菊塚祭が始まって二日目の朝も綺麗に晴れた。あれほど猛威を振るっていた暑さもなりを潜め、すっかり過ごしやすくなった。そのおかげなのか、近隣の住民達も数多訪れ、祭りは盛況だ。
 菊塚祭最大のイベントといってもいい、菊コンへの熱気も否が応にも高まっていた。
「お前の出番は二番目な。西森の次」
 体育館のステージ袖でパイプ椅子の上で楽譜を握り締めていると、もろもろの準備に追われながらも隼人が近づいてきた。
「おいちょっと、唇、紫なんだけど。お前、出番前に水泳とかするなよ」
「してないよ……」
 いつもなら笑って受け流せる隼人の冗談が腹立たしい。深呼吸を何度もするが全然空気が肺に入っていかない。
 俺はなんで参加するなどと言ってしまったのだろう。いくら隼人に頼まれたからといってこんな場違いなところにのこのこ出て来るなんて。震えながらステージを見ると、トップバッターの西森くんがアピールタイムのダンスを終え、息を切らしながらも笑顔でステージ上から観客からの質問に答えているのが見えた。
 あれを次は自分がやるのだ。
 無理だ。絶対に、無理。
 今からでも棄権しようか。お腹痛いですと言えば許されるだろうか。と、ちらっと思ったとき、同じく舞台袖に控えていた涼本と目が合った。
「ひどい顔」
 開口一番に言われ、つい顔をしかめてしまった。
「……そっちは余裕そうだね」
「どうでしょうね」
 嫌味のつもりで言ったのだけれどさらっとかわされる。口調はいつもながらの気だるいものだ。
「練習、してた?」
 舞台上では西森くんの発言に観客がどっと沸いている。この後だ、という緊張からなのか、それとも久しぶりに涼本と会話しているからなのか、胸がことことと鳴り過ぎてうるさい。
「そこそこ。先輩は?」
「俺もまあ、それなりには」
「その様子だとピアノ触ったとたん、白目剥いて気絶しちゃいそうですけどね」
「気絶なんてしない」
「気絶はないまでも指つるくらいはあったりして」
「暗示かけるみたいなこと言わないで」
 まだまだステージ上の盛り上がりは冷めない。黄色い悲鳴というやつがここまで聞こえてくる。ああ、と肩を落とすと、今なら、と喧噪の中で涼本が言った。
「棄権できますよ。本気でやるんですか?」
「……やるってば」
 さっきまで自分でも逃げたいと思っていたくせに彼にそう言われたら条件反射で言い返してしまった。
 ……なんでこいつにはこんな言い方をしてしまうのだろう。
 顔を背けながら唇を噛んだとき、ひときわ大きな拍手が轟いた。と同時に、舞台の袖に控えていた実行委員の生徒がこちらに向かって手招いてきた。
「時谷、出て」
 ……いよいよだ。
 ハンカチで額の汗を押さえ立ち上がる。どうにかこうにかステージへまろび出る。ステージは舞台袖とは違い、真夏の太陽みたいな照明で照らされていた。
 天国ってこれくらいの光量なのかも、と思ったら頭がくらっとした。
「自己紹介からお願いしま~す!」
 司会役の隼人がにこやかにマイクを向けてくる。さっきまでステージの脇でばたばたしていたのに、司会もこなすなんてやっぱりすごいと思う。こんなに頑張っている彼のために俺だって頑張らなきゃ、とは思う。
「あ、えと、あの」
 必死に声を押し出そうとする。でも喉にものがつかえたたみたいで苦しい。小さく咳払いすると、大丈夫か? とマイクの外で隼人に問われた。
 大丈夫、とこちらもなんとか返事をして、マイクに向き直る。
「え、えと。三年二組、時谷、円、です」
 自己紹介ってなにを話せばいいのだろう。好きな食べ物? 好きな教科? 将来の夢? それとも好きな人のタイプ? ないない。あるわけがない。
 頬がかっと赤くなる。ええと、と焦れば焦るほど言葉が出てこない。ぐるぐるしていると隼人にぽんと肩を叩かれた。
「すみません、こいつ俺の親友なんですが、あがり症で! でも見てください! 多分、みんな気付いてないと思うけどこいつの顔、めっちゃ綺麗で! これを埋もれさせておくのはダイヤモンド鉱山がそこにあるのに掘り出さないようなもんだと思ったわけで!」
 フォローしてくれようとする気持ちは伝わってくる。けれど……却って周囲からの視線が痛い。
「隼人、も、もう、いいから」
 腕を軽く叩くと隼人は慌てたように頷いた。
「で、では! アピールタイム! 特技のピアノを披露してもらいます! 円! よろしく!」
 頑張れよ、と強い手で背中を押される。それに、うん、と頷いてステージに設置されているグランドピアノに歩み寄ろうとしたとき、声を耳が拾った。
「ってか、地味じゃない?」
 ほんのかすかな声だった。けれどそれははっきりと俺の耳に入り込んだ。その声が別の声を連れてくる。
「自己紹介名前だけって」
「私はもう西森くん見られたから満足です!」
「え! 次、涼本くんでしょ! それは見ないと!」
 連なる人声のさざ波に紛れてしまいそうななんてことのないただの雑談だ。ああ、これくらい言われるのはわかっていたことだったのだ。
 なのに、視界がぐらぐら揺れて全然まっすぐに歩けない。多分ステージの下から見たらゾンビみたいな足取りだったに違いない。それでもどうにかこうにかピアノにまでは辿り着く。
 だが、椅子に座っても目の前の揺れは収まってくれなかった。
 譜面ってどこに置けばよかったんだっけ……? ペダルの位置は? 最初の一音って、……どれ?
 だめだ。目が回ってどうにもならない。そもそもなんでこんなところに出てきてしまったのだろう。隼人のためだからって引き受けたけれど、自分が出る理由なんてなかったじゃないか。参加者も集まったし、断ったってよかった。
 それでもここに出てきたのは、涼本に言ったように一度引き受けたらやるべきだという責任感ゆえだ。ちゃんとやり切らないといけないって思ったから……。いや。
 ……そう、じゃない。
 ちらつく譜面から、司会席にいる隼人に目をやる。
 俺がここにいるのはただ、隼人に、見て、ほしかったから。
 それは責任感なんて綺麗なものじゃない。高潔さなんてかけらもない。醜く歪んだただの、打算。
 俺は頑張っているのだと、お前のためならなんだってするのだとわかってほしくて。
 ただ、それだけで。
 でも……結局なんにもできなかった。
 涼本も呆れているだろうか。責任がどうとか偉そうに語ったくせに立往生してしまって。本当に。
 ……かっこ悪い。
 いつまで経っても動かない俺に観客席がざわめき始める。このままここに居座り続けるわけにはいかない。
 弾かなきゃ。
 弾かなきゃ。弾かなきゃ。弾かなきゃ。弾かなきゃ。
 でも。
 膝の上、きゅっと拳を握ったその、刹那。

 パアアアアアアア!

 甲高い音がステージを裂いた。
 え、と一瞬の空白が生まれる。同じところをぐるぐると回っていた思考が断ちきられる。音に引っ張られるようにして顔を上げた俺は、そこで息を呑んだ。
 ステージ脇、観客席からは見えない位置に涼本が佇み、こちらをじっと見つめていた。その手には練習中いつも彼の手の中にあったトランペットがあった。
 黄金色のそれが、きらり、と光り、彼の唇がトランペットに寄せられる。
 すうっと息がその金色の体へと送りこまれ、流れ出したのは……。

 カノン。

 ――弾いてよ。
 ――先輩、弾いて。

 音色の中から声が確かにした。なにも言われていないのにはっきりとそう言われた気がした。とたん、じわっと視界が歪んだ。
 柔らかい旋律がステージを染める。さあ、と音に手を取られるようにして鍵盤へ指が、乗る。
 ――弾いて。
 あるはずのない声が耳の傍で促す。その声を追い指先が白鍵と黒鍵を辿る。
 まずは、一音。
 力強く指先が鍵盤を押しこんだ瞬間、体の強張りが解けた。
 ステージを見ているのは数百人の人々。降り注ぐのは人工の眩しすぎる光。
 じっとりと背中を濡らすのは自分の焦りが凝縮した汗。
 でもそのすべてが遠かった。
 ただトランペットの音色だけが俺の周りにあってくれた。その音に抱かれるようにして鍵盤を叩いていた。
 白と黒。そして金色の中を泳ぎながら、目を上げるとトランペットを吹く涼本もこちらを見た。ふわっと淡い色彩の瞳が和む。その目を見たらもうだめだった。境界を越えて涙が溢れてしまった。
 ――俺なら泣かせないから。
 そう言った彼に頭の中で抗議する。
 ……嘘つき。
 ……ステージ上だってのに、泣いちゃったじゃないか。
 お前のせいで。
 でも、涙とともに出てしまう笑顔もまた、彼のせいだ。
 高まっていく。重なっていく。音の連なりをさらに繋げながら俺は自分の心を静かに見つめる。
 ここに立った最初の理由は隼人のため。でも……今日、最後の最後、ステージ脇で考えていたのは隼人のことじゃなかった。
 ステージへ足を踏み出したあのとき考えていたのは、今、共に音を紡いでくれている彼のことだった。
 だって俺はこいつに言ってしまったから。ちゃんとやるって。やってみせるって。やって……。
 ――先輩、めっちゃ、かっこいい。
 もう一度ああ言ってほしかった、から。隼人じゃなく、彼に。
 弾む音符が空を駆けあがっていく。トランペットの音色と絡まり合いながら高く高く飛翔する。
 もうすぐラストフレーズだ。本当ならあと少しの辛抱と思うところだろうに、俺の頭の中には終わりを望む思いがまるでなかった。むしろ。
 ……終わらなければいいのに。
 自分の顔は自分じゃ見られない。でもステージ袖でトランペットを吹き鳴らす彼の顔がそのまま自分の顔に思えた。
 惜しみながら最後の一音を放つ。光に解けるように音が消えたところで大きく息を吐いた。ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。
 高揚していた心がゆっくりと冷めていく。肩で息をしながら、涙に濡れた頬をぐいと手の甲で拭い、観客席に向き直る。
「ありが、とうございました」
 たどたどしく礼を言った、次の瞬間だった。
 どっと顔面に吹き付けてきたのは拍手だった。
 観客席の皆が立ち上がって手を叩いていた。生徒も教師も、学外からの来賓もそろって拍手している。ステージ上の隼人も。
 信じられない気持ちで見回してからそろそろともう一度頭を下げる。確かこの後は質問タイムのはずだけれど、さすがにこの状態のここで受け答えをする勇気はなかった。逃げるようにステージ袖へと戻ると、涼本が笑顔で待っていた。
「おつかれ、先輩」
 ほら、と彼が手をかざしてくる。その彼の頬も濡れている。それを見たら自分の頬に残る涙が恥ずかしくなった。だから俯いてただ手を上げた。ハイタッチに応じようとかざした手に涼本の手がふわっと重なる。そのままぐいっと握られてはっとした。
「涼本、あの……」
「円! めっちゃすごかったああ! もう感動……! ほんと、お前、かっこい……」
「青木先輩」
 司会なのに隼人が舞台袖に駆けてくる。その隼人から遠ざけるように、涼本が手に力を込める。あっという間に涼本の背後へと押しやられていた。
「涼本―! 涼本のおかげでほんと助かったあ! めちゃくちゃ盛り上がったし! 次はお前の……」
「俺、棄権します」
 興奮する隼人をあっさりと遮る。その彼を俺は唖然として見上げる。
「ちょ、こら、涼本。そんなこと言ったらみんな困る……」
「知らないです」
 言い捨てた涼本の手によってぐいと手が引かれる。
「すみません。俺、腹痛いので。あとはうまいことお願いします。青木先輩」
「えー! お前、ちょっと! こら!」
 隼人が叫ぶ。焦ったような声だったけれど、ほんの少し笑みも混ざっている。振り返ると、仕方ねえなあ、というように眉を下げていた。
 その顔になぜかすごく脱力した。
 最後まで頑張らなきゃ。責任があるから。……隼人のために。
 ずっとそう思っていた。でもそれは自分の思いを押しつぶした上に成り立っていた気持ちだった。できないことだって、意に添えないことだってあるのに、それを我慢することが想いの証明になると勝手に思っていた。俺はもっとちゃんと伝えていくべきだったのに。本当の自分を。
 恋に盲目になるばかりじゃなくて、もっと。
「隼人」
 そう思ったら、声が自然に滑り出ていた。
「俺もこれで帰る。あと頑張って」
「え! こら! 円、お前まで! 優勝したらどうするんだよ! 表彰式!」
「うまいことやっておいて」
「えええ!」
 困るって、と言いながら隼人が笑った。
「もー! 後で絶対おごらせるからな!」
 追いかけてくる声に笑って手を振り、俺は涼本に手を引かれて走り出した。