずがない。
男性はふと手を止めると、皺の刻まれた目元をきゅっと細めて、お店に入って来た私を物珍しそうに眺めた。
「これはこれは、お客さん。気づかなくてどうもすんません」
カメラを座敷の上のテーブルに置くと、よっこらせ、と腰を浮かせてこちらに来てくれた。
「えっと、突然お訪ねしてすみません。この辺を散歩してたら、気になる看板を見かけたもので」
「店に入るのに謝る必要なんてない。お一人かい?」
「はい。たまたま気になったのですが、中を見せてもらってもいいでしょうか?」
「ああ、もちろん」
見かけは寡黙で話しかけづらそうな男性だが、話してみると、低く渋い声が優しく胸に染み入るようだった。
店員さんが見守る中、私はまず『保管棚』に並んでいる品々をじっと見つめた。新品のものには見えないから、やはり店名からして誰かの忘れ物だろうか。ネックレスも指輪も、失くした人は困るだろうな、と切ない気持ちにさせられる。私は失くし物をすると居ても立ってもいられなくなるタイプだから、元の持ち主が悲しんでいるところを想像してしまっていた。
「あの……この『保管棚』ってなんですか?」
傍でこちらを見ていた店員さんに思い切って尋ねる。
「ああ、これは、忘れ物を三ヶ月間保管しておくための棚だよ」
「三ヶ月間保管……? ここってやっぱり忘れ物を売っているお店なんですか?」
「そうだよ。金沢市内に落ちていたものや、飲食店なんかに忘れていたものを、お客さんがうちに届けてくれるんだ。その〝忘れ物〟に値段をつけて売っている。もちろん初めに警察に届けて、引き取り手がないものに限るよ。最初の三ヶ月間は元の持ち主が〝忘れ物〟を探しに来るかもしれないから、こうして『保管棚』で保管しておくんだ。元の持ち主が自分のものだと証明できたら、忘れ物はそのまま返すようにしているよ。持ち主が現れずに、〝忘れ物〟が持ち込まれてから三ヶ月の期限が過ぎたら、そっちの『販売棚』に移動させる。『販売棚』に移動して初めて、〝忘れ物〟は売り物になる」
お店のシステムについて滔々と語り出す店員さんは、自分の店の〝忘れ物〟販売に誇りを持っていることが窺えた。
「なるほど。変わったシステムですね」
「そうかな? まあ、もともとは骨董品屋で、そっちがメインだったんだ。〝忘れ物〟を売ろうと思ったのは俺の意思だし」
「俺の意思」というところに引っ掛かりを覚えた。骨董品屋は店員さんが始めたものじゃないんだろうか。
私が疑問に感じていることを察知してくれたのか、「もともとは親父の店だったんだ」と彼はぽつりと呟く。
「親父がここで、普通の骨董品屋を営んでいた。それを、俺が継いだんだ。せっかく自分の店になるのだし、新しいことをしようと思ってね。忘れ物には持ち主の想いが詰まっている。そんな持ち主の想いを無駄にしたくないと思ったんだ」
遠い目をして話してくれる店員さんは、何か胸のうちに並々ならぬ想いを抱えているように感じられた。でも、今この場で彼の胸中をすべて知ろうとは思わなかったし、彼だって見ず知らずの娘に、すべてを話すつもりはないだろう。
「なんか、いいですね」
胸にじんと迫ってくるものを感じて、ありのままの気持ちを呟いた。
「いい?」
店員さんが目を丸くして私を見やる。私の素直な感想に驚いている様子だった。
「誰かの忘れ物をきちんと保管して販売するって、素敵だと思います。忘れ物って放っておいたら本当に忘れられて捨てられるだけじゃないですか。でもこうして並べることで、元の持ち主のもとへ帰ったり、新しい持ち主に拾われたりするんですよね。店員さんが、ものを大事にする気持ちが伝わってきます」
就活の面接でもこんなふうに思ったことをぽんと口にすることはできなかった。それなのに、どうして初対面の彼には、素直に自分の気持ちを表現することができるのだろうか。内心自分でも不思議に思いつつ、それでも想いを伝えられたことにすっきりとした心地だった。
「お前さん……」
店員さんが感慨深そうにつぶやく。失礼なことを言ってしまっただろうか、と一瞬ドキリとしたが、店員さんが目をきゅっと細めて「ありがとう」と言うのを聞いてほっと安堵した。
と同時に、胸に温かな灯火がともるような心地にさせられた。
どうしてだろう。
久しぶりに、面接以外で目上の人と話したからだろうか。この店員さんは企業の面接で出会ってきた人たちと全然違う。みんな、自分の仕事をまっとうしているところは同じはずなのに、目の前の店員さんだけが、私の言葉を真正面から受け止めてくれているような気がしたのだ。
「あの……もしご迷惑でなければ、ここで働かせてもらえませんか?」
気がつけば口から、自分でも信じられないようなお願いがこぼれ落ちていた。
ここで働かせてほしい。
胸の奥から湧き上がってくる一つの衝動を抑えることができなかったのだ。
「働く?」
店員さんは、突然の申し出にぽかんと口を開いて戸惑っている様子だ。当然だ。たまたまやって来た客から、いきなり「働きたい」などと言われるとは思ってもみなかっただろう。
「はい。あ、もちろんアルバイトで。必要な時だけシフトに入らせていただくだけでもちろん構いません。店員さんの邪魔はしないつもりです。私今、就活浪人生で大学とかもないので、面接の時間以外なら、シフトはいくらでも入れます。……だめでしょうか」
カフェのアルバイトは就活を理由に辞めたくせに、ここでのアルバイトなら就活と両立してやってみたいと思ったのは、忘れ物を売っているこのお店のコンセプトが気に入ったからだ。結局、カフェのアルバイトは単に興味がなかっただけなのだと気づく。本当にやりたいことなら、隙間時間にでも取り組みたいと思うのが人間なのだ。
店員さんは私の言葉を聞いてしばらくの間黙りこくっていた。もともと渋めの顔をしたおじさんなので、じっと黙り込まれると寡黙で怖い人なのかな、と初対面の人は勘違いするだろう。骨董品の中にある時計が、チ、チ、チと時を刻む音だけが店内に静かに響き渡る。沈黙しながら店員さんの次の言葉を待った。
やがて店員さんはゆっくりと息吸い込むと、私の目をまっすぐに見つめて言った。
「お願いしようかな」
「いいんですか!?」
自分で頼み込んだくせに、働いていいと言われて身体が勝手にぴょんと飛び跳ねた。
普段、企業面接でお祈りメールをもらうばかりだったので、アルバイトとはいえあっさりと採用を言い渡されたことに驚きと喜びが入り混じる。
「あ、ああ」
前のめりに喜ぶ私を見て、店員さんが一歩たじろぐ。私は、「失礼しました」と咳払いをしながら頭を下げる。
「私、小坂純恋といいます。先ほどもお伝えしましたが、春に大学を卒業して、今は就活浪人生です。専業のイラストレーターとして働くのが夢だったのですが……世の中そううまくいかないですね。とにかく、一般企業に就職する道を探している途中で他のアルバイトを辞めてしまったので、採用していただき大変嬉しいです。これからよろしくお願いします」
緊張でついつっかえつっかえ話してしまう普段の面接とは違い、店員さんに対しては淀みなく現状を伝えることができた。
私が何者なのか分かってようやく安心したのか、店員さんは「よろしくお願いします」と同じように挨拶をしてくれた。
「店主の時雨多門です。年齢は五十五歳。家族はいないから、店が閉まっている時間もほぼずっと店に入り浸っている。小坂さん、ぜひよろしく」
熱い握手を交わした私たちは、お店の入り口で微笑み合う。
それにしても、時雨多門だなんて役者のような響きの名前で驚いた。『忘れ物しぐれ堂』の名前は多門さんの名前からとったんだ。
「時雨多門さんって、素敵な名前ですね。……て、こんな小娘に褒められても嬉しくないですよね」
「いや、そんなことない。実は俺も気に入っているんだ。名前を言えば、すぐに覚えてもらえるしな。小坂さんの純恋っていう名前も十分素敵だと、思う」
多門さんがぎこちない喋り方で私の名前も賞賛してくれた。
お返しに無理やり褒めてもらえるように仕向けたみたいで、ちょっとだけ申し訳ない気持ちになったが、素直に喜んだ。
「ありがとうございます! 精一杯働きますので、ぜひよろしくお願いします」
一期一会の出会いになるはずだった、主計町茶屋街での偶然の出会い。門戸を開いたのは他でもない私だ。忘れ物を販売するという店主の想いに惹かれてしまったから。
これからこの店で、どんな経験をするのだろう。
昔懐かしいおばあちゃんの家のような匂いが充満する店内で未来に想いを馳せてみる。
今はただ、新しい人生が始まる予感に、久しぶりに胸がわくわくと踊り出すのだった。
***
「うん……うん。それでね、その『忘れ物しぐれ堂』でアルバイトとして働かせていただくことになったの。そうそう。もちろん就活も続けとるよ。だから私の生活のことは心配しないで」
『忘れ物しぐれ堂』でアルバイトに採用された日の夜、金沢市内にある自宅のマンションから、九州の病院に入院している母に電話をかけた。
『アルバイト? あんたそんなことする暇あると? イラストの仕事はどうなったとよ』
母が私を心配する声が耳につんと響く。
母は、私が就活をすることよりアルバイトをすることよりも何よりも、夢だったイラストレーターの仕事をしてほしいと願っているのだ。それなのに、急に新しいアルバイト先を見つけたと伝えたところで、母が驚くのも無理はない。
「も、もちろんイラストの仕事も……続けとるよ。心配せんでいいって」
つい、迷いつつも強い口調で「心配しなくていいから」と念押ししてしまう。たぶん私は、母親に自分の将来のことを心配されるのが一番嫌なのだ。
『そう。イラストの仕事続けとるならお母さんはなんでもいいけど。純恋が元気にちゃんと自分の夢に向かって歩いとるならそれでよか』
「うん……」
いつどんな状況の中でも、母は私に夢を応援してくれている。就職先を探して奔走したり、イラストとは関係ない新しいアルバイトを始めたり、ちょっぴり後ろめたい気持ちになった。
母に「身体、気をつけてね」とだけ言い残し、電話を終えた。
母の声を聞くと、今すぐ九州に飛んで帰りたい衝動に駆られる。
でも、だめだ。
私はまだ、何者にもなっていないから。
イラストの仕事をしていない私に会ったら、母は失望してしまうだろう。
だから、母の希望通りに生きられるようになるまで、母に会えない。
そんなふうに考えている自分がいた。
「不束者ですが、今日からよろしくお願いします!」
「不束って……たぶん使いどころ間違ってるけど、まあ、よろしく」
十一月一日、木枯らしがひゅうひゅうと吹く中、『忘れ物しぐれ堂』に初出勤を果たした。相変わらず昔懐かしい香りのする店内は、一歩中に足を踏み入れるだけでほっと心が安らいた。気合いは十分。接客の経験はあるので、お客さんと接するのに抵抗があるわけでもなく、今すぐにでもお客さんが来てくれないかな、とわくわくしていた。
そんな私を、店主の多門さんは落ち着き払った瞳で見つめている。
いつどんなことが起きても、この人は動揺せずに泰然自若としていそうだな。出会って二日目だけれど、多門さんの安定感には目を瞠るものがある。
「この間も説明した通り、警察に届けて引き取り手のなかった忘れ物を、一度『保管棚』に保管する。三ヶ月して元の持ち主が現れなければ値段をつけて『販売棚』に移動させる。『販売棚』に移動させたあとは、誰でも購入することができる。ここまではいいかね?」
多門さんの忘れ物販売についての説明を、メモを取りながら聞く。シンプルなルールではあるが、間違っていきなり忘れ物を『販売棚』に置くなどすれば、元の持ち主への敬意を踏み躙ることになるので、注意しなくちゃいけない。
「質問、いいですか?」
「ああ。なんだい?」
「『保管棚』に忘れ物を保管している時に、元の持ち主だと名乗る人が現れるとするじゃないですか。で、その人が『これは私が落としたものです!』と主張する。でも、嘘を言っている可能性もありません……? 『保管棚』に並んでいるものは高価なものだってあるでしょう? だから、あまり考えたくはないけど、そういう悪いことを考える人もいるのかなぁって……」
実際、本当に考えたくはないことだが、世の中にはいろんな人がいる。自分のものではないのに、「自分が落としたものだ」と主張する人が現れてもおかしくはない。
多門さんは私の質問を聞いて、「うんうん」と頷いていた。どうやら、これまでそういう人が現れたことがあるようだ。経験がある、と彼の顔に書いてあるみたいだった。
「そうだね。お前さんの言う通り、中には嘘をついて忘れ物を自分のものだと言い張る人がいる。だから、『保管棚』の忘れ物を取り戻すにはあるルールがある」
「ルール?」
「ああ。自分の持ち物だと主張するものが、本当にその人のものなのか、証明をしてもらうんだ」
「証明……でも、どうやって」
その忘れ物が自分のものであると証明する——理屈はとてもよく分かるが、どうやって証明するのかいまいちピンとこず、首を傾げた。
「一番確実で分かりやすいのは、本人が忘れ物を身につけている写真を見せてもらうことだな。あとは、ネットで購入したものだったら購入完了メールなんかを見せてもらうのでもいい。そういった証拠がなければ……俺は、エピソードを語ってもらうことにしている」
「エピソードを語る?」
「ああ。思い入れのあるものなら、どこで手に入れたのか、どうやって使っていたのか、覚えているはずだろう? そのものと印象に残っているエピソードを語ってもらうんだ。あとはもう自己判断になるけど。納得できたら、忘れ物はその人のもとに返すことにしているよ」
「なるほど」
確かに、その方法なら本当に忘れ物がその人のものなのか、大体見分けがつきそうだ。嘘のエピソードを語る人も出てくるかもしれないが、そこまでの悪人にはこれから天罰が下ると、多門さんは静かに語ってくれた。
「まあ今まで、あまりエピソードを語ってくれた人はいないな。たいていみんな写真を見せてくれる。一番手っ取り早い方法だからな」
「そうなんですね。写真があるならそれを見せてもらうのが客観的に見ても最適な方法ということですね」
「そういうことだ」
多門さんにルールを説明してもらって、疑問は消え去った。
『販売棚』に移動したものは普通の商品と同じように販売するだけ。覚えることはあまりないと感じた。
その後多門さんは、普段のアルバイトでしてほしいことや、商品の説明なんかをしてくれた。掃除、骨董品の整理、骨董品の埃取り、忘れ物の期限チェック、レジ打ちなどを任された。ほとんど多門さんがやっている仕事すべてということだ。
「忘れ物の期限は、それぞれの忘れ物にシールが貼ってある。ネックレスなんかはタグシールが貼ってあるだろ」
そう言われて、再び『保管棚』のほうをじっと見つめる。確かに、ネックレスにはタグシールに「2025/11/14」と書かれていた。このネックレスはもうすぐ期限を迎えるらしい。
「忘れ物のタグシールは毎日確認して、期限を迎えていたら『販売棚』に移動させる。その時に一緒に値段もつけるから、値段については俺に相談して」
「分かりました。覚えておきます」
『保管棚』にはざっと五十品以上忘れ物が保管されている。すべての期限を確認するのは手間ではあるが、その手間は惜しまないようにしよう。
「これで一通り教え終わったかな」
多門さんがふう、と息を吐いたところで、私はようやく仕事を始められると意気込んだ。
「ありがとうございます。これから頑張ります!」
気合いは十分。
さあ、お客さんよ、どんと来い!
とお店の扉を見つめて念を送るのだった。
ひんやりとした秋風が首筋を撫でて、トレンチコートに思わず首を埋める。
右手に流れる浅野川の流れはとても静かで、冬に向かってしんしんと冷えていく自分の心を表しているみたいで、そっと目を背けた。
その代わりに、そのまま視線を右手のひらの中にあるスマホへと向ける。画面に映し出されているのは、新着メールの画面だ。送り主は、東京にあるとある不動産会社。
【一次面接結果のお知らせ】
件名を見るだけで、一次試験に合格したのか不合格だったのか分かってしまう。怖くてうっすらとしか開けていなかった目は、その一文を見た途端、だらしなく開いた。
【小坂純恋様
先日はお忙しい中、弊社の採用試験にお越しくださいまして誠にありがとうございました。
さて、慎重に選考をいたしました結果、誠に遺憾に存じますが、今回は〇〇様の採用を見送らせていただくことになりました。何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。末筆ながら、小坂様の今後の益々のご活躍をお祈り申し上げます。】
これまで何度も目にしてきた、いわゆる「お祈りメール」の文面に嫌気が差して、画面を閉じる。
「〝〇〇様〟ってテンプレのまんまじゃん」
企業側の単純ミスに、どうにも自分のことなんて眼中にありませんと言われているようで、心がくしゃくしゃに縮んでいく。
「これで五十社目かぁ」
記念すべき、不合格五十回目!
就職浪人の小坂さんはなんと今年、すでに五十社目の会社から不採用通知をいただきましたっ! お疲れ様です! はあくしゅっ!
……と、無理やり気持ちを盛り上げようと脳内でセルフ慰労会を繰り広げているところで、またスマホに新着メールが来たという通知が届いた。
【先程のメールに誤りがございました】
件名を眺めて、また「はあ」とため息を吐く。
自分に興味がないと言ってきた企業の謝罪メールなんて、読んだところで虚しくなるだけだ。私はそっとスマホの画面を閉じる。
九州の実家を出て、石川県金沢市にある芸術系の公立大学を卒業して半年。去年、大学四年生のときに、「イラストレーターになる」という夢を追うために一般企業には就職せずに、フリーで活動すると決意してから就活をしなかった。実際四年生の時点でSNSを通してそれなりにイラストの仕事をいただけていたので、イラストとアルバイトで生計を立てられると思っていたのだ。
だけど、現実はそう甘くなかった。
大学を卒業した直後、九州で暮らしていた母が肺の病気で倒れてしまったのだ。
病院で医者に「即入院が必要」と言われ、母はそのまま総合病院に入院することになった。それ以降、一度も退院できずに入院生活を送っている。父親は私が物心つく前に離婚していて、母は女手一つで私を育ててくれていた。常に仕事に忙しく、それでも私に十分にお小遣いをくれて、休みの日にはできるだけ私を楽しませようといろんなところへ連れて行ってくれた。その分、無理をすることが多かったのだろう。長年の疲労が蓄積された結果かもしれないと思うと、やりきれない気持ちになった。
母が倒れたことをきっかけに、私は九州に帰ろうと思ったんだけれど……。
『純恋、よく聞きなさい。九州に帰って来んでいい』
倒れてすぐにお見舞いに来た私に、母は強い意志のこもった表情で私にそう言ったのだ。
『あんた、叶えたい夢があるっちゃろ? それやったら、お母さんのことは考えなくていい。自分の夢を追いかけな』
母の愛情たっぷりに言葉に、胸が締め付けられるような心地にさせられた。
母の近くにいたい。だけど、それでは確かに夢からは遠ざかることになるだろう。九州からでも仕事はできるけれど、この先自分の可能性を広げていくために、東京に出ることも考えていた。一度九州に帰ったらきっともう、東京どころか金沢にも行かなくなってしまうと思う。金沢には仕事上、在学中に繋がった縁もあり、今すぐ金沢から離れるのも考えにくい。
このまま九州にとどまるか。
金沢に戻り、夢を追いかけるか。
究極の選択に迫られて、私は結局母の言葉に従い金沢へと舞い戻った。
だが、このままフリーのイラストレーターとアルバイトだけでは、仕事を失ったとき、母を心配させてしまうのではないかと感じた。それに、母の入院費だってこれからどんどんかさんでいくだろう。母は「保険で賄えるから純恋は気にせんで」と言うが、そういうわけにもいかない。そりゃ保険である程度は支払いができるとはいえ、自己負担しなければならない費用もそれなりにある。母が辛い思いをしているのに、私だけが夢を追いかけるだけじゃだめだ。きちんとした会社に入って、まずは母を安心させよう。イラストレーターの仕事は副業でもできるだろうから——と考えた結果、大学を卒業してから就職活動を開始することになったのだ。
就職活動とイラストレーターの仕事も、最初は両立するはずだった。でも、思うように就活が進まず、身も心もすり減っていく中で、イラストレーターの仕事をやめた。それまで続けていたカフェのアルバイトも、いつ呼ばれるか分からない企業の面接に備えて、やめてしまった。
そして、今。
就職浪人生、というのが今の自分を表現するのにぴったりなのだろうか——貯金を切り崩しながら生活をしている私は、こうして五十社目の企業の採用試験に落ちてしまった。残る持ち駒——まだ面接など進んでおらず、応募だけ済ませている企業は、ゼロだ。
「万事休すってとこか」
冷静に考えれば、今すぐまた新たに採用試験を受ける会社を探すべきなのだが、今まさに「お祈りメール」をもらったばかりの私には、荷が重すぎた。
主計町茶屋街の川沿いの道には、時折すれ違う人がいるけれど、一人、二人ほど。平日ということもあって、観光客はほとんどいない。自分以外が誰もいない異世界に迷い込んだかのように、静けさが漂っていた。
石畳の道をコツコツと踏み鳴らしながら進んでいく。目的地があるわけではなかった。今はただ、この何とも言えない寂しさに身を沈めていたくて、前へと進んでいく。左手に立ち並ぶ町家のような建物は、昔ながらの料亭や茶屋である。店先の千本格子の目隠しがずらりと連なっているように見えて、趣のある光景に心がほっと和んでいく。
どれくらい歩いただろうか。
途中、細い横道があるところを通り越して少ししたところに、一風変わった店の看板が目に飛び込んできた。
「『忘れ物しぐれ堂』……?」
主計町茶屋街には数度訪れたことがあったけれど、こんな変わった看板は見たことがない。ふと立ち止まって店の風貌を眺める。外観は他の店と同じように千本格子が特徴的な町家風の店だった。おそらく、看板だけ最近新しく付け替えたのだろう。真新しい木彫りの看板だけが浮いて見えた。
千本格子の間から漏れている橙色の光を見るに、営業はしていそうだ。
私は、何かに誘われるようにして引き戸の取っ手に手をかける。そのまま、扉をガラガラと横に引いた。
「失礼します……」
つい、就活の面接の時の癖で「こんにちは」ではなく「失礼します」が口から漏れる。
扉を少し開けると、途端にどこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
おばあちゃんちの匂い……。
今は亡き祖父母の家の木の温もりにあふれたあの匂いを思い出して、胸がつんとした。
扉の向こうには、かなり雑多なものであふれた空間があった。入り口から少し入ったところから奥の空間に、古い棚や椅子、絵画、陶磁器、書画、茶道具などが所狭しと並べられている。入り口付近には、『保管棚』と『販売棚』という小さな札のついた棚が、二つ並んでいた。その棚の中には、ネックレスや時計、指輪、ノート、鞄、ベルトなどが丁寧に置かれている。
骨董品屋さん……だろうか。
でも看板には、『忘れ物しぐれ堂』と書いてあった。
もしかして、〝忘れ物〟を売っているお店?
私は、時折電車の駅なんかで見かける「忘れ物屋さん」を思い浮かべた。電車の中で乗客が忘れていたベルトなんかを駅構内で販売しているお店を見たことがある。
でも、陶磁器や椅子を忘れる人なんて聞いたことがない。
不思議に思いながらぐるりと視線を巡らしていると、お店の奥の一角——ちょうど座敷が敷いてある場所で、五十代ぐらいの一人の男性が一眼レフカメラを布で磨いているところを見かけた。あまりにも静かなので気がつかなかった。でも、よく考えればお店の人がいないはずがない。
男性はふと手を止めると、皺の刻まれた目元をきゅっと細めて、お店に入って来た私を物珍しそうに眺めた。
「これはこれは、お客さん。気づかなくてどうもすんません」
カメラを座敷の上のテーブルに置くと、よっこらせ、と腰を浮かせてこちらに来てくれた。
「えっと、突然お訪ねしてすみません。この辺を散歩してたら、気になる看板を見かけたもので」
「店に入るのに謝る必要なんてない。お一人かい?」
「はい。たまたま気になったのですが、中を見せてもらってもいいでしょうか?」
「ああ、もちろん」
見かけは寡黙で話しかけづらそうな男性だが、話してみると、低く渋い声が優しく胸に染み入るようだった。
店員さんが見守る中、私はまず『保管棚』に並んでいる品々をじっと見つめた。新品のものには見えないから、やはり店名からして誰かの忘れ物だろうか。ネックレスも指輪も、失くした人は困るだろうな、と切ない気持ちにさせられる。私は失くし物をすると居ても立ってもいられなくなるタイプだから、元の持ち主が悲しんでいるところを想像してしまっていた。
「あの……この『保管棚』ってなんですか?」
傍でこちらを見ていた店員さんに思い切って尋ねる。
「ああ、これは、忘れ物を三ヶ月間保管しておくための棚だよ」
「三ヶ月間保管……? ここってやっぱり忘れ物を売っているお店なんですか?」
「そうだよ。金沢市内に落ちていたものや、飲食店なんかに忘れていたものを、お客さんがうちに届けてくれるんだ。その〝忘れ物〟に値段をつけて売っている。もちろん初めに警察に届けて、引き取り手がないものに限るよ。最初の三ヶ月間は元の持ち主が〝忘れ物〟を探しに来るかもしれないから、こうして『保管棚』で保管しておくんだ。元の持ち主が自分のものだと証明できたら、忘れ物はそのまま返すようにしているよ。持ち主が現れずに、〝忘れ物〟が持ち込まれてから三ヶ月の期限が過ぎたら、そっちの『販売棚』に移動させる。『販売棚』に移動して初めて、〝忘れ物〟は売り物になる」
お店のシステムについて滔々と語り出す店員さんは、自分の店の〝忘れ物〟販売に誇りを持っていることが窺えた。
「なるほど。変わったシステムですね」
「そうかな? まあ、もともとは骨董品屋で、そっちがメインだったんだ。〝忘れ物〟を売ろうと思ったのは俺の意思だし」
「俺の意思」というところに引っ掛かりを覚えた。骨董品屋は店員さんが始めたものじゃないんだろうか。
私が疑問に感じていることを察知してくれたのか、「もともとは親父の店だったんだ」と彼はぽつりと呟く。
「親父がここで、普通の骨董品屋を営んでいた。それを、俺が継いだんだ。せっかく自分の店になるのだし、新しいことをしようと思ってね。忘れ物には持ち主の想いが詰まっている。そんな持ち主の想いを無駄にしたくないと思ったんだ」
遠い目をして話してくれる店員さんは、何か胸のうちに並々ならぬ想いを抱えているように感じられた。でも、今この場で彼の胸中をすべて知ろうとは思わなかったし、彼だって見ず知らずの娘に、すべてを話すつもりはないだろう。
「なんか、いいですね」
胸にじんと迫ってくるものを感じて、ありのままの気持ちを呟いた。
「いい?」
店員さんが目を丸くして私を見やる。私の素直な感想に驚いている様子だった。
「誰かの忘れ物をきちんと保管して販売するって、素敵だと思います。忘れ物って放っておいたら本当に忘れられて捨てられるだけじゃないですか。でもこうして並べることで、元の持ち主のもとへ帰ったり、新しい持ち主に拾われたりするんですよね。店員さんが、ものを大事にする気持ちが伝わってきます」
就活の面接でもこんなふうに思ったことをぽんと口にすることはできなかった。それなのに、どうして初対面の彼には、素直に自分の気持ちを表現することができるのだろうか。内心自分でも不思議に思いつつ、それでも想いを伝えられたことにすっきりとした心地だった。
「お前さん……」
店員さんが感慨深そうにつぶやく。失礼なことを言ってしまっただろうか、と一瞬ドキリとしたが、店員さんが目をきゅっと細めて「ありがとう」と言うのを聞いてほっと安堵した。
と同時に、胸に温かな灯火がともるような心地にさせられた。
どうしてだろう。
久しぶりに、面接以外で目上の人と話したからだろうか。この店員さんは企業の面接で出会ってきた人たちと全然違う。みんな、自分の仕事をまっとうしているところは同じはずなのに、目の前の店員さんだけが、私の言葉を真正面から受け止めてくれているような気がしたのだ。
「あの……もしご迷惑でなければ、ここで働かせてもらえませんか?」
気がつけば口から、自分でも信じられないようなお願いがこぼれ落ちていた。
ここで働かせてほしい。
胸の奥から湧き上がってくる一つの衝動を抑えることができなかったのだ。
「働く?」
店員さんは、突然の申し出にぽかんと口を開いて戸惑っている様子だ。当然だ。たまたまやって来た客から、いきなり「働きたい」などと言われるとは思ってもみなかっただろう。
「はい。あ、もちろんアルバイトで。必要な時だけシフトに入らせていただくだけでもちろん構いません。店員さんの邪魔はしないつもりです。私今、就活浪人生で大学とかもないので、面接の時間以外なら、シフトはいくらでも入れます。……だめでしょうか」
カフェのアルバイトは就活を理由に辞めたくせに、ここでのアルバイトなら就活と両立してやってみたいと思ったのは、忘れ物を売っているこのお店のコンセプトが気に入ったからだ。結局、カフェのアルバイトは単に興味がなかっただけなのだと気づく。本当にやりたいことなら、隙間時間にでも取り組みたいと思うのが人間なのだ。
店員さんは私の言葉を聞いてしばらくの間黙りこくっていた。もともと渋めの顔をしたおじさんなので、じっと黙り込まれると寡黙で怖い人なのかな、と初対面の人は勘違いするだろう。骨董品の中にある時計が、チ、チ、チと時を刻む音だけが店内に静かに響き渡る。沈黙しながら店員さんの次の言葉を待った。
やがて店員さんはゆっくりと息吸い込むと、私の目をまっすぐに見つめて言った。
「お願いしようかな」
「いいんですか!?」
自分で頼み込んだくせに、働いていいと言われて身体が勝手にぴょんと飛び跳ねた。
普段、企業面接でお祈りメールをもらうばかりだったので、アルバイトとはいえあっさりと採用を言い渡されたことに驚きと喜びが入り混じる。
「あ、ああ」
前のめりに喜ぶ私を見て、店員さんが一歩たじろぐ。私は、「失礼しました」と咳払いをしながら頭を下げる。
「私、小坂純恋といいます。先ほどもお伝えしましたが、春に大学を卒業して、今は就活浪人生です。専業のイラストレーターとして働くのが夢だったのですが……世の中そううまくいかないですね。とにかく、一般企業に就職する道を探している途中で他のアルバイトを辞めてしまったので、採用していただき大変嬉しいです。これからよろしくお願いします」
緊張でついつっかえつっかえ話してしまう普段の面接とは違い、店員さんに対しては淀みなく現状を伝えることができた。
私が何者なのか分かってようやく安心したのか、店員さんは「よろしくお願いします」と同じように挨拶をしてくれた。
「店主の時雨多門です。年齢は五十五歳。家族はいないから、店が閉まっている時間もほぼずっと店に入り浸っている。小坂さん、ぜひよろしく」
熱い握手を交わした私たちは、お店の入り口で微笑み合う。
それにしても、時雨多門だなんて役者のような響きの名前で驚いた。『忘れ物しぐれ堂』の名前は多門さんの名前からとったんだ。
「時雨多門さんって、素敵な名前ですね。……て、こんな小娘に褒められても嬉しくないですよね」
「いや、そんなことない。実は俺も気に入っているんだ。名前を言えば、すぐに覚えてもらえるしな。小坂さんの純恋っていう名前も十分素敵だと、思う」
多門さんがぎこちない喋り方で私の名前も賞賛してくれた。
お返しに無理やり褒めてもらえるように仕向けたみたいで、ちょっとだけ申し訳ない気持ちになったが、素直に喜んだ。
「ありがとうございます! 精一杯働きますので、ぜひよろしくお願いします」
一期一会の出会いになるはずだった、主計町茶屋街での偶然の出会い。門戸を開いたのは他でもない私だ。忘れ物を販売するという店主の想いに惹かれてしまったから。
これからこの店で、どんな経験をするのだろう。
昔懐かしいおばあちゃんの家のような匂いが充満する店内で未来に想いを馳せてみる。
今はただ、新しい人生が始まる予感に、久しぶりに胸がわくわくと踊り出すのだった。
***
「うん……うん。それでね、その『忘れ物しぐれ堂』でアルバイトとして働かせていただくことになったの。そうそう。もちろん就活も続けとるよ。だから私の生活のことは心配しないで」
『忘れ物しぐれ堂』でアルバイトに採用された日の夜、金沢市内にある自宅のマンションから、九州の病院に入院している母に電話をかけた。
『アルバイト? あんたそんなことする暇あると? イラストの仕事はどうなったとよ』
母が私を心配する声が耳につんと響く。
母は、私が就活をすることよりアルバイトをすることよりも何よりも、夢だったイラストレーターの仕事をしてほしいと願っているのだ。それなのに、急に新しいアルバイト先を見つけたと伝えたところで、母が驚くのも無理はない。
「も、もちろんイラストの仕事も……続けとるよ。心配せんでいいって」
つい、迷いつつも強い口調で「心配しなくていいから」と念押ししてしまう。たぶん私は、母親に自分の将来のことを心配されるのが一番嫌なのだ。
『そう。イラストの仕事続けとるならお母さんはなんでもいいけど。純恋が元気にちゃんと自分の夢に向かって歩いとるならそれでよか』
「うん……」
いつどんな状況の中でも、母は私に夢を応援してくれている。就職先を探して奔走したり、イラストとは関係ない新しいアルバイトを始めたり、ちょっぴり後ろめたい気持ちになった。
母に「身体、気をつけてね」とだけ言い残し、電話を終えた。
母の声を聞くと、今すぐ九州に飛んで帰りたい衝動に駆られる。
でも、だめだ。
私はまだ、何者にもなっていないから。
イラストの仕事をしていない私に会ったら、母は失望してしまうだろう。
だから、母の希望通りに生きられるようになるまで、母に会えない。
そんなふうに考えている自分がいた。
「不束者ですが、今日からよろしくお願いします!」
「不束って……たぶん使いどころ間違ってるけど、まあ、よろしく」
十一月一日、木枯らしがひゅうひゅうと吹く中、『忘れ物しぐれ堂』に初出勤を果たした。相変わらず昔懐かしい香りのする店内は、一歩中に足を踏み入れるだけでほっと心が安らいた。気合いは十分。接客の経験はあるので、お客さんと接するのに抵抗があるわけでもなく、今すぐにでもお客さんが来てくれないかな、とわくわくしていた。
そんな私を、店主の多門さんは落ち着き払った瞳で見つめている。
いつどんなことが起きても、この人は動揺せずに泰然自若としていそうだな。出会って二日目だけれど、多門さんの安定感には目を瞠るものがある。
「この間も説明した通り、警察に届けて引き取り手のなかった忘れ物を、一度『保管棚』に保管する。三ヶ月して元の持ち主が現れなければ値段をつけて『販売棚』に移動させる。『販売棚』に移動させたあとは、誰でも購入することができる。ここまではいいかね?」
多門さんの忘れ物販売についての説明を、メモを取りながら聞く。シンプルなルールではあるが、間違っていきなり忘れ物を『販売棚』に置くなどすれば、元の持ち主への敬意を踏み躙ることになるので、注意しなくちゃいけない。
「質問、いいですか?」
「ああ。なんだい?」
「『保管棚』に忘れ物を保管している時に、元の持ち主だと名乗る人が現れるとするじゃないですか。で、その人が『これは私が落としたものです!』と主張する。でも、嘘を言っている可能性もありません……? 『保管棚』に並んでいるものは高価なものだってあるでしょう? だから、あまり考えたくはないけど、そういう悪いことを考える人もいるのかなぁって……」
実際、本当に考えたくはないことだが、世の中にはいろんな人がいる。自分のものではないのに、「自分が落としたものだ」と主張する人が現れてもおかしくはない。
多門さんは私の質問を聞いて、「うんうん」と頷いていた。どうやら、これまでそういう人が現れたことがあるようだ。経験がある、と彼の顔に書いてあるみたいだった。
「そうだね。お前さんの言う通り、中には嘘をついて忘れ物を自分のものだと言い張る人がいる。だから、『保管棚』の忘れ物を取り戻すにはあるルールがある」
「ルール?」
「ああ。自分の持ち物だと主張するものが、本当にその人のものなのか、証明をしてもらうんだ」
「証明……でも、どうやって」
その忘れ物が自分のものであると証明する——理屈はとてもよく分かるが、どうやって証明するのかいまいちピンとこず、首を傾げた。
「一番確実で分かりやすいのは、本人が忘れ物を身につけている写真を見せてもらうことだな。あとは、ネットで購入したものだったら購入完了メールなんかを見せてもらうのでもいい。そういった証拠がなければ……俺は、エピソードを語ってもらうことにしている」
「エピソードを語る?」
「ああ。思い入れのあるものなら、どこで手に入れたのか、どうやって使っていたのか、覚えているはずだろう? そのものと印象に残っているエピソードを語ってもらうんだ。あとはもう自己判断になるけど。納得できたら、忘れ物はその人のもとに返すことにしているよ」
「なるほど」
確かに、その方法なら本当に忘れ物がその人のものなのか、大体見分けがつきそうだ。嘘のエピソードを語る人も出てくるかもしれないが、そこまでの悪人にはこれから天罰が下ると、多門さんは静かに語ってくれた。
「まあ今まで、あまりエピソードを語ってくれた人はいないな。たいていみんな写真を見せてくれる。一番手っ取り早い方法だからな」
「そうなんですね。写真があるならそれを見せてもらうのが客観的に見ても最適な方法ということですね」
「そういうことだ」
多門さんにルールを説明してもらって、疑問は消え去った。
『販売棚』に移動したものは普通の商品と同じように販売するだけ。覚えることはあまりないと感じた。
その後多門さんは、普段のアルバイトでしてほしいことや、商品の説明なんかをしてくれた。掃除、骨董品の整理、骨董品の埃取り、忘れ物の期限チェック、レジ打ちなどを任された。ほとんど多門さんがやっている仕事すべてということだ。
「忘れ物の期限は、それぞれの忘れ物にシールが貼ってある。ネックレスなんかはタグシールが貼ってあるだろ」
そう言われて、再び『保管棚』のほうをじっと見つめる。確かに、ネックレスにはタグシールに「2025/11/14」と書かれていた。このネックレスはもうすぐ期限を迎えるらしい。
「忘れ物のタグシールは毎日確認して、期限を迎えていたら『販売棚』に移動させる。その時に一緒に値段もつけるから、値段については俺に相談して」
「分かりました。覚えておきます」
『保管棚』にはざっと五十品以上忘れ物が保管されている。すべての期限を確認するのは手間ではあるが、その手間は惜しまないようにしよう。
「これで一通り教え終わったかな」
多門さんがふう、と息を吐いたところで、私はようやく仕事を始められると意気込んだ。
「ありがとうございます。これから頑張ります!」
気合いは十分。
さあ、お客さんよ、どんと来い!
とお店の扉を見つめて念を送るのだった。



