六月の終わり、日が落ちるのがようやく遅くなってきた頃。放課後の天文室には、僕一人しかいなかった。
クラスの誰も知らないこの部屋は理科室の奥の階段を上がった屋上手前の半地下みたいな場所にある。
正確には「観測ドーム」って名前があるけど、立派な天体望遠鏡があるわけでもなくて天井に古いスライド式の天窓がついているだけだ。
古びたソファに座って、僕はぼんやりと空を眺めていた。
この時間の空は、まだ星は見えない。
薄藍色に溶けた空気が校舎の上に重たくのしかかっているだけだ。
でも、良いんだ――僕はこれから星が見える空が好きなのだから。
まだ何も見えないこの空に一つずつ光が増えていくことを、毎年、毎晩、楽しみにしている。
今日もそうやって、ひとりきりで夏の夕空を待っていたんだけど——まさか、この時僕に声をかけてくれる人物がいるなんて、知らなかった。
「……あれ? ここって、部屋だったんすね」
その声が聞こえた瞬間、僕は反射的に肩を竦めてしまった。
心臓が、トン、と一度大きく脈を打つ。
この観測ドームに人が来る事なんて、滅多にないので――だから、余計に驚いた。
ゆっくりと振り返ってみる。
扉の隙間から差し込んだ光の中に、背の高い男の子が立っていた。
短く切った髪は、太陽の光を受けて少し色が明るく見える。
制服の夏用シャツは袖を二の腕までラフに折り上げていて、首元にはタオルを巻いている。
その肩には、汗がうっすらと滲んでおり、片手に持ったスポーツドリンクのボトルが、ペットボトルのラベルごと濡れているのが目に入る。
(たぶん……運動部の生徒だ……しかも、今さっきまで外にいたみたいな)
どこか場違いなはずのこの静かな空間に、彼の存在だけが夏そのもののように見えて、僕は一瞬息をするのを忘れそうになった。
「あ、あの、ごめんなさい、部外者は——」
とっさに声をかけた僕の言葉を遮るように、彼がぱっと手を挙げた。
「あ、大丈夫です、怒んないでください!俺、バスケ部の夏目っていいます。さっきシュート外してボールが転がってきたの、探してただけで!」
まくし立てるようなその言い訳は明らかにやましさではなく本気の焦りから出たものだ。
けれど、それがなんだか妙に可笑しくて。
僕は、ふっと口元の力が抜けてしまう。
「……ああ。ここ、普段使ってない場所だから……見つからなかったのかも。ボール、ある?」
「えっと……たぶん、あっちに——お、あったあった。すみませんマジで失礼しました……でも、へぇ……なんか涼しい場所っすね、ここ」
彼、夏目くんは、ボールを抱えたまま、ぼくの隣の窓に視線を向けた。
空は少しずつ色を変えはじめている。
「ここで、星……見てるんですか?」
その問いかけに、僕は頷きながら少しだけ笑った。
「うん。天文部だからね。といって、一人部員だけど」
「え、一人なんすか? それって部活って言えるんですか?」
「う……ぎ、ギリギリね。部っていうより観測記録をつけてるだけって感じ……もう、ほとんど趣味みたいなものかな」
「へぇ……なんか、かっこいいっすね」
そう言って、夏目くんはふわりと笑った。
冗談を言ってる風でも、冷やかしてるようでもない。
真っ直ぐで、少しだけ照れくさそうなその笑顔がなぜか胸の奥にやさしく残る。
彼の瞳は、夕暮れの色を吸い込んだように透明で、少し汗ばんだ首元のタオルや小麦色の肌から漂う空気までもが、まるで夏そのものだった。
僕はその眩しさに、つい目を細めてしまう。
「かっこいい、って……何が?」
「んー……なんか、星って、一人で静かに見るものだと思ってたんですよ。こうやって実際に黙って空を見てる人って、本当にいるんだなぁって思ったら……なんか、いいなって」
そう言いながら、彼は一歩だけ近づいて、空を見上げる。
そして、ぽつりと続けた。
「……俺、あなたの事最初に見たとき、星みたいだなって思ったんですよ」
「え……? 星?」
不意を突かれた言葉に、僕は瞬きをした。
「うん。静かで、ちょっと遠くて綺麗で……なんか、話しかけたら消えちゃいそうだなって……それって、変ですか?」
彼の言葉が落ちるのと同時に、観測ドームのドアが、ゆるやかな風に押されて僅かに軋んだ。
その風が、僕のシャツの裾をふわりと揺らす。
……気のせいじゃない。
耳の裏が、ほんのりと熱くなっているのがわかる。
「……変じゃないけど……ちょっと、恥ずかしい、かも」
ようやくそう返すと、彼はくすっと笑った。
その笑い方は、悪戯っぽくもありどこか安心しているようにも見える。
「そっか……でも、また来てもいいですか?この星、じゃなくて、空……俺、こういうの今までちゃんと見た事なかったから」
彼の問いに、僕は言葉で答えるかわりに、そっと頷いた。
ほんの少しだけ、間を置いてから。
迷いのようなものが、自分の中にうすく溶けていったのを感じながら。
——そのとき、僕の中の夏の夜空に、まだ名もない小さな光がぽつりと灯った気がした。
それは、一人で見る星とは、まったくちがう明るさだった。
クラスの誰も知らないこの部屋は理科室の奥の階段を上がった屋上手前の半地下みたいな場所にある。
正確には「観測ドーム」って名前があるけど、立派な天体望遠鏡があるわけでもなくて天井に古いスライド式の天窓がついているだけだ。
古びたソファに座って、僕はぼんやりと空を眺めていた。
この時間の空は、まだ星は見えない。
薄藍色に溶けた空気が校舎の上に重たくのしかかっているだけだ。
でも、良いんだ――僕はこれから星が見える空が好きなのだから。
まだ何も見えないこの空に一つずつ光が増えていくことを、毎年、毎晩、楽しみにしている。
今日もそうやって、ひとりきりで夏の夕空を待っていたんだけど——まさか、この時僕に声をかけてくれる人物がいるなんて、知らなかった。
「……あれ? ここって、部屋だったんすね」
その声が聞こえた瞬間、僕は反射的に肩を竦めてしまった。
心臓が、トン、と一度大きく脈を打つ。
この観測ドームに人が来る事なんて、滅多にないので――だから、余計に驚いた。
ゆっくりと振り返ってみる。
扉の隙間から差し込んだ光の中に、背の高い男の子が立っていた。
短く切った髪は、太陽の光を受けて少し色が明るく見える。
制服の夏用シャツは袖を二の腕までラフに折り上げていて、首元にはタオルを巻いている。
その肩には、汗がうっすらと滲んでおり、片手に持ったスポーツドリンクのボトルが、ペットボトルのラベルごと濡れているのが目に入る。
(たぶん……運動部の生徒だ……しかも、今さっきまで外にいたみたいな)
どこか場違いなはずのこの静かな空間に、彼の存在だけが夏そのもののように見えて、僕は一瞬息をするのを忘れそうになった。
「あ、あの、ごめんなさい、部外者は——」
とっさに声をかけた僕の言葉を遮るように、彼がぱっと手を挙げた。
「あ、大丈夫です、怒んないでください!俺、バスケ部の夏目っていいます。さっきシュート外してボールが転がってきたの、探してただけで!」
まくし立てるようなその言い訳は明らかにやましさではなく本気の焦りから出たものだ。
けれど、それがなんだか妙に可笑しくて。
僕は、ふっと口元の力が抜けてしまう。
「……ああ。ここ、普段使ってない場所だから……見つからなかったのかも。ボール、ある?」
「えっと……たぶん、あっちに——お、あったあった。すみませんマジで失礼しました……でも、へぇ……なんか涼しい場所っすね、ここ」
彼、夏目くんは、ボールを抱えたまま、ぼくの隣の窓に視線を向けた。
空は少しずつ色を変えはじめている。
「ここで、星……見てるんですか?」
その問いかけに、僕は頷きながら少しだけ笑った。
「うん。天文部だからね。といって、一人部員だけど」
「え、一人なんすか? それって部活って言えるんですか?」
「う……ぎ、ギリギリね。部っていうより観測記録をつけてるだけって感じ……もう、ほとんど趣味みたいなものかな」
「へぇ……なんか、かっこいいっすね」
そう言って、夏目くんはふわりと笑った。
冗談を言ってる風でも、冷やかしてるようでもない。
真っ直ぐで、少しだけ照れくさそうなその笑顔がなぜか胸の奥にやさしく残る。
彼の瞳は、夕暮れの色を吸い込んだように透明で、少し汗ばんだ首元のタオルや小麦色の肌から漂う空気までもが、まるで夏そのものだった。
僕はその眩しさに、つい目を細めてしまう。
「かっこいい、って……何が?」
「んー……なんか、星って、一人で静かに見るものだと思ってたんですよ。こうやって実際に黙って空を見てる人って、本当にいるんだなぁって思ったら……なんか、いいなって」
そう言いながら、彼は一歩だけ近づいて、空を見上げる。
そして、ぽつりと続けた。
「……俺、あなたの事最初に見たとき、星みたいだなって思ったんですよ」
「え……? 星?」
不意を突かれた言葉に、僕は瞬きをした。
「うん。静かで、ちょっと遠くて綺麗で……なんか、話しかけたら消えちゃいそうだなって……それって、変ですか?」
彼の言葉が落ちるのと同時に、観測ドームのドアが、ゆるやかな風に押されて僅かに軋んだ。
その風が、僕のシャツの裾をふわりと揺らす。
……気のせいじゃない。
耳の裏が、ほんのりと熱くなっているのがわかる。
「……変じゃないけど……ちょっと、恥ずかしい、かも」
ようやくそう返すと、彼はくすっと笑った。
その笑い方は、悪戯っぽくもありどこか安心しているようにも見える。
「そっか……でも、また来てもいいですか?この星、じゃなくて、空……俺、こういうの今までちゃんと見た事なかったから」
彼の問いに、僕は言葉で答えるかわりに、そっと頷いた。
ほんの少しだけ、間を置いてから。
迷いのようなものが、自分の中にうすく溶けていったのを感じながら。
——そのとき、僕の中の夏の夜空に、まだ名もない小さな光がぽつりと灯った気がした。
それは、一人で見る星とは、まったくちがう明るさだった。



