「白石、お前の机の上はいつになったら、勉強モードになるんだよ」

 風呂を終えた隼人が、タオルで頭を乱暴に拭きながら部屋に入ってきた。髪を乾かしきっていないのか、まだ髪が濡れていた。いつもきちっとしているのに、ゆるっとしたスウェット姿も相まって、強面もどことなく緩んで見える。そのギャップに、クスッと笑ってから、律はベッドの上でのストレッチを止めた。

 ちらりと隼人が律の机の上を見て、軽くため息を吐く。

「相変わらず机の上にモノが散乱しすぎだろ」

 からかうような言い方をされ、律は唇を尖らせた。

「……黒瀬先輩みたいには、できないんですよ」
「俺みたいに?」
「だって、先輩は勉強もできるし」
「勉強もトレーニングと一緒で、日々の積み重ねだろ。予習復習してれば、テストで慌てることもないし」

 淡々と言いながら、机の上にこの後の自習時間に使うであろうノートや問題集を隼人は準備し始めている。放課後練の時と同じような真面目な目で、問題集を選んでいる隼人に、律は思わず目を奪われた。

「……何じっと見てんだよ。早く自習の準備をしろよ」

 苦笑しながら隼人に見られ、はっと我に返ると律は慌てて机の上の陸上雑誌を適当に引き出しの中に突っ込んだ。
 なんで隼人をじっと見てしまったんだろうか。律は俯いて、散乱した机の上をじっと見ながら、首を傾げた。

「おーい、白石、早く準備しろよ」
「は、はいっ」
「わかんねーところあったら、聞けよ」

 いつもよりも柔らかく言われた言葉につられて、律が振り返ると、既に準備を終えた隼人は椅子に座って、問題集を広げていた。
 部活の時の、陸上に対して真摯な後ろ姿でもない。
 学校ですれ違ったときの、友人との気兼ねない後ろ姿でもない。
 少し気怠そうに頬杖をついて、問題を解いている姿は、いつ見ても新鮮に感じられた。

「ん?」

 律の視線が気になったのか、隼人が振り返った。

「何かわかんねーとこでもあったか?」
「いえっ、大丈夫です」
「そうか? 集中しろよ」

 苦笑してから、隼人は問題集に向き直った。律も慌てて机に向き直り、宿題をやり始めた。今日出された宿題は中間テストにも繋がっていると思うと、気合いを入れざるを得なかった。
 二時間の自習時間でなんとか宿題を終えた、律は机の上に突っ伏した。どうにも勉強は苦手だ。

「……勉強時間も走れたら良いのに……」

 独り言のようにつぶやきながら、律はのろのろと体を起こして、机の上を片付け始める。教科書とノート以外の勉強道具がないので、片付けると机の上が広く感じた。肩越しに隼人の机の上を見ると、問題集や過去問が並んでいた。決められた自習時間を終えても、まだ問題集を解いているその後ろ姿と机を見れば、受験生らしく見える。

 良いな、勉強が苦じゃないのって。自分とは違いすぎる。

 肩を落としながら、律は陸上雑誌を引き出しから広げた。最新のトレーニング方法や有名選手のインタビューを読んでいると、隼人から声をかけられた。椅子をくるっと回して振り返ると、隼人が勉強机の上を片付け終えたところだった。律を見ている顔は心配よりも警告を与える審判のように厳しい。

「白石、明日は部活が休みだからと言って、自主練しすぎるなよ」
「明日、休みでしたっけ。休日なのに珍しいですね」
「中間テストも近いからな」
「……そうなんですね」
「おい、こら、その顔はなんだ?」
「え?」

 どんな顔をしていたのかと、律は両頬を自分でつまんだ。

「勉強よりもトレーニングばかり考えてんなよ。赤点取るぞ、それじゃ」

 確かに、このままでは赤点回避をするのに苦労するかもしれないと思うと、律の中で危機感が増した。だが、一方で、同じ部屋の隼人の勉強する姿を見て、勉強を少しでも頑張ってみようかと思えてきた。

「白石、明日さ」

 隼人が声をかけてきたところで、スマホが小さい通知音を鳴らした。律が隼人に断りを入れて、画面を確認すると、いつの間にか作られた灰谷と緑川のグループラインからのメッセージが届いていた。

『明日、学校の図書館に集合されたし』

 果たし状? 律が首を傾げていると、隼人がスマホを覗きに来た。

「どうした?」
「……クラスの奴が勉強会開いてくれそうで」

 これは、緑川が灰谷に巻き込まれたに違いない。二人とも律と同じく寮住まいだから、集まりやすいかもしれない。

「そうか、良かったな」

 安堵の言葉とは少し違った雰囲気の隼人の言葉に、律はスマホから顔を上げた。少しだけ伏し目がちな様子だったが、すぐに隼人は背を向けて、勉強を再開した。

「黒瀬先輩、何か」
「……いや? 俺、明日外出するから、勉強さぼるなよって言いたかっただけ」
「珍しいですね、先輩が外出とか」
「んー、ちょっとな」

 それだけ言うと、隼人は勉強に没頭してしまった。声をかけるのも憚られ、律は再び陸上雑誌を手に取った。



「どうして、わかんないかな……」

 ため息交じりに緑川に言われた律と灰谷は図書館にあるミーティングスペースを一つ化貸切っていた。ホワイトボード前に立ち、律と灰谷のテスト勉強講師を務めている緑川はうなだれていた。

「おかしい、僕の教え方が下手? そんなことはない。サルでもわかるように説明しているはずなのに、どうして」

 勉強会を始めて三十分も経たないうちに、緑川の口から呪詛が吐かれ始めた。

「高一の一学期の中間テストなんて、めちゃくちゃ範囲狭いじゃん。なんで、そこすらもわからないの。いや、わかろうとしないの」
「しょーがねーじゃん、範囲広いし」

 やや諦めモードの灰谷はシャーペンを放り出して、教科書もノートも閉じてしまっていた。

「だったら、自分で勉強したら良いじゃん。先輩と相部屋なんでしょ?」
「……オレ、赤城先輩と相部屋なんだよ……」

 あっけらかんとした態度から一変、灰谷は居住まいを正した。その顔色は一気に悪くなり、何かにおびえているようにも見える。

「赤城先輩、厳しいのか?」
「……いいよな、お前は黒瀬先輩で」

 羨ましそうに灰谷が律を見てきた。何か羨ましがられるようなことでもあっただろうかと、考えながら、問題集を開く。

「赤城先輩、勉強を見てくれるのはすごく助かるんだ。すごくな。だけど、一門でも間違えると、全問やり直し。できるまで、にっこりリトライの嵐。夢にまで、先輩が出てきてリトライの連続になるし。おかげで寝不足だ」

 ぶつぶつと独り言のように言っているが、きっちり聞こえてくるあたり、大変さをわかってほしいのかもしれない。

 確かに、赤城先輩はいつも穏やかな人だ。怒っているところはないが、二年生の先輩たち曰く、怒らせたら部活で一番怖い人らしい。今のところ、怒られるようなこともないが、あの穏やかな表情で、淡々とリトライを受けることを想像すると、確かに寝不足になってもおかしくないかもしれない。

「だから、僕を頼ってきたってこと? 情けなくない?」
「良いだろ別に。赤城先輩は今日外出みたいだけど、帰ってきたときに進捗を聞かれそうで」

 寮での先輩を思い出したのか、灰谷は苦虫を嚙み潰したような顔で、問題集を広げた。眉間に皺を寄せながら、解き始めたところを見ると、赤城先輩の進捗確認とやらを気にしているようだった。

「白石は?」
「え?」

 緑川に問われて、律はぱっと顔を上げた。灰谷が勉強を再開したことに、少し感心したように見ながら、緑川は律に目線を移した。

「先輩に勉強を教わったりはしないの?」
「黒瀬先輩に?」
「そうだよ。あの人も学年上位の成績でしょ?」
「……そうだったんだ」
「知らなかったの?」

 意外そうな顔で緑川はホワイトボードに書いた文字を消しながら言った。丁寧な字で書かれた数式は消され、代わりに別の数式が並べられた。

「白石、これ解いてみて」

 緑川に促され、律はホワイトボードの前に立ち、ペンを取った。
 ふと窓の外の光が気になって、目を向けると、隼人が赤城と共に並んで歩いていた。私服姿で外を歩いているのは、珍しいわけじゃない。寮の中では、私服かジャージ姿で過ごしているので、見慣れた姿だ。

 だけど、その隣に、見知らぬ女子と楽しそうに話している姿は、見たことが無かった。

 いつもは強面で、無愛想なところもあるのに、窓の外にいる隼人は、口角を上げて微笑んでいた。何故か胸がぎゅっと縮んだ。

 なんで。口からこぼれそうな言葉をぐっと呑み込んで、律はホワイトボードに急いで目を戻した。

「どうしたの、白石?」
「い、いや、先輩が女子と歩いているのを見て」
「え? まじで?」

 灰谷が楽しそうに窓に駆け寄って、外を見た。

「赤城先輩もいるじゃん。二人して隅に置けないよな」
「男子校だと女子と出会うこと少ないのにね」
「ダブルデートだよな、あれ」
「どうだろうね」

 感心したように灰谷も緑川も窓から先輩たちの姿を見ている。そこに律だけが混ざれなかった。なんだか、胸のあたりがもやっとするのは気のせいだろうか。

「……緑川、解いたけど」

 先輩たちの姿を目に映したくなくて、律はホワイトボードの問題を解いた。緑川に教わったおかげか、随分すんなりと解けた気がする。

「白石は気にならないの?」
「……今はそれより、テスト勉強だろ」

 緑川に解答をチェックしてもらっている間、律は席に戻ってノートに書き写した問題を解き始めようとシャーペンを持った。だが、さっきの光景が頭から離れなくて、頬杖を突いたまま問題を見てるだけになっていた。

「おわっ」

 ガタガタと机を乱した音と灰谷の驚いた声に、律が窓側を見ると灰谷が床に座り込んで頭を抱えて震えていた。

「どうした?」
「ま、窓の外っ」
「外?」

 窓の外を見ると、赤城がこちらを見て、大変楽しそうに微笑んでいた。穏やかな表情のはずなのに、有無を言わせぬ圧力を感じさせてきた。思わず姿勢を正して、頭を何度も下げた。恐る恐る顔を上げると、呆れた顔をして赤城を宥めている隼人もいた。

 ふと窓越しに目が合った。片手を挙げて、隼人が申し訳なさそうな顔をしていた。律が小さく頭を下げると、二人は待ってもらっていた女子と共にどこかに歩いて行った。

「あ、赤城先輩は行ったか?」
「ん? あ、ああ行ったよ。てか、本当にあの人、笑顔圧ヤバいな」
「だろー……あれ、絶対に後で何か言われる……」

 部活の上下関係以上に厳しそうな部屋での上下関係を想像しながら、律はくすっと思わず笑った。

「二人とも、勉強再開しよう。時間もないし」

 緑川の声掛けで、律と灰谷は席に戻って、緑川指導の下勉強を再開した。
 寮の門限ギリギリまで勉強会をした後は、いつもと違う疲労感を感じながら、律は重い足取りで部屋に向かっていた。

「風呂と、ごはんと、自習と」

 一日で頭に勉強を詰め込み過ぎたのが原因なのか、いつもよりも頭の回転が悪い気がする。背中を丸めたまま、部屋に戻るとちょうど部屋から出てこようとした隼人と鉢合わせた。慌てて背筋を伸ばして、立ち止った。

「今まで、勉強会か?」

 労うような隼人の声に、律はこくんと頷いた。

「勉強を教えてくれる奴が結構スパルタで」
「大変だったな。そういえば、赤城も心配していたな」
「赤城先輩が?」
「あいつ、勉強に厳しいからな」

 肩をすくめて、律が部屋に入れるように道を開けるように隼人が避けた。彼の手にはトートバッグがあった。

「今から自習室ですか?」

 寮には自習室が併設されている。主に三年生が受験勉強に集中できるように配慮されているところだが、隼人は律が部屋にいても、いなくても大体自室で勉強していた。

「そ。ちょっと集中したくて」
「そう言えば」

 今日は、女の子と歩いてましたね。彼女ですか?

 そう訊きたいのに言葉が喉の奥に引っ掛かって出てこない。口元が軽くひきつったような気がした。

「白石?」

 首を傾げた隼人が律を不思議そうに見ていた。

「あー、いや、黒瀬先輩の勉強の邪魔にならないように、俺、食堂とかに行きますよ? ほら、灰谷とかも食堂にいそうですし」
「良いんだよ。お前、勉強会で疲れているだろ?」

 隼人はポンと律の肩を叩くと、自習室に向かって行ってしまった。隣の部屋の赤城もちょうど部屋から出てくるところで、二人並んで歩いて行く。
 約束をしていたからだろうか、タイミングが良かっただけなのか、わからない。

「……俺も、行こうかな」

 幸いにも勉強道具が入ったままの鞄を持っている。今行けば、隼人たちに追いつくに違いない。一歩踏み出そうとした時、後ろから緑川が声をかけてきた。

「どうしたの、部屋の前で」
「あー……いや、自習室に行こうかなって」
「わかんないところあるなら、教えるけど」

 確かに一人でやるよりは、緑川に教わりながら勉強をした方が夕食までには効率が良いのかもしれない。だが、自習室は私語厳禁。隼人が向かった自習室に行くことはできず、食堂でやることになる。

「それとも、自習室の方が良かった?」
「え?」
「そんな顔してたよ」

 緑川のからかい口調に、律は左手で頬をつねってみた。益々おかしなものでも見るように、緑川の目が細くなった。

「ほら、さっさと行こ。灰谷もどうせ食堂で沈没しているだろうし」
「沈没って」
「赤城先輩が部屋にいるだろうから、戻れないって嘆いてるんだよ」

 勉強会から帰ってきたら、進捗確認されると嘆いていたが故に、灰谷は最後の抵抗を試みているのかもしれない。

「バカだよな、どうせ食事が終われば部屋に戻るのに」
「言ってやるなよ、緑川」

 緑川と揃って食堂に向かう前に、律は肩越しに隼人が向かった自習室の方をちらりと見た。
 どうして、女子と歩いていたんだろうか。
 彼女? 
 それともまさかの合コンの帰り道? 
 どちらにせよ、律が隼人のプライベートに踏み込むには勇気がいるような話だった。

「……訊いてみれば良かったな」

 ぽつりと独り言が漏れた。自習室に行く前に軽く訊ける話だったのに、どうして躊躇してしまったのかわからない。口元に手を当てながら、律は視線を前に戻す。

「白石?」
「なんでもない」

 緑川との談笑に戻りながらも、律の頭の片隅には隼人に訊けなかった疑問がべったりと張り付いたままだった。