菊塚祭が近づけば近づくほど、学内の活気は増す。クラスでの模擬店の準備もあってピアノの練習は毎日というわけにもいかなくなった。ただそれでも時間を見つけて音楽室には通っていたのだが、涼本と鉢合わせすることはなかった。
あいつにはアピールタイムがなくてもあの顔面がある。練習なんてもともと不要だったのだろうとは思う。
でも彼は毎日、ここに通ってきていた。やってきては熱心にトランペットで吹き鳴らしていた。
家路を。
ぽろん、とピアノが不満げな声を漏らす。いけない、集中しなければと鍵盤に手を置き、譜面に目を走らせる。でも窓の外を落ちていく雨粒みたいに、今日の音符は皆うなだれていて、少しも形になってくれない。
しっかりやらなきゃ、と椅子の上で背筋を伸ばしたときだった。
からり、と入り口の扉が滑った。はっとして顔を上げる。
――先輩。
「あれ、時谷くん」
立っていたのは音楽教諭の宮崎先生だった。成人した息子さんがいると聞いているが、年齢よりもずっと可憐な笑顔を見せる先生で、生徒の間では人魚の肉を食べていると密やかに噂をされている人だ。
「ああ、練習中かあ。邪魔してごめんね。忘れ物しちゃって」
にこにこしながら宮崎先生は教卓へと向かう。あったあった、と軽い声を上げながら桜柄のペンケースを取り上げた先生はそこでつとこちらを見た。
「時谷くん、菊コン出るんだって?」
「あ、えと、はい。まあ」
「ピアノ、なに弾くの」
言いながらこちらに回り込んでくる。ひょい、と譜面台を覗き、カノンかあ、と華やいだ声で言った。
「このアレンジいいよね。私も好き」
「あ、えと、はい」
正直、弾いたことがあるかないかで選んだので、こんな実のない返事しかできないのが申し訳ない。が、宮崎先生は反応の薄さを気に掛ける様子もなく横から手を出し、さらさらっと鍵盤の上に指を走らせた。和音とベースラインの旋律が絡み合うカノン特有のメロディが流れ出す。
「カノンって同じ旋律を複数のパートが追いかけていくじゃない? カエルの合唱みたいにこう、ふわあっと広がっていく。この感じ、すごくいいよね」
「そう、ですね」
窓の外では今も雨が降っている。そのざあざあいう音にピアノの音が溶けていく。俺の苦手な単音を連続して音を装飾するトリルといわれる奏法も軽々とやってのける辺り、さすがに音楽教諭だと思う。
「まだまだ練習しないと、ですけど」
「んー」
中腰で弾いていた先生が手を止めて腰を伸ばした。
「まあ、そうかもだけど。楽しんで弾いたら? お祭りなんだし」
「いや、でも、ちゃんとやらないと……責任もあるから」
「責任」
戦くように背中が反らされる。そうされてちょっとむっとする。たかがミスターコンで、と思われているのだろう。そりゃあそうだ。でも頼まれたのだからそれなりには仕上げておかないと。
――そんなに青木先輩が好きなのかよ。
唐突に声が聞こえてきて呼吸が苦しくなった。胸の辺りをそっと撫でたとき、んー、と宮崎先生がまた唸った。
「今回菊コン出る子、みんな時谷くんみたいな感じよね。ストイックというか。私が学生のころなんて学園祭! たこ焼き食べよう! え、綿菓子もあるの? わあい! くらいのノリだったのに。さっきもね、ひとり注意してきたとこなのよ」
「注意?」
「一年の涼本くん」
名前を聞いたとたん、あからさまなくらいはっきりと、どくん、と胸が鳴った。激しすぎる胸の音に驚き、一層強くシャツを掴む。
「涼本が、あの、どうしたんですか」
「雨なのに屋上でトランペット練習してたの。楽器傷むからやめなさいって叱り飛ばしたんだけど、あの子、結構長いこと練習してたみたい。後でもう一回見に行ってみるけど、まだやってたらどうしてやろうか。まったく」
じゃああなたもあんまり根詰めないようにね、と先生はにこにこしながら音楽室を出ていく。
雨が静かに地面を穿っている。その雨音の檻の中で俺は椅子を引いて立ち上がった。窓に歩み寄りガラス戸をそうっと開ける。
ここから屋上は見えない。だから耳を澄ませてみた。
聞こえてきたのは旧校舎のあちこちから響く生徒たちの笑い交わす声と、菊塚祭の準備の音だろうか、木材を切るような音。そして、雨音。それだけ。
雑多な音が鼓膜を揺らすけれど、聴きたい音は聞こえてこない。何も。
練習はやめたのだろうか。この雨だし、叱られたし、きっともう屋根の下へと戻ったのだろう。ふっと息を吐いて窓ガラスに手をかけて……動きを止めた。
「あ」
かすかに聞こえた気がした。
夕日に似たあの曲、家路が。
その音に必死に耳をそばだてる。数多の音の隙間に埋もれそうになりながら、灰色の空の下まっすぐにこちらに落ちてくる金色の音に手を伸ばす。
旋律に締め付けられるように胸がずきずきと痛んだ。
「やっぱり、寂しいよ、その曲」
呟いた声が震える。目頭が熱くてとっさに片手で押さえる。
そうしながら思い知っていた。
さっき、ドアが開いて顔を出した相手が宮崎先生だと知ったとき、自分がなにを思ったのかを。
それは。
ああ、なんでお前じゃないんだ、だった。
「なんで俺……」
隼人のことを好きなはずなのになんで俺はこんな気持ちになっているのだろう。
自分から突き放したくせに待っているのはなぜだろう。寂しいから? だとしたら、最低だ。そう思うのに、耳を傾けるのをやめられない。
雨の中、家路は今も流れている。その音色にもたれかかるようにして俺は窓ガラスに身を寄せ続けていた。
あいつにはアピールタイムがなくてもあの顔面がある。練習なんてもともと不要だったのだろうとは思う。
でも彼は毎日、ここに通ってきていた。やってきては熱心にトランペットで吹き鳴らしていた。
家路を。
ぽろん、とピアノが不満げな声を漏らす。いけない、集中しなければと鍵盤に手を置き、譜面に目を走らせる。でも窓の外を落ちていく雨粒みたいに、今日の音符は皆うなだれていて、少しも形になってくれない。
しっかりやらなきゃ、と椅子の上で背筋を伸ばしたときだった。
からり、と入り口の扉が滑った。はっとして顔を上げる。
――先輩。
「あれ、時谷くん」
立っていたのは音楽教諭の宮崎先生だった。成人した息子さんがいると聞いているが、年齢よりもずっと可憐な笑顔を見せる先生で、生徒の間では人魚の肉を食べていると密やかに噂をされている人だ。
「ああ、練習中かあ。邪魔してごめんね。忘れ物しちゃって」
にこにこしながら宮崎先生は教卓へと向かう。あったあった、と軽い声を上げながら桜柄のペンケースを取り上げた先生はそこでつとこちらを見た。
「時谷くん、菊コン出るんだって?」
「あ、えと、はい。まあ」
「ピアノ、なに弾くの」
言いながらこちらに回り込んでくる。ひょい、と譜面台を覗き、カノンかあ、と華やいだ声で言った。
「このアレンジいいよね。私も好き」
「あ、えと、はい」
正直、弾いたことがあるかないかで選んだので、こんな実のない返事しかできないのが申し訳ない。が、宮崎先生は反応の薄さを気に掛ける様子もなく横から手を出し、さらさらっと鍵盤の上に指を走らせた。和音とベースラインの旋律が絡み合うカノン特有のメロディが流れ出す。
「カノンって同じ旋律を複数のパートが追いかけていくじゃない? カエルの合唱みたいにこう、ふわあっと広がっていく。この感じ、すごくいいよね」
「そう、ですね」
窓の外では今も雨が降っている。そのざあざあいう音にピアノの音が溶けていく。俺の苦手な単音を連続して音を装飾するトリルといわれる奏法も軽々とやってのける辺り、さすがに音楽教諭だと思う。
「まだまだ練習しないと、ですけど」
「んー」
中腰で弾いていた先生が手を止めて腰を伸ばした。
「まあ、そうかもだけど。楽しんで弾いたら? お祭りなんだし」
「いや、でも、ちゃんとやらないと……責任もあるから」
「責任」
戦くように背中が反らされる。そうされてちょっとむっとする。たかがミスターコンで、と思われているのだろう。そりゃあそうだ。でも頼まれたのだからそれなりには仕上げておかないと。
――そんなに青木先輩が好きなのかよ。
唐突に声が聞こえてきて呼吸が苦しくなった。胸の辺りをそっと撫でたとき、んー、と宮崎先生がまた唸った。
「今回菊コン出る子、みんな時谷くんみたいな感じよね。ストイックというか。私が学生のころなんて学園祭! たこ焼き食べよう! え、綿菓子もあるの? わあい! くらいのノリだったのに。さっきもね、ひとり注意してきたとこなのよ」
「注意?」
「一年の涼本くん」
名前を聞いたとたん、あからさまなくらいはっきりと、どくん、と胸が鳴った。激しすぎる胸の音に驚き、一層強くシャツを掴む。
「涼本が、あの、どうしたんですか」
「雨なのに屋上でトランペット練習してたの。楽器傷むからやめなさいって叱り飛ばしたんだけど、あの子、結構長いこと練習してたみたい。後でもう一回見に行ってみるけど、まだやってたらどうしてやろうか。まったく」
じゃああなたもあんまり根詰めないようにね、と先生はにこにこしながら音楽室を出ていく。
雨が静かに地面を穿っている。その雨音の檻の中で俺は椅子を引いて立ち上がった。窓に歩み寄りガラス戸をそうっと開ける。
ここから屋上は見えない。だから耳を澄ませてみた。
聞こえてきたのは旧校舎のあちこちから響く生徒たちの笑い交わす声と、菊塚祭の準備の音だろうか、木材を切るような音。そして、雨音。それだけ。
雑多な音が鼓膜を揺らすけれど、聴きたい音は聞こえてこない。何も。
練習はやめたのだろうか。この雨だし、叱られたし、きっともう屋根の下へと戻ったのだろう。ふっと息を吐いて窓ガラスに手をかけて……動きを止めた。
「あ」
かすかに聞こえた気がした。
夕日に似たあの曲、家路が。
その音に必死に耳をそばだてる。数多の音の隙間に埋もれそうになりながら、灰色の空の下まっすぐにこちらに落ちてくる金色の音に手を伸ばす。
旋律に締め付けられるように胸がずきずきと痛んだ。
「やっぱり、寂しいよ、その曲」
呟いた声が震える。目頭が熱くてとっさに片手で押さえる。
そうしながら思い知っていた。
さっき、ドアが開いて顔を出した相手が宮崎先生だと知ったとき、自分がなにを思ったのかを。
それは。
ああ、なんでお前じゃないんだ、だった。
「なんで俺……」
隼人のことを好きなはずなのになんで俺はこんな気持ちになっているのだろう。
自分から突き放したくせに待っているのはなぜだろう。寂しいから? だとしたら、最低だ。そう思うのに、耳を傾けるのをやめられない。
雨の中、家路は今も流れている。その音色にもたれかかるようにして俺は窓ガラスに身を寄せ続けていた。



