結局、フォームを完全に直せないまま、インハイ予選当日を迎えてしまった。怪我もなく、走り込みもできているせいか、体力的には不安はない。
 不安を抱えたまま大会を迎えてしまったことに、律は後悔しかなかった。

「各自、準備を怠るなよ」

 赤城を先頭にバスから降りると、あちこちから視線を感じた。県内でも毎年何人もインハイに選手を送り込んでいる高校だからだろうか。居心地の悪さを感じながら、律は先輩たちの後ろを歩く。

「今日も負けないからな、白石っ」

 灰谷は満面の笑みで律に煽ってきた。

 この二週間、灰谷は絶好調なのは誰の目を見ても明らかだった。自己ベストを更新するか、維持するかを繰り返しながら、楽しく走る姿は確かに律から見ても羨ましかった。

 だけど、律は律でやることに対してまっすぐに向き合っていた。
 フォームのがたつきは一本ごとに違った。フォームを大会直前から改善すると、本番で失敗する確率が高いのはわかっていたので、焦らず丁寧に走ることを律は選んだ。そのアドバイスをくれたのは、隼人だった。

「ハードルはこっちだ」

 隼人に声をかけられ、ハードル組が車座になって集まった。隼人が律と灰谷を見比べて不敵に笑った。

「調子はどうだ?」
「オレはいつでも行けますよっ」

 灰谷の勢い込んだ返事に、隼人は苦笑した。できるだけ平静を装いながら、律はストレッチをし始めた。

「頼んだぞ、灰谷。……白石は、どうだ?」
「は、はいっ」
「緊張しすぎだな、お前は……」

 呆れた顔で首を傾げた隼人は律の前に屈んで真正面から顔をじっと見たかと思うと、律の両頬を思いっきり引っ張った。

「い、いひゃいですっ」
「ははっ。なーに緊張してんだよ、白石っ」

 痛がる律を見て、隼人は苦笑した。頬を手でさすりながら、少し眉を吊り上げて律は隼人を見る。だが、屈託のない笑みがそこにあり、律は思わず目を反らした。

「心配すんな」
「え?」
「頼もしい先輩たちが付いているだろうが」

 歯を見せて笑うその表情が眩しくて、律は少しだけ目を細めた。隼人は律と灰谷にストレッチとアップを二年生と続けるように指示を出すと、赤城と共にどこかへ行ってしまった。少しだけその背中を目で追ってから、律はゆっくりとストレッチを再開した。

 四百メートルハードルは予選を通過後、決勝戦となる。予選は四組。各組一位と二位以下でタイムが早い四名が決勝にコマを進めることができる。
 だが、今日は県予選。県予選を通過しても、支部大会が待ち構えている。支部大会を勝ち抜けば、インハイに出場できる。
 インハイまでの道のりが遠いのはわかりきっていたことだ。ここで遠いなんて思っていては勝ち抜けやしない。まずは、予選一位にならなければ、インハイ進むための一歩にはならないのだから。

 ハードル競技に出場する選手が多くないと言えども、狭き門だ。灰谷は予選一組目、律は四組目に名前を連ねていた。

 短距離トラック、長距離トラック共に順調に支部大会出場枠に入って行く。さすが強豪校と言っていいのかもしれない。アップをしていると、泣き崩れている選手たちがついつい目についてしまう。

 大会だって初めてじゃないし、全中に行ったことだってある。
 なのに、この緊張感はなんだ?
 アップしているだけなのに、息が整わない。体があちこち強張ったままだ。



「行ってきまっす!」

 予選一組目が呼ばれ、灰谷は緊張した様子も見せずにレーンに向かって駆けて行った。観客席からは控えのチームメイトたちが、レーンの脇では赤城や隼人が灰谷にエールを送る。

 四組目に控えている律は、観客席にもいかず、レーンの外側に用意されているアップゾーンで待機しながら試合会場を見た。中学時代、何度も来ていた会場なのに今日はやけに狭く見える。メインフィールドを囲うように作られているトラック。学校で走っているような土の上ではなく、オレンジ色に近い茶色のタータントラックの上に立つと、気分が高揚してくる。周りの選手たちも同じようで、誰も彼もがこの場で勝つことを考えていると同時に、走れる喜びを感じているように見えた。

『on your mark』

 一組目がスタートした。灰谷を応援すべく、アップゾーンで律も声を張り上げて応援する。決して短くはない距離を灰谷は最初から得意のスタートダッシュを決めた。調子が良い状態をキープしているようで、すぐにトップに躍り出た。ハードルも順調に飛び越え、最後のハードルに差し掛かった。

 その時、灰谷の足が最後のハードルに引っ掛かった。

 転倒こそしなかったものの、着地でバランスを崩し、立て直しに数秒時間がかかった。

 その数秒こそが、陸上では命取りになる。
 あっという間に後続の選手に抜かれた。灰谷は最後までもがくように、懸命に腕を振ったが結果は三位だった。他の組と比べてタイムが早ければ、決勝に行ける可能性がある。だが、灰谷の出したタイムと昨年の決勝進出者タイムを比べると、遅いのははっきりと分かった。

 ゴールしてもトラックからなかなかでない灰谷を隼人が肩を支えながら、トラックを一緒に出た。律も慌てて灰谷に駆け寄ると、彼の顔には悔しさでも、悲しさでもない表情が浮かんでいた。茫然自失。何が起こったのか理解ができていないのか、灰谷は顔色が青白くなっただけだった。

「おつかれ、灰谷。よく頑張った」

 隼人の言葉に灰谷の頭が事実を受け入れたのか、声にならないくらいの叫び声をあげながら、人目も憚らず泣き崩れた。彼を宥めるように、隼人が背中をさすっていた。

 調子が良かったのに、勝てなかった。
 それが試合だと言われれば、その通りだ。
 だけど、フォームが直っていないのに勝てるのか。
 そればかりがぐるぐると頭の中を回った。

 心臓が緊張を思い出したかのように、煩くなってきた。徐々に体が強張ってくるのが伝わってきた。

 まずい、このままじゃ。

 律は頭を振って、灰谷が負けた姿を頭の中から追い出そうとするが、こびりついたせいかなかなか出て行ってくれない。呆れめて、ストレッチを軽くしてから、タートンの上を軽く走ってみた。

 いつもより、足が重い。
 このままだと、良いタイムが出ない。ただでさえ、自己ベストを更新できずにいるのに。
 どうしたら。

 その時、誰かに背中を軽く叩かれた。振り返ると、隼人が心配そうな表情を浮かべていた。

「大丈夫か?」
「あ、はい、いえっそのっ」

 少しだけ訝し気に律を見た後、隼人は律の頬を両手で持ち上げた。

「な、なひっ」
「笑ってろ」
「ひゃいっ?」
「体が固まっている時は、無理やりでも笑ってろ」

 今すぐやれ、と言わんばかりに隼人が見てきたので、律は無理やり口角を上げた。

「なんだ、そのロボットみたいな笑いっ」

 噴き出して笑う隼人を見て、律もつられて笑ってしまった。

「やーっと笑ったな。ほら、もうすぐだ」

 二組目のレースがいつの間にか終わっていたので、もう三組目がスターティングブロックに足をかけているところだった。ひしひしとした試合独自の緊張感が漂っている中、隼人は緊張感なく、スタートラインを見ていた。その横顔を見ると、微笑んでいるように見える。

「どうして、笑っていられるんですか?」
「ん?」
「黒瀬先輩がいつもより、その……笑っている気がしたので」
「ああ……悪い。これは癖みたいなもんだな」
「癖?」
「俺、やっぱり走るのが好きだなって。今だって走らないのに、このタートンの上に立つだけで口元が緩むんだよ」

 緩んだ口元を隠すように手で覆いながら、眉間に皺を寄せた隼人は言った。

 かわいい。

 ふと、そんな言葉が律の頭に浮かんだ。試合前だとか、大会中だとか、そんなことは頭から全部抜けた。律は口元を隠す隼人の手を掴んで、おろした。

「なんだっ?」

 驚いた顔になったのが、惜しかった。もう一度あの笑顔を見たかったのに。ぱっと手を離して、律は伏し目がちに隼人を見た。

「黒瀬先輩って、彼女います?」
「は? 試合前に何だよ?」
「いるんですか?」

 今聞かないと絶対後悔する。あんなふうに隼人の隣にいるなら、それは自分だけが良い。
 そんな衝動に駆られて、律は隼人が何か言う前に遮るように訊く。

「答えてください」

 はあっと大きくため息を吐いてから、隼人は律の頭に手を乗せた。

「何を気にしてんだか、知らねーけど。いないって」
「本当ですね」
「ウソついてどーする」

 律の頭の上に乗った隼人の手がぐしゃぐしゃと律の頭を撫でまわした。髪形をセットしてきたはずなのに、乱れたが、不思議と嫌じゃなかった。

「そんな状態で大丈夫か?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる隼人を見て、律は歯を見せて笑った。

「なんか……大丈夫になりましたっ」
「なら良いけど……。変な奴だな」

 困ったように笑った隼人を見て、律はじっと彼を見た。

「なんだ?」
「ちゃんと、俺のこと見ててくださいね」

 挑むように隼人を見た後、四組目の集合がかかった。律がスタートラインに向かおうとしたところで、隼人に呼ばれて振り返ると。隼人はこぶしを突き上げていた。

「頑張ってこいっ」

 隼人の応援に応えるように、律もこぶしを突き上げた。
 タートンの上を走っても、スターティングブロックに足をかけても、さっきまでの緊張感は無かった。今は速く走り出したいと体が疼いている。応援もよく聞こえるし、さっきまで狭かった視界も、今はゴールに向かって開けていた。

『on your mark』

 一瞬の静寂の後、響いた合図に律は遅れることなく、足を踏み出した。
 あ、風が気持ちいい。
 スタートと同時にそんなことを感じると、自然と口元が綻んだ。確かに笑うと体がリラックスした。腕の振りが良い。飛ぶタイミングもズレない。着地もスムーズだ。周りも速いが、焦りはない。

「がんばれーっ」

 ひと際近く聞こえる応援は、間違いなく隼人のモノだった。視界の端で必死に応援してくれる隼人を捕らえながら、律の目はまっすぐゴールに向かったままだ。
 最後のハードルを軽々と飛び越え、最後の直線を駆け抜けた。上位との差が殆どない。呼吸を整えながら、電光掲示板を見ると、律の名前は二位の場所にあった。

 ……だめだったか。調子よかったのにな。
 膝に手をついて呼吸を整えていると、誰かが律を抱きしめた。慌てて顔を上げると、隼人がこれでもかと言わんばかりに、頭を撫でまわした。

「よくやったっ」
「え?」
「え、じゃねーよ。見て見ろっ」

 電光掲示板には決勝進出者の名前がずらっと並んでいた。その最後に律の名前が載っていた。

「どうして……」
「自己ベストもあっさり更新した奴が驚くなよっ」

 まだ頭を撫でまわす隼人をぼんやりと律は見ていた。

「最後の決勝に向けて、体のケアすんぞっ」

 こんなにはしゃぐ隼人を見るのは初めてだった。いつも強面で、厳しくて、でも心配性で。本当は自分が走りたかったはずなのに、ここまで喜んでくれているなんて。

 ……そんなの、嬉しすぎるに決まっている。

 律は自分の顔が赤くなるのを隠すように、頭からタオルを被った。

「決勝は十五時か。お昼ご飯を軽く食べてから、だな。食べすぎるなよ」
「……わかってます」
「行くぞ」

 隼人に促され、律は並んでトラックを後にした。大会会場の外に出ると、日は随分高いところにいた。じめじめとした暑さが今更ながら感じてきた。

 寮監が持たせてくれたおにぎりをラップから外して、レジャーシートの上で律は食べ始めた。お弁当のようなものを食べると、消化が悪く、試合に影響が出てしまう。塩をきつくかけてくれているおかげか、塩分もしっかりとれるようになっていたので、少し多いと思っていたおにぎりを三個も食べきることができた。

「飲み物も飲め」

 隼人に差し出されたスポーツドリンクを受け取り、律は言われたまま飲み始める。思っていたよりも、喉が渇いていたようで、水分が体の中に染みわたっていくのが分かった。ごろっと横になりたかったが、食べたばかりでは消化に良くない。胡坐をかきながら、ぼんやりと駐車場の方を見た。

 部活専用のバスに、応援に駆け付けた家族が乗ってきたきた車。駐車場が殆ど埋まっている。さっきまでの応援の中にいたのが嘘のような静けさに、律はふぅっと息を吐いた。

「ようやく、落ち着いたか?」

 隼人が律の隣に座って、茶目っ気たっぷりに訊いてきた。

「あー……はい。そうです」

 冷静に振り返れば、試合に吞まれていたと言われていてもおかしくなかった。それが律には偶々良い方に転んだだけで、まだ支部大会に進んだわけじゃない。今更ながらそのことを思い出すと、恥ずかしかった。

「まぁ、そうなるよな。最高の走りができたと思うとなおさら」

 独り言のようにつぶやいた隼人の言葉は律にはっきり聞こえた。誰に聞かせたいわけじゃなかっただろうにと、つい思ってしまう。

「俺の走り、どうでした?」
「ん?」
「……俺、さっきの走り、これまでにないくらい最高に良かったんです。でも、この後の決勝で同じ走りができるか……わかんないです」

 ぎゅっと膝を抱きしめ、律は膝頭に額を付けた。

「同じ走りはできないって言うじゃないですか。だから、決勝でちゃんと走れるか」
「情緒不安定すぎだろっ」

 すぱんと小気味よく頭を小突かれ、律はぱっと顔を上げる。

「何で叩くんですかっ。人が悩んでるのにっ」
「不安は口に出せ。でも」

 律の胸に、隼人の拳が軽くぶつかる。

「自分を信じろ。あれだけの走りができたなら、もっと最高の走りができるってことだろ?」

 はにかんだような隼人の笑みに、律は引き込まれた。

「お前が積み重ねてきたことをお前が信じてやれないでどうする」
「でも、周りはもっと積み重ねてきた先輩たちだし」
「だからどうした」

 隼人の力強い言葉の続きを律は待った。

「周りがどれだけ積み重ねてきたかはどうでもいい。俺はお前が積み重ねてきたのを知っている。だから、お前の走りを信じられるんだ。大丈夫。お前は勝てる」

 本当に、この人は。
 同じ学校で、同じ部で、同じ部屋で。
 多分、誰よりも俺のことを見てくれている。
 嬉しさがこみあげてきたが、律は無理やり自分の心に喜びを押しとどめた。
 今はまだだ。決勝が終わってから。
 ぐっとこぶしを握り締めて、律は隼人を見た。

「俺、絶対勝ちます。……だから、俺を見ててくださいっ」
「当たり前だ」

 ぽんと律の頭に手を置いた隼人は、立ち上がった。

「他の奴らの調子も見て来る。アップゾーンに入るころに、顔見に来るからな」
「はいっ。待ってますっ」

 片手を振って去っていく隼人を律は見送りながら、自分がすべきことをしっかりやろうと決めた。
 いくら時間が空くとはいえ、体を冷やしてはいけない。ケアも大事だ。ヨガマットを敷いてゆっくりと体をほぐし始めた。



 決勝レーンには八名の選手が並んだ。決勝独特の雰囲気の中、律はただまっすぐゴールラインを見た。
 ゴール手前には十本のハードルが等間隔に並べられていた。あのハードルの先に待つゴールに向かって、八人の選手たちはこれから走り出す。
 緊張と高揚感が混じった何かが、律の体の中に湧いてきた。深呼吸を繰り返し、それを宥めてから、スターティングブロックに丁寧に足をかけた。スタートラインぎりぎりに手を突き、今一度最初のハードルを見た。

 観客席は静まり返り、スタートの合図を選手と共に待っていた。
 誰がどれだけのタイムでここに並んでいるかは、関係ない。
 今は自分ができる最高の走りをするんだ。
 隼人が見ている前で。

『on your mark』

 一瞬の空白の後、号砲が鳴り響いた。
 八人が一斉に飛び出して、最初のハードルに向かった。第一ハードルまでのスピードでは勝つのは難しいが、諦めるには早すぎる。距離をできるだけ詰めて、その上でハードル間のリズムで相手に勝つ。

 予選後に食べたおにぎりがエネルギーに換わっているのが分かる。決勝前に温めた体が軽い。周りからの歓声が聞こえないくらい集中できている。足も軽やかにハードルを越えていく。
 両脇の選手が律の少し前にいるが、焦ってはいけない。リズム感を崩せば、挽回はほぼ絶望的だ。集中して、自分のリズムで。
 律がそんなことを考えていると、鋭い応援が耳に飛び込んできた。

「律っ、負けんなっ」

 その声が隼人だったのはわかった。八個目のハードルを飛び越え、着地すると、律の口元が少しだけ緩んだ。

 なんで、あの人はこんな時に。
 あと二つを超えて、走り抜ける。それだけだ。

 ぐっと視界が狭くなると、律は自分の集中力が高まったのを感じた。
 その後、どんな走りをしたか、ゴールラインを超えるまでわからなかった。ゴールラインを超えると、観客席にいるチームメイトが雄たけびのように声を上げていた。

 律は膝に手を突き、のろのろと顔を上げて電光掲示板を見た。計測されたタイムと共に名前が上から順番に並んでいく。

 六着 白石律。

 自分の名前がそこにあった。六着か。八着じゃなかったんだ。ぼんやりとした頭でそれだけを確認すると、息が整わぬままトラックから出て、メインフィールドの上にごろんと横になった。

 持てる力を全て使い切った。こんな疲労感は久しぶりだった。大きく呼吸をして、酸素を体の中で入れ替えていると、誰かの足が律の頭の近くにやってきた。

 むくっと体を起こすと、隼人が何も言わずに律をぎゅっと抱きしめていた。

「……よくやった」

 決勝に進んだ時の褒め方とは違った。何かを噛みしめるような、そんな声だった。

「黒瀬先輩、きついですって」

 力強く抱きしめられているせいか、照れよりも呼吸がしにくいのを先に感じた。律は少しだけ隼人を離そうとしたが、隼人は再び力強く律を抱きしめた。

「……次は支部大会だって」
「え」
「六位までに入れば、支部大会に進めるんだよ。忘れんな、バカ」
「……じゃあ、俺」
「よくやった」

 抱きしめられたまま、乱暴に頭を撫でられていると、律はようやく実感した。自分がインターハイへの道を更に進めることができたことを。
 湧いてきた喜びを嚙みしめながら、律も手を伸ばして、隼人をギュッと抱きしめた。

「黒瀬先輩」
「なんだ? この後は監督のおごりで焼肉だぞ」

 相変わらず、この先輩は空気を読んでいるのか。読もうとしていないのか。
 少しムッとしながら、律は隼人の耳元で言う。

「なんで、さっき名前で応援してくれたんですか?」
「あ?」
「律って言ってくれたでしょ?」

 律の言葉にぱっと隼人は体を引いた。目を宙に泳がせて、最後は気まずそうに俯いた。しかめっ面になるのは、律の番だった。
 顔を覗き込もうとすると、手で顔を鷲掴みにされた。

「ちょっと、先輩っ、顔っ」

 無理やり隼人の手を顔からはがすと、律は目を疑った。耳を真っ赤に染めた隼人はそっぽを向いていた。

「あれは……あれだ。苗字より呼びやすかったから、だ」

 呼びやすかったからって、あんなに必死に応援してくれるわけじゃない。隼人はうなじを両手でさすりながら、ちらりと横目で律を見た。

「走れなくなってから、あんなに誰かを応援したのは……お前が初めてだったんだよ。……って言わせんな、バカ」
「俺も、黒瀬先輩に応援されて……すごく嬉しかったです」

 緩んだように律が微笑むと、隼人が唇を突き出して不満そうにした。何が不満そうなのかわからずにいると、タオルを頭から被らされた。そのままタオル越しにぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。

「な、なんですかっ」
「うるせっ」

 照れたような文句の言い方が頭の上から降ってきたかと思うと、律の耳元で隼人が言った。

「仕方ねーから、インハイまでお前を見ててやるよ」
「……それって」

 タオルを取って隼人を見ると、目を細めて律をまっすぐ見ていた。今まで見てきた度の表情とも違う。優しさを孕んだ目が律から離れない。

「お前だって、わかってんだろ?」
「……わかりません、俺、バカなんで。だから、ちゃんと言ってください」

 隼人からちゃんと聞きたかった。だが、隼人は苦笑して、律の頭にポンと頭の上に手を置いた。

「……インハイで教えてやるよ」
「絶対、教えてくださいね。俺だって、先輩に見てほしくて走ってるんだし……」

 律は隼人と確かな約束をして、メインフィールドから立ち上がった。観客席からはチームメイトたちが律と隼人に向かって手を振っていた。二人は並んで、観客席の前に向かって駆けて行った。

 観客席を見上げる隼人を横目で律はそっと盗み見た。

 インハイまでに、この人をもっと好きになってしまいそうだ。

 そんな気持ちを今は悟られないように、自分の胸の中にそっと隠した。