――ひとりで泣かないって、約束してください。
 あの言葉を聞いてからなんだか胸がずっとざわざわする。
 変だ、と思う。
 特別な感情なんてなにもないはずなのに、あの言葉を、あのとき掴まれた手の感触を思い出すたびに心がぎゅっとなる。
 俺は……頼りたいと思っているのだろうか。あいつに。
 過ぎった思いに困惑しながら音楽室の扉に手をかける。少し、怖かった。でもここに来ないのは違うとも思った。だって練習しなければいけない、から。
 だが覚悟を決めて開けた先に彼の姿はなくて拍子抜けした。
「いないんだ」
 ほっとしたような残念なような、そんな奇妙な感情が胸の中で渦巻く。自分で自分の気持ちがわからないまま、窓に歩み寄る。少し風に当たろうとガラスを開けると、九月半ばにしてはねっとりと熱い空気が顔に吹き付けてきた。
「菊塚祭の日もまだ、こんな暑いのかな」
 菊塚祭。
 その菊塚祭のミスターコンなんかに自分は出るのだ。振り向いてくれるはずもない人の頼みで。
 なんだかもう……。
 息苦しさを覚えながら窓枠に身を預ける。その俺の目に新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下が見えた。屋根の上には鳩がいる。番いだろうか、寄り添ってふくふくしている。
 寂しくなさそうでいいな、と羨ましく思いつつ視線を転じ……思わず口許を片手で押さえた。
 鳩がいる屋根の下に隼人がいた。しかも隼人はひとりじゃなかった。教室に昨日来た、あの子を抱きしめて……キス、していた。
 下校時間が迫っているせいか人の通りはない。それをいいことに彼らはぴったりと重なり合うようにしてそこに、いる。
 見られていることにも気付かずに夢中になっている。
 我知らず、胸の前でぎゅっと拳を握ってしまう。悔しさなのか、悲しさなのか、噛みしめた唇からじりりと血の味がする。
 見たくない。はっきりと心中で叫ぶ声が聞こえるのに、瞳がまだ彼らを映しているのはなんでなのだろう。なにかの間違いだと思いたいから? 焼き付けてしっかりと心に傷を刻みたいから? 
 それとも、キスをしている、その顔ですら見ていたいなんて思っているから?
「ねえ」
 がらがらと音を立てて崩れそうになる。その自分の心の音よりも確かな声が背後から不意に響いた。
 瞬きをする間もなく、大きな掌によってすっと両目が覆われていた。
「見ないで」
 低い声が耳の中に滑り込む。目を覆った手によって体が引き寄せられる。背中に俺よりもしっかりとした胸板が当たった。
「もう、見ないで」
 繰り返す彼の声にじわっと瞼が熱くなった。
 後ろにいるのが誰なのか、俺にはわかっている。だから泣くわけにはいかないのだ。いかないのに。
「円先輩」
 これまで名前を呼ばれたことなんて一度としてなかったのに、いきなり呼ばれた名前のせいなのか、目頭が一気に温度を上げた。
 ああ、駄目だ。このままでは泣いてしまう。崩れて、しまう。
 焦る俺の耳元で涼本が囁いた。
「いいよ」
「なに、が」
「泣いていいよ」
「馬鹿」
 手を払おうと自分の目を塞ぐ手に手をかける。その手が震えてしまう。きゅっと彼の手の甲を握り締めたとき、涼本が言った。
「ふたりで菊コン、めちゃくちゃにしてやりましょうか」
「なに、言って」
 さすがに驚いて、手に力を込めて目から剥がそうとした。でもやっぱり動かない。こら、と声をかけると、やっと外れた。が、今度はその手でくるっと体の向きを変えられる。
 正面にあったのは、銅色に光る涼本の切れ長の目。その目がまっすぐに俺を見据えていた。
「もう、いいでしょ。青木先輩の頼みなんて聞かなくて。ってか」
 言いながら彼は指を伸ばす。滑らかな指の感触が頬を辿った。
「青木先輩のことなんてもう、目の中に入れないでほしい」
 ……こいつはなにを言っているのだろう。
 瞠目する間にも指先は目尻をそうっと拭う。そうされて自分が泣いてしまっていたことに初めて気が付いた。
「俺、なんで、お前の前、なんかで……」
「なんかでって。やっぱ口悪い」
 涼本が苦笑いする。長い指がまだ頬に触れてくる。顔を背けることで避けようとする俺の頬を涼本の両手が包んだ。
「そんなにだめですか? 俺の前で泣くの」
「当たり前。後輩の前でなんて」
「それじゃあ先輩は一生、俺の前では泣いてくれないの? 俺は先輩の前でさんざん泣いたのに?」
「それ、小学生のときの話だから。今は状況が……」
「ああ、思い出してくれたんだ」
 安堵めいた声にかっと頬が熱くなる。乱暴に頭を振るけれど、やっぱり涼本の手は離れてくれない。
「思い出したからなに? 結婚とかそもそもできるわけないし、口約束だし、いつまでも覚えてないでよ。俺のほうが年上なのは変わんないし、その年上が後輩に慰められるとか、そんな」
「関係ない」
 容赦ない声に声が摘み取られる。呆然と見開いた目からまだ涙が落ちてしまう。それを両頬を包む指先で涼本がそっと押さえた。
「円先輩」
 もう一度名前が呼ばれる。頬を包んでいた手が離れ、長い腕が伸びてくる。抗う間もなくきゅっと抱きしめられ、息が止まった。
「俺なら泣かせないから。だから先輩、俺じゃ、だめ?」
 くっと胸の奥がなにかに確かに押された。
 自分より大きな胸の中はすごく温かくて、触れている場所から力がどんどん吸い取られていくような気がした。それが心地よかった。心地よいと思った自分に驚いてもいた。
 このままぐにゃぐにゃに溶けてこの胸の中に沈みたい、となぜか強く思った。でも。
「馬鹿なこと、言わないで」
 くいっと胸を押し返し、体と体の間に隙間を作る……これ以上、入り込まれないように。
「無理だから。俺、年下好きじゃないから」
「かっこよくなったら結婚してあげてもいいって言ってくれたのに?」
「何年前の話してんの。そんなことできるわけないだろ」
 できるだけ冷淡に吐き捨てて俺は目尻を自分で辿る。涙は止まっていた。
「変なとこ見せたけど。もうこの話は終わり。練習、しないと」
「こんなことになったのにまだ菊コン出るの?」
 声が大きくなる。怒りからか目をきらきらさせた彼によって両腕が掴まれ、揺さぶられた。
「もういいじゃん。やめよう。俺も棄権する。だから」
「俺は出るよ」
「なんで!」
「頼まれたから。最後までやる」
「そんなに青木先輩が好きなの? あんな能天気馬鹿が? 幼馴染だかなんだか知らないけど、円先輩のこと全然わかってなくて、利用ばっかりして、最低のくそ野郎……」
 続けられる言葉に耐え切れなくなった。両手でどん、と胸を突き放すと黒褐色の瞳が大きく見開かれた。
「隼人の悪口言うなら出てって。練習の、邪魔」
 声が震えそうになる。それでも険しい声を作って言うと、ゆらっと彼の目が揺れた。
「時谷先輩って、めっちゃ……哀れ」
「ああそう。哀れで結構。もういい。邪魔。早く……」
「俺、菊コン、先輩にだけは負けないから」
 こいつ、また言ってる。今更宣言されるまでもなくこちらの負けは確定しているというのに。
「勝手にしたら。君が張り切ってくれればコンテストも盛り上がる。隼人も喜ぶ」
「あいつを喜ばせるためにやるわけないだろ。俺はあんたに思い知らせるために全力出すだけ」
 言い放ち、身を引く。絡みついていた彼の手が、するっと解けて遠ざかった。
「俺をふったこと、絶対後悔させてやる」
「……なにそれ。しないし。後悔なんて」
「あんなかっこいい人に好かれたのは人生で最後の奇跡だったって晩年、病院のベッドでひからびたじじいになったとき言わせてやるから」
 ……なんだ、その捨て台詞。
「わかった。楽しみにしてる。本当にもう時間ないし、終わりにしてくれる?」
 しっしっと手を振ると、くっと彼が唇を噛んだ。その顔のまま、涼本はピアノの脚のそばに置いていたトランペットケースを乱暴な手つきで引っ掴んだ。
 大股で戸口へと向かい、そこで立ち止まる。
「俺、うれしかったのに」
 戸口にかかった手にくっと血管が浮く。扉の縁を握り締めたまま、背中で彼は言った。
「あんな約束しても会えるかどうかもわかんなかったけど、もしも会えたらってずっと思ってた人に会えて……すごく。なのに、あんたはあんなやつばっかりに目を向けていて俺のほうを見てもくれない。頑張ったのに、俺、泣かないでここまで」
 肩がわずかに揺れる。その震えを見たら、ごめん、と全部謝ってしまいたくなった。でもそんなことはできない。涼本もこちらを向かない。最後に吐き捨てられたのは声だけで、それはひどく掠れていた。
「もう、知らない。勝手にしてください。さよなら、先輩」
 ぴしゃりと容赦ない音を立てて扉が閉じられる。
 ――さよなら。
 冷たく放り投げられた言葉に押されるようにふらついた。窓に背中を預けずるずると床へと座り込む。
 ああ、本当に俺は馬鹿だと思う。涼本の言う通りだ。
 開かない扉をいつまでもしつこく叩いて。優しく手招いてくれる扉のありがたさを感じているくせに背を向けて。
 ――ぼく、みたいなのじゃ、ずっとひとりっていわれ、たの。けっこんもできない、って。だれもぼくのことなんて、好きになるわけ、ないって。ひとりぼっち、って。
 そう泣いていた子どものころの彼の声を思い出しながら、俺はきゅっと両手で二の腕を掴む。
 もう熱なんて残っているわけがない。それなのに手は温もりを探してしまう。
「ひとりぼっちは……俺だったよ」
 ――円先輩。
 呼んでくれた声が耳から離れない。その声にしがみつきそうになる自分が嫌で俺は膝頭に額を押し当ててうずくまった。