目覚ましが鳴っていても、律は布団から手を伸ばすのさえ億劫だった。
 昨日の選考会の結果のせいだろうか。だけどいつまでも目覚ましを鳴らし続けるわけにいかない。
 ゆっくりと体を起こして、目覚ましを止めた。隣のベッドで寝ている隼人を起こさないように、いつも通りジャージに着替えて部屋を出た。
 
 昨日、部活の終わりの集まりで、改めて隼人がマネージャーに転向することを発表された。

 四百メートルハードルのエントリー選手に増員はなく、律と灰谷だけだった。三年生は薄々わかっていたのか、名残惜しそうな顔をして、事実を受け入れていた。律をはじめとした後輩たちは隼人を質問攻めにしていたが、隼人の答えは一貫していた。

 曰く、最後の選考会で一位を取れなければマネージャーに転向することを決めていたからだ、と。

 ハードル組には隼人が改めて頭を下げてまで、マネージャーになることを話してくれた。そのうえで、これからはチームの底上げをするために全力で支えることを隼人は宣言した。目標にしていた背中が急にいなくなり、律は動揺しかなかった。

 寮を出て軽くストレッチをしてから、いつも通り軽めのジョグを始めた。湿気を孕んだ空気が重い。昨日の疲れを取るために軽く走ろうとしても、選考会でのレースが頭をよぎってしまう。一位通過をすることができたが、素直に喜べなかった。隼人が三位でゴールしたことを知った時は、一緒にインハイ決勝を目指せると思っていた。

 どうして、こんなにも隼人と走ることができないことが悔しいのか、わからない。

「そんな乱れたフォームで走るバカがいるか」

 突然後ろから声をかけられて、振り向いた。そこには、部活ジャージの姿で隼人がランニングをしていた。昨日、遠くに感じてしまった距離が急に近くなったように感じる。律が戸惑っていることも知らずに、隼人は律の速度に軽々と合わせて、並走し始めた。

「……どうして」
「お前、目覚まし鳴らし過ぎなんだよ。おかげで目が覚めた」
「す、すみません」
「それに……お前がなかなか眠れていなかったのも知ってたし」
「え?」

 呼吸が乱れない程度の速度で走っているはずなのに、急に乱れた。このくらいの会話なら、いつもの部活練出のランニングと同じようにしているはずなのに。

「昨日から、なんか落ち込んでるだろ?」
「……そんなこと、ないですよ」

 嘘だ。精いっぱいの強がりだ。拳をぐっと握りしめて、律は腕を懸命に振る。

「バレバレだ、バカ」

 呆れたように否定してきたのは隼人だった。

「バカってなんですかっ」
「ここ最近おかしすぎるだろ」
「へ?」
「夜中も起きていることあるみたいだし、昨日も」

 なんで。
 律はジョグの足を止めて、立ち止った。数歩先に行ってしまった隼人が立ち止って振り返った。心配そうな、どこか気にしているような表情だった。なぜだか、律は胸に小さな痛みを感じた。

「……気づいてたんですか?」
「気づかないと思ったのか」
「だって、黒瀬先輩は寝てたし」
「さすがに連日もぞもぞしてれば気づく」
「それに、落ち込んでなんか」
「あのなぁ」

 大きなため息と共に、大股で歩いてきた隼人が律の前に立つ。ちらりと見上げようとしたところ、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。

「さすがに数か月も同室やってれば、わかるんだよ。ていうか、お前はわかりやすすぎ」
「そ、そんなに」

 律が首を竦めると、隼人の手の動きが止まった。手は頭に乗ったまま、律と目線を合わせるように隼人が少し屈んだ。

「目の下のクマ」

 隼人に指摘され、律は慌てて目元を隠す凌に手で覆う。テスト期間中にできてしまったクマがまだ消えていないのはわかっていた。だけど、隼人に指摘されると、こうも落ち着かなくなる。

「昨日も部活前から体も重そうだったし、ちゃんと眠れていない証拠だろ」

 律がクマを隠している手を隼人がどかした。

「それに、顔色だって悪い。病人みたいだぞ」

 観察するようにじっと隼人は律を見ている。どこか落ち着かない気持ちになってきた律は少しだけ顔を俯かせた。走ったせいなのかわからないが、少し顔が熱い。

「……黒瀬先輩、近いです」
「あ、悪い」

 隼人は気にした様子もなく、ぱっと手を離した。律は手持無沙汰になった右手を自分のうなじに乗せた。

「とりあえず、今日は休め」
「え、どうして」
「乱れたフォームに、顔色の悪さ、目の下のクマ。これだけ揃っていて休まないつもりなのか」
「……いえ」
「寮監と寮長には伝えておくから」
「でも……選ばれたのに」

 まだ頑張りたい。インターハイ予選が近づいている中、隼人が指摘したことくらいで休むわけにはいかない。
 律の言葉に呆れたのか、大きなため息が頭の上から聞こえてきた。そんなに呆れなくても、と言い返そうとしたところで、腕を掴まれた。

「帰るぞ」

 有無を言わせずに、隼人は律の腕を掴んだまま寮に連れて行った。

「どうした?」

 玄関で靴を履き替えていると、ジャージ姿の赤城が階段から降りてきたところだった。赤城は長距離トラック部門で、エントリーされていた。朝練前に自主練にでも行くところなのだろうか。

「悠人、こいつ今日は部活も休ませる」
「あー……確かに、顔色悪いもんな」

 赤城も律の顔をまじまじと見てきた。気まずくなり、律は少し視線を下げた。

「だろ。なのにコイツ、自主練だって言ってランニングしてるし」
「それで、お前の心配モードが炸裂しているのか」
「は?」
「だって」

 赤城がちらりと隼人が律の腕を掴んでいるのを見ているとわかるない、隼人は慌てて律の腕を掴んでいた手を離した。

「お前、わかりやすいよな」
「なにがだよっ」
「さあな。とりあえず、白石が部活を休むのはわかった。寮監には伝えたか?」
「こいつを部屋に放り込んでから、だ」
「わかった。じゃ、朝練で」

 赤城がランニングシューズに履き替えて、外に出て行った。その背中を見送ると、隼人は律に向き直った。

「とっとと部屋に行くぞ」
「は、はいっ」

 目を細めて見て来る隼人は、部活の時の厳しい顔と同じだった。ここは大人しくしておかないと、後で何を言われるかわかったものではない。二人は黙ったまま、部屋まで歩いて行った。

「今日は学校も休んでおけ。どうせテスト返却だけだろうし」
「……はい」

 忘れていた。テスト返却されるということは、赤点かどうかが分かるということ。律はごつんとドアに額をぶつけた。

「まさか、赤点の可能性があるとか、言わないよな?」

 後ろからの何とも言えない圧の強さに、律は慌てて振り返って首を横に振った。本当なのかと疑わしそうに見られると、さらに必死に首を横に振った。

「……とりあえず、一日寝ておけ」

 それだけ言うと、隼人は寮監がいるであろう監督室に向かって歩いて行った。律は少しだけ隼人を見送ってから、部屋の中に入った。

「顔、あつっ」

 ジャージのまま律はベッドの上に横になった。
 ごろっと体の向きを変えて、律は隼人のベッドをちらっと見る。ベッドの主はそこにいないが、寝起きのままにしてある布団の形から察するに、もしかしたら慌てて律を追いかけたのかもしれない。そう思うだけで、律は顔が余計に熱くなった気がした。熱が出始めたのかもしれない。慌てて布団に潜り込んで、律は無理やり目を瞑った。

 いつの間にか眠ってしまっていたようで、スマホの振動音で目が覚めた。スマホを手に取ると、もう部活の放課後練の時間になっていた。

「まじか……」

 さすがに寝過ぎた気がするが、おかげで体が軽い。スマホに届いているメッセージをスクロールしながら見た。一番連絡が多く入っているのは灰谷。次に緑川だった。二人とも部活の心配や勉強の心配を送ってきてくれている。律はお礼と明日からは出られそうだと返していると、隼人からメッセージが入った。

『起きたら、ゼリーとか食っておけ。机の上に置いてある』

 メッセージに誘われるがまま、律は自分の机の上を見るとコンビニの袋が置かれていた。ベッドから降りて、中を見るとゼリー飲料が二つ入っていた。袋の内側に付箋も入っていた。手に取ると、まじめそうな字が並んでいた。

『寝ろ』

 シンプルかつ、とても分かりやすい言葉だった。きっと隼人が気難しい顔で書いたに違いないと思うと、思わず笑ってしまった。赤城の言う通り、心配モードが炸裂したに違いない。

 パキッと蓋を開けて、ベッドの上に座って飲み始める。買ってしばらく置かれていたせいか、ぬるい。だけど、朝から何も食べていないから、ありがたい。袋に入っていた付箋をもう一度見て、律は口元を緩ませた。

 コンコン。

 軽いノック音がドアから聞こえてきた。緑川あたりが、誰かに言われて様子を見に来たのか。返事をしてドアを開けると、驚いた顔をした隼人がいた。

「放課後練中じゃ……」
「お前がちゃんと部屋にいるかを確認しに来たんだよ」

 眉間に皺を寄せた隼人がじろりと律を見た。隼人が律を上から下まで見て、最後に顔色を伺うようにじっと見ると、満足そうに軽く頷いた。

「だいぶ良さそうだな」
「……おかげさまで」
「なら、付き合ってくれ」

 隼人の言葉に律は目を丸くした。一体何を言っているんだこの人は。訝し気に見ていると、隼人の眉間にみるみるうちに皺が寄ってきた。

「なんか変なことでも言ったか?」
「いえ」
「部活の買い出しを頼まれたんだよ」

 ポケットから殴り書きのようなメモを隼人から渡された。粉タイプのスポーツドリンクに、テーピングに、エアーサロンパス。部活の時に使うモノばかりだ。

「誰か怪我でもしたんですか?」
「これからインハイ予選に向けて練習もきつくなるし、買いに行ける時に行かないと」
「でも、黒瀬先輩がいかなくても」
「何言っているんだ? これはマネージャーの仕事だろ?」

 マネージャーの仕事。
 そうだった。目の前にいる憧れの人は、マネージャーになったんだった。

「なんだ? もう忘れたのか?」

 苦笑しながらメモを取ると、隼人はポケットにメモを突っ込んだ。

「……どうしても、マネージャーになるんですか?」
「ん?」
「俺、黒瀬先輩とインハイで走りたくて、ここに来たんです」

 何を言っているんだ。隼人がどんな覚悟でマネージャーになることを決めたかも知らないくせに。自分の希望だけを無理やり押し付けて。
 だが、律の口から言葉が溢れ出てきてしまう。

「昨日の選考会だって、三位に入って。走れるじゃないですか。なのに、どうして。俺、納得できないですっ」
「白石」

 隼人に呼びかけられて、律は気づいた。諦めたような、それでも少しの悔しさをにじませたような表情で、隼人は律を見ていた。

「昨日走ってわかったんだ」
「……何を、ですか」
「俺だってインハイを走りたかったんだって」
「じゃあっ」
「でもな、それ以上にお前や灰谷がインハイ決勝で走る姿の方が眩しく見えたんだ」

 そう言われたら、何も言えないじゃないか。
 律は俯いて、奥歯を噛みしめた。そこにあの優しい手が律の頭の上に乗った。

「お前がまだ走れるって言ってくれて、嬉しかった。だけど、俺はお前がインハイの決勝レーンに立っていることの方がもっと嬉しいんだ。それはわかってくれ」

 隼人の言葉に何も言い返せずにいると、隼人の手が律の頭からそっと離れた。思わず隼人の手を掴もうとしたが、空を切った。

「……まだ疲れているようだし、休んでろ。夕飯前には起こしに来るから」

 何か言わなくちゃ。今止められるのは自分だけなのに。
 だが、律は何も言えないまま、扉が閉まるのをただ見ることしかできなかった。

 隼人の腕を掴めなかった自分の手を、律はじっと見た。
 隼人と走ることができないだけで、こんなに苦しくなるものだろうか。それを聞いたところで、隼人を困らせるだけなのはわかっていた。
 じっと見ていた手でギュッと胸のあたりを掴みながら、絞り出すように言った。

「俺……最低だ」

 こぼれそうになる涙を腕で拭って、ベッドにうつ伏せになった。目からこぼれるモノが枕を濡らすが、知ったことではない。しばらく声を殺して、ひたすら涙を流した。