三年だし受験勉強だってある。それでも最後の学校祭ということもあって、準備に熱狂するのは一、二年よりも圧倒的に三年だ。
そんな熱狂組の代表ともいえる隼人は今日も忙しそうで、休憩時間も当日のプログラムの確認に集中している。
「なぜ今になって時間変更言い出してくる! 演劇部!」
「大変そうだな……」
「まあなあ。でも楽しいよ。菊コンのほうも参加者四人になったし! ほんとありがとな、円!」
唸りながらパズルのように入り組んだプログラム表に書き込みをしていた隼人が顔を上げてにかっと笑う。その笑顔にくらくらする自分を自制するように咳払いをし、俺は隼人の手元のプログラム表を眺める。
菊コンは学校祭最終日の三時から。参加者は四人。安城裕樹、西森栄太。時谷円、涼本総一郎。
「ねえ、隼人はさ、涼本のこと、覚えてる?」
涼本の名前に視線を当てながら問うと、きょとんとした顔で隼人が顔を上げた。
「涼本? 覚えてるもなにも。有名人だろ」
「じゃなくて。小学校一緒だったっぽくて」
「あー、そういうこと。そうそう! 覚えてない? あいつ、ちょっとの間、通学団、俺達と一緒だったんだよ。小学二年で引っ越しちゃってその後は接点なかったけど」
そうだったのか。通学団が一緒だったなら、毎日一緒に登校していたはずなのに、全然覚えていない。
しかしそんな覚えてもいないような相手に俺はなぜ、かっこよくなったら結婚してあげてもいい、なんて言うに至ったのだろう。
「だめだ、思い出せない」
「そんなもんじゃね? 小学校のころなんてもはや太古の昔、恐竜が闊歩する時代の話だって。まーでも、涼本のことはうっすら覚えてる。あいつ、めちゃくちゃ泣き虫でさ、学校連れてくのにも苦労した覚えあるもん。行きたくないって泣きわめいて」
「そうなの?」
今の涼本からは想像もできない。だが、泣きわめく、のワードに触れる人物がいたようにも思う。
いや……確かに、いた。
しょっちゅう泣きながら歩いていた子が近所にいた。その子に俺も何度か声をかけていた。
転んで泣いていたときもあった。鍵を落としたと言って涙目になっていた姿も見た。
横断歩道を渡りたいのに上手に渡れないとしゃくりあげていたこともあった。
周囲はすぐ泣く彼を持て余していたし、俺もちょっと面倒だなと思っていた。
記憶の底に沈んでいた日々が現像途中の印画紙みたいに心に浮かび上がってくる。ただ、脳裏を掠めたのはそれだけじゃなかった。
――ぼく、みたいなのじゃ、ずっとひとりっていわれ、たの。けっこんもできない、って。だれもぼくのことなんて、好きになるわけ、ないって。ひとりぼっち、って。
蘇ってきたのは、泣き濡れた声だった。
夕日が青に飲まれ始める時間の児童公園で彼は泣きじゃくっていた。小さな膝小僧に顔を埋めて。その日、彼は友達とけんかをしたらしく、小突き合った拍子に通学用の手提げバッグを側溝に落としてしまい、どろどろになったそれを前に泣いていた。バッグを救出したときに濡れてしまった靴は、泥水を吸って茶色く変色してしまってもいた。
見る影もなくしおれているのに、涙のせいでますます小さく縮んでいくみたいな彼のそばに俺はいた。
正直、当惑していた。面倒だなあとやっぱり思ってもいた。でも声をかけたのは泣く彼に共感したところがあったからだ。
彼の家には俺の家同様に母親しかいなかった。だからわかった。泣いて帰ったとしても慰めてくれる人間がいないことの寂しさが。母親が家にいるときを狙って関心を引きたくてわざと泣いた記憶さえ俺にはあったから。
だから、膝を抱える彼と並んで座って彼の背中を撫でていた。
あのとき、俺はなんと言って慰めていただろう。確か……。
――そんなことないよ。大丈夫。大きくなったら変われるよ。ひとりぼっちになんてならないよ。
――かわれる?
――変われる。かっこよくなってひとりぼっちじゃなくなるよ。大人になったら全部うまくいくよ。
そうだ。そう言ったのだ。
当時、呪文みたいに自分に言い聞かせていた言葉を彼にそのまま告げたのだ。
――かっこよく、なれる? 本当に?
根拠も確信もないその台詞に対し、彼が返してきたのはすがるようなそんな声だった。
だから頷いた。
――なれるよ。
――そっかあ。
ほっとしたように小さな肩が下がった。膝小僧に押し当てられたままだった顔がゆらっと上がる。そして、目に涙をいっぱい溜めた彼は、こう、言った。
――かっこよくなったら、まどかくんも、ぼくとけっこん、してもいいって思ってくれる? いっしょにいてくれる?
あまりにもぶっ飛んだ問いだった。けれどその必死過ぎる目に押されるみたいに俺は頷いてしまった。
ひとりぼっちが嫌、は、覚えがありすぎる感情だったし、寂しさに震える彼が自分みたいに見えて、つい。
――いいよ。かっこよくなったら結婚してあげてもいい。だから、泣かずに頑張れ。
耳の中で響いた自分の声に、俺は思わず口許を押さえる。
「俺、言ってる……」
「円?」
怪訝そうに隼人が問いかけてくる。覗き込まれて顔が赤くなってしまった。慌てて身を引き、俺はふるふると首を振る。
「あ、いや、あの、涼本と話すことあって、そういう話になっただけ」
「おー、そっかそっか。しっかしびっくりだよなー。あの泣き虫があんなイケメンに育つなんてな。魔法みたい」
からからと隼人が笑う。確かにそうだ、と思う。
あのころの涼本と今の涼本。同一人物とは思えないほどのメタモルフォーゼだ。子どものころから可愛い顔をしてはいたが、まさかここまで化けると誰が思っただろう。
落ちつきがあって、年下とは思えない色気さえ漂わせている。あの泣き虫があそこまでの空気を身に着けるには相当な努力が必要だったのではないだろうか。
なにが彼をそこまで変えたのだろう。
……あの不用意な結婚承諾のせいだったらどうしよう。いや、まさか。
「青木先輩」
つらつらと考えている傍らで柔らかな声がした。名前まではわからないが最近隼人と一緒にいるのをよく見る子だった。
「当日の来賓名簿のことでお話したくて」
学校祭が近くなるとこういうことはよくある。生徒会の役員同士やり取りも活発になり、休憩時間もまんじりと休憩なんてできない。大変だな、とねぎらいの眼差しを向けたところでふと気付いた。
「あ、うん。今、行く」
呟く隼人の顔が……赤かった。
いつもの隼人ならしない、はにかむような表情に、頭の奥で回転灯が密やかにくるり、と回った気がした。
何事かを語らいながら教室を出ていくふたりの間にはわずかな間隔が空いている。ただ、間が空いていながらもそのなにもない空間は少しも冷たく見えない。
まるで見えない信号を飛ばしあっているみたいな熱を確かに、感じる。
……ねえ、隼人。
そんなふたりの背中に向かい、俺はひそやかに呼びかける。
……涼本も変わったと思った。でも、お前もだったの?
……変わらないみたいな顔をしていたくせに、お前も俺の全然知らない顔、するの?
……そんな顔をするのはもしかして、その子の、せい?
こちらの心の叫びなんてまるで気付いてくれないまま、隼人は彼女とともに廊下へ出ていく。
振り返られることもなく、俺の目の前で、ぴしゃり、と引き戸が閉められた。
そんな熱狂組の代表ともいえる隼人は今日も忙しそうで、休憩時間も当日のプログラムの確認に集中している。
「なぜ今になって時間変更言い出してくる! 演劇部!」
「大変そうだな……」
「まあなあ。でも楽しいよ。菊コンのほうも参加者四人になったし! ほんとありがとな、円!」
唸りながらパズルのように入り組んだプログラム表に書き込みをしていた隼人が顔を上げてにかっと笑う。その笑顔にくらくらする自分を自制するように咳払いをし、俺は隼人の手元のプログラム表を眺める。
菊コンは学校祭最終日の三時から。参加者は四人。安城裕樹、西森栄太。時谷円、涼本総一郎。
「ねえ、隼人はさ、涼本のこと、覚えてる?」
涼本の名前に視線を当てながら問うと、きょとんとした顔で隼人が顔を上げた。
「涼本? 覚えてるもなにも。有名人だろ」
「じゃなくて。小学校一緒だったっぽくて」
「あー、そういうこと。そうそう! 覚えてない? あいつ、ちょっとの間、通学団、俺達と一緒だったんだよ。小学二年で引っ越しちゃってその後は接点なかったけど」
そうだったのか。通学団が一緒だったなら、毎日一緒に登校していたはずなのに、全然覚えていない。
しかしそんな覚えてもいないような相手に俺はなぜ、かっこよくなったら結婚してあげてもいい、なんて言うに至ったのだろう。
「だめだ、思い出せない」
「そんなもんじゃね? 小学校のころなんてもはや太古の昔、恐竜が闊歩する時代の話だって。まーでも、涼本のことはうっすら覚えてる。あいつ、めちゃくちゃ泣き虫でさ、学校連れてくのにも苦労した覚えあるもん。行きたくないって泣きわめいて」
「そうなの?」
今の涼本からは想像もできない。だが、泣きわめく、のワードに触れる人物がいたようにも思う。
いや……確かに、いた。
しょっちゅう泣きながら歩いていた子が近所にいた。その子に俺も何度か声をかけていた。
転んで泣いていたときもあった。鍵を落としたと言って涙目になっていた姿も見た。
横断歩道を渡りたいのに上手に渡れないとしゃくりあげていたこともあった。
周囲はすぐ泣く彼を持て余していたし、俺もちょっと面倒だなと思っていた。
記憶の底に沈んでいた日々が現像途中の印画紙みたいに心に浮かび上がってくる。ただ、脳裏を掠めたのはそれだけじゃなかった。
――ぼく、みたいなのじゃ、ずっとひとりっていわれ、たの。けっこんもできない、って。だれもぼくのことなんて、好きになるわけ、ないって。ひとりぼっち、って。
蘇ってきたのは、泣き濡れた声だった。
夕日が青に飲まれ始める時間の児童公園で彼は泣きじゃくっていた。小さな膝小僧に顔を埋めて。その日、彼は友達とけんかをしたらしく、小突き合った拍子に通学用の手提げバッグを側溝に落としてしまい、どろどろになったそれを前に泣いていた。バッグを救出したときに濡れてしまった靴は、泥水を吸って茶色く変色してしまってもいた。
見る影もなくしおれているのに、涙のせいでますます小さく縮んでいくみたいな彼のそばに俺はいた。
正直、当惑していた。面倒だなあとやっぱり思ってもいた。でも声をかけたのは泣く彼に共感したところがあったからだ。
彼の家には俺の家同様に母親しかいなかった。だからわかった。泣いて帰ったとしても慰めてくれる人間がいないことの寂しさが。母親が家にいるときを狙って関心を引きたくてわざと泣いた記憶さえ俺にはあったから。
だから、膝を抱える彼と並んで座って彼の背中を撫でていた。
あのとき、俺はなんと言って慰めていただろう。確か……。
――そんなことないよ。大丈夫。大きくなったら変われるよ。ひとりぼっちになんてならないよ。
――かわれる?
――変われる。かっこよくなってひとりぼっちじゃなくなるよ。大人になったら全部うまくいくよ。
そうだ。そう言ったのだ。
当時、呪文みたいに自分に言い聞かせていた言葉を彼にそのまま告げたのだ。
――かっこよく、なれる? 本当に?
根拠も確信もないその台詞に対し、彼が返してきたのはすがるようなそんな声だった。
だから頷いた。
――なれるよ。
――そっかあ。
ほっとしたように小さな肩が下がった。膝小僧に押し当てられたままだった顔がゆらっと上がる。そして、目に涙をいっぱい溜めた彼は、こう、言った。
――かっこよくなったら、まどかくんも、ぼくとけっこん、してもいいって思ってくれる? いっしょにいてくれる?
あまりにもぶっ飛んだ問いだった。けれどその必死過ぎる目に押されるみたいに俺は頷いてしまった。
ひとりぼっちが嫌、は、覚えがありすぎる感情だったし、寂しさに震える彼が自分みたいに見えて、つい。
――いいよ。かっこよくなったら結婚してあげてもいい。だから、泣かずに頑張れ。
耳の中で響いた自分の声に、俺は思わず口許を押さえる。
「俺、言ってる……」
「円?」
怪訝そうに隼人が問いかけてくる。覗き込まれて顔が赤くなってしまった。慌てて身を引き、俺はふるふると首を振る。
「あ、いや、あの、涼本と話すことあって、そういう話になっただけ」
「おー、そっかそっか。しっかしびっくりだよなー。あの泣き虫があんなイケメンに育つなんてな。魔法みたい」
からからと隼人が笑う。確かにそうだ、と思う。
あのころの涼本と今の涼本。同一人物とは思えないほどのメタモルフォーゼだ。子どものころから可愛い顔をしてはいたが、まさかここまで化けると誰が思っただろう。
落ちつきがあって、年下とは思えない色気さえ漂わせている。あの泣き虫があそこまでの空気を身に着けるには相当な努力が必要だったのではないだろうか。
なにが彼をそこまで変えたのだろう。
……あの不用意な結婚承諾のせいだったらどうしよう。いや、まさか。
「青木先輩」
つらつらと考えている傍らで柔らかな声がした。名前まではわからないが最近隼人と一緒にいるのをよく見る子だった。
「当日の来賓名簿のことでお話したくて」
学校祭が近くなるとこういうことはよくある。生徒会の役員同士やり取りも活発になり、休憩時間もまんじりと休憩なんてできない。大変だな、とねぎらいの眼差しを向けたところでふと気付いた。
「あ、うん。今、行く」
呟く隼人の顔が……赤かった。
いつもの隼人ならしない、はにかむような表情に、頭の奥で回転灯が密やかにくるり、と回った気がした。
何事かを語らいながら教室を出ていくふたりの間にはわずかな間隔が空いている。ただ、間が空いていながらもそのなにもない空間は少しも冷たく見えない。
まるで見えない信号を飛ばしあっているみたいな熱を確かに、感じる。
……ねえ、隼人。
そんなふたりの背中に向かい、俺はひそやかに呼びかける。
……涼本も変わったと思った。でも、お前もだったの?
……変わらないみたいな顔をしていたくせに、お前も俺の全然知らない顔、するの?
……そんな顔をするのはもしかして、その子の、せい?
こちらの心の叫びなんてまるで気付いてくれないまま、隼人は彼女とともに廊下へ出ていく。
振り返られることもなく、俺の目の前で、ぴしゃり、と引き戸が閉められた。



