旧校舎音楽室は、かつて軽音楽部が使っていたが、その軽音楽部が廃部となった今は誰でも自由に使用できるようになっている。そもそも新校舎よりも設備がよくないから人もあまり来ない。俺のようなへたくそが練習するには絶好の場所なのだ。
そう思っていたのに。
「あ、来た。先輩」
音楽室の扉を開けると、先客がいた。
「遅かったっすね」
昨日同様の気だるげなしゃべり方だ。が、顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「待ち合わせしたつもりはないけど」
なにも邪険にする必要なんてないのだけれど、なんとなく喧嘩腰になってしまう。そそくさとピアノ用の椅子に腰を下ろしたところで、彼の手にあるものに気付いた。
「トランペット?」
「まあ。中学のときやってたんで」
黄金色に輝くそれを涼本はくるっと器用に回す。嫌になるほど様になるその姿に、やっぱりこいつむかつく、と思った。
「結局出るの?」
「そっすね。出ようかなと。思い出作りに」
「出るの気乗りしなかったんじゃなかった?」
妙なものだ。出ないと隼人が困るからと昨日はあれほど引き留めたのに、出ます、と言われると反発したくなる。
こちらの複雑な胸中を知ってか知らずか、涼本は、んー、と唸っている。
「ぶっちゃけ菊コン自体はどうでもいいんです。青木先輩の顔立てる義理もないですし。けど」
言いながら彼はちらっとこちらを見る。
「時谷先輩と練習するのは楽しそうだと思ったんで」
「……昨日も訊いたけどなんで俺のこと知ってるの?」
「なんでだと思います?」
……こいつ、やっぱりうざい。
それ以上突っ込むことをやめ、俺は鍵盤の蓋を上げ、持参した楽譜を譜面台に広げた。
これなら何度か弾いたし、メジャーだし、いけるのではないかと思った曲だ。さて、と楽譜を睨み鍵盤に手を置く。と。
とん、と軽い衝撃とともに椅子が揺れた。
「ちょ、なに」
なぜか椅子の端に涼本が腰かけていた。
「カノン?」
身を乗り出され肩に肩が当たる。狭い。
「そうだよ。ってなに。練習できない。邪魔」
「時谷先輩って実は口悪いんだ」
つれなくしたのになぜか楽しそうな顔をされ面食らう。
遠目に見ていたときはつんつんしていて気取ったやつだと思っていたが、今日は年相応の無邪気さがあるようにも見える。
すごく、意外だ。
「そっちは。なに弾くの」
「あー、迷ってて。ただこれがいいかなあと」
邪魔されたくなくて世間話程度に問うと、彼は椅子から立ち上がり、引き締まった唇をマウスピースに寄せた。ふうっと息を吹き込むとともに高い音が飛び出す。机も椅子も取り払われ、素っ気ない顔をする音楽室の空気を音楽の顔に変わった音がざっと薙いだ。
近くで聞いているはずなのに空の彼方から押し寄せてくるような、なだらかな音の連なりがそっと耳をなぞる。
その旋律には、聞き覚えがあった。
「ドヴォルザークの……家路?」
「当たり」
やっぱり意外すぎて首を傾げると、涼本は、ふふ、と笑ってからさらに黄金色の楽器を鳴かせた。
繰り返し流れる「家路」が胸の奥をざらっと撫でる。急き立てられるような、それでいてそっと寄り添ってくれるような、夕日を曲にしたらきっとこうなのだろうと思わせる物悲しいメロディ―。
「うちの近所でさ、夕方になるとこれ、流れてた」
旋律が途切れたところで呟くと、トランペットを下ろし涼本がこちらを流し見てきた。西日が斜めに差し込んできて茶色の瞳が淡く透ける。
べっこうあめみたいな色だな、とちらっと思った。
「なんかすごく、懐かしい」
「好き?」
マウスピースに添わされていた唇がすうっと笑みを形作る。え、と目を瞬いている間に近づいてきた涼本が、俺の座る椅子に再び腰を下ろす。
「この曲。先輩、好き?」
「あ、えと、うん」
間近く覗き込まれて、なぜか、どきり、とした。
「好き、だよ。でもあの、コンテストでやるには……寂しい曲のような」
胸の辺りを我知らず押さえながら控えめに忠告すると、触れ合うほど近い場所で、ふふ、と肩が震えた。
「寂しくてもよくないですか? 好きって言ってくれる人がひとりでもいればさ」
「あ……そう」
まあそれはそうかもしれない。しれないが。
……やっぱり変なやつだ。
「涼本って、さ、誰にでもそうなの?」
「なにが?」
練習に飽きたのか、涼本は鍵盤を意味なくぽろん、ぽろん、と叩いている。
「その、フレンドリーというか。距離が近すぎるというか。俺達、話したことないよね。なのになんで」
ぽろ、と音が止まった。
「……あるよ」
急に声のトーンが下がる。ぐいっと顔が顔に寄せられ、ぎょっとした。
「ちょ、な……」
「ってかさ、やっぱり覚えてなかった? 俺のこと」
「涼本だよね。一年の」
「そうだけど、そうじゃなくて、俺」
言葉が唐突に途切れる。数秒、こちらを睨みつけてから彼は、ああもう、と呟いて顔を背けた。
「やっぱりあれか。年下だからって相手にされてなかったとか、そういう話か」
「なんの話?」
「俺、中学は別だったけど小学校、先輩と一緒だった」
「そうだっけ?」
「あんたが言ったんだよ?」
こんなに目立つ容姿のやつだったら記憶に残っていそうなのにまったく覚えがない。首を捻ると、これみよがしな溜め息をつかれ……爆弾が落とされた。
「かっこよくなったら結婚してあげてもいいって」
「……け……? は……?」
数秒、完全に思考が止まった。それでもどうにかこうにか起動を図る。
「そ、それ、あの、ほんとに、俺、が?」
「そう」
「いつ?」
「俺が小一のときだからあんたが小三のとき」
いやいやいや。嘘だろう。
そんなことを言うはずがない。結婚してあげてもいい、なんて。そんな上からの発言を自分がしたなんて思いたくない。しかも小学三年生で。
と思うのに、頭ごなしに否定できない。それは多分、こちらを見る彼の顔にからかう色が皆無だからだ。
独特過ぎる空気を持っているやつだけれど、こんな変な冗談を言っても得なんてなにもないだろうことは明白だ。じゃあ、本当に……言った?
「信じない?」
「信じないっていうか……あっ」
ぐいっと顔を寄せられ、反射的にいざって下がろうとして……重心が傾いた。
ばたばたしたが間に合わず、体が床に落ちていく。嘘、と思ったときだった。
「危な」
自分より長くしなやかな腕によって横から腰がさらわれ、抱き留められていた。
「大丈夫?」
ほんのりと甘さが漂う低い声が耳に滑り込んできて、激しく、動揺した。
落下しそうになったときの心もとない浮遊感に心がバグってしまったのだろうか。
それとも、これまでそれほど口も利いてこなかった相手にいきなりパーソナルスペースを侵されたからだろうか。
よくわからないけれど、この距離はなんだか……まずい。
必死に背中を反らし、抱いてくる腕から体を離そうと身じろぐ。
「ちょ、ちょっと待った。もう一回訊くけど。俺、本当にそんなこと、言った?」
「……言った」
投げ捨てるような声とともに腕がすっと引かれる。盛大な溜め息にはふんだんに苛立ちがまぶされていて俺は焦った。
「でもその、結婚なんてそんなの、あり得ないよね。言ったのだとしたら多分ふざけて……」
「ふざけて言っていい台詞じゃないでしょうが」
間近くぎろりと睨まれる。う、と言葉に詰まる俺の肩に、とん、と肩が当てられた。
「別にいいよ。覚えてないならないで。昔のことだし仕方ないって思う。ただ、さすがにかちんときた」
「あー……。うん。覚えてなくて本当に悪かった、けど。それはあの」
「だから、覚えてないことはいいんだってば。俺が腹立たしいのは青木先輩のこと」
いきなり隼人の名前が出て、どくん、と大きく胸が鳴る。それは隣り合わせで座っている涼本にも伝わってしまったかもしれない。そろそろと横目で窺うが、彼はこちらを見てはおらず、手の中のトランペットに目を落としている。
「頼んできたの、青木先輩なんだろ。じゃないと先輩、出ないよな。菊コンなんて」
彼の長い指がトランペットにすうっと寄り添う。金色の金管の上部、音階を変えるピストンを撫でている指先にはなにかを探すみたいな丁寧さがあった。
「思い出作りなんて嘘でしょ。なのにそんな嘘ついてまで出てやるのは先輩が青木先輩のこと」
……言うな。
とっさだった。鍵盤を強く両手で押すと、音階もなにもない暴力的な音が音楽室の空気を貫いた。
「練習、しないなら、出てって」
隼人のことは……誰にも言っていない。王様の耳はロバの耳よろしく、穴に向かって吠えることも、SNSの海に向かって嘆いたこともない。正真正銘、この気持ちを知っているのは自分だけ。
知られたら、終わってしまうから。恋心じゃなく、隼人と繋がっている糸がすべて断ち切られてしまうから。
だから、誰にも知られるわけにはいかない。
でもこいつは今……その決定的なことを言おうとした。
そんなにも俺の目には恋心が溢れているのだろうか? 知り合いともいえぬほど遠い間柄であるこいつに読み取られてしまうほどに?
そう思ったら怖かったし、いたたまれなかった。
窓の外からは運動部の掛け声とホイッスル、遠く、演劇部だろうか、あーえーいーうーえーおあお、という発声練習の声が聞こえてくる。のどかな音の連なりの中にいながら、ぴしりと冷たい空気が漂う。その空気に風穴を開けるように息を吐いたのは涼本だった。
「……練習しますよ。んで、絶対、先輩には負けないです」
……なんでそんな闘志むき出しな顔をされないといけないのだろう。
「え、いや、何言ってんの。安心しなよ。最初から俺ビリ決定だから」
「はあ?」
取りなすように言ってみたが逆効果だったらしい。眉間にしわを寄せた彼に思い切り睨まれた。
「なんだそれ。勝つ気ゼロなのにコンテスト出ようとしてんの? 思い出作りにしてもひどくない? 審査員とか客?とか馬鹿にしてませんか」
「涼本だってやる気ないって言ってたくせに。適材適所って言葉もあるだろ。枯れ木も山の賑わいとか。俺は枯れ木だからいいんだよ」
「はああ?」
さらに声が跳ね上がり、刺さりそうな鋭い目がすぐ隣から向けられる。強すぎる眼差しからとっさに距離を取ろうとしたが、涼本はお構いなしに顔を近づけてきた。
やめろ近づくな。また落ちそうになる。
そう言ってやりたいけれど、言う間もなくぐいぐい迫られる。なんだよ、とさすがに声を上げようとしたとき、涼本が吐き捨てた。
「俺は嫌」
「は、え?」
「先輩が自分のこと枯れ木なんて言うの、俺は絶対いやだ」
言いざま彼の肩ががん、と肩を押してくる。力任せなその仕草はほとんど肩で肩を殴るみたいで俺は顔をしかめた。
「ちょ、痛い」
「弾いて」
「え?」
「先輩のカノン。聴きたい」
そう言いながらすっと涼本が椅子から立ち上がる。ピアノの横からこちらを見下ろした彼の瞳に、またも西日が映りこんで元から淡い色彩の瞳をなお淡い色に染めた。
「弾いて」
最後の一言は命じるものではなく、懇願するみたいな口調だった。懇願なら従うことはない。だってそれは強さはともかく、お願い、だから。
ああ、よかったのだ。よかったのに、俺は鍵盤に指を置いた。勢いに押されたからでもあった。でもそれ以上に胸に刺さるものが彼の言葉にはあったから。
――先輩が自分のことを枯れ木なんて言うの、俺は絶対いやだ。
自分みたいなやつがミスターコンなんて絶対に間違っているし、場違いだし、笑い者にしかならないと思っている。
だから練習だっていやいやだった。どうせやったところで、という気持ちもあった。
だがこいつの言う通りなのだ。枯れ木だって頑張らなきゃ、見てくれる人に申し訳が立たない。
隼人にも。
久しぶりに触れる鍵盤はやはり重い。それでも必死に一音一音、音を紡いだ。たどたどしいステップを踏む音符が緩やかに手を繋ぐ。
指はもつれるし、押し間違えるし、さんざんだったけれど、それでもどうにかこうにか弾き終えたときだった。
ぱちぱち、と高く拍手の音が上がった。
譜面から視線を音のほうへと向けると、満面の笑みを浮かべた涼本が手を叩いていた。
「先輩、めっちゃ、かっこいい」
弾んだ声で涼本が言う。いつも澄ました顔で周囲を見ている彼が子供みたいに手放しで笑うさまを唖然として見つめていると、すっと彼は手を止めた。そのまま手にしたトランペットを唇に当てる。
流れ出した曲は先程自分が弾いたカノン。
金色の音が空気を染めていく。潔く迷いのないその旋律に聞きほれている俺に向かって、すっと涼本が目線で鍵盤を指した。
弾け、ということらしい。
……なんでセッション。
ちょっと笑ってしまった。けれど、俺は誘われるままに鍵盤に手を走らせた。
指がさっきまでよりも軽やかに、踊る。
金管の音色が手を引いてくれたからなのか。
二度目のカノンは一度目よりずっとリズミカルに宙を舞った。
そう思っていたのに。
「あ、来た。先輩」
音楽室の扉を開けると、先客がいた。
「遅かったっすね」
昨日同様の気だるげなしゃべり方だ。が、顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「待ち合わせしたつもりはないけど」
なにも邪険にする必要なんてないのだけれど、なんとなく喧嘩腰になってしまう。そそくさとピアノ用の椅子に腰を下ろしたところで、彼の手にあるものに気付いた。
「トランペット?」
「まあ。中学のときやってたんで」
黄金色に輝くそれを涼本はくるっと器用に回す。嫌になるほど様になるその姿に、やっぱりこいつむかつく、と思った。
「結局出るの?」
「そっすね。出ようかなと。思い出作りに」
「出るの気乗りしなかったんじゃなかった?」
妙なものだ。出ないと隼人が困るからと昨日はあれほど引き留めたのに、出ます、と言われると反発したくなる。
こちらの複雑な胸中を知ってか知らずか、涼本は、んー、と唸っている。
「ぶっちゃけ菊コン自体はどうでもいいんです。青木先輩の顔立てる義理もないですし。けど」
言いながら彼はちらっとこちらを見る。
「時谷先輩と練習するのは楽しそうだと思ったんで」
「……昨日も訊いたけどなんで俺のこと知ってるの?」
「なんでだと思います?」
……こいつ、やっぱりうざい。
それ以上突っ込むことをやめ、俺は鍵盤の蓋を上げ、持参した楽譜を譜面台に広げた。
これなら何度か弾いたし、メジャーだし、いけるのではないかと思った曲だ。さて、と楽譜を睨み鍵盤に手を置く。と。
とん、と軽い衝撃とともに椅子が揺れた。
「ちょ、なに」
なぜか椅子の端に涼本が腰かけていた。
「カノン?」
身を乗り出され肩に肩が当たる。狭い。
「そうだよ。ってなに。練習できない。邪魔」
「時谷先輩って実は口悪いんだ」
つれなくしたのになぜか楽しそうな顔をされ面食らう。
遠目に見ていたときはつんつんしていて気取ったやつだと思っていたが、今日は年相応の無邪気さがあるようにも見える。
すごく、意外だ。
「そっちは。なに弾くの」
「あー、迷ってて。ただこれがいいかなあと」
邪魔されたくなくて世間話程度に問うと、彼は椅子から立ち上がり、引き締まった唇をマウスピースに寄せた。ふうっと息を吹き込むとともに高い音が飛び出す。机も椅子も取り払われ、素っ気ない顔をする音楽室の空気を音楽の顔に変わった音がざっと薙いだ。
近くで聞いているはずなのに空の彼方から押し寄せてくるような、なだらかな音の連なりがそっと耳をなぞる。
その旋律には、聞き覚えがあった。
「ドヴォルザークの……家路?」
「当たり」
やっぱり意外すぎて首を傾げると、涼本は、ふふ、と笑ってからさらに黄金色の楽器を鳴かせた。
繰り返し流れる「家路」が胸の奥をざらっと撫でる。急き立てられるような、それでいてそっと寄り添ってくれるような、夕日を曲にしたらきっとこうなのだろうと思わせる物悲しいメロディ―。
「うちの近所でさ、夕方になるとこれ、流れてた」
旋律が途切れたところで呟くと、トランペットを下ろし涼本がこちらを流し見てきた。西日が斜めに差し込んできて茶色の瞳が淡く透ける。
べっこうあめみたいな色だな、とちらっと思った。
「なんかすごく、懐かしい」
「好き?」
マウスピースに添わされていた唇がすうっと笑みを形作る。え、と目を瞬いている間に近づいてきた涼本が、俺の座る椅子に再び腰を下ろす。
「この曲。先輩、好き?」
「あ、えと、うん」
間近く覗き込まれて、なぜか、どきり、とした。
「好き、だよ。でもあの、コンテストでやるには……寂しい曲のような」
胸の辺りを我知らず押さえながら控えめに忠告すると、触れ合うほど近い場所で、ふふ、と肩が震えた。
「寂しくてもよくないですか? 好きって言ってくれる人がひとりでもいればさ」
「あ……そう」
まあそれはそうかもしれない。しれないが。
……やっぱり変なやつだ。
「涼本って、さ、誰にでもそうなの?」
「なにが?」
練習に飽きたのか、涼本は鍵盤を意味なくぽろん、ぽろん、と叩いている。
「その、フレンドリーというか。距離が近すぎるというか。俺達、話したことないよね。なのになんで」
ぽろ、と音が止まった。
「……あるよ」
急に声のトーンが下がる。ぐいっと顔が顔に寄せられ、ぎょっとした。
「ちょ、な……」
「ってかさ、やっぱり覚えてなかった? 俺のこと」
「涼本だよね。一年の」
「そうだけど、そうじゃなくて、俺」
言葉が唐突に途切れる。数秒、こちらを睨みつけてから彼は、ああもう、と呟いて顔を背けた。
「やっぱりあれか。年下だからって相手にされてなかったとか、そういう話か」
「なんの話?」
「俺、中学は別だったけど小学校、先輩と一緒だった」
「そうだっけ?」
「あんたが言ったんだよ?」
こんなに目立つ容姿のやつだったら記憶に残っていそうなのにまったく覚えがない。首を捻ると、これみよがしな溜め息をつかれ……爆弾が落とされた。
「かっこよくなったら結婚してあげてもいいって」
「……け……? は……?」
数秒、完全に思考が止まった。それでもどうにかこうにか起動を図る。
「そ、それ、あの、ほんとに、俺、が?」
「そう」
「いつ?」
「俺が小一のときだからあんたが小三のとき」
いやいやいや。嘘だろう。
そんなことを言うはずがない。結婚してあげてもいい、なんて。そんな上からの発言を自分がしたなんて思いたくない。しかも小学三年生で。
と思うのに、頭ごなしに否定できない。それは多分、こちらを見る彼の顔にからかう色が皆無だからだ。
独特過ぎる空気を持っているやつだけれど、こんな変な冗談を言っても得なんてなにもないだろうことは明白だ。じゃあ、本当に……言った?
「信じない?」
「信じないっていうか……あっ」
ぐいっと顔を寄せられ、反射的にいざって下がろうとして……重心が傾いた。
ばたばたしたが間に合わず、体が床に落ちていく。嘘、と思ったときだった。
「危な」
自分より長くしなやかな腕によって横から腰がさらわれ、抱き留められていた。
「大丈夫?」
ほんのりと甘さが漂う低い声が耳に滑り込んできて、激しく、動揺した。
落下しそうになったときの心もとない浮遊感に心がバグってしまったのだろうか。
それとも、これまでそれほど口も利いてこなかった相手にいきなりパーソナルスペースを侵されたからだろうか。
よくわからないけれど、この距離はなんだか……まずい。
必死に背中を反らし、抱いてくる腕から体を離そうと身じろぐ。
「ちょ、ちょっと待った。もう一回訊くけど。俺、本当にそんなこと、言った?」
「……言った」
投げ捨てるような声とともに腕がすっと引かれる。盛大な溜め息にはふんだんに苛立ちがまぶされていて俺は焦った。
「でもその、結婚なんてそんなの、あり得ないよね。言ったのだとしたら多分ふざけて……」
「ふざけて言っていい台詞じゃないでしょうが」
間近くぎろりと睨まれる。う、と言葉に詰まる俺の肩に、とん、と肩が当てられた。
「別にいいよ。覚えてないならないで。昔のことだし仕方ないって思う。ただ、さすがにかちんときた」
「あー……。うん。覚えてなくて本当に悪かった、けど。それはあの」
「だから、覚えてないことはいいんだってば。俺が腹立たしいのは青木先輩のこと」
いきなり隼人の名前が出て、どくん、と大きく胸が鳴る。それは隣り合わせで座っている涼本にも伝わってしまったかもしれない。そろそろと横目で窺うが、彼はこちらを見てはおらず、手の中のトランペットに目を落としている。
「頼んできたの、青木先輩なんだろ。じゃないと先輩、出ないよな。菊コンなんて」
彼の長い指がトランペットにすうっと寄り添う。金色の金管の上部、音階を変えるピストンを撫でている指先にはなにかを探すみたいな丁寧さがあった。
「思い出作りなんて嘘でしょ。なのにそんな嘘ついてまで出てやるのは先輩が青木先輩のこと」
……言うな。
とっさだった。鍵盤を強く両手で押すと、音階もなにもない暴力的な音が音楽室の空気を貫いた。
「練習、しないなら、出てって」
隼人のことは……誰にも言っていない。王様の耳はロバの耳よろしく、穴に向かって吠えることも、SNSの海に向かって嘆いたこともない。正真正銘、この気持ちを知っているのは自分だけ。
知られたら、終わってしまうから。恋心じゃなく、隼人と繋がっている糸がすべて断ち切られてしまうから。
だから、誰にも知られるわけにはいかない。
でもこいつは今……その決定的なことを言おうとした。
そんなにも俺の目には恋心が溢れているのだろうか? 知り合いともいえぬほど遠い間柄であるこいつに読み取られてしまうほどに?
そう思ったら怖かったし、いたたまれなかった。
窓の外からは運動部の掛け声とホイッスル、遠く、演劇部だろうか、あーえーいーうーえーおあお、という発声練習の声が聞こえてくる。のどかな音の連なりの中にいながら、ぴしりと冷たい空気が漂う。その空気に風穴を開けるように息を吐いたのは涼本だった。
「……練習しますよ。んで、絶対、先輩には負けないです」
……なんでそんな闘志むき出しな顔をされないといけないのだろう。
「え、いや、何言ってんの。安心しなよ。最初から俺ビリ決定だから」
「はあ?」
取りなすように言ってみたが逆効果だったらしい。眉間にしわを寄せた彼に思い切り睨まれた。
「なんだそれ。勝つ気ゼロなのにコンテスト出ようとしてんの? 思い出作りにしてもひどくない? 審査員とか客?とか馬鹿にしてませんか」
「涼本だってやる気ないって言ってたくせに。適材適所って言葉もあるだろ。枯れ木も山の賑わいとか。俺は枯れ木だからいいんだよ」
「はああ?」
さらに声が跳ね上がり、刺さりそうな鋭い目がすぐ隣から向けられる。強すぎる眼差しからとっさに距離を取ろうとしたが、涼本はお構いなしに顔を近づけてきた。
やめろ近づくな。また落ちそうになる。
そう言ってやりたいけれど、言う間もなくぐいぐい迫られる。なんだよ、とさすがに声を上げようとしたとき、涼本が吐き捨てた。
「俺は嫌」
「は、え?」
「先輩が自分のこと枯れ木なんて言うの、俺は絶対いやだ」
言いざま彼の肩ががん、と肩を押してくる。力任せなその仕草はほとんど肩で肩を殴るみたいで俺は顔をしかめた。
「ちょ、痛い」
「弾いて」
「え?」
「先輩のカノン。聴きたい」
そう言いながらすっと涼本が椅子から立ち上がる。ピアノの横からこちらを見下ろした彼の瞳に、またも西日が映りこんで元から淡い色彩の瞳をなお淡い色に染めた。
「弾いて」
最後の一言は命じるものではなく、懇願するみたいな口調だった。懇願なら従うことはない。だってそれは強さはともかく、お願い、だから。
ああ、よかったのだ。よかったのに、俺は鍵盤に指を置いた。勢いに押されたからでもあった。でもそれ以上に胸に刺さるものが彼の言葉にはあったから。
――先輩が自分のことを枯れ木なんて言うの、俺は絶対いやだ。
自分みたいなやつがミスターコンなんて絶対に間違っているし、場違いだし、笑い者にしかならないと思っている。
だから練習だっていやいやだった。どうせやったところで、という気持ちもあった。
だがこいつの言う通りなのだ。枯れ木だって頑張らなきゃ、見てくれる人に申し訳が立たない。
隼人にも。
久しぶりに触れる鍵盤はやはり重い。それでも必死に一音一音、音を紡いだ。たどたどしいステップを踏む音符が緩やかに手を繋ぐ。
指はもつれるし、押し間違えるし、さんざんだったけれど、それでもどうにかこうにか弾き終えたときだった。
ぱちぱち、と高く拍手の音が上がった。
譜面から視線を音のほうへと向けると、満面の笑みを浮かべた涼本が手を叩いていた。
「先輩、めっちゃ、かっこいい」
弾んだ声で涼本が言う。いつも澄ました顔で周囲を見ている彼が子供みたいに手放しで笑うさまを唖然として見つめていると、すっと彼は手を止めた。そのまま手にしたトランペットを唇に当てる。
流れ出した曲は先程自分が弾いたカノン。
金色の音が空気を染めていく。潔く迷いのないその旋律に聞きほれている俺に向かって、すっと涼本が目線で鍵盤を指した。
弾け、ということらしい。
……なんでセッション。
ちょっと笑ってしまった。けれど、俺は誘われるままに鍵盤に手を走らせた。
指がさっきまでよりも軽やかに、踊る。
金管の音色が手を引いてくれたからなのか。
二度目のカノンは一度目よりずっとリズミカルに宙を舞った。



