夏目くんに「好きって言ってもいいですか?」と言われてから、少しだけ、僕はおかしくなった。
 それまで何気なく通っていた教室の廊下も、天文部の扉も――その言葉を思い出すたびに、まるで別の色に染まってしまったように見えた。
 授業中、ノートの隅に星座を描いていても、ふとした瞬間に彼の声が頭の中で反響する。

 ——好きって、言ってもいいですか?

「……だめ、なんて言ってないじゃないか」

 独り言のように呟いて、僕はそっとノートを閉じた。

 返事をしなかったわけじゃない。
 ただ、出来なかっただけだ。
 彼の言葉は、僕にとってあまりにもまっすぐすぎて——胸の奥の、柔らかい場所がうまく呼吸できなくなるくらい真っ直ぐだったから。

 それからしばらく、夏目くんは天文室に来なかった。
 もともと文化祭の準備で忙しいだろうし、言ってしまったことを後悔してるのかもしれない。
 いや、もしかしたら——ただの気まぐれだったのかも、なんて。
 そんな風に、考えて、また考えてぐるぐるして。
 でも、考えすぎてなんだか少しだけ、疲れてしまった。

 だから週末、僕は夕方の屋上に足を運んだ。

 観測ドームの上――フェンス越しに見える西の空が、静かに金色へと変わりはじめていた。

 風が少しだけ涼しい。
 季節は、ほんのすこしずつ、秋へ傾いている。
 そんな風景の中に、見慣れた姿があった。

「……先輩?」

 その声に、心臓がひと跳ねた気がした。
 驚いて振り返ると、そこにいたのは夏目くんだった。
 シャツの裾を無造作に出したままフェンスに背を預けている。

「……あ、ごめん。もしかして、先輩一人で星を見に来てた?」
「ちがう……今日、来ないかなって思っていたんだ」
「……俺も、同じこと考えてたんですよ」

 彼は、夕陽を背にしながら穏やかに笑った。

「ほんとは、文化祭の準備で出し物のリハだったんですけど……ちょっとだけ、抜けてきました……先輩に、謝りたくて」
「え、謝る?」
「この前、変なこと言ったから……困らせたかなって。先輩、黙っちゃったから……俺、またやっちゃったなって思って」
「それは……ち、ちがうよ」

 言葉が、先に口をついて出た。
 自分でも驚くほど、迷いがなかった。
 夏目くんは、少し驚いたように目を見開く。
 けれど、否定でも拒絶でもない事をすぐに察してくれたようだった。

「ただ、その……困ってたんじゃなくて、答えがすぐ出なかっただけなんだ……ああいう風に言われた事は今まで一度もなかったから、その……」

 僕の声は空気のなかに慎重に置かれるようにして、言葉になった。

「……じゃあ」

 彼の声が少しだけ低く、慎重に僕の返答を待っていた。

「嫌じゃなかった。本当だよ……ただ、ちょっとだけ、こわかった」
「こわい?」

 夏目くんの声が、そっと僕の胸に触れる。
 急かさないように、でも、ちゃんと届くように。

「誰かに、そんなふうに言われること、見られること、そして、真っ直ぐに好きって言われる事が」

 僕の声は、空に溶けてしまいそうなくらい、小さかった。
 それでも、夏目くんは一言も聞き漏らすまいと静かに耳を傾けてくれていた。
 彼は、フェンスから背を離し、ゆっくりと僕の前へと歩み寄ってくる。
 手はまだポケットに入ったまま。
 けれど、その視線は、真っ直ぐ僕を見つめていた。

 迷いも、揺らぎもなく――まるで星を見つけたときのような確信のある目で。

「じゃあ、今。もう一回だけ言ってもいいですか?先輩」

 その問いに、僕はゆっくりと頷いた。

「……うん」

 たったひとつの音が、風に乗って彼の元に届く。

「俺、白石先輩が、好きです。星の話をするときの目も、静かに笑う顔も、誰にも見せないところも——誰よりも先輩がいいって思ってます」

 その言葉は、確かに僕の胸に届いた。
 まっすぐで、少し熱を帯びていて、けれど、押しつけるでもなく優しさを含んだ光のようだった。

「……それでも、怖いですか?」

 彼の問いかけは、決して答えを急がなかった。
 僕の心が、答えにたどり着くまでの時間ごと、受け止めてくれるようだった。
 僕はそっと、静かに息を吐き、首を横に振った。

「……ちょっとだけ、怖くないかも」
「本当に?」
「うん……夏目くんが、変わらずにいてくれたから」

 彼は、ようやく肩の力を抜いたように少しだけ笑う。
 安心したように、でも少し照れたように。

 そして——ほんの少しの間を置いて、ゆっくりと片手を僕のほうへ差し出してきた。

 その手のひらは、躊躇いも全くなく、真っ直ぐにこちらを向いていた。
 まるで、待っていると語りかけるように。

「……じゃあ、繋いでもいいですか?」

 僕は、ほんのわずかに迷って——けれどその迷いも、彼の静かな眼差しがそっと解いてくれて。
 ゆっくりと、自分の手を伸ばす。
 すると彼の手に、指先が触れる。
 その手は、少しだけ汗ばんでいて、でも確かに温かかった。

「……はい」

 その瞬間、背後で風が吹き抜けてフェンスがかすかに軋む音がした。
 空を見上げると、薄暮のなかに、一粒の星が瞬いていた。
 まだ夜になりきらない空の中で、誰よりも早くその存在を知らせてくれるように。

 それはきっと、彼の言葉みたいだった。

 ——真っ直ぐで、あたたかくて、僕にとっての、一番最初の光。