「おわったーっ」
解放感が溢れる教室の中、人一倍大きな声を出して灰谷は体を伸ばしていた。恵まれた体躯のせいで、灰谷が体を伸ばすと机と机の間の通路が塞がれる。
「邪魔」
「緑川先生のおかげですよ」
「赤点回避できそうなの?」
「多分っ」
「そんな満面の笑みで言われても」
複雑そうな顔で緑川は灰谷を見る。確かに勉強を教えた側からとすれば、多分と付けられるのは不満なのかもしれない。
「白石は、大丈夫そう?」
ぺったりと机の上に頭を乗せていた律は、顔を上げる。
「うわ、目の下のクマ、やばくない?」
「徹夜とかしたのかよ?」
緑川と灰谷に心配されるような、徹夜で勉強をしたわけじゃない。
黒瀬先輩が女の子と歩いているのを見た日から、どうにも睡眠の質が悪くなっているような気がしてならない。夜中にふと目が覚めてしまうこともあるので、仕方がなく布団の中で勉強をするしかなかっただけだ。
「そんなんで、今日からの部活、大丈夫か?」
「多分、大丈夫」
「だったら、行くぞ。部活前の準備は一年の仕事だろ」
テスト期間中のしおれた植物みたいになっていたはずの灰谷は、すっかり元気を取り戻していた。律ものろのろと立ち上がって、緑川に礼を言ってから灰谷と共に部室に向かった。
どの教室もテストからの解放感があり、にぎやかだった。部活に行く人はさっさと部室に向かい、部活にいかない人でも何人か連れ立って談笑しながら廊下を歩いていた。
部室に入ると、まだ誰も来ていなかった。同学年の陸上部員は律と灰谷の他に何人かいるが、まだ教室にいるのかもしれない。
部室でジャージに着替えて、灰谷と共にハードルをいくつか持って校庭に向かった。梅雨入り前だけど、連日の猛暑日に、既に夏ではないかと錯覚させられる。
律と灰谷が部室と校庭を何往復かしてハードルを並べ終えるころには、先輩たちがぞろぞろとやってきた。挨拶を交わしながら、律はハードル近くでストレッチを始めた。いつもよりも体が重いのは、なぜだろうか。多少の睡眠の質が落ちたところで、ここまで重く感じることは今までなかった。首を傾げながら、体を伸ばしていると、灰谷と並んで隼人もやってきた。部活なのでジャージ姿姿は珍しくはないが、その手にはバインダーがない。
「白石っ、黒瀬先輩も今日から練習合流だって」
「え?」
隼人を見ると困ったように眉を下げて笑っていた。
「やっと医者の許可も下りたし、ゆっくりとやり始めることにしたんだ」
隼人は昨年の夏のインターハイ後の練習中にシンスプリントになっていた。疲労骨折の直前までのひどい状態だったらしく、そこからはリハビリをしながら、トレーニングを積んでいると聞いていた。
陸上シーズン前である、十一月から三月までは鍛錬機と呼ばれており、その時期にフォームの確認や体作りをしなければ、大会で勝つのが難しくなる。その期間ずっとリハビリだった隼人は、律たちと体幹トレーニングや筋トレ以外でのトレーニングに混ざることは殆どなかった。
「やっと黒瀬先輩と走れるってことですよねっ」
灰谷が嬉しそうに隼人の隣でストレッチを始めた。灰谷も律と同じく、隼人が走ったあのインターハイ決勝を見ていたらしい。灰谷は全国各地の強豪校からの誘いもあったらしいが、隼人がいるこの高校へスポーツ推薦で入学したと、一年生同士の会話の中で聞いたことがあった。
律もスポーツ推薦入学組だが、灰谷とはレベルが違うのは常々感じていた。陸上競技選手としての恵まれた体躯と運動神経は、律には手に入れられないものだ。彼がひとたびレーンに入ると、目が奪われる。選手としての圧倒的強さに気持ちが負けることもある。
だが、律は、隼人が立ったあのインターハイ決勝レーンに出て、優勝したい気持ちは灰谷にも負けるつもりがない。地道にトレーニングを積みながら一歩一歩確実に強くなるしかないのは律もわかっていた。
「次、プランク」
隼人の号令に律ははっと意識をヨガマットに戻した。いつの間にかハードル競技者が揃い、体幹トレーニングを始める時間になっていた。他のトラック競技よりは、競技者数が少ないのは、学校の中でも変わらない。五人という少人数で円になってプランクを始めた。
「灰谷、グラグラしすぎ」
「はいっ」
隼人が細やかに部員一人一人に目を配りながら、声をかけてくれる。律も腕がプルプルと振るえるが、歯を食いしばって耐えた。高校から本格的に始まった体幹トレーニングには未だに慣れない。中学では走ることと筋トレがメインだっただけに、自分の至らなさを知るばかりだ。
「それじゃ、ランニング行くぞ」
長いストレッチと、筋トレ、体幹トレーニングの時間を経て、ようやく走る時間になった。テスト期間中も筋トレと体幹トレーニングを続けていたが、勉強に時間を割いていたせいで、ランニングが始まっても体が重い。
「白石、大丈夫か?」
隣を走っていた灰谷が声をかけてきた。
「久しぶりの部活だからな」
「お前がそんなことを言うなんて珍しいな」
「そう言うお前だって、体が重そうだな」
「すぐに戻すさ」
確かに、体幹トレーニングの時よりも顔が明るい。灰谷は走るのが何よりも好きだから、ランニングや実践形式になると、どんなに地味なトレーニングで疲れていてもすぐに元気になる。その証拠に、灰谷の足取りが軽く見えた。
ランニングを終えると、赤城から集合の号令がかかった。競技種目ごとにまとまり、赤城を中心として集まる。赤城の手には一枚のプリントがあった。
「二年生以上はわかっていると思うが、来週は校内選考会がある」
赤城の言葉に、緩んでいた空気が一気に引き締まった。入部の時に説明をされていたが、こうも雰囲気が変わるとは。律は息を整えながら、ぐっとこぶしを握り締めた。
この校内選考会は種目ごとにタイムや記録が取られ、上位三名に入れば、これからの大会にエントリーされる。インターハイ予選に出るためにも、この選考会で負けるわけにはいかない。
選考会の詳細説明が終わると、各々種目ごとに分かれて練習が再開された。
「選考会にエントリーする人は今日中に俺に声をかけくれ」
「灰谷、エントリーしますっ」
隼人の説明が終わるや否や、灰谷が勢い良く手を挙げた。
「……わかった。今他にエントリーを希望する人は?」
負けられない。
律もすぐに手を挙げた。
「今年の一年は、やる気があるな」
「黒瀬先輩は出るんですかっ」
灰谷の問いに、隼人は曖昧に微笑んでから、実践練習メニューの説明を始めた。テスト期間明けのおかげか、練習メニューは思ったよりも軽かった。最後のストレッチを終えても、眠気以外で体が重く感じることは無かった。
練習終了の合図が赤城から出されると、一年生たちは各々使った道具を片付け始めた。二年生や三年生はストレッチを終えた人から着替えて帰って行く。
ぐるぐると肩を回した律は、道具を片付け終えるなり、ランニングに向かった。学校の敷地外を回るいつものコースだ。部室前を通り過ぎようとしたところ、隼人に呼び止められた。
「自主練か?」
「なんか、もう少し体を動かしたくて」
「じゃあ、俺も行く」
「え、でも、悪いですよ」
「別に俺も走り足りなかった気分だから」
律と共に隼人もランニングに向かう。腕まくりしたジャージから伸びる腕は、思っていたよりも筋肉質だった。いつもはシャツやジャージで隠れているため、もう少しひょろっとしている印象を持っていたがために、意外だった。
「……黒瀬先輩は、筋トレが好きなんですか?」
「いや? どうしてそう思った?」
「ハードル競技にしては珍しく、筋肉質な腕だなって」
「ああ、なるほど」
気まずそうにまくっていたジャージを器用に元に戻しながら、隼人は気まずい顔をした。
「……リハビリの時に筋力落としたくなくて、筋トレ中心だったし」
「羨ましいです。俺、あまり筋肉付くタイプじゃないみたいで」
校門を抜け、左に曲がる。コンクリートが凸凹しているためか、少し走りにくい。だが、これも仕方がない。常に校庭のトラックが空いていることは無いので、外周くらいでしか長距離を走ることができない。その証拠に、長距離部門はいつも外周だ。
「ペース、大丈夫ですか?」
いつも一人で走っているから、誰かと並走するペースが上手く掴めない。乱れ始めた息を少しだけ深く吐いて、律はペースを取り戻すようにリズム良く足を運ぶ。
隣を走っている隼人を横目で見ると、律のペースに遅れることもなく、早く走ることもなく、余裕を持った感じで走っていた。
「黒瀬先輩」
「なんだ?」
「校内選考会、エントリーしますよね」
「なんだよ、お前も灰谷みたいに訊いてきたて」
「だって、気になるじゃないですか」
くすっと笑ってから、隼人は前を見て走りながら、答える。
「出るよ」
隼人の答えに、律は高揚感を覚えた。試合前のような、この浮ついたような気持ちが、律の足取りを軽くしてくれた。
「……最後のインハイ予選だしな」
隼人の呟いた言葉が律にはやけに重く聞こえた。三年生最後のインターハイ。誰もが憧れるあの大舞台に向けてヒビ練習を重ねている。そこに学年の優劣はなく、ただ早い奴が勝つ。実にシンプルな試合だが、勝った時に観上げる空ほど清々しいものはない。
「俺、先輩にも負けませんからっ」
「その意気や良し、だな」
苦笑した隼人が少しだけスピードを上げると、律も競争するかのようにすぐに並んで走ってみせた。
*
それから校内選考会までの一週間、部内は割とピリピリした雰囲気が漂っていた。無理もない。早い奴だけが、インハイ予選に進めることになるのだから。食事の調整や、体のケア、トレーニングの内容。それらすべてが選考会での結界に繋がる。
律もいつも通り、早朝練、部活の朝練、昼の自主練、放課後練、放課後練の後の自主練と、授業以外の時間全てを練習に当てているような感じで生活をした。おかげで、宿題を緑川に映させてもらう頻度が、灰谷と共に上がってしまったが、それも今日までだ。
各種目の三年生が記録係となり、それぞれの競技の選考会が始まった。ハードル競技にエントリーしているのは、いつものハードル組の五人全員だった。そのため、記録担当は部長の赤城がすることになった。
「位置について」
赤城のまっすぐな声に従い、地面をついて、スターティングブロックに足を付けた。既に他の競技の選考会は終わり、最後がハードル種目になったため、思ったよりもギャラリーが多い。試合だって初めてじゃないのに、律の心臓は早鐘を打っている。何度かの深呼吸をしてから、一度だけ瞼を閉じてから、再び地面を見た。
赤城の合図で、一斉にスタートした。体は軽いし、十分に温まっている。リズムよく足も運べている。
左には灰谷がいた。灰谷が一歩分ぐらい前にいるが、焦るほどではない。右をちらっと横目で見ると律と同じくらいの速度で隼人がいた。そのフォームの美しさに危うく目を奪われそうになるが、律はすぐに目線を前に戻した。
長いようで短い四百メートルハードルのゴールラインを割って、息を整えながら歩いた。赤城の周りには三年生が何人か集まって、記録を確認していた。ざわめきあっているが、赤城はそれを制するように記録をまとめて、バインダーごと陸上部の監督に持って行ってしまった。
「あー、ちっくしょー、最後ダレたっ」
ぐしゃぐしゃと髪を搔き乱しながら、灰谷が吠えた。
「最後さえダレなければっ」
悔しさを前面に出しながら、灰谷はつま先で何度も地面を蹴った。律はそんな灰谷を横目にペットボトルとタオルを手に取った。
「意外と落ち着いているな、白石は」
汗をタオルで拭いながら、隼人が律に声をかけてきた。真剣勝負の場で初めて横で走ったが、リハビリ明けの速さとは思えないような隼人の速度だったのを律は内心驚いていた。
この人が、怪我をしていなかったら、どれだけ速かったんだろうか。リハビリ明けのさっきの勝負でさえ、最後まで気を抜けなかった。
「黒瀬先輩、やっぱり速いですね」
「白石も速くなったな。……それにしても、やっぱり走るのは楽しいな……」
ふっと口元を緩めた隼人は監督と赤城に呼ばれて行ってしまった。なんとなく落ち着かない気持ちのまま、律は灰谷や他の一年生と混ざってストレッチをすることにした。
だが、ストレッチをしている時でさえも、上位三名に入れたのかがずっと頭の中で気になって仕方がなかった。隼人はもちろん、二先生の先輩たちも速かった。最後の最後まで競い合ってゴールをしたがゆえに、結果が自分でもはっきりとわからなかった。
「集合」
赤城の鋭い声が校庭に響いた。いつもどおり競技ごとに部員たちは並んだ。監督が厳しそうな顔をしながら、列の前に立つと、結果の発表をしていった。
歓喜、声にならない悔しさ、気遣うような声。一つの競技が発表されるごとに、いろいろな声が上がっていく。
「最後、四百メートルハードル」
来た。律はぎゅっとタオルを握りしめ、祈るような気持ちで目を瞑って俯いた。
「白石、灰谷の二名が予選に出てもらう」
自分の名前を呼ばれたと同時に、隼人の名前が呼ばれなかったことに律は気づいた。顔を上げると、ハードル競技列の一番前に立っている隼人の後頭部が見えた。
「順位だが、一位は白石と灰谷の同着。三位は僅差で黒瀬だった。……だが、黒瀬、わかってるよな」
「わかってます」
監督の淡々とした問いに対し、同じ調子で、前を見たまま隼人は答えた。
「以上だ。エントリーされた選手は今日のケアと明日からの練習に一層努めるように」
隼人の答えに満足したように頷いた監督は、それ以上何も言うことなく、その場を後にした。
「黒瀬先輩、どうして抗議しないんすかっ」
灰谷が隼人に突っかかるように言った。ざわついていた周りが静まり返った。誰もが気にしていた。他の競技は上位三名が漏れなく選ばれていたのに対し、何故か四百メートルハードルだけは上位二人だけだったことを。
食ってかかるように隼人の間に立った灰谷の目は怒りと悔しさが混ざっているように見えた。
「……監督の判断だ、灰谷」
「それでもっ、黒瀬先輩は速かったじゃないですかっ」
「結果は結果だ」
迷いがなくなったようにすっきりしている隼人は、納得していないことを隠そうともしない灰谷に落ち着いた声で言った。それが逆に彼を煽る形になった。
「オレ、監督に抗議してきますっ」
大きな舌打ちと共に、そう言うと灰谷は踵を返して走り出そうとした。
「やめろっ」
黒瀬先輩の大きな声に、律はびくっと肩を竦めた。初めてこんなに大きな声を出す隼人を見た。灰谷も足を止めて、隼人に背を向けたまま立ち止った。
「悪かったな、一緒に走れなくて」
灰谷の肩に手を置いてから、隼人は陸上部の面々に向かって軽く頭を下げた。
「騒ぎにして悪かった」
それだけ言うと、赤城と共に監督室に行ってしまった。
納得がいかない。どうして。リハビリ明けの選考会で好成績を叩きだしたんだから、選ばれて当然だ。四位との差がどれだけあるのかは知らないが、一回勝負で結果を出した選手を外す理由が思いつかない。
律は、慌てて隼人たちの後を追った。
監督室は部室の隣にある。監督に理由を聞いて、それでも納得できなかったら、もう一回監督に直訴しよう。そう決めて、ドアをノックしようとした時、中から話が聞こえてきた。
「監督、すみませんでした」
「本当に、良かったんだな、黒瀬」
監督ですら、さっきの判断は納得がいっていないことが聞いただけでもわかった。ならば、どうして監督は選ばなかったのか。律が扉の前で話の続きを聞くことにした。
「自己ベストを更新できなかったですし、何より走りをもっと伸ばしてやりたい奴がいるので」
「だが、お前は三年だろ」
「関係ありません。強い奴が選ばれてこそ、勝つんです。それに事前に監督にお願いしていたじゃないですか、俺が一番を取れなければエントリーから外してくれと」
隼人の低くて、まっすぐな声に律は胸が痛んだ。
聞いていない、そんな話。
律が慌ててドアノブを掴もうとしたところで、話が更に一つ進んだ。
「俺はこの後マネージャーに完全転向します」
覚悟を決めたようなはっきりとした言い方に律の心は打ちのめされた。
どういう意味だ。
ドアノブを掴んだところで、律は固まった。
なんで、あれだけ走れるのにマネージャーに転向する必要がある。もっと走れるじゃないか。一緒に走ってほしい。
ぐちゃぐちゃになった気持ちのせいで、ドアノブから手が滑り落ちた。
解放感が溢れる教室の中、人一倍大きな声を出して灰谷は体を伸ばしていた。恵まれた体躯のせいで、灰谷が体を伸ばすと机と机の間の通路が塞がれる。
「邪魔」
「緑川先生のおかげですよ」
「赤点回避できそうなの?」
「多分っ」
「そんな満面の笑みで言われても」
複雑そうな顔で緑川は灰谷を見る。確かに勉強を教えた側からとすれば、多分と付けられるのは不満なのかもしれない。
「白石は、大丈夫そう?」
ぺったりと机の上に頭を乗せていた律は、顔を上げる。
「うわ、目の下のクマ、やばくない?」
「徹夜とかしたのかよ?」
緑川と灰谷に心配されるような、徹夜で勉強をしたわけじゃない。
黒瀬先輩が女の子と歩いているのを見た日から、どうにも睡眠の質が悪くなっているような気がしてならない。夜中にふと目が覚めてしまうこともあるので、仕方がなく布団の中で勉強をするしかなかっただけだ。
「そんなんで、今日からの部活、大丈夫か?」
「多分、大丈夫」
「だったら、行くぞ。部活前の準備は一年の仕事だろ」
テスト期間中のしおれた植物みたいになっていたはずの灰谷は、すっかり元気を取り戻していた。律ものろのろと立ち上がって、緑川に礼を言ってから灰谷と共に部室に向かった。
どの教室もテストからの解放感があり、にぎやかだった。部活に行く人はさっさと部室に向かい、部活にいかない人でも何人か連れ立って談笑しながら廊下を歩いていた。
部室に入ると、まだ誰も来ていなかった。同学年の陸上部員は律と灰谷の他に何人かいるが、まだ教室にいるのかもしれない。
部室でジャージに着替えて、灰谷と共にハードルをいくつか持って校庭に向かった。梅雨入り前だけど、連日の猛暑日に、既に夏ではないかと錯覚させられる。
律と灰谷が部室と校庭を何往復かしてハードルを並べ終えるころには、先輩たちがぞろぞろとやってきた。挨拶を交わしながら、律はハードル近くでストレッチを始めた。いつもよりも体が重いのは、なぜだろうか。多少の睡眠の質が落ちたところで、ここまで重く感じることは今までなかった。首を傾げながら、体を伸ばしていると、灰谷と並んで隼人もやってきた。部活なのでジャージ姿姿は珍しくはないが、その手にはバインダーがない。
「白石っ、黒瀬先輩も今日から練習合流だって」
「え?」
隼人を見ると困ったように眉を下げて笑っていた。
「やっと医者の許可も下りたし、ゆっくりとやり始めることにしたんだ」
隼人は昨年の夏のインターハイ後の練習中にシンスプリントになっていた。疲労骨折の直前までのひどい状態だったらしく、そこからはリハビリをしながら、トレーニングを積んでいると聞いていた。
陸上シーズン前である、十一月から三月までは鍛錬機と呼ばれており、その時期にフォームの確認や体作りをしなければ、大会で勝つのが難しくなる。その期間ずっとリハビリだった隼人は、律たちと体幹トレーニングや筋トレ以外でのトレーニングに混ざることは殆どなかった。
「やっと黒瀬先輩と走れるってことですよねっ」
灰谷が嬉しそうに隼人の隣でストレッチを始めた。灰谷も律と同じく、隼人が走ったあのインターハイ決勝を見ていたらしい。灰谷は全国各地の強豪校からの誘いもあったらしいが、隼人がいるこの高校へスポーツ推薦で入学したと、一年生同士の会話の中で聞いたことがあった。
律もスポーツ推薦入学組だが、灰谷とはレベルが違うのは常々感じていた。陸上競技選手としての恵まれた体躯と運動神経は、律には手に入れられないものだ。彼がひとたびレーンに入ると、目が奪われる。選手としての圧倒的強さに気持ちが負けることもある。
だが、律は、隼人が立ったあのインターハイ決勝レーンに出て、優勝したい気持ちは灰谷にも負けるつもりがない。地道にトレーニングを積みながら一歩一歩確実に強くなるしかないのは律もわかっていた。
「次、プランク」
隼人の号令に律ははっと意識をヨガマットに戻した。いつの間にかハードル競技者が揃い、体幹トレーニングを始める時間になっていた。他のトラック競技よりは、競技者数が少ないのは、学校の中でも変わらない。五人という少人数で円になってプランクを始めた。
「灰谷、グラグラしすぎ」
「はいっ」
隼人が細やかに部員一人一人に目を配りながら、声をかけてくれる。律も腕がプルプルと振るえるが、歯を食いしばって耐えた。高校から本格的に始まった体幹トレーニングには未だに慣れない。中学では走ることと筋トレがメインだっただけに、自分の至らなさを知るばかりだ。
「それじゃ、ランニング行くぞ」
長いストレッチと、筋トレ、体幹トレーニングの時間を経て、ようやく走る時間になった。テスト期間中も筋トレと体幹トレーニングを続けていたが、勉強に時間を割いていたせいで、ランニングが始まっても体が重い。
「白石、大丈夫か?」
隣を走っていた灰谷が声をかけてきた。
「久しぶりの部活だからな」
「お前がそんなことを言うなんて珍しいな」
「そう言うお前だって、体が重そうだな」
「すぐに戻すさ」
確かに、体幹トレーニングの時よりも顔が明るい。灰谷は走るのが何よりも好きだから、ランニングや実践形式になると、どんなに地味なトレーニングで疲れていてもすぐに元気になる。その証拠に、灰谷の足取りが軽く見えた。
ランニングを終えると、赤城から集合の号令がかかった。競技種目ごとにまとまり、赤城を中心として集まる。赤城の手には一枚のプリントがあった。
「二年生以上はわかっていると思うが、来週は校内選考会がある」
赤城の言葉に、緩んでいた空気が一気に引き締まった。入部の時に説明をされていたが、こうも雰囲気が変わるとは。律は息を整えながら、ぐっとこぶしを握り締めた。
この校内選考会は種目ごとにタイムや記録が取られ、上位三名に入れば、これからの大会にエントリーされる。インターハイ予選に出るためにも、この選考会で負けるわけにはいかない。
選考会の詳細説明が終わると、各々種目ごとに分かれて練習が再開された。
「選考会にエントリーする人は今日中に俺に声をかけくれ」
「灰谷、エントリーしますっ」
隼人の説明が終わるや否や、灰谷が勢い良く手を挙げた。
「……わかった。今他にエントリーを希望する人は?」
負けられない。
律もすぐに手を挙げた。
「今年の一年は、やる気があるな」
「黒瀬先輩は出るんですかっ」
灰谷の問いに、隼人は曖昧に微笑んでから、実践練習メニューの説明を始めた。テスト期間明けのおかげか、練習メニューは思ったよりも軽かった。最後のストレッチを終えても、眠気以外で体が重く感じることは無かった。
練習終了の合図が赤城から出されると、一年生たちは各々使った道具を片付け始めた。二年生や三年生はストレッチを終えた人から着替えて帰って行く。
ぐるぐると肩を回した律は、道具を片付け終えるなり、ランニングに向かった。学校の敷地外を回るいつものコースだ。部室前を通り過ぎようとしたところ、隼人に呼び止められた。
「自主練か?」
「なんか、もう少し体を動かしたくて」
「じゃあ、俺も行く」
「え、でも、悪いですよ」
「別に俺も走り足りなかった気分だから」
律と共に隼人もランニングに向かう。腕まくりしたジャージから伸びる腕は、思っていたよりも筋肉質だった。いつもはシャツやジャージで隠れているため、もう少しひょろっとしている印象を持っていたがために、意外だった。
「……黒瀬先輩は、筋トレが好きなんですか?」
「いや? どうしてそう思った?」
「ハードル競技にしては珍しく、筋肉質な腕だなって」
「ああ、なるほど」
気まずそうにまくっていたジャージを器用に元に戻しながら、隼人は気まずい顔をした。
「……リハビリの時に筋力落としたくなくて、筋トレ中心だったし」
「羨ましいです。俺、あまり筋肉付くタイプじゃないみたいで」
校門を抜け、左に曲がる。コンクリートが凸凹しているためか、少し走りにくい。だが、これも仕方がない。常に校庭のトラックが空いていることは無いので、外周くらいでしか長距離を走ることができない。その証拠に、長距離部門はいつも外周だ。
「ペース、大丈夫ですか?」
いつも一人で走っているから、誰かと並走するペースが上手く掴めない。乱れ始めた息を少しだけ深く吐いて、律はペースを取り戻すようにリズム良く足を運ぶ。
隣を走っている隼人を横目で見ると、律のペースに遅れることもなく、早く走ることもなく、余裕を持った感じで走っていた。
「黒瀬先輩」
「なんだ?」
「校内選考会、エントリーしますよね」
「なんだよ、お前も灰谷みたいに訊いてきたて」
「だって、気になるじゃないですか」
くすっと笑ってから、隼人は前を見て走りながら、答える。
「出るよ」
隼人の答えに、律は高揚感を覚えた。試合前のような、この浮ついたような気持ちが、律の足取りを軽くしてくれた。
「……最後のインハイ予選だしな」
隼人の呟いた言葉が律にはやけに重く聞こえた。三年生最後のインターハイ。誰もが憧れるあの大舞台に向けてヒビ練習を重ねている。そこに学年の優劣はなく、ただ早い奴が勝つ。実にシンプルな試合だが、勝った時に観上げる空ほど清々しいものはない。
「俺、先輩にも負けませんからっ」
「その意気や良し、だな」
苦笑した隼人が少しだけスピードを上げると、律も競争するかのようにすぐに並んで走ってみせた。
*
それから校内選考会までの一週間、部内は割とピリピリした雰囲気が漂っていた。無理もない。早い奴だけが、インハイ予選に進めることになるのだから。食事の調整や、体のケア、トレーニングの内容。それらすべてが選考会での結界に繋がる。
律もいつも通り、早朝練、部活の朝練、昼の自主練、放課後練、放課後練の後の自主練と、授業以外の時間全てを練習に当てているような感じで生活をした。おかげで、宿題を緑川に映させてもらう頻度が、灰谷と共に上がってしまったが、それも今日までだ。
各種目の三年生が記録係となり、それぞれの競技の選考会が始まった。ハードル競技にエントリーしているのは、いつものハードル組の五人全員だった。そのため、記録担当は部長の赤城がすることになった。
「位置について」
赤城のまっすぐな声に従い、地面をついて、スターティングブロックに足を付けた。既に他の競技の選考会は終わり、最後がハードル種目になったため、思ったよりもギャラリーが多い。試合だって初めてじゃないのに、律の心臓は早鐘を打っている。何度かの深呼吸をしてから、一度だけ瞼を閉じてから、再び地面を見た。
赤城の合図で、一斉にスタートした。体は軽いし、十分に温まっている。リズムよく足も運べている。
左には灰谷がいた。灰谷が一歩分ぐらい前にいるが、焦るほどではない。右をちらっと横目で見ると律と同じくらいの速度で隼人がいた。そのフォームの美しさに危うく目を奪われそうになるが、律はすぐに目線を前に戻した。
長いようで短い四百メートルハードルのゴールラインを割って、息を整えながら歩いた。赤城の周りには三年生が何人か集まって、記録を確認していた。ざわめきあっているが、赤城はそれを制するように記録をまとめて、バインダーごと陸上部の監督に持って行ってしまった。
「あー、ちっくしょー、最後ダレたっ」
ぐしゃぐしゃと髪を搔き乱しながら、灰谷が吠えた。
「最後さえダレなければっ」
悔しさを前面に出しながら、灰谷はつま先で何度も地面を蹴った。律はそんな灰谷を横目にペットボトルとタオルを手に取った。
「意外と落ち着いているな、白石は」
汗をタオルで拭いながら、隼人が律に声をかけてきた。真剣勝負の場で初めて横で走ったが、リハビリ明けの速さとは思えないような隼人の速度だったのを律は内心驚いていた。
この人が、怪我をしていなかったら、どれだけ速かったんだろうか。リハビリ明けのさっきの勝負でさえ、最後まで気を抜けなかった。
「黒瀬先輩、やっぱり速いですね」
「白石も速くなったな。……それにしても、やっぱり走るのは楽しいな……」
ふっと口元を緩めた隼人は監督と赤城に呼ばれて行ってしまった。なんとなく落ち着かない気持ちのまま、律は灰谷や他の一年生と混ざってストレッチをすることにした。
だが、ストレッチをしている時でさえも、上位三名に入れたのかがずっと頭の中で気になって仕方がなかった。隼人はもちろん、二先生の先輩たちも速かった。最後の最後まで競い合ってゴールをしたがゆえに、結果が自分でもはっきりとわからなかった。
「集合」
赤城の鋭い声が校庭に響いた。いつもどおり競技ごとに部員たちは並んだ。監督が厳しそうな顔をしながら、列の前に立つと、結果の発表をしていった。
歓喜、声にならない悔しさ、気遣うような声。一つの競技が発表されるごとに、いろいろな声が上がっていく。
「最後、四百メートルハードル」
来た。律はぎゅっとタオルを握りしめ、祈るような気持ちで目を瞑って俯いた。
「白石、灰谷の二名が予選に出てもらう」
自分の名前を呼ばれたと同時に、隼人の名前が呼ばれなかったことに律は気づいた。顔を上げると、ハードル競技列の一番前に立っている隼人の後頭部が見えた。
「順位だが、一位は白石と灰谷の同着。三位は僅差で黒瀬だった。……だが、黒瀬、わかってるよな」
「わかってます」
監督の淡々とした問いに対し、同じ調子で、前を見たまま隼人は答えた。
「以上だ。エントリーされた選手は今日のケアと明日からの練習に一層努めるように」
隼人の答えに満足したように頷いた監督は、それ以上何も言うことなく、その場を後にした。
「黒瀬先輩、どうして抗議しないんすかっ」
灰谷が隼人に突っかかるように言った。ざわついていた周りが静まり返った。誰もが気にしていた。他の競技は上位三名が漏れなく選ばれていたのに対し、何故か四百メートルハードルだけは上位二人だけだったことを。
食ってかかるように隼人の間に立った灰谷の目は怒りと悔しさが混ざっているように見えた。
「……監督の判断だ、灰谷」
「それでもっ、黒瀬先輩は速かったじゃないですかっ」
「結果は結果だ」
迷いがなくなったようにすっきりしている隼人は、納得していないことを隠そうともしない灰谷に落ち着いた声で言った。それが逆に彼を煽る形になった。
「オレ、監督に抗議してきますっ」
大きな舌打ちと共に、そう言うと灰谷は踵を返して走り出そうとした。
「やめろっ」
黒瀬先輩の大きな声に、律はびくっと肩を竦めた。初めてこんなに大きな声を出す隼人を見た。灰谷も足を止めて、隼人に背を向けたまま立ち止った。
「悪かったな、一緒に走れなくて」
灰谷の肩に手を置いてから、隼人は陸上部の面々に向かって軽く頭を下げた。
「騒ぎにして悪かった」
それだけ言うと、赤城と共に監督室に行ってしまった。
納得がいかない。どうして。リハビリ明けの選考会で好成績を叩きだしたんだから、選ばれて当然だ。四位との差がどれだけあるのかは知らないが、一回勝負で結果を出した選手を外す理由が思いつかない。
律は、慌てて隼人たちの後を追った。
監督室は部室の隣にある。監督に理由を聞いて、それでも納得できなかったら、もう一回監督に直訴しよう。そう決めて、ドアをノックしようとした時、中から話が聞こえてきた。
「監督、すみませんでした」
「本当に、良かったんだな、黒瀬」
監督ですら、さっきの判断は納得がいっていないことが聞いただけでもわかった。ならば、どうして監督は選ばなかったのか。律が扉の前で話の続きを聞くことにした。
「自己ベストを更新できなかったですし、何より走りをもっと伸ばしてやりたい奴がいるので」
「だが、お前は三年だろ」
「関係ありません。強い奴が選ばれてこそ、勝つんです。それに事前に監督にお願いしていたじゃないですか、俺が一番を取れなければエントリーから外してくれと」
隼人の低くて、まっすぐな声に律は胸が痛んだ。
聞いていない、そんな話。
律が慌ててドアノブを掴もうとしたところで、話が更に一つ進んだ。
「俺はこの後マネージャーに完全転向します」
覚悟を決めたようなはっきりとした言い方に律の心は打ちのめされた。
どういう意味だ。
ドアノブを掴んだところで、律は固まった。
なんで、あれだけ走れるのにマネージャーに転向する必要がある。もっと走れるじゃないか。一緒に走ってほしい。
ぐちゃぐちゃになった気持ちのせいで、ドアノブから手が滑り落ちた。



