涼本総一郎。
彼の名前を知らない者は菊塚にはいない。今年の四月に入学したばかりだが、半年経った今、非公認のファンクラブまである学校一の人気者だからだ。
すんなりと伸びた長い手足。引き締まった体つき。父親がイギリス人らしいが、その血を感じさせる髪と瞳の色。黒柿色とでも言おうか。明るい茶色にほのかに黒が差したその独特の色と、冷たさの中にしっとりとした色気を感じさせる面立ちは集団の中から彼だけを浮き上がらせていた。
ようするに……めちゃくちゃ、イケメンなのだ。
その涼本総一郎が菊コンに出る。
「勘弁してほしい……」
俺が出る必要なんてもはやないのではないだろうか。涼本総一郎の単独優勝でよくないか?
――いやいや! 参加者ひとりなんて盛り上がらな過ぎだろ! 安心しろ! ほかにも声かけてるから! 三年の西森栄太にも頼んだけどまんざらでもなさそうだったし。
放課後、音楽室のピアノの前に座りながら俺は隼人の声を思い出して肩を落とす。
西森栄太なら知っている。が、彼も涼本同様、陽キャのてっぺんにいるようなタイプだ。なんといってもブレイクダンスの全国大会に出るようなスーパーダンサーなのだから。
涼本にせよ、西森にせよ、コンテストに出ても誰もおかしいとは思わない。でも俺はどうだ?
「棄権しようかな……」
――俺は円、いけると思うけどなあ。もっと自分に自信持ったらいいのに!
不純物ゼロの輝きを宿した隼人の目を思い出し胸がきゅっと痛む。
隼人は知らないのだ。自分のその目にどれほど力があるのか。
――俺、円と友達になれてよかったあ。
幼稚園のとき、引っ越してきて友達もいなくて、不安いっぱいだった俺に隼人はそう言って笑ってくれた。手を差し出してくれたあのときの、星みたいなきらきらした瞳を俺は今も忘れていない……というか、ずっとあの目に囚われている。
ぽろん、と鍵盤を押す。
「やるしか、ないかな」
とはいえ、ミスターコンなんて自分には向かない。深々と溜め息を落としたとき、からり、と扉が滑った。
顔を上げると、戸口に背の高い男子生徒のシルエットが刻まれていた。
「なにしてるんですか」
ぼそりと低い声が零れる。逆光で顔は見えない。目を凝らして……ぎょっとした。
さっきまでつらつらと思い浮かべていた相手、涼本総一郎が気だるげにドアにもたれて立っていた。
間近で見るとやはり一般人とは段違いに造作が整っている。このまま彫像にしたら美術部員が泣いて喜ぶだろう。なんて馬鹿なことを考えている俺の前で、彫像が口を利いた。
「ここで、なにを?」
声まで深くて耳触りがいい。聞きほれてから我に返った。
「あ、えと。練習?」
「なんの?」
「ピアノ」
「なんで?」
なんで? 練習する理由なんて訊いてどうするのだろう。しかもこいつと俺は顔見知りではなかったはずだ。こちらが一方的に知っていただけで。となるとこの問いにはどんな意味がある?
「もしかして」
黙りこくる俺をしげしげと眺めていた彼が、不意にすうっと目を眇めた。
「あの噂って本当なんですか」
「噂?」
「時谷先輩が菊コン出るってやつ。まさかって思ってたけど本気ですか」
瞬間、かちん、とした。
お前が出んの? 身の程知らずにも程があるだろ、とでも言いたいのか?
「だったらなに。ってかなんで俺の名前知ってるの」
いらいらしながら問い返す。さすがにこちらの苛立ちが伝わったのだろうか。涼本が口を噤む。ひりついた空気が互いの間を流れる。しばらく睨み合ったが、何を思ったのか、涼本はすたすたと歩を進め近づいてきた。
「アピールタイム、先輩はピアノやるんですか」
菊コンでは参加者それぞれに特技を披露するアピールタイムがある。特技らしい特技なんてないけれど、中学に入る前まではピアノを習っていたし、これならなんとかなるか、と思って久しぶりに鍵盤を叩いていたのだ。
……といっても六年のブランクはまあまあですでに指がつりそうだけれど。
「大変っすね」
気のない、大変っすね、に再び怒りがこみ上げてきた。
陰キャがなにイキってるんだと思っているに違いない。
「大変なのはそっちのほうじゃないの。俺と違って注目されてるし」
失敗したらこいつのほうがダメージでかいかもしれない。ちらっと思ってから、そんなことないか、と否定する。
なにをしてもイケメンは尊いと言われるのだ。チワワが大人になっても可愛いと言われるのと同じように。羨ましいことだ。
「俺、出ないですよ」
「はっ?」
だが、そんなひねた気持ちを裏切るような発言に、俺は危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「だって隼人は出るって……」
「青木先輩が勝手に言ってるだけでしょ。あの人いい加減だし。よろしくねって一方的に言われただけで、俺はうんとは言ってないので」
「でもそれ……」
隼人はもうその気でいるのに。
そもそも知名度や認知度を考えたら、こいつが出ないというのは菊コンを盛り上げようとしている生徒会としても痛手だと思う。
「それ、あの、出てやって。ただでさえ人が集まらなくて大変みたいで……」
「なんで?」
すっと流れる眉が苛立たしげに顰められる。そうされて言葉に詰まる。
確かに俺だって断ろうかと悩んでいたのだ。押し付けられる側の億劫さは嫌と言うほどわかる。
でも断る側はそれでよくても、放り出された側は絶対困る。
「なんか校長からね、言われたらしいんだよ。菊コン、復活させたいなって。なのに、参加者集まらなくて失敗なんてことになったら生徒会も……」
「だから?」
吐き捨てるように返された、だから? に絶句する。その隙を突くみたいに言葉が重ねられた。
「生徒会役員でもないのにそんなこと気にしてやる必要あります? そもそも時谷先輩だって頼まれた口でしょ。無関係なのになんで引き受けてるんですか。お人よしすぎません? 先輩って頼まれたらどんな契約書でも判子押しちゃいそうでめっちゃ心配」
「……なにそれ。冗談がおっさんなんだけど。判子なんて押さないし」
「まあ、判子は冗談ですけど、それくらい先輩のことお人よし馬鹿だなあとは思ってます」
馬鹿?!
あの涼本総一郎がこんなに刺々しい話し方をするやつだったなんて知らなかった。苛立ちに任せて睨みつけるが、涼本は怯む様子もなく、苗字そのままの涼しい顔で、ふん、と鼻息を吐いてきやがった。
「ってか、そもそもミスターコンとかなにが面白いんですかね。人の見た目も価値もそれぞれなのに。順位点けて喜ぶとか趣味悪すぎて引く」
……なんだこいつ。
後輩のくせに生意気過ぎないか? 初対面でずけずけずけずけ……。
ただ、言わんとすることはわからなくもなかった。俺だってミスターコンに対して思うところはある。だがなんとか成功させようと頑張っている隼人の気持ちを考えると簡単に投げ出せないし、こんなふうに罵りたくもない。できることなら成功させて喜ばせてやりたい。
「ま、まあ……でも俺三年で、最後の菊塚祭だし。思い出にはなるかなと」
我ながら苦しい。思い出どころか黒歴史になりかねないのに。
それでも、どうにかしてこいつの気持ちを前向きにしたかった。こいつが参加すれば絶対に菊コンは盛り上がるし隼人も……喜ぶ。
まあ、こいつのここまでの言動からして、思い出作りとか馬鹿じゃないですか、くらい言いそうだ。そう思ったのだけれど。
「思い出」
ふっと語気が緩んだ。おや、と見上げると、入れ違いにすっと彼が瞼を下ろした。ほんの少し開いた瞼の間で瞳がすうっと横に逸れ、鍵盤に落とされるのが見えた。
「時谷先輩は思い出作りで参加するんですか」
「あ、えと、まあ」
本当は違う。でもそれを言うわけにはいかない。曖昧に頷くと、そっか、と吐息のような声が漏れた。
「ピアノの練習も……します? これから毎日、ここで」
「あー、うん。ブランク長くてさすがにこのまま舞台には立てないし、練習してもいいって許可ももらえたから」
九月だが外ではセミが鳴いている。窓から吹き込んでくる風もまだまだ暑い。けれど時間はあっという間に過ぎる。菊塚祭は十月の初旬の開催だし、それほど時間はない。
つらつらと頭の中で日付を数えていると、じゃあ、と声がした。見ると、涼本がこちらを見ていた。感情の見えない不思議と静まった瞳だった。
「俺も明日からここ、来ます」
「……なんで?」
「別にここ、先輩だけの場所ってわけじゃないでしょ」
だるそうに髪を搔き上げながら言われ、そりゃあそうだ、と頷いてしまう。
「って……じゃあ、涼本も出るの?」
……前髪を後ろに払っていた手がふと、止まった。
「名前」
ぽつん、と声が落ちた。
「覚えててくれたんだ」
「そりゃそうだろ。だって」
こいつは自分が周囲からどれだけ注目されているかわかっていないのだろうか、イケメンというのは案外自身には無頓着ということかもしれないがそれにしたってもう少し気にしていたほうがいいと思う。
しかしそれをどう言葉にしたらいいのかもわからない。口ごもる俺の前で涼本が不意にぱっと顔を上げた。
「明日からよろしくお願いしますね、先輩」
「え」
約束なんてしてないのに当然みたいに言われる。明日は来ないかもよ、と反射的に言い返そうとして……言葉が消えてしまった。
涼本が、笑っていたから。
さっきまで仏頂面で面倒臭そうに言葉を紡いでいた唇が柔らかく持ち上げられていた。冷気を孕んでいた切れ長の目も和むみたいに細められている。
周りに騒がれるだけはある、とふと思った。だってすごく。
……綺麗だ。
ぼんやりと思っている間に彼は身を翻し、戸口から姿を消してしまった。すたすたと上履きがタイル張りの廊下を蹴る音を聞きながら俺はそうっと鍵盤を撫でる。
「そもそもあいつ、なんで俺の名前知ってたんだろ」
隼人にでも聞いたのだろうか。疑問は解消されないまま、鍵盤を叩く。
ぽろろ、とピアノも戸惑いがちに鳴いていた。
彼の名前を知らない者は菊塚にはいない。今年の四月に入学したばかりだが、半年経った今、非公認のファンクラブまである学校一の人気者だからだ。
すんなりと伸びた長い手足。引き締まった体つき。父親がイギリス人らしいが、その血を感じさせる髪と瞳の色。黒柿色とでも言おうか。明るい茶色にほのかに黒が差したその独特の色と、冷たさの中にしっとりとした色気を感じさせる面立ちは集団の中から彼だけを浮き上がらせていた。
ようするに……めちゃくちゃ、イケメンなのだ。
その涼本総一郎が菊コンに出る。
「勘弁してほしい……」
俺が出る必要なんてもはやないのではないだろうか。涼本総一郎の単独優勝でよくないか?
――いやいや! 参加者ひとりなんて盛り上がらな過ぎだろ! 安心しろ! ほかにも声かけてるから! 三年の西森栄太にも頼んだけどまんざらでもなさそうだったし。
放課後、音楽室のピアノの前に座りながら俺は隼人の声を思い出して肩を落とす。
西森栄太なら知っている。が、彼も涼本同様、陽キャのてっぺんにいるようなタイプだ。なんといってもブレイクダンスの全国大会に出るようなスーパーダンサーなのだから。
涼本にせよ、西森にせよ、コンテストに出ても誰もおかしいとは思わない。でも俺はどうだ?
「棄権しようかな……」
――俺は円、いけると思うけどなあ。もっと自分に自信持ったらいいのに!
不純物ゼロの輝きを宿した隼人の目を思い出し胸がきゅっと痛む。
隼人は知らないのだ。自分のその目にどれほど力があるのか。
――俺、円と友達になれてよかったあ。
幼稚園のとき、引っ越してきて友達もいなくて、不安いっぱいだった俺に隼人はそう言って笑ってくれた。手を差し出してくれたあのときの、星みたいなきらきらした瞳を俺は今も忘れていない……というか、ずっとあの目に囚われている。
ぽろん、と鍵盤を押す。
「やるしか、ないかな」
とはいえ、ミスターコンなんて自分には向かない。深々と溜め息を落としたとき、からり、と扉が滑った。
顔を上げると、戸口に背の高い男子生徒のシルエットが刻まれていた。
「なにしてるんですか」
ぼそりと低い声が零れる。逆光で顔は見えない。目を凝らして……ぎょっとした。
さっきまでつらつらと思い浮かべていた相手、涼本総一郎が気だるげにドアにもたれて立っていた。
間近で見るとやはり一般人とは段違いに造作が整っている。このまま彫像にしたら美術部員が泣いて喜ぶだろう。なんて馬鹿なことを考えている俺の前で、彫像が口を利いた。
「ここで、なにを?」
声まで深くて耳触りがいい。聞きほれてから我に返った。
「あ、えと。練習?」
「なんの?」
「ピアノ」
「なんで?」
なんで? 練習する理由なんて訊いてどうするのだろう。しかもこいつと俺は顔見知りではなかったはずだ。こちらが一方的に知っていただけで。となるとこの問いにはどんな意味がある?
「もしかして」
黙りこくる俺をしげしげと眺めていた彼が、不意にすうっと目を眇めた。
「あの噂って本当なんですか」
「噂?」
「時谷先輩が菊コン出るってやつ。まさかって思ってたけど本気ですか」
瞬間、かちん、とした。
お前が出んの? 身の程知らずにも程があるだろ、とでも言いたいのか?
「だったらなに。ってかなんで俺の名前知ってるの」
いらいらしながら問い返す。さすがにこちらの苛立ちが伝わったのだろうか。涼本が口を噤む。ひりついた空気が互いの間を流れる。しばらく睨み合ったが、何を思ったのか、涼本はすたすたと歩を進め近づいてきた。
「アピールタイム、先輩はピアノやるんですか」
菊コンでは参加者それぞれに特技を披露するアピールタイムがある。特技らしい特技なんてないけれど、中学に入る前まではピアノを習っていたし、これならなんとかなるか、と思って久しぶりに鍵盤を叩いていたのだ。
……といっても六年のブランクはまあまあですでに指がつりそうだけれど。
「大変っすね」
気のない、大変っすね、に再び怒りがこみ上げてきた。
陰キャがなにイキってるんだと思っているに違いない。
「大変なのはそっちのほうじゃないの。俺と違って注目されてるし」
失敗したらこいつのほうがダメージでかいかもしれない。ちらっと思ってから、そんなことないか、と否定する。
なにをしてもイケメンは尊いと言われるのだ。チワワが大人になっても可愛いと言われるのと同じように。羨ましいことだ。
「俺、出ないですよ」
「はっ?」
だが、そんなひねた気持ちを裏切るような発言に、俺は危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「だって隼人は出るって……」
「青木先輩が勝手に言ってるだけでしょ。あの人いい加減だし。よろしくねって一方的に言われただけで、俺はうんとは言ってないので」
「でもそれ……」
隼人はもうその気でいるのに。
そもそも知名度や認知度を考えたら、こいつが出ないというのは菊コンを盛り上げようとしている生徒会としても痛手だと思う。
「それ、あの、出てやって。ただでさえ人が集まらなくて大変みたいで……」
「なんで?」
すっと流れる眉が苛立たしげに顰められる。そうされて言葉に詰まる。
確かに俺だって断ろうかと悩んでいたのだ。押し付けられる側の億劫さは嫌と言うほどわかる。
でも断る側はそれでよくても、放り出された側は絶対困る。
「なんか校長からね、言われたらしいんだよ。菊コン、復活させたいなって。なのに、参加者集まらなくて失敗なんてことになったら生徒会も……」
「だから?」
吐き捨てるように返された、だから? に絶句する。その隙を突くみたいに言葉が重ねられた。
「生徒会役員でもないのにそんなこと気にしてやる必要あります? そもそも時谷先輩だって頼まれた口でしょ。無関係なのになんで引き受けてるんですか。お人よしすぎません? 先輩って頼まれたらどんな契約書でも判子押しちゃいそうでめっちゃ心配」
「……なにそれ。冗談がおっさんなんだけど。判子なんて押さないし」
「まあ、判子は冗談ですけど、それくらい先輩のことお人よし馬鹿だなあとは思ってます」
馬鹿?!
あの涼本総一郎がこんなに刺々しい話し方をするやつだったなんて知らなかった。苛立ちに任せて睨みつけるが、涼本は怯む様子もなく、苗字そのままの涼しい顔で、ふん、と鼻息を吐いてきやがった。
「ってか、そもそもミスターコンとかなにが面白いんですかね。人の見た目も価値もそれぞれなのに。順位点けて喜ぶとか趣味悪すぎて引く」
……なんだこいつ。
後輩のくせに生意気過ぎないか? 初対面でずけずけずけずけ……。
ただ、言わんとすることはわからなくもなかった。俺だってミスターコンに対して思うところはある。だがなんとか成功させようと頑張っている隼人の気持ちを考えると簡単に投げ出せないし、こんなふうに罵りたくもない。できることなら成功させて喜ばせてやりたい。
「ま、まあ……でも俺三年で、最後の菊塚祭だし。思い出にはなるかなと」
我ながら苦しい。思い出どころか黒歴史になりかねないのに。
それでも、どうにかしてこいつの気持ちを前向きにしたかった。こいつが参加すれば絶対に菊コンは盛り上がるし隼人も……喜ぶ。
まあ、こいつのここまでの言動からして、思い出作りとか馬鹿じゃないですか、くらい言いそうだ。そう思ったのだけれど。
「思い出」
ふっと語気が緩んだ。おや、と見上げると、入れ違いにすっと彼が瞼を下ろした。ほんの少し開いた瞼の間で瞳がすうっと横に逸れ、鍵盤に落とされるのが見えた。
「時谷先輩は思い出作りで参加するんですか」
「あ、えと、まあ」
本当は違う。でもそれを言うわけにはいかない。曖昧に頷くと、そっか、と吐息のような声が漏れた。
「ピアノの練習も……します? これから毎日、ここで」
「あー、うん。ブランク長くてさすがにこのまま舞台には立てないし、練習してもいいって許可ももらえたから」
九月だが外ではセミが鳴いている。窓から吹き込んでくる風もまだまだ暑い。けれど時間はあっという間に過ぎる。菊塚祭は十月の初旬の開催だし、それほど時間はない。
つらつらと頭の中で日付を数えていると、じゃあ、と声がした。見ると、涼本がこちらを見ていた。感情の見えない不思議と静まった瞳だった。
「俺も明日からここ、来ます」
「……なんで?」
「別にここ、先輩だけの場所ってわけじゃないでしょ」
だるそうに髪を搔き上げながら言われ、そりゃあそうだ、と頷いてしまう。
「って……じゃあ、涼本も出るの?」
……前髪を後ろに払っていた手がふと、止まった。
「名前」
ぽつん、と声が落ちた。
「覚えててくれたんだ」
「そりゃそうだろ。だって」
こいつは自分が周囲からどれだけ注目されているかわかっていないのだろうか、イケメンというのは案外自身には無頓着ということかもしれないがそれにしたってもう少し気にしていたほうがいいと思う。
しかしそれをどう言葉にしたらいいのかもわからない。口ごもる俺の前で涼本が不意にぱっと顔を上げた。
「明日からよろしくお願いしますね、先輩」
「え」
約束なんてしてないのに当然みたいに言われる。明日は来ないかもよ、と反射的に言い返そうとして……言葉が消えてしまった。
涼本が、笑っていたから。
さっきまで仏頂面で面倒臭そうに言葉を紡いでいた唇が柔らかく持ち上げられていた。冷気を孕んでいた切れ長の目も和むみたいに細められている。
周りに騒がれるだけはある、とふと思った。だってすごく。
……綺麗だ。
ぼんやりと思っている間に彼は身を翻し、戸口から姿を消してしまった。すたすたと上履きがタイル張りの廊下を蹴る音を聞きながら俺はそうっと鍵盤を撫でる。
「そもそもあいつ、なんで俺の名前知ってたんだろ」
隼人にでも聞いたのだろうか。疑問は解消されないまま、鍵盤を叩く。
ぽろろ、とピアノも戸惑いがちに鳴いていた。



