「エントリー組、集合」

 赤城に呼ばれて、律は灰谷と共に集合場所に向かった。

 エントリー組の発表がされてから一週間が経った。
 インハイ予選まで残り一週間。練習は日に日にシビアなものになった。フォームの確認、課題点の洗い出し、体のケア。やることは多い。それでいて、疲れを残してはいけない。勉強だって疎かにしてはいけない。
 だけど、それ以上に、隼人との距離の取り方を律は思いあぐねていた。

「これから一週間は特にケアをしっかりするように、特に自主練無茶組は、ね?」

 赤城の最後の言葉は律と灰谷にしっかり向けられたようで、有無を言わせない言葉の圧に二人は黙って頷いた。
 赤城の隣に立っていた隼人はバインダーを開いて、エントリー組への連絡事項を伝えた。先輩たちの後ろに立っていた律は、先輩たちの背が高いことを良いことに、隼人からの視線を遮るように隠れた。

「以上、解散」

 赤城の合図で、灰谷と共に律は練習場所に戻った。エントリーされていない二年生の先輩たちはのびのびと練習をしていた。今回エントリーされなくても、秋からの大火に向けての準備を今からしている。インハイという目の前の目標にだけ目を向けていた自分が何だか情けなく思えた。

 軽くストレッチをしてから、レーンに立つ。まっすぐ伸びた白い線は後半にかけて少しずる弧を描く。走る方もそれに合わせて、走らなければならない。

 大丈夫、イメージはできている。

「白石、勝負だ」

 隣に立った灰谷が不敵に笑っていた。

「今日はこの一本だけだ」
「なになに? オレに負けんのが悔しいとか?」
「そんなんじゃない」

 ここ数日灰谷の調子はすこぶる良い。それは本人だけではなく、周りからもそう見えるようだった。同じ種目に出る律も、ひしひしと感じるほどだった。

「記録とってやろうか?」

 隼人が灰谷に声をかけてきた。律は隼人から目を反らし、まっすぐレーンを見てから、スターティングブロックで構える。灰谷は隼人に記録をお願いし終えると、すぐに同じく構えた。スタート合図は二年生の先輩だ。隼人とタイミングを確認し終えると、一拍置いてからスタートの合図が出された。

 最初の四十五メートルは、灰谷の独擅場だ。元々四百メートル走をメインにしていただけあり、飛び出しが上手い。律は置いて行かれないように懸命に腕を振る。負けたくない。体が自然と力んだ。一つ、二つとハードルを飛び越えては、走るを繰り返すと徐々に灰谷との距離を詰めていく。

 だが、あと一歩灰谷の背中を追い抜かすことができない。
 リズムもスピードもいつもと変わらないのに、なんで。
 結果は、灰谷より五秒遅れのゴール。

「よっしゃあ、自己ベストっ」

 飛んで跳ねて喜ぶ灰谷を見て、律は唇を噛んだ。

「黒瀬先輩、見てましたっ?」

 嬉しそうに駆け寄る灰谷を恨めしそうに見ていたが、頭を横に振った。相手を羨んでも仕方がない。もう一人記録係として、フォームをビデオに収めてくれていた先輩の下に律は歩いて行った。

「ビデオ、見させてもらっても良いですか?」
「ほい。……白石、お前なんかフォーム崩れてないか?」
「え?」
「なんとなくしかわかんねーけど」

 先輩の言葉に耳を疑った。正しくリズムを刻めていたのに、なんでフォームが崩れることがあるんだ。ビデオを巻き戻して、律が画面越しで確認すると、先輩の言う通り自分のフォームに違和感を覚えた。

 だが、どこが悪いかまでははっきりとわからなかった。

「白石、さっきの走りだけど」

 隼人からの声掛けに、慌てて律はビデオを記録係の先輩に戻して、お願いをする。

「先輩、もう一本取ってもらって良いですか?」
「良いよ。さっきよりも少しズームで取ってみる」
「お願いしまっす」

 隼人が何か言いたげにしていたが、律は気にすることなく、スタートラインに走って向かう。
 スタートラインに再びたち、律はスターティングブロックに足をしっかりと付ける。深呼吸を何度か繰り返して、スタートの合図を出すようにセンパイに目配せする。

 スタートの合図を聞いた瞬間、律は走り始めた。タイミングを計りながら、四十五メートルを疾走していると、足が攣った。つんのめるように、律は前に転がった。足を地面に叩きつけると、目の前には空が広がっていた。

「くそっ」

 起き上がると、ふくらはぎに痛みが走った。顔を顰めながら、そっと自分のふくらはぎを撫でる。

「大丈夫かっ」

 隼人が慌てて駆け寄ってきた。律が慌てて立ち上がろうとすると、手で制してきた。真剣な顔で隼人はそっと律の足を手で触れた。部活中の厳しい表情とは違う。焦っているようにも見える隼人の横顔は珍しかった。

「大丈夫ですよ、ちょっと攣っただけですし」
「赤城っ」

 律の遠慮がちな言葉を遮るように、隼人は赤城に声をかけた。赤城も事態を察したのか、駆け付けてきた。

「どうした、悠人」
「白石の様子を見るから、任せても良いか?」
「わかった」
「行くぞ、白石」
「えっ」

 肩で支えられ、無理やり立ち上がらせる隼人に律は驚いた。

「あ、あの、黒瀬先輩、俺、本当に大丈夫ですからっ」
「変な転び方しただろ」
「攣っただけですっ」
「ダメだっ」

 隼人が怒鳴るように言ったところで、赤城が隼人の肩に手を置いた。

「……隼人、少しは落ち着け」
「だけど、悠人」
「落ち着け」

 赤城の冷静な言葉に、隼人はもどかしそうに歯ぎしりをした。隼人が律をゆっくりと座らせたところで、赤城が律に目線を合わせるように屈んだ。

「何があったか、話してくれ」

 隼人とは違う律の足が気がかりなようで、ちらりと律の足に赤城は目をやった。

「い、いや、本当に足が攣っただけなんです」
「それ以外に痛みは?」
「ないです」

 足首を持って、赤城が律の足の張りを確認する。左右同じように確認を終えると、ほっと一息吐いてから横目で隼人を見た。

「大丈夫だ、隼人。白石は嘘をついていない」
「……そうか……」
「焦りすぎだ。お前が冷静でなくてどうする」

 赤城のデコピンを隼人が受けると、痛々しそうに目を細めながら、しかめっ面になった。

「白石はゆっくりストレッチとケア。隼人は付き添ってやれ。他のハードル組はランニング」

 赤城の指揮の下、隼人と二年生の先輩たちはランニングに出て行った。ハードルの脇に取り残された律は、申し訳なさそうに隼人を見た。

「すみません、その」
「俺も悪かった。焦りすぎたな」
「黒瀬先輩?」

 あまりにも痛々しく聞こえたので、律が聞き返すと、何でもないように隼人は首を横に振った。

「……大丈夫そうだな。ストレッチ、手伝おうか?」
「大丈夫ですよ。このくらい一人で」

 言い方が強かっただろうか。突き放すような言い方になってしまい、律は隼人を慌てて見た。安心とも心配とも言えない、複雑な感情がそこにあり、思わず俯いてしまった。今まで見たことが無い顔だった。

 あんな顔、させたいわけじゃないのに。

 ぐっと奥歯を噛みしめてから、律が顔を上げると隼人が立ち上がって去っていくところだった。手を伸ばそうとしたところで、律はその手をひっこめた。ぐっと手を握りしめ、自分の太ももにモヤモヤとした気持ちをぶつけた。手加減をしたはずなのに、じんわりと太股に痛みが広がった。

 ふいに律の影に誰かの影が重なった。顔を上げると、ペットボトルが目の前に突き出された。

「ほら、ちゃんと飲め」

 気遣うような隼人の声に、律は礼を言ってペットボトルを受け取った。

「無理すんな。……俺がちゃんとサポートしてやるから」
「足なら、もう大丈夫ですけど」
「違う」
「え?」
「インハイ優勝がお前の目標だろ? なら、俺はお前がインハイ決勝のレーンに入れるように全力でサポートするって言ってるんだよ」

 目線を合わせられ、まっすぐ見て言われた。隼人の言葉をかみしめるように、律は喉を鳴らした。この人の言葉をちゃんと受け止めないなんて、できない。隼人の言葉が律の心にきっちり刺さった。痛いのに、嬉しいって変だ。

 隼人から目をそっと背けると、隼人の手が律の顔に伸びてきて、律の頬を掴んだ。無理やり顔を元の位置に戻される。

「足の具合は、大丈夫か?」

 目を細めて、思案顔で隼人は律の顔を覗き込んだ。

「ひゃい……」

 痛いと返事が混ざったかのような言葉だったのに、隼人はふっと片頬をあげて満足そうに頷いた。律の頬を掴んでいた手を離して、彼は立ち上がった。つられたように律も顔を上げると、少し眩しそうに目を細めながら、遠くでランニングしている灰谷たちを見ていた。

「軽めのジョグで今日は調整して終わるか」

 隼人が軽めにストレッチをするなり、走り出した。律も慌ててふくらはぎを伸ばして、違和感がないことを確かめてから追いかけた。

「違和感は?」
「大丈夫です」
「とりあえず、今日はジョグで終わりだからな。自主練もナシだ」
「でも」

 実践練習で納得のいくタイムは出ていないし、フォームに乱れが出ているような話も言われている。予選が目の前なのに、そんなに悠長にしていられない。
 走っているとこめかみ辺りに痛みが走った。痛みに顔を顰め、横を見ると、デコピンをした後の手を隼人は残していた。どうやらデコピンを律のこめかみにしたらしかった。

「考えすぎ」

 くしゃっと笑って言った隼人が少しだけ眩しく見えた。

「ごちゃごちゃ考えるな。余計にフォームが崩れるぞ」
「……やっぱり、フォームが崩れてますか?」
「お前はリズムよく走るタイプだから、ちょっとの崩れでもタイムが落ちるんだろうな」
「でも、ビデオで見てもはっきりと崩れているようには」
「離れているとちょっとわかりにくいよな」

 スタートラインからゴールラインまで距離がある。ゴールに近づくほど、姿は見えるが、それでも二人同時に走っていたのに。気づく余裕があるほどだったんだろうか。

「なんで、黒瀬先輩は気づいたんですか?」
「……なんで」
「はい。灰谷も走ってたし、ビデオでもわからないほどの崩れ方なのに」

 何か答えを悩むように、空を見ながら隼人は逡巡していた。隼人が答えを出すまでの間、律の鼓動が乱れた気がした。呼吸は乱れていないのに、なんで。

「……入部してから、ずっとお前の走りを見てたからだ。ちょっとの崩れもわかるっつーの」
「ずっと?」
「当たり前だろ、同室で同じ部活なのにわからない奴がいるかよ」

 苦笑しながら言ってのけた隼人の言葉に、律は一瞬呼吸が止まった。

 なんで、こんなに嬉しいんだろう。

 憧れの人に見てもらえていたことが嬉しいから?

 隼人が先輩として、ずっと律を見てくれていたから?

 どちらも違う気がする。

 こんなにも嬉しいのに、妙に胸が痛い。

 これは、憧れだけなんかじゃない。

 これは――。

「黒瀬先輩っ」

 少し前を走る隼人に思わず律は声をかけた。

「ん?」

 微笑んで振り返った隼人を見て、律はそれ以上何を言ったらよいかわからず、口をパクパクしてから閉じた。

「どうした?」
「……なんでもないです」

 耳が熱くなるのがわかる。その熱が顔にまでゆっくり広がっていくのも感じた。顔を見られたくなくて、律はうつ向きがちに顔を伏せて走った。
 それ以上何も訊いてくることは無く、隼人は律の数歩前を走り続けていた。

 気づいてしまった。でも、気づいちゃダメだった。
 この気持ちは簡単に伝えられるモノじゃないから。

 律は隼人の背中を追いながら、この気持ちを気づかれないように、気持ちごと呑み込んだ。