あれから、三日くらいだっただろうか。
 放課後の天文室に、また彼が現れた。

「こんにちわー……あ、いた。えっと……」

 扉の隙間から顔を覗かせた彼が、少し照れくさそうに笑う。
 その声が、静まり返った室内に柔らかく広がって僕の胸にゆっくりと届く。
 驚くほど自然にあの日と同じ笑顔だった。
 相変わらず、シャツの袖はラフに折られていて、首元には白いタオルが掛けられている。
 まだ残る陽射しのせいか、肌は汗に滲んでいてペットボトルの水滴が彼の指を濡らしていた。

「……こんにちは。練習の帰り?」
「うん。めっちゃ暑かった……今日は体育館の取り合いで揉めてて……で、外で軽くシュート打ってたらなんかまた寄りたくなっちゃって」

 僕は観測ノートのペンを止めて、ゆっくりと彼の方を見た。

「寄りたくなった、って……この部屋に?」
「あー……なんか落ち着くんすよ、ここ……空気が静かになるっていうか」
「それ、褒めてる?」
「もちろん!俺、そういうの、好きなんで」

 彼そう言って、軽く手を振りながら部屋に入ってくる。
 それから、僕の向かいにある椅子に、自然に腰を下ろした。
 何のためらいもないその動きが、人懐っこい犬みたいでちょっとだけ可笑しかった。

「改めまして、バスケ部の夏目陽翔(なつめはると)!二年です!……天文部の多分、先輩ですよね?先輩ははなんてお名前なんですか?」
「……白石悠(しらいしゆう)だよ」
「白石先輩、か。いい名前っすね!」

 またそんな事をさらっと言うから、僕はつい視線をそらしてしまった。

「……星の話も、また聞きたいなーって思って。先輩、こないだ、すごく楽しそうだったし」
「……そんな風に見えた?」
「見えました……俺、もっと聞いてみたいです」

 そのまっすぐな目を向けられると、どうして良いかわからなくなる。
 でも、不思議と嫌な感じじゃなかった。

「それにしても……本当に誰も来ないんですね、ここ」

 夏目くんがあたりを見回しながら、ぽつりと呟いた。

「まぁ……天文部、廃部寸前だから」
「じゃあ……俺、入ろうかな。天文部」

 思わず、吹き出してしまった。

「君、確かバスケ部のエースでしょう?そのエースが天文部に?」
「――ダメ?」
「ダメじゃないけど、たぶん顧問が止めると思うよ。兼部は不可って」
「ちぇっ。じゃあ部員じゃなくて……見学ってことで」

 さらりとそう言って、夏目くんはいたずらっぽく笑った。

「……勝手に決めてない?」
「先輩が、ダメって言わなきゃいいんです」

 あっさりと、だけどどこか真剣な顔で、真っ直ぐな言葉で夏目くんは答えた。

 彼は視線を天井へ移す――天文室の天窓の先、淡い夕空が広がっている。
 まだ星の姿は見えないけれど青はゆっくりと深さを増している。

「……星って、いつ見えるんですか?」
「光が減ったらかな?後は、大気の条件にもよるけど……目が慣れてくると他の人より先に見えることもあるよ」
「へぇ……先にって」
「星って出てくる順番があるんだ。『一番星』って聞いた事、あるでしょ」
「あ、それ知ってます! 最初に見える星が一番星ってやつですよね?」
「うん。金星であることが多いけど、季節とか方角で変わることもある……一番最初に夜空に名前をつけられる星なんだ」
「……なんか、いいっすね。誰より先に見つけられるって、特別感ある」

 ――『特別』という言葉が、すとんと胸に落ちる。

 それはきっと、僕に向けられた言葉じゃない。
 なのに、少しだけ心がざわついてしまった。

「先輩ってさ、星に詳しいんだなって思ってたけど……話すのも好きなんですね」
「……そうかな。自分じゃ、あんまりわからないけど」
「だって、話してる時ちょっと柔らかい顔になるから……そういうの、ちゃんと伝わってますよ」

 夏目くんにそんな言われて、思わず視線をそらした。

「……夏目くんは、観察眼が鋭いね」
「バスケ、やってますから。動きとか表情とか、意外と見るんですよ……あと、先輩のことはちゃんと見たいし」
「……え?」

 唐突に向けられた言葉に、反応が遅れる。

「うわ、今のは変な意味じゃなくて……いや、ちょっとだけ変な意味もあるかもだけど」

 夏目くんは、慌てたように首の後ろをぽりぽりと掻いた。
 その仕草が子どもみたいで、でもちゃんと『年下』としての可愛さに見えて——僕は思わず、笑いそうになるのを堪えた。
 顔がほんのり赤くなっているのが夏の夕焼けのせいじゃないって、なんとなくわかる。
 僕は目を逸らしながら、小さく笑った。

「……なんだ、それ」

 思わず笑ってしまいそうになるのを、喉の奥で飲み込む。
 けれど、声にしなかった分だけ、胸の内に波紋のような何かが広がっていくのを感じていた。

「ごめんなさい、先輩のペース、乱しちゃって」

 夏目くんはそう言って、少しだけ眉を下げた。
 いたずらをしてしまった子どもみたいな表情でそれでもどこか反省しているような、していないような。

「……別に。乱れてなんか、ないよ」

 そう言ったけれど本当は、少しだけ——いや、多分、自分で思っているよりずっと乱されていたのかもしれない。
 この部屋に、誰かがいると言う事。
 その誰かが、自分に向かってまっすぐに言葉を投げかけてくるということ。
 それが、僕にとってどれだけ珍しくて、どれだけ嬉しいことだったのか――夏目くんは、まだ知らない。

「じゃあさ、また来てもいいっすか?」

 彼はまるで約束を交わすように、少しだけ真面目な声で尋ねてきた。
 僕は少しだけ考えてから、肩の力を抜くように、短く答える。

「うん、別に僕は大丈夫だし、好きにしたらいいよ」
「おっけー、好きにする」

 その瞬間、ぱっと笑った夏目くんの顔が、ほんの少しだけまぶしく感じた。

 夕暮れの光を受けたその笑顔は、どこか遠くにあるのにちゃんとこちらを向いている——そんな風に思えた。

 まるで、一番星みたいだった。

 僕は、また目を逸らす。
 視線の先には、淡く色づいた空。
 もうじき、星が見えはじめる時間だった。