君は夜空に落ちた一番星

 七月の半ば――学校は文化祭の準備でにわかに騒がしくなっていた。
 体育館には立て看板や段ボール、廊下には絵の具の匂いが広がって色とりどりの紙片がひらひらと舞っている。
 でも、天文部の僕には出番なんてほとんどなかった。
 展示の参加表明はしているけれど、手伝ってくれる部員がいるわけでもないし先生たちも僕の存在を半分くらい忘れているようだった。

 だから、今日も僕は観測ドームにいる。

 一人、夏の星座を整理して星図を描き直していた。
 窓を少しだけ開けると、湿った風がふわりと吹き込んで汗ばんだ首筋に気持ちよかった。

「先輩、今日もいた!」

 静かに開いたドアの向こうに見慣れた声。
 そして見慣れつつある顔が現れた。

 夏目くんが僕の視界から姿を見せた。

 明るく汗ばんだ額――濡れた髪が額に貼りついていて手には紙コップを二つ持っている。

「文化祭、準備おつかれさまです、ってことで。差し入れです」

 そう言って、彼はコップをひとつ僕の手元へ差し出す。

「ありがとう……でも、練習とか、大丈夫なの?」
「うーん、実はちょっとサボってきた。先輩に会いたくて」

 言葉を受け取るより早く、僕の手がわずかに止まった。

 ――会いたくて。
 
 そんな言葉を、こんなにあっさりと投げかけるものなんだろうか?

 だけど、彼の顔は、いたって自然だった。
 今日も変わらず、いつも通りに笑っている夏目くんを見る事しか出来ない。

「……真面目にやらないと、監督に怒られるんじゃない?」
「まぁ、バレなきゃセーフってことで……それに、俺、こういう時間も必要なんです」
「こういう時間?」
「うん。静かな時間……先輩と、星の話をする時間」

 夏目くんの言葉に僕は言葉を返せなくて、代わりに手元のカップを揺らした。
 カラン、と氷の音がして、どこか胸の奥をくすぐった。

「……星図、描いてるんですか?」
「あ、う、うん……夏の大三角とか、ペルセウス座流星群の記録とか……文化祭で展示するために」
「すげぇ……俺、そういうの全然知らないけど、先輩が話すとめっちゃ面白そうに聞こえる」
「はは……褒めすぎだよ」
「褒めてるんです、本当に」

 夏目くんは、星図をのぞき込んだまま、目を細めた。
 疲れているはずなのに、どこか嬉しそうでその横顔が不思議と心に残った感じがした。

「……あのさ、先輩」
「なに?」
「俺、星とか宇宙とか、今までぜんぜん興味なかったんですけど……でも、先輩が話してくれるとなんか、自分も見てみたくなる。それってすごい事だと思うんですよ」
「……そうかな」
「そうですよーだって先輩は、俺にとって——」

 言いかけて、夏目くんは言葉を止めた。
 かわりに、星図の上に指を伸ばし一つの星をそっとなぞる。

「俺にとってこういう感じなんです、先輩って」
「……こういう感じ?」
「いちばん先に見える星。遠いけど、見つけたらなんか目が離せなくなる星」

 夏目くんの言葉に僕は何も言えなかった。

「……変ですよね、こんなこと言って」
「変じゃないよ」

 気づけば、僕の声は、自分でもわかるくらい小さくなっていた。
 けれど、それでもちゃんと彼に届いたらしく夏目くんは安心したように笑った。
 胸の奥で、そっと何かが揺れる。
 それはほんの少しの沈黙や、たった一言の言葉で、音もなく波紋を描くような感情だった。

 まるで、水面にぽとんと落ちた雫みたいに——静かで、小さくて、でも確かに自分のなかの何かを変えていくような。

「……ねえ、先輩」
「なに?」

 呼びかけの声が、やけに穏やかだった。
 その声音だけで、また心がざわつく。


「好きって、言ってもいいですか?」



「……え?」

 耳に届いたはずなのに、すぐには意味が理解できなかった。
 目の前にいる彼が、そんなふうに言ったという事実がどこか現実味を持たない。

「いや、変な意味じゃなくて……いや、ちょっと変な意味もあるかもだけど……俺、先輩の話が好きで先輩といる時間が好きで先輩がいるここが、すごく好きなんです……それ、言っちゃだめですか?」

 一文一文が、胸の中にゆっくりと沈んでいく。
 冗談みたいに明るい声ではなかった。
 ふざけるでもなく、照れ隠しでもないちゃんとした言葉だ。

 ——でも、僕には返す言葉がなかった。

 言葉にしようとしても、喉の奥がつまって何も出てこなかった。
 心が急に狭くなったみたいに呼吸の仕方さえわからなくなってしまう。
 だから、僕はそっと窓の外に視線を向けた。
 空はもう、昼と夜の境目を越えようとしており、薄い群青のキャンバスの上にひとつ、またひとつと星が浮かびはじめている。

 そのなかで、誰よりも早く光を放ち始めたのは——あの時夏目くんが言っていた、『一番星』だ。

 誰よりも先に、気づいてしまった光。
 ……僕はまだ、それに名前をつけられない。
 返事ができないまま、時間だけがゆっくりと流れていく。
 それでも彼は、変わらず穏やかな顔をしていた。

「冗談です、冗談……怒らないでくださいね」
「……怒ってないよ」

 どうにか出た言葉は掠れていて、自分でも頼りなかった。
 けれど、夏目くんはその一言だけで満足したように小さくうなずいた。

「じゃあ、またちゃんと練習行きます。次はもっと星のこと教えてくださいね」

 冗談めかした口調でそう言って、彼はコップを片づけると軽く手を振った。
 その背中が、ドアの向こうに吸い込まれるように消えていく。
 僕はその背中に、呼びかけることもできなかった。

 ただ——胸の奥で、何かがふわりと膨らんでいた。

 触れようとすれば、壊れてしまいそうなほど繊細で、でも確かにそこにある感情のカケラ。
 それが何なのか、まだはっきりとはわからない。
 名前をつけるには、もう少しだけ時間が必要だ。

 けれど、空を見上げれば——そこには確かに誰よりも早く輝いた星が夜のなかで一人きり、静かに瞬いていた。