湯気が立つダージリンティーにふうふうと息を吹きかけてから、ひと口いただく。フルーティーな味わいがふわっと口の中に広がる。
家では紅茶なんて飲まないし、外で飲むときは大抵先輩や上司がいて、気を遣っているせいでゆっくり楽しむことなどできない。だから、紅茶をこんなに美味しいと思うことはこれまでなかった。
カステラもひと口。主張の激しくない甘さとふわふわの食感が絶妙で、美味しい、という言葉がこぼれる。
「よかったわ。——ところで、あなたはこのままじゃダメだと思っているのかしら?」
ノクティアは透きとおった金色の瞳でこちらを見つめている。なんだか何もかも見透かされているような気がする。それに、彼女なら私の悩みを優雅に包んでくれそうな気がした。気づけば、するすると口から悩みごとが滑り出す。
「とりあえずみんなの言うとおりよさそうな道を進んできたんですけど、最近、このままでいいのかなって思うことが増えてきて——」
なんとなく大学に進んで、なんとなく就活を始めて。何がしたい、よりも何がよしとされているかを優先して動いている。あの企業は一年目から結構もらえるらしい、就職偏差値70を目指すべき、最低でも60くらいの企業じゃないと、なんて一般的に言われていることをそのまま受け入れて頑張ってきた。
どこに進めばいいかもわからず、とりあえず大手と呼ばれるところに入れれば成功だ、そう思ってインターンに飛び込んだけれど、想像の何倍も大変で忙しくて、このまま進んで大丈夫なのかなと思い始めた。私はこの先普通の社会人としてちゃんとやっていけるのだろうか、と何度も不安になる。
周りはうまくいっているように見えてしまう。やりたいことを見据えてそこに向かって全力投球しているひともいれば、やりたいことはないと割り切って、年収を高めることだけを考えて全力疾走しているひともいる。うらやましい。私はみんなみたいに普通にはなれない、そんな気がしてしまうのだ。
こんなことだったら、もっとちゃんと将来のことを考えておくべきだった。文理選択のとき、大学進学のとき、タイミングはたくさんあったはず。でも、いつだって選択肢のほうから歩いてきてくれるものだと信じて、なんとなく選んできた。その結果、いまは後悔することしかできないでいる。
「私はどうすればいいんでしょうか……」
話しながら、途方に暮れる。本当に私、この先どうすればいいんだろう……。
「確かに、無限にあるように思える道からひとつに絞るのは途方もないことに思えるわよね」
現実世界の不安と焦燥感がよみがえってきて、落ち着けるためにダージリンティーを飲んだ。美味しさとあたたかさにほっと息をつく。
「そうね……あなた、本当はやりたいことがあるんじゃない?」
「え?」
ノクティアは相変わらず透きとおった瞳でこちらをじっと見つめている。それから、落ち着いた焦げ茶色の机からティーカップを浮かせて傾け、優雅に紅茶を飲み、また話し始める。あたりの空気は彼女に支配されているかのようで、それでいて落ち着いていた。
「選ぶ言葉や間の取り方は、あなたが思う以上に雄弁よ。あなた、見て見ぬふりをしている灯火があるでしょう」
彼女はそう言って、前足をくるりを回した。
途端、あたりの景色がパッと変わった。
私は壇上でメディアに囲まれ、たくさんのフラッシュの中、コメントを述べている。どうやら、小説で受賞し、その授賞式に参加しているようだった。受賞のよろこび、カメラを向けられている緊張感、そのどれもがリアルで、心が湧き立つ。
次の瞬間、またノクティアの部屋に引き戻される。私は私の中にまだ残っている灯火の存在に気づかされて、哀しくなる。知らぬ間にはらはらと熱いものが頬を通って落ちていく。
アステールがすぐさま絹のハンカチを渡してくれる。
「そうなんです。本当は小説家になりたかった。でも、私には才能がないってわかったんです」
「あら? 才能なんてまだ花開いていないだけかもしれないわよ?」
「でも……やっぱり現実を見たほうがいいって思うんです。みんなそうしているし。それに、やっぱりお金がないと生きていけないわけで、才能がないまま専業の小説家にはなれない。安定した収入源がないと……」
「そう」
ノクティアはこてりと首を傾げ、少し間を取ってから質問してくる。
「それで、あなたは小説が好きなのかしら?」
「最近はあまり時間がなくて読めていません。でも、好き、だと思います」
「どうして、『だと思います』なんてつけるの?」
目の前の黒猫は、どこまでも純粋に質問を繰り返す。私は自分が保身に走っていることに気づきながらも、でもそうせざるを得ないことを説明する。
「やっぱり、毎日のように本を読んでいないひとが本好きだなんて、おこがましくて言えないかなって……」
世の中には、暇さえあれば本を読んでいるような本当の本好きがたくさんいる。そんな中、たまに読むくらいの私が小説が好き、なんて言っていいとは思えないのだ。そんなの本好きにも、小説家にも、本にも失礼だと思う。
カステラをひと口食べて、心の中で小さく存在を主張する寂しさを忘れるよう努める。
「あら、毎日読んでなきゃ、本好きを名乗れないなんて、そんなルール、誰も決めてないのよ。あなたの好みはあなたが決めていいもの、そうでしょう?」
ハッとして、カステラがフォークからぽとりと落ちる。
「あなたが好きと言ってくれたら、きっと小説家だって本だって嬉しいはず。それで自分のほうが本をたくさん読んでいるからってマウントを取るようなひとは、心に余裕がないだけだわ。そのひとに遠慮して名乗らないのは違うわよ。——どうかしら、小説はお好き?」
「好き、です」
「そうよね。じゃあ、そのあなたの中にある灯火をもっと大切にしてあげてちょうだい。そのあかりの使い方は、あなた次第なのよ」
ノクティアの言葉が、すとんと胸に落ちて、優しく広がる。そっか、私、本が好きって、小説が好きって言っていいんだ。
確かに、大手に就職するとか就活で成功することばかり考えていて、志望業界だってみんながいいと言っているところを選んでしまっていた。自分の好きなものから将来を考えるなんて、結構当たり前の発想なはずなのに、いつの間にか忘れてしまっていたんだ。
そうだ、本に関わる仕事をすればいいじゃないか。そうすれば、大変でも頑張れそうだ。小説家にならなくても、編集も製本も販売も、小説を世に出す幸福な仕事だ。小説家にこだわりすぎて、視野が狭くなっていたらしい。
不安が渦巻いていた心が凪ぐ。ダージリンをまたひと口いただいた。
家では紅茶なんて飲まないし、外で飲むときは大抵先輩や上司がいて、気を遣っているせいでゆっくり楽しむことなどできない。だから、紅茶をこんなに美味しいと思うことはこれまでなかった。
カステラもひと口。主張の激しくない甘さとふわふわの食感が絶妙で、美味しい、という言葉がこぼれる。
「よかったわ。——ところで、あなたはこのままじゃダメだと思っているのかしら?」
ノクティアは透きとおった金色の瞳でこちらを見つめている。なんだか何もかも見透かされているような気がする。それに、彼女なら私の悩みを優雅に包んでくれそうな気がした。気づけば、するすると口から悩みごとが滑り出す。
「とりあえずみんなの言うとおりよさそうな道を進んできたんですけど、最近、このままでいいのかなって思うことが増えてきて——」
なんとなく大学に進んで、なんとなく就活を始めて。何がしたい、よりも何がよしとされているかを優先して動いている。あの企業は一年目から結構もらえるらしい、就職偏差値70を目指すべき、最低でも60くらいの企業じゃないと、なんて一般的に言われていることをそのまま受け入れて頑張ってきた。
どこに進めばいいかもわからず、とりあえず大手と呼ばれるところに入れれば成功だ、そう思ってインターンに飛び込んだけれど、想像の何倍も大変で忙しくて、このまま進んで大丈夫なのかなと思い始めた。私はこの先普通の社会人としてちゃんとやっていけるのだろうか、と何度も不安になる。
周りはうまくいっているように見えてしまう。やりたいことを見据えてそこに向かって全力投球しているひともいれば、やりたいことはないと割り切って、年収を高めることだけを考えて全力疾走しているひともいる。うらやましい。私はみんなみたいに普通にはなれない、そんな気がしてしまうのだ。
こんなことだったら、もっとちゃんと将来のことを考えておくべきだった。文理選択のとき、大学進学のとき、タイミングはたくさんあったはず。でも、いつだって選択肢のほうから歩いてきてくれるものだと信じて、なんとなく選んできた。その結果、いまは後悔することしかできないでいる。
「私はどうすればいいんでしょうか……」
話しながら、途方に暮れる。本当に私、この先どうすればいいんだろう……。
「確かに、無限にあるように思える道からひとつに絞るのは途方もないことに思えるわよね」
現実世界の不安と焦燥感がよみがえってきて、落ち着けるためにダージリンティーを飲んだ。美味しさとあたたかさにほっと息をつく。
「そうね……あなた、本当はやりたいことがあるんじゃない?」
「え?」
ノクティアは相変わらず透きとおった瞳でこちらをじっと見つめている。それから、落ち着いた焦げ茶色の机からティーカップを浮かせて傾け、優雅に紅茶を飲み、また話し始める。あたりの空気は彼女に支配されているかのようで、それでいて落ち着いていた。
「選ぶ言葉や間の取り方は、あなたが思う以上に雄弁よ。あなた、見て見ぬふりをしている灯火があるでしょう」
彼女はそう言って、前足をくるりを回した。
途端、あたりの景色がパッと変わった。
私は壇上でメディアに囲まれ、たくさんのフラッシュの中、コメントを述べている。どうやら、小説で受賞し、その授賞式に参加しているようだった。受賞のよろこび、カメラを向けられている緊張感、そのどれもがリアルで、心が湧き立つ。
次の瞬間、またノクティアの部屋に引き戻される。私は私の中にまだ残っている灯火の存在に気づかされて、哀しくなる。知らぬ間にはらはらと熱いものが頬を通って落ちていく。
アステールがすぐさま絹のハンカチを渡してくれる。
「そうなんです。本当は小説家になりたかった。でも、私には才能がないってわかったんです」
「あら? 才能なんてまだ花開いていないだけかもしれないわよ?」
「でも……やっぱり現実を見たほうがいいって思うんです。みんなそうしているし。それに、やっぱりお金がないと生きていけないわけで、才能がないまま専業の小説家にはなれない。安定した収入源がないと……」
「そう」
ノクティアはこてりと首を傾げ、少し間を取ってから質問してくる。
「それで、あなたは小説が好きなのかしら?」
「最近はあまり時間がなくて読めていません。でも、好き、だと思います」
「どうして、『だと思います』なんてつけるの?」
目の前の黒猫は、どこまでも純粋に質問を繰り返す。私は自分が保身に走っていることに気づきながらも、でもそうせざるを得ないことを説明する。
「やっぱり、毎日のように本を読んでいないひとが本好きだなんて、おこがましくて言えないかなって……」
世の中には、暇さえあれば本を読んでいるような本当の本好きがたくさんいる。そんな中、たまに読むくらいの私が小説が好き、なんて言っていいとは思えないのだ。そんなの本好きにも、小説家にも、本にも失礼だと思う。
カステラをひと口食べて、心の中で小さく存在を主張する寂しさを忘れるよう努める。
「あら、毎日読んでなきゃ、本好きを名乗れないなんて、そんなルール、誰も決めてないのよ。あなたの好みはあなたが決めていいもの、そうでしょう?」
ハッとして、カステラがフォークからぽとりと落ちる。
「あなたが好きと言ってくれたら、きっと小説家だって本だって嬉しいはず。それで自分のほうが本をたくさん読んでいるからってマウントを取るようなひとは、心に余裕がないだけだわ。そのひとに遠慮して名乗らないのは違うわよ。——どうかしら、小説はお好き?」
「好き、です」
「そうよね。じゃあ、そのあなたの中にある灯火をもっと大切にしてあげてちょうだい。そのあかりの使い方は、あなた次第なのよ」
ノクティアの言葉が、すとんと胸に落ちて、優しく広がる。そっか、私、本が好きって、小説が好きって言っていいんだ。
確かに、大手に就職するとか就活で成功することばかり考えていて、志望業界だってみんながいいと言っているところを選んでしまっていた。自分の好きなものから将来を考えるなんて、結構当たり前の発想なはずなのに、いつの間にか忘れてしまっていたんだ。
そうだ、本に関わる仕事をすればいいじゃないか。そうすれば、大変でも頑張れそうだ。小説家にならなくても、編集も製本も販売も、小説を世に出す幸福な仕事だ。小説家にこだわりすぎて、視野が狭くなっていたらしい。
不安が渦巻いていた心が凪ぐ。ダージリンをまたひと口いただいた。



