「棄権することなかったのに」
菊コンはまだ続いているのか、体育館からは歓声が聞こえてくる。いつもの音楽室のいつものピアノの前で鍵盤をそっと押すと、ぽろん、と恥ずかしそうにピアノが鳴いた。
「もともと出たいと思ってなかったし」
「でも涼本を待ってる子、いっぱいいたのに」
「それさ」
椅子に腰かけ、意味なく鍵盤を押す俺の背中に視線が刺さる。恐る恐る振り向くと、床に座り込み、壁に背中を預けていた涼本がこちらを睨んでいた。
「俺の気持ち知ってて、それでも言うのってどういう心境? 俺のことなんて嫌いって遠回しに言ってんの?」
「そ、んなことない。俺」
俺、と言ったところで俺は口を片手で覆う。そそくさとピアノに向き直って鍵盤を指でなぞる。
そんなこと、あるわけ、なかった。
でも恥ずかしい。今、自分の心の内にある気持ちを言葉にするのは、とても。
おかしなものだと思う。ステージ上ではあんなに近くに心を感じたのに、今は彼の心が怖くて踏み出せない。だって俺はあまりにも冷たい言葉でこいつを退け続けたのだから。
でも、このまま逃げるのは……やはり、違う。
「あ、の」
「ねえ、先輩」
意を決して涼本のほうを向こうとする。でも、できなかった。
「俺がかっこいいとこ見せたいのはひとりだけだよ。だから菊コンも棄権した。ちゃんと見てもらえたって思ったから……そのひとりが誰か、先輩、わかってるよね?」
長い腕で俺の背中を抱いて動きを止めた彼が問いかけてくる。ゆっくりと傾いていく西日のような金色の声が耳の奥へそっと舞い落ちてくる。
「見ないふり、しないでよ」
甘く、けれど頼りなく掠れたその声を聞いたら……たまらなくなった。
自分を包んでくれる腕をきゅっと握り締める。抱き返すみたいに手に力を込めると、涼本の体が小さく震えた。
「あの……続き、話して、いい?」
「続き?」
「そんなことない、の続き」
言葉をやっとのことで紡ぐと腕の力が弱まった。俺も彼の腕から手を放す。座ったままそうっと腰をいざらせ、彼のほうへ向き直るようにして座り直す。涼本は立ったままこちらを見下ろしてくる。その彼の目を俺は目に力を入れて、見つめた。
「俺、ね、ここのところずっと考えてた。涼本のこと」
夕日が射しこんでくる。逆光になって涼本の表情はよく見えない。ただ、今はそれでいいのかもしれない。だって、顔が見えてしまったら、全部、言えなくなる。
「自分で遠ざけたくせに……会いたいって思ってた。今日もそう。顔見たら安心、しちゃってた」
どうしよう。鼓動が激しすぎて心臓が痛い。だめだ。伏せまいと思っていたのに、やっぱり恥ずかしくて俯いてしまう。
「隼人のために菊コン出たつもりだったのに、考えてたのは涼本のことばっかり、で。今日、ステージで会えて、一緒に演奏してくれてうれしくて、でも、うれしいだけじゃ、なくて、俺」
俺、の続きを言うのが怖い。でも……涼本は待っている。待っていてくれる。その沈黙に支えられながら俺はそっと息を吐き、言う。
「好き、で。涼本のこと、だから」
涼本はなにも言わない。救いを求めるように顔を上げたのと同時だった。目の前に立っていた彼によって後ろ頭に手が回されそのまま抱きすくめられていた。
「俺のほうが、好き」
掠れた声がくっついた胸からじわりと鼓膜を震わせた。
「円くんのときから円先輩になった今も、ずっと」
俺ね、と囁きながら涼本の手がさらっと後ろ髪を撫でる。その手の大きさに俺は狼狽する。
あんなに小さかったのに、あんなに泣き虫だったのに、今の彼はすっかりかっこよくなってここに、いる。
「高校で円先輩を見かけたとき、あの円くんなのかどうかすぐにはわからなかった。だって円くんなんて呼んでいいか迷うくらい、先輩、大人になってたし。でも……見てたらやっぱり円くんで。うれしくて。声かけたかったけど、できなかった。あのとき円くんが言ってたかっこよさの基準、俺にはわかんなかったから。正直今もわかんない。背伸びしたって俺、結局年下だし。でも」
きゅっと頭を抱える腕に力が籠る。
「ごめん。もう我慢できない。かっこよさ、不十分かもだけど、俺と付き合ってくれませんか?」
言われて……唖然とした。目の前のこの彼がかっこよくないのだとしたら自分なんてなんなのだろう。嫌味か、と思ってしまいそうだ。というか少し前の俺なら思っていた。
でも、悔しいけど……そんなふうにはもう、言えない。
ステージ上で固まった俺に音で手を差し伸べてくれたあのときの彼を思い出すだけでこんなに胸が震えてしまうのだから。
「かっこ、いいよ」
そろそろと腕を伸ばす。抱き返すように涼本の背中に腕を添わせると、耳元でふっと彼が息を呑むのがわかった。
「めちゃくちゃ、かっこよく、なった」
抱きしめられたまま涼本の肩に言葉を吸わせるように囁く。
遠くマイクでなにかを話している声が聞こえる。隼人かもしれない。けれどそれよりも目の前の胸から響く心音に耳を傾けたい。そう思っていた俺の耳に、じゃあ、と吐息交じりの声が入り込んだ。
「じゃあさ、いつか……結婚、して」
結婚?
驚いて顔を上げるとものすごく近くに涼本の顔があった。真剣な眼差しに瞬間、気を呑まれた。息を詰めて見つめ合ったのはどれくらいだったろうか。ふっと彼が瞳を和らげた。
「ごめん、重いこと言った。先輩が可愛くてつい。でも俺、それくらい本気で……」
言って顔を赤らめ目を逸らす。その顔にくらっとした。
なんでそんな顔するのだろう。まったくもって……。
「ずるい」
「え?」
「かっこいいくせに可愛い顔までされたら、いいよしか言えなくなる」
彼の顔を見ていられなくて顔を伏せる。そうして逃げるように伏せた胸からはどくどくと鼓動が聞こえてくる。自分のものなのか、涼本のものなのかわからなくなるその音にますますどきどきしたとき、頬に手が触れ、顔を上げさせられた。
「じゃあ、今しちゃおっか。誓いのキス」
耳に滑り込んできた声にはあのころの彼にはなかった深みがあって、聞いているだけでふわふわ、した。
「ん」
やっとのことでこれだけ返すと目の前で彼が笑う。その顔は無邪気で……なんだかこちらまで微笑んでしまった。
さっきまで聞こえていた喧噪がお互いの鼓動のせいでまるで聞こえない。これまでの人生でそんなふうになったことがなくて少し怖い。でも、大丈夫だとも思った。
こいつとならきっと。
ふっと顔が近づく。その彼に向かって俺はそうっと顔を上向け、ゆっくりと瞳を閉じた。
菊コンはまだ続いているのか、体育館からは歓声が聞こえてくる。いつもの音楽室のいつものピアノの前で鍵盤をそっと押すと、ぽろん、と恥ずかしそうにピアノが鳴いた。
「もともと出たいと思ってなかったし」
「でも涼本を待ってる子、いっぱいいたのに」
「それさ」
椅子に腰かけ、意味なく鍵盤を押す俺の背中に視線が刺さる。恐る恐る振り向くと、床に座り込み、壁に背中を預けていた涼本がこちらを睨んでいた。
「俺の気持ち知ってて、それでも言うのってどういう心境? 俺のことなんて嫌いって遠回しに言ってんの?」
「そ、んなことない。俺」
俺、と言ったところで俺は口を片手で覆う。そそくさとピアノに向き直って鍵盤を指でなぞる。
そんなこと、あるわけ、なかった。
でも恥ずかしい。今、自分の心の内にある気持ちを言葉にするのは、とても。
おかしなものだと思う。ステージ上ではあんなに近くに心を感じたのに、今は彼の心が怖くて踏み出せない。だって俺はあまりにも冷たい言葉でこいつを退け続けたのだから。
でも、このまま逃げるのは……やはり、違う。
「あ、の」
「ねえ、先輩」
意を決して涼本のほうを向こうとする。でも、できなかった。
「俺がかっこいいとこ見せたいのはひとりだけだよ。だから菊コンも棄権した。ちゃんと見てもらえたって思ったから……そのひとりが誰か、先輩、わかってるよね?」
長い腕で俺の背中を抱いて動きを止めた彼が問いかけてくる。ゆっくりと傾いていく西日のような金色の声が耳の奥へそっと舞い落ちてくる。
「見ないふり、しないでよ」
甘く、けれど頼りなく掠れたその声を聞いたら……たまらなくなった。
自分を包んでくれる腕をきゅっと握り締める。抱き返すみたいに手に力を込めると、涼本の体が小さく震えた。
「あの……続き、話して、いい?」
「続き?」
「そんなことない、の続き」
言葉をやっとのことで紡ぐと腕の力が弱まった。俺も彼の腕から手を放す。座ったままそうっと腰をいざらせ、彼のほうへ向き直るようにして座り直す。涼本は立ったままこちらを見下ろしてくる。その彼の目を俺は目に力を入れて、見つめた。
「俺、ね、ここのところずっと考えてた。涼本のこと」
夕日が射しこんでくる。逆光になって涼本の表情はよく見えない。ただ、今はそれでいいのかもしれない。だって、顔が見えてしまったら、全部、言えなくなる。
「自分で遠ざけたくせに……会いたいって思ってた。今日もそう。顔見たら安心、しちゃってた」
どうしよう。鼓動が激しすぎて心臓が痛い。だめだ。伏せまいと思っていたのに、やっぱり恥ずかしくて俯いてしまう。
「隼人のために菊コン出たつもりだったのに、考えてたのは涼本のことばっかり、で。今日、ステージで会えて、一緒に演奏してくれてうれしくて、でも、うれしいだけじゃ、なくて、俺」
俺、の続きを言うのが怖い。でも……涼本は待っている。待っていてくれる。その沈黙に支えられながら俺はそっと息を吐き、言う。
「好き、で。涼本のこと、だから」
涼本はなにも言わない。救いを求めるように顔を上げたのと同時だった。目の前に立っていた彼によって後ろ頭に手が回されそのまま抱きすくめられていた。
「俺のほうが、好き」
掠れた声がくっついた胸からじわりと鼓膜を震わせた。
「円くんのときから円先輩になった今も、ずっと」
俺ね、と囁きながら涼本の手がさらっと後ろ髪を撫でる。その手の大きさに俺は狼狽する。
あんなに小さかったのに、あんなに泣き虫だったのに、今の彼はすっかりかっこよくなってここに、いる。
「高校で円先輩を見かけたとき、あの円くんなのかどうかすぐにはわからなかった。だって円くんなんて呼んでいいか迷うくらい、先輩、大人になってたし。でも……見てたらやっぱり円くんで。うれしくて。声かけたかったけど、できなかった。あのとき円くんが言ってたかっこよさの基準、俺にはわかんなかったから。正直今もわかんない。背伸びしたって俺、結局年下だし。でも」
きゅっと頭を抱える腕に力が籠る。
「ごめん。もう我慢できない。かっこよさ、不十分かもだけど、俺と付き合ってくれませんか?」
言われて……唖然とした。目の前のこの彼がかっこよくないのだとしたら自分なんてなんなのだろう。嫌味か、と思ってしまいそうだ。というか少し前の俺なら思っていた。
でも、悔しいけど……そんなふうにはもう、言えない。
ステージ上で固まった俺に音で手を差し伸べてくれたあのときの彼を思い出すだけでこんなに胸が震えてしまうのだから。
「かっこ、いいよ」
そろそろと腕を伸ばす。抱き返すように涼本の背中に腕を添わせると、耳元でふっと彼が息を呑むのがわかった。
「めちゃくちゃ、かっこよく、なった」
抱きしめられたまま涼本の肩に言葉を吸わせるように囁く。
遠くマイクでなにかを話している声が聞こえる。隼人かもしれない。けれどそれよりも目の前の胸から響く心音に耳を傾けたい。そう思っていた俺の耳に、じゃあ、と吐息交じりの声が入り込んだ。
「じゃあさ、いつか……結婚、して」
結婚?
驚いて顔を上げるとものすごく近くに涼本の顔があった。真剣な眼差しに瞬間、気を呑まれた。息を詰めて見つめ合ったのはどれくらいだったろうか。ふっと彼が瞳を和らげた。
「ごめん、重いこと言った。先輩が可愛くてつい。でも俺、それくらい本気で……」
言って顔を赤らめ目を逸らす。その顔にくらっとした。
なんでそんな顔するのだろう。まったくもって……。
「ずるい」
「え?」
「かっこいいくせに可愛い顔までされたら、いいよしか言えなくなる」
彼の顔を見ていられなくて顔を伏せる。そうして逃げるように伏せた胸からはどくどくと鼓動が聞こえてくる。自分のものなのか、涼本のものなのかわからなくなるその音にますますどきどきしたとき、頬に手が触れ、顔を上げさせられた。
「じゃあ、今しちゃおっか。誓いのキス」
耳に滑り込んできた声にはあのころの彼にはなかった深みがあって、聞いているだけでふわふわ、した。
「ん」
やっとのことでこれだけ返すと目の前で彼が笑う。その顔は無邪気で……なんだかこちらまで微笑んでしまった。
さっきまで聞こえていた喧噪がお互いの鼓動のせいでまるで聞こえない。これまでの人生でそんなふうになったことがなくて少し怖い。でも、大丈夫だとも思った。
こいつとならきっと。
ふっと顔が近づく。その彼に向かって俺はそうっと顔を上向け、ゆっくりと瞳を閉じた。



