ピアノの前に座り、ぼんやりと鍵盤を眺める。白と黒の単調な連なりが、練習しないの? と問いかけてくる。
わかっている。しなければならない。しないと絶対に失敗する。容姿はともかく、アピールタイムを無難にこなせないというのはさすがに恥ずかしいし、隼人に申し訳が立たない。
……隼人に。
そこまで考えたところで俺は鍵盤に体を倒した。うつ伏せた体の下で鍵盤がか細く、ぽろぽろと泣いた。
覚悟はしていたのだ。今までだって隼人に彼女がいたことがなかったわけじゃないのだから。隼人は明るくて人気者だから好かれることは多かった。ノリもいいし、押されて付き合うことも珍しくなかった。
でも……今回は今までとは違う。明らかに隼人のほうもしっかりとした好意を持っていた。
いつからだろう。いつからあのふたりはあんな空気を出すようになった? 隼人ばかりを見ていたのに、まったく気付かなかった。でも間違いない。ここまで見つめ続けていたからわかる。
あのふたりは付き合っている。あるいは……すでに秒読み段階だ。
そこまで考えたところでたまらなくなった。
体を起こし鍵盤を閉じる。幸いにも涼本はまだやってきていない。ここ数日、毎日のようにここで顔を合わせ、それぞれの練習をしているから今日もきっとやってくるだろう。
顔を見たら帰る理由をでっち上げないといけなくなる。それは避けたい。
だってあいつは……馬鹿みたいに勘が鋭い。
――購買部の白兎って知ってます? パン買うとき、言ってみてください。裏メニューで白パン買えますから。
――え、知らなかった。なんでそんなこと知ってるの? 一年なのに。
――観察してて気付いたんです。白パン持っている人がいるって。で、探ったら教えてもらえました。
これは昨日の会話だ。実に他愛ないものだけれど、自分で言う通り、涼本の観察眼は確かだ。
正直今、その涼本の眼をかいくぐりながら相手をできるだけの心のゆとりはない。そしてこの余裕のなさは彼の鋭さをもってすれば簡単に見破られてしまうだろう。
そうと決まれば、と鞄を片手に音楽室を出る。慌ただしく階段を下り、下駄箱で靴を三和土に放り出す。旧校舎は新校舎に入れなかったクラブの部室にも多く使用されているから、生徒の出入りはそこそこある。まして今は学校祭直前。下駄箱付近も準備関係の資材がそここに置かれている。それを注意深く避けながらだったので、脱出に時間を食ってしまった。そのわずかなタイムロスが災いしたのか、数歩も行かないうちにいきなり肩を引かれた。
「どこ行くんですか、先輩」
頭の少し上から声が降ってくる。掴まれた肩がくいっと引き戻され、反射的にそちらを見てしまう。予想はしていたがやっぱり涼本だった。
「練習、しないんですか」
「今日はちょっと、用事があって」
「用事?」
不審そうに眉が顰められる。この顔が苦手だ。全部見透かされている気がするから。
「そう、お使い頼まれて。母親に。だから帰らないと」
「お使い」
単語ばかりが繰り返される。肩に絡んでいる彼の手をさりげなく払い、前進しようとする。が、その俺の肩をなおも涼本は掴んできた。
「先輩って電車通学ですよね」
「そう、だけど」
「じゃあ、途中まで一緒に帰りましょう」
「なんで。そっちは練習しなよ」
彼の肩にある楽器ケースに目をやり、早口で言う。
「もう時間もないんだし、やれるときにやっておかないとあとで……」
「顔色」
ぼそっと吐き出された単語によって唐突に言葉が遮られた。え、と見上げようとしてぎょっとした。
肩を掴む手とは逆の手でさらっと頬を撫でられていた。
「ひどい」
「え」
「青いっていうか、なんか」
ひょい、と不意打ちで間近く覗き込まれて、顔を作れなかった。
「泣きそう」
ぎゅいっと胸の奥が軋んだ。
ここは学校で、昇降口を出てすぐで人通りだってあるのに。
泣きそう、と言われたとたん、なぜか本当に泣きそうになった。
「泣くわけないって」
乱暴に腕を払って、歩き出す。だが彼はまだついてくる。いい加減いらいらしながら歩いていると再び強い力で腕を取られた。なに、と振り向く眼前で、赤、と短く言われる。
気が付くと横断歩道に差し掛かっていて、信号は確かに赤だった。
「駅まで一緒に行くから」
ぶっきらぼうに言われ、苛立つ。掴まれた腕を振り払おうとするが外れない。
「いい。放して。俺はひとりで……」
「いやだ」
「なんで!」
「先輩のこと、今、ひとりにしたくない」
まっすぐな言葉に場違いに胸が大きくわなないた。しかもさっきは抑え込んだ涙腺まで再び水を漏らしそうになった。
隼人のことで心が乱れてはいた。認めろといわんばかりにひたひたと迫る失恋の足音に血を流してもいた。でもだからといって涼本の言動に揺れるのはあまりにも弱すぎじゃないだろうか。
目の前の彼がどんなつもりでこちらに手を差し出してくるのかは知らないけれど、簡単に涙を見せていい相手じゃないのに。なんといっても後輩だし、それに。
――かっこよくなったら結婚してあげてもいい。
大昔の自分が放った台詞が蘇ってくる。
別にこう言ったからといって取り立ててなにがあるというわけでもない。過去の恥ずかしい思い出。ただそれだけだ。でももし彼の前で泣いてしまったら? それは……認めたことにならないか? かっこよくなった彼を認めて頼るみたいなそんなことになりはしないだろうか。
それは、嫌だ。
「悪いけど、ほんと、今はひとりになりたい。明日は練習、行くから。今日は」
……許して。
声にならない声で最後の一言を言うと、不承不承手が離れた。ほっと安堵したのと同時に信号が青に変わる。じゃ、と短い声を残して横断歩道に足を踏み出す背中で、涼本がいきなり、言った。
「明日、待ってるから」
声の必死さに引かれて思わず振り向いてしまう。そこには声と同様に真剣な目をした涼本がいた。
「だから、約束してください」
「なに……?」
「ひとりで泣かないって」
「な」
思わず声が漏れてしまった。その俺の目の前で目が細められた。
「約束してください」
信号が点滅を始める。頷くことは、できなかった。ただ慌てて渡り終えてもう一度振り向く。彼はまだ横断歩道の向こうにいた。痛ましげに目を細めたまま。
わかっている。しなければならない。しないと絶対に失敗する。容姿はともかく、アピールタイムを無難にこなせないというのはさすがに恥ずかしいし、隼人に申し訳が立たない。
……隼人に。
そこまで考えたところで俺は鍵盤に体を倒した。うつ伏せた体の下で鍵盤がか細く、ぽろぽろと泣いた。
覚悟はしていたのだ。今までだって隼人に彼女がいたことがなかったわけじゃないのだから。隼人は明るくて人気者だから好かれることは多かった。ノリもいいし、押されて付き合うことも珍しくなかった。
でも……今回は今までとは違う。明らかに隼人のほうもしっかりとした好意を持っていた。
いつからだろう。いつからあのふたりはあんな空気を出すようになった? 隼人ばかりを見ていたのに、まったく気付かなかった。でも間違いない。ここまで見つめ続けていたからわかる。
あのふたりは付き合っている。あるいは……すでに秒読み段階だ。
そこまで考えたところでたまらなくなった。
体を起こし鍵盤を閉じる。幸いにも涼本はまだやってきていない。ここ数日、毎日のようにここで顔を合わせ、それぞれの練習をしているから今日もきっとやってくるだろう。
顔を見たら帰る理由をでっち上げないといけなくなる。それは避けたい。
だってあいつは……馬鹿みたいに勘が鋭い。
――購買部の白兎って知ってます? パン買うとき、言ってみてください。裏メニューで白パン買えますから。
――え、知らなかった。なんでそんなこと知ってるの? 一年なのに。
――観察してて気付いたんです。白パン持っている人がいるって。で、探ったら教えてもらえました。
これは昨日の会話だ。実に他愛ないものだけれど、自分で言う通り、涼本の観察眼は確かだ。
正直今、その涼本の眼をかいくぐりながら相手をできるだけの心のゆとりはない。そしてこの余裕のなさは彼の鋭さをもってすれば簡単に見破られてしまうだろう。
そうと決まれば、と鞄を片手に音楽室を出る。慌ただしく階段を下り、下駄箱で靴を三和土に放り出す。旧校舎は新校舎に入れなかったクラブの部室にも多く使用されているから、生徒の出入りはそこそこある。まして今は学校祭直前。下駄箱付近も準備関係の資材がそここに置かれている。それを注意深く避けながらだったので、脱出に時間を食ってしまった。そのわずかなタイムロスが災いしたのか、数歩も行かないうちにいきなり肩を引かれた。
「どこ行くんですか、先輩」
頭の少し上から声が降ってくる。掴まれた肩がくいっと引き戻され、反射的にそちらを見てしまう。予想はしていたがやっぱり涼本だった。
「練習、しないんですか」
「今日はちょっと、用事があって」
「用事?」
不審そうに眉が顰められる。この顔が苦手だ。全部見透かされている気がするから。
「そう、お使い頼まれて。母親に。だから帰らないと」
「お使い」
単語ばかりが繰り返される。肩に絡んでいる彼の手をさりげなく払い、前進しようとする。が、その俺の肩をなおも涼本は掴んできた。
「先輩って電車通学ですよね」
「そう、だけど」
「じゃあ、途中まで一緒に帰りましょう」
「なんで。そっちは練習しなよ」
彼の肩にある楽器ケースに目をやり、早口で言う。
「もう時間もないんだし、やれるときにやっておかないとあとで……」
「顔色」
ぼそっと吐き出された単語によって唐突に言葉が遮られた。え、と見上げようとしてぎょっとした。
肩を掴む手とは逆の手でさらっと頬を撫でられていた。
「ひどい」
「え」
「青いっていうか、なんか」
ひょい、と不意打ちで間近く覗き込まれて、顔を作れなかった。
「泣きそう」
ぎゅいっと胸の奥が軋んだ。
ここは学校で、昇降口を出てすぐで人通りだってあるのに。
泣きそう、と言われたとたん、なぜか本当に泣きそうになった。
「泣くわけないって」
乱暴に腕を払って、歩き出す。だが彼はまだついてくる。いい加減いらいらしながら歩いていると再び強い力で腕を取られた。なに、と振り向く眼前で、赤、と短く言われる。
気が付くと横断歩道に差し掛かっていて、信号は確かに赤だった。
「駅まで一緒に行くから」
ぶっきらぼうに言われ、苛立つ。掴まれた腕を振り払おうとするが外れない。
「いい。放して。俺はひとりで……」
「いやだ」
「なんで!」
「先輩のこと、今、ひとりにしたくない」
まっすぐな言葉に場違いに胸が大きくわなないた。しかもさっきは抑え込んだ涙腺まで再び水を漏らしそうになった。
隼人のことで心が乱れてはいた。認めろといわんばかりにひたひたと迫る失恋の足音に血を流してもいた。でもだからといって涼本の言動に揺れるのはあまりにも弱すぎじゃないだろうか。
目の前の彼がどんなつもりでこちらに手を差し出してくるのかは知らないけれど、簡単に涙を見せていい相手じゃないのに。なんといっても後輩だし、それに。
――かっこよくなったら結婚してあげてもいい。
大昔の自分が放った台詞が蘇ってくる。
別にこう言ったからといって取り立ててなにがあるというわけでもない。過去の恥ずかしい思い出。ただそれだけだ。でももし彼の前で泣いてしまったら? それは……認めたことにならないか? かっこよくなった彼を認めて頼るみたいなそんなことになりはしないだろうか。
それは、嫌だ。
「悪いけど、ほんと、今はひとりになりたい。明日は練習、行くから。今日は」
……許して。
声にならない声で最後の一言を言うと、不承不承手が離れた。ほっと安堵したのと同時に信号が青に変わる。じゃ、と短い声を残して横断歩道に足を踏み出す背中で、涼本がいきなり、言った。
「明日、待ってるから」
声の必死さに引かれて思わず振り向いてしまう。そこには声と同様に真剣な目をした涼本がいた。
「だから、約束してください」
「なに……?」
「ひとりで泣かないって」
「な」
思わず声が漏れてしまった。その俺の目の前で目が細められた。
「約束してください」
信号が点滅を始める。頷くことは、できなかった。ただ慌てて渡り終えてもう一度振り向く。彼はまだ横断歩道の向こうにいた。痛ましげに目を細めたまま。



