「もしもーし、お客さま? おーい、お客さまー、切符をお見せくださいませー。おーい」

 ひざにペシっと衝撃が走る。びっくりして飛び起きると、先ほどまでと目の前の景色がまるで違うではないか。何ごとかと固まっていると、また声をかけられる。

「お客さま、切符をお見せください。切符をお持ちでない場合は、お帰りいただくことになりますので」

 どこから声をかけられているのかと思えば、左どなりに三毛猫が小さな車掌っぽい制帽をかぶって座っていた。信じられないことに、猫が人語をしゃべっているのだ。

「え、ええ?」

 あまりにファンタジックな状況に、とまどいが隠せない。あたりを見渡すと、どうやらここは西武新宿線の車内ではないようだ。海外のように、コンパートメントで仕切られているタイプの電車で、外を見てもどこを走っているのかはよくわからない。
 それでもって、となりには人語を話すおかしな三毛猫。ぽかーんと口を開けたまま、何も答えられないでいると、急かすように猫がまたしゃべり出す。

「だから、お客さん。切符ですよ、切符。早く出してくださいよ」
「き、切符……? でも私、PASMOで乗りましたけど……」
「おカバンの中にお持ちのはずですよ。ちゃんと入っておりますとも」

 ハッとして右どなりを見ると、先ほどまで持っていたリクルートバッグが変わらず置いてあった。ほっとして、チャックを開ける。すると、まず一番に目に飛びこんできたのは、見覚えのない黄色い紙だった。

「それですよ、その黄色いのが切符です」
「あ、ああ、これなんですね。どうぞ」

 わけがわからないまま、とりあえず三毛猫に紙を渡した。猫は器用に切符を受けとり、その黒い瞳で確認を始めた。何が書いてあるのだろう、と三毛猫の手もとを覗きこむと、少なくとも日本語ではない文字が書かれている。

「おお、これはこれは。黒猫城(くろねこじょう)ゆきの切符ですな。未来をお探しのようで」
「黒猫城? 私、自分の家に帰りたいんですけど……。拝島ゆきに乗っていたはずです。ここはどこなんですか? どうすれば帰れますか?」
「まあまあ、そう慌てなさるな」三毛猫はひげをぴくりと動かして、居住まいを正した。
「この電車は——【またたび特急黒猫城行】、悩める人間たちに、猫が癒しを提供する電車です。人間界に戻れるのは、用事が済んでから。それまではどうぞごゆるりと癒しの旅を堪能してください。あなたの切符は黒猫城ゆきのものですので、そのまま終点まで乗っていてくださいな」

 混乱したまま、次の質問を選んでいるすきに、三毛猫車掌は切符を返してコンパートメントを出て行ってしまった。
 せめて、ほかのコンパートメントに行けば、人間に会えるかもしれない。この不思議な世界についてもう少し情報がほしい。
 そう思って、コンパートメントの仕切りを開けようとするけれど、それはびくともしなかった。どうして? さっき三毛猫はするりと開けて出て行ったではないか。
 まったく困ってしまった。見たことも聞いたこともない電車の一室に、閉じこめられてしまったのだから。

「はあ、早く帰りたいのに……」

 ため息は溶けて消える。
 けれど、窓の外をもう一度見てみると、憂うつな気分は一気に消し飛んだ。

「わあ!」

 思わず声を上げてしまうくらい、幻想的な風景。建物や街などは一切見えないけれど、あたりには淡い光の玉がふわふわとたくさん浮かんでいて、まるでイルミネーションのようだ。夏まっただ中なのに、クリスマスの時期のような浮かれた気分になる。
 またたび特急の振興方向が少し斜めに曲がり、窓から前の車体が見える。そのとき初めて、車体が空中に浮かんで走っていることに気づいた。もうファンタジックな世界にはそこまで大きなおどろきはなかった。
 ふと、『銀河鉄道の夜』を思い出す。小学生のころ、何度も繰り返し読んだ大好きな作品だ。当時は死者を乗せている電車であることはなんとなくしかわかっていなかったから、私もジョバンニとカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗ってみたい! とよく言っていたのを覚えている。
 いま乗っているこのまたたび特急は、まさに銀河鉄道のようだ。光の中を浮いたまま進んでいる、幻想的な電車。
 もしかしたら、私は死んでしまったのかもしれない。
 一瞬そんなことを考えたけれど、すぐにかき消す。いまはとにかく何も考えず、この素敵な空間を堪能したい。毎日が忙しなくて、景色を楽しむ余裕など最近はまったくなかった。ゆとりを持つことも大切だな、なんて思う。
 淡い光がゆらめいて、この先への不安や焦りを少しだけ薄れさせてくれる。なんて、あたたかい景色なんだろう。