まっすぐ白く引かれた線と線の間に立ち、スタートラインに並ぶ選手たちは、今か今かとスタートの合図を待っていた。
レーンを見下ろせる最前列の観客席から、俺、白石律は固唾をのんでこの後の結果を見届けることにした。
ふと、真ん中のレーンに立った選手の背中から律の目が離れなくなった。それと同時に決めた。
絶対、この人がいる高校に行くと。
「おはようございます、黒瀬先輩っ」
朝練前の日課のランニングを終えて、律がストレッチをしていると、同室の先輩である黒瀬隼人がやってきた。
あくびを噛み殺しながら、いつもつかっているバインダーを隼人は開いた。
「お前、朝早すぎ」
「黒瀬先輩、眠そうですね」
「……そうでもない。ほら、アレだ、布団がいけないんだ」
「確かに布団のぬくもりって良いですよね」
この時期の布団はなかなか手離してはくれない。夏に近づきつつあるのに、朝はまだ肌寒い。律もランニングに行くのにまだ躊躇するときがあるが、それでも日課だから頑張って布団から這い出ている。
「それより、朝はどのくらい走り込んだの」
じろりと目を細めて隼人が律を見た。
「黒瀬先輩、顔怖いです」
「……知ってる。で、どのくらい走ったんだよ?」
「……三十分くらいですかね」
「本当は?」
「い、一時間です」
律の答えを聞いて、隼人は大きなため息を吐きながらバインダーにメモをしていた。
「もうすぐ校内選考会だ。そこに向けて調子を整えていくのも大事なんだから」
「はーい」
「……本当にわかってんのか?」
黒瀬先輩、その目、怖すぎますって。
苦笑しながら、律は頷いて、ゆっくりとストレッチを始める。ストレッチで手を抜けば、怪我に繋がる可能性があるので、丁寧に時間をかけた。
「あー! お前、また抜け駆けしたなっ」
朝から大層うるさい声を出しているのは、律と同期でクラスメイトの灰谷翔吾だった。
「お前、朝練前のランニングに行くならオレも誘えよっ」
「なんで翔吾も誘わないといけないんだよ」
「そりゃ、オレはお前のライバルだろうが」
「なに、そのスポーツマンガみたいなセリフ」
ははっと律が笑うと、灰谷の顔がみるみるうちに不機嫌になった。こいつはこういう奴だ。何かと律と競いたがる癖がある。入部の時の自己紹介をした時にでも、目を付けられたのだろうか。同じハードル競技をしている同学年が少ないから、対抗心が余計に煽られているのかもしれない。
「そろそろ、始めるぞー」
部長の赤城悠人の号令に従い、競技ごとに分かれて、ストレッチを始めた。
「今日は体幹と柔軟をメインでやるぞ」
選手権マネージャーの黒瀬隼人がバインダーでメニューを確認しながら、ハードルチームに声をかける。律はヨガマットを倉庫から出してきて、ストレッチから始めた。
「……白石は柔らかいな」
隼人に背中をゆっくりと押されていると、不意に言われた。
「そうですか?」
「周りを見て見ろ」
隼人の言葉に促されて、律が周りを見ると、確かに律よりも体が柔らかい人はいなかった。百八十度近く足を広げて、そのままぺたんと地面に律は額を付けた。
「もしかして、前世は軟体動物?」
からかうような声が頭上から降ってきた。隼人がずっしりと律の体を乗せてきて、柔軟を促してくる。
「……黒瀬先輩、それほめてます?」
何もそこまで、全体重を預けてこなくても良いはずだ。律はゆっくりと息を吐きながら、地面に体を近づけた。
「ほめてるって。それだけ柔らかいとハードルに向いてるしな」
「本当ですか」
律がぱっと顔を上げると、隼人が苦笑していた。
「単純な奴。お前は他にも課題があるだろ。そっちにも集中しろよ」
一通りのストレッチを終えて、体幹トレーニングと筋トレが始まる。
四百メートルハードル。
走って、飛んで、着地して。
たった三つの動作のはずなのに、優勝するには地道なトレーニングを積み重ねなければならない。それ自体は苦じゃない。一つ一つ課題をクリアするごとに、タイムは上がっていく。それがたまらなく楽しい。
汗をかくような激しいトレーニングではないのに、三十分も真剣に筋トレや体幹トレーニングをしていれば、否が応でも汗がこめかみを伝って流れ始めた。
「最後にハードルドリルを五本終えたら、朝練は終わり。放課後練始まる前には、各々ストレッチと体幹トレーニングメニューをこなしておくように」
眉根を寄せてメニューに何かを書いていた隼人が、じろりと律を見た。
「特に、朝練前とか昼休みに自主トレしている奴は入念に、な」
有無を言わさない圧を感じさせる言葉と態度に、律はびくっと肩をすくめた。どうやら昼休みも空き教室で体幹トレーニングをしているのがバレているようだ。
朝練最後のメニューも終えて、律はスポーツタオルで汗を拭った。徐々に夏に近づいてくると、この湿気を孕んだ空気も鬱陶しくなる。タオルを首にかけながら、ペットボトルをパキッと開けた。
軽く息を吐いて、喉を鳴らして律は飲んだ。少しぬるくなっているが、それでもまだ冷えていて、飲むと体の熱が少し引くように感じた。
「おーい、白石、忘れ物」
陸上部専用トラックの脇に置かれていたノートを隼人が律に手渡した。表紙には、練習ノートと少し雑に書かれている。名前は書いていないが、自分の文字くらいはすぐに分かった。
「すみません、黒瀬先輩、ありがとうございます」
受け取って、中身を確認する。間違いない、ランニングとダッシュをしているのがしっかり書かれている。
「……今日は、ランニングだけじゃなかったんだ?」
「中、見たんですか」
気まずげに目を反らしながら、律はノートで顔を隠す。
「あんまり根詰めるな」
「でも、校内選考会近いですし」
「だからと言って、無理を重ねる時期じゃない。それに、校内選考会は三学年合同だ。新人戦とは違うんだから」
「……だからと言って、手を抜くことはしたくないんです。インハイ優勝が目標だから」
「尚更、無理をするな。お前、フォームがきれいなんだし」
軽くため息を吐いた隼人はガシガシと頭を掻いた。染めているわけじゃないのに、色素が薄いせいで、栗色のように見える。マロンケーキが律の頭にちらついた。
「お前ら仲が良いのはわかるけど、さっさと上がれよ」
「わかってるよ、悠人」
呆れたような顔で赤城は隼人の肩を軽く叩いて、部室に向かった。慌てて時計を見ると、予鈴まであと十分。律も急いで部室に荷物を取りに行った。予鈴が近いせいで、部室の中は混雑していた。
朝練は自主参加だと入部時に説明をされていたが、蓋を開けてみれば部員全員が揃っている。さすがスポーツ強豪校と呼ばれるだけあり、部員の意識は高い。制服に着替えて、先輩たちに挨拶をして部室を飛び出す。
廊下を指摘されないほどの速さで、律が教室に駆け込むと、ちょうど担任の源先生が入ってきた。
軽く息を整えながら、自席に座ると、前の席の灰谷が振り返った。勝ち誇ったかのような笑みに少しイラついたが、律は何でもないように鞄から教科書とノートを取り出し、机の中に入れた。隼人から返されたノートが鞄の中にぽつんと残っている。
黒瀬隼人は、律の憧れの人だ。
去年のインターハイ決勝、隼人は四百メートルハードルに出場していた。三年生が多くのレーンに立っている中、隼人は唯一の二年生選手だった。
均整の取れた体躯をオレンジ色のユニフォームに包み、堂々と立っている姿は三年生たちにも負けていなかった。
スタートの合図と同時に、飛び出した隼人は、軽々とハードルを越えていった。優勝はやはり経験値の差で三年生選手が勝った。
だが、律の目には、走り切った後空を見上げて悔しそうにしていた隼人の姿だけがいつまでも残っていた。
「白石?」
隣から声をかけられて、はっと顔を上げた。ホームルームはいつの間にか終わり、一時間目の授業開始までのわずかな隙間時間に入っていた。
「どうしたんだよ、ぼーっとして」
訝し気に見てきたのは、隣の席の緑川大地だった。
「いや、別に」
バッグのファスナーを閉めながら、律は首を横に振った。
「緑川、聞いてくれよ。こいつ、また朝練前の自主練してんだぜ」
「灰谷だって、自主練すれば良いだろ」
「運動バカたちは朝から元気だねぇ」
割り込んできた灰谷を嫌な顔せず、緑川は呆れたように、一時間目の授業の準備をし始めた。
「もうすぐ、中間テストだよ。集中しないと、入学早々赤点取ることになるよ」
「そ、それだけはっ」
灰谷が慌てて教科書とノートを机の中から取り出す。
「スポーツ特待生といえども、赤点じゃ大会は出られないもんね」
「嫌味か、緑川」
眉根をぎゅっと寄せた灰谷が、涼しい顔をして教科書を捲っている緑川を睨んでいた。
「まさか、事実を言ったまでだよ。入学早々の実力テストで先生を嘆かせる程度の点数を取っていたんだし」
ぐうの音も出ないらしく、灰谷は机に突っ伏した。律も笑えるほどの余裕はないので、まじめに教科書を開いた。
スポーツ特待生として入学しても、赤点を取れば部活への参加は補習が終わるまでできない。スポーツ強豪校としてだけではなく、進学実績にも注目があつまる高校なだけに、日ごろから勉学を欠かしてはならないのは言うまでもなかった。
午前中の授業を全て終えたところで、元気をなくしていた灰谷も徐々に回復したのか、チャイムが鳴り終わるなり、体を机の上から起こした。
「自主練、行くんだろ。オレも行くっ」
授業中の疲れはどこかにすっ飛んだらしく、元気を取り戻した灰谷は律の腕を掴んで教室を出た。昼ご飯を早めに済ませた律は引きずられる形で、部室に連れていかれた。
「昼休みは筋トレとか体幹トレーニングだろ?」
「……まあ、そうだけど」
「ならば、どちらがプランクを長くやれるか競うぞっ」
こうもやる気が溢れている奴とやると、自分のペースが乱れるから、できれば避けたい。どうやって逃げ出すかを考えていると、部室前に隼人と赤城が何かを話していた。隼人がバインダーを持っているところから察するに、トレーニングメニューの話だろうか。
いつも気難しい顔をしているか、強面を見せているかの二つだが、赤城と話している時は砕けた表情をしている。同学年で部活仲間ならではの気心知れたものがあるのだろうか。
「お前ら、昼飯は?」
律たちに気づいた隼人が片眉を上げて訊いてきた。
「もう食べましたっ。これから、こいつとプランクで競うんですっ」
「トレーニングメニューの量をきっちり守れって、朝言ったばかりだろ」
「でも、コイツ、こっそりやろうとしてましたよ」
おのれ、灰谷。黙っていれば良いものを。
気まずげに隼人から視線を逸らした。
「白石も、朝の自主練と言い、練習しすぎだ」
尖った声で隼人は律に言ってきた。
「白石は練習の鬼だよな。校内選考会に向けて気合いが入っているのは悪いことじゃないけど、怪我に繋がるから、自主練もほどほどにしなよ」
追い打ちをかけるように赤城も言葉を重ねてきた。
「ほら、教室に帰れ」
しっしと手で追い返す隼人たちに頭を下げ、律と灰谷は大人しく来た道を戻ることにした。
「お前のせいで、怒られたじゃねぇか」
不満たらたらな言い方をしてきた灰谷を律は横目で睨んだ。
「もとはと言えば、お前がプランク競争とか言ったからだろ」
「お前の抜け駆けだけは許さないからな」
はいはい、と適当にあしらった返事を灰谷に返していると、後ろから律を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返ると、小走りで隼人がプリントを持ってきた。
「寮の連絡があったの、忘れてた」
「……帰ってからでも良いじゃないですか、コレ」
隼人が渡してきたプリントは、一学期最終日の寮内の大掃除の案内だった。
「俺もさっき寮長に渡されたんだよ。あいつ、こういうのはさっさと渡したいタイプだからな」
「どうせ、同じ部屋なんだし、机の上に置いてもらえばわかるんですけど」
「教科書とノートが乱雑に置かれている机の上にか?」
ニヤッと意地悪そうに隼人は律を見た。
県外の入学者や、県内の入学者の中でも入寮を希望する場合は、学校併設の寮に入ることができる。律も隼人も通学可能な範囲だが、陸上に専念するために入寮した。一年生は例外なく、くじ引きで決まった上級生と相部屋になり、寮での過ごし方を教わる。
それが、まさか、憧れていた人と相部屋になるとは。
あれだけの結果を叩きだした隼人と相部屋になったからには、インターハイ優勝するための技術を盗めるだけ盗もうと考えていた。それに、日々の生活や自主トレを学び、隼人が卒業するまでには、大会で勝つことも目標に掲げていた。
だが、それも入寮初日に隼人に出会うまでのことだった。
部屋に迎え入れてくれた隼人の膝には彼の肌と同じ色のテーピングがしっかりと施されていた。少しばかり足を引きずっただけでも、律はすぐにわかってしまった。
この人は、もう選手として、大会に出る可能性が低いのではないか、と。
レーンを見下ろせる最前列の観客席から、俺、白石律は固唾をのんでこの後の結果を見届けることにした。
ふと、真ん中のレーンに立った選手の背中から律の目が離れなくなった。それと同時に決めた。
絶対、この人がいる高校に行くと。
「おはようございます、黒瀬先輩っ」
朝練前の日課のランニングを終えて、律がストレッチをしていると、同室の先輩である黒瀬隼人がやってきた。
あくびを噛み殺しながら、いつもつかっているバインダーを隼人は開いた。
「お前、朝早すぎ」
「黒瀬先輩、眠そうですね」
「……そうでもない。ほら、アレだ、布団がいけないんだ」
「確かに布団のぬくもりって良いですよね」
この時期の布団はなかなか手離してはくれない。夏に近づきつつあるのに、朝はまだ肌寒い。律もランニングに行くのにまだ躊躇するときがあるが、それでも日課だから頑張って布団から這い出ている。
「それより、朝はどのくらい走り込んだの」
じろりと目を細めて隼人が律を見た。
「黒瀬先輩、顔怖いです」
「……知ってる。で、どのくらい走ったんだよ?」
「……三十分くらいですかね」
「本当は?」
「い、一時間です」
律の答えを聞いて、隼人は大きなため息を吐きながらバインダーにメモをしていた。
「もうすぐ校内選考会だ。そこに向けて調子を整えていくのも大事なんだから」
「はーい」
「……本当にわかってんのか?」
黒瀬先輩、その目、怖すぎますって。
苦笑しながら、律は頷いて、ゆっくりとストレッチを始める。ストレッチで手を抜けば、怪我に繋がる可能性があるので、丁寧に時間をかけた。
「あー! お前、また抜け駆けしたなっ」
朝から大層うるさい声を出しているのは、律と同期でクラスメイトの灰谷翔吾だった。
「お前、朝練前のランニングに行くならオレも誘えよっ」
「なんで翔吾も誘わないといけないんだよ」
「そりゃ、オレはお前のライバルだろうが」
「なに、そのスポーツマンガみたいなセリフ」
ははっと律が笑うと、灰谷の顔がみるみるうちに不機嫌になった。こいつはこういう奴だ。何かと律と競いたがる癖がある。入部の時の自己紹介をした時にでも、目を付けられたのだろうか。同じハードル競技をしている同学年が少ないから、対抗心が余計に煽られているのかもしれない。
「そろそろ、始めるぞー」
部長の赤城悠人の号令に従い、競技ごとに分かれて、ストレッチを始めた。
「今日は体幹と柔軟をメインでやるぞ」
選手権マネージャーの黒瀬隼人がバインダーでメニューを確認しながら、ハードルチームに声をかける。律はヨガマットを倉庫から出してきて、ストレッチから始めた。
「……白石は柔らかいな」
隼人に背中をゆっくりと押されていると、不意に言われた。
「そうですか?」
「周りを見て見ろ」
隼人の言葉に促されて、律が周りを見ると、確かに律よりも体が柔らかい人はいなかった。百八十度近く足を広げて、そのままぺたんと地面に律は額を付けた。
「もしかして、前世は軟体動物?」
からかうような声が頭上から降ってきた。隼人がずっしりと律の体を乗せてきて、柔軟を促してくる。
「……黒瀬先輩、それほめてます?」
何もそこまで、全体重を預けてこなくても良いはずだ。律はゆっくりと息を吐きながら、地面に体を近づけた。
「ほめてるって。それだけ柔らかいとハードルに向いてるしな」
「本当ですか」
律がぱっと顔を上げると、隼人が苦笑していた。
「単純な奴。お前は他にも課題があるだろ。そっちにも集中しろよ」
一通りのストレッチを終えて、体幹トレーニングと筋トレが始まる。
四百メートルハードル。
走って、飛んで、着地して。
たった三つの動作のはずなのに、優勝するには地道なトレーニングを積み重ねなければならない。それ自体は苦じゃない。一つ一つ課題をクリアするごとに、タイムは上がっていく。それがたまらなく楽しい。
汗をかくような激しいトレーニングではないのに、三十分も真剣に筋トレや体幹トレーニングをしていれば、否が応でも汗がこめかみを伝って流れ始めた。
「最後にハードルドリルを五本終えたら、朝練は終わり。放課後練始まる前には、各々ストレッチと体幹トレーニングメニューをこなしておくように」
眉根を寄せてメニューに何かを書いていた隼人が、じろりと律を見た。
「特に、朝練前とか昼休みに自主トレしている奴は入念に、な」
有無を言わさない圧を感じさせる言葉と態度に、律はびくっと肩をすくめた。どうやら昼休みも空き教室で体幹トレーニングをしているのがバレているようだ。
朝練最後のメニューも終えて、律はスポーツタオルで汗を拭った。徐々に夏に近づいてくると、この湿気を孕んだ空気も鬱陶しくなる。タオルを首にかけながら、ペットボトルをパキッと開けた。
軽く息を吐いて、喉を鳴らして律は飲んだ。少しぬるくなっているが、それでもまだ冷えていて、飲むと体の熱が少し引くように感じた。
「おーい、白石、忘れ物」
陸上部専用トラックの脇に置かれていたノートを隼人が律に手渡した。表紙には、練習ノートと少し雑に書かれている。名前は書いていないが、自分の文字くらいはすぐに分かった。
「すみません、黒瀬先輩、ありがとうございます」
受け取って、中身を確認する。間違いない、ランニングとダッシュをしているのがしっかり書かれている。
「……今日は、ランニングだけじゃなかったんだ?」
「中、見たんですか」
気まずげに目を反らしながら、律はノートで顔を隠す。
「あんまり根詰めるな」
「でも、校内選考会近いですし」
「だからと言って、無理を重ねる時期じゃない。それに、校内選考会は三学年合同だ。新人戦とは違うんだから」
「……だからと言って、手を抜くことはしたくないんです。インハイ優勝が目標だから」
「尚更、無理をするな。お前、フォームがきれいなんだし」
軽くため息を吐いた隼人はガシガシと頭を掻いた。染めているわけじゃないのに、色素が薄いせいで、栗色のように見える。マロンケーキが律の頭にちらついた。
「お前ら仲が良いのはわかるけど、さっさと上がれよ」
「わかってるよ、悠人」
呆れたような顔で赤城は隼人の肩を軽く叩いて、部室に向かった。慌てて時計を見ると、予鈴まであと十分。律も急いで部室に荷物を取りに行った。予鈴が近いせいで、部室の中は混雑していた。
朝練は自主参加だと入部時に説明をされていたが、蓋を開けてみれば部員全員が揃っている。さすがスポーツ強豪校と呼ばれるだけあり、部員の意識は高い。制服に着替えて、先輩たちに挨拶をして部室を飛び出す。
廊下を指摘されないほどの速さで、律が教室に駆け込むと、ちょうど担任の源先生が入ってきた。
軽く息を整えながら、自席に座ると、前の席の灰谷が振り返った。勝ち誇ったかのような笑みに少しイラついたが、律は何でもないように鞄から教科書とノートを取り出し、机の中に入れた。隼人から返されたノートが鞄の中にぽつんと残っている。
黒瀬隼人は、律の憧れの人だ。
去年のインターハイ決勝、隼人は四百メートルハードルに出場していた。三年生が多くのレーンに立っている中、隼人は唯一の二年生選手だった。
均整の取れた体躯をオレンジ色のユニフォームに包み、堂々と立っている姿は三年生たちにも負けていなかった。
スタートの合図と同時に、飛び出した隼人は、軽々とハードルを越えていった。優勝はやはり経験値の差で三年生選手が勝った。
だが、律の目には、走り切った後空を見上げて悔しそうにしていた隼人の姿だけがいつまでも残っていた。
「白石?」
隣から声をかけられて、はっと顔を上げた。ホームルームはいつの間にか終わり、一時間目の授業開始までのわずかな隙間時間に入っていた。
「どうしたんだよ、ぼーっとして」
訝し気に見てきたのは、隣の席の緑川大地だった。
「いや、別に」
バッグのファスナーを閉めながら、律は首を横に振った。
「緑川、聞いてくれよ。こいつ、また朝練前の自主練してんだぜ」
「灰谷だって、自主練すれば良いだろ」
「運動バカたちは朝から元気だねぇ」
割り込んできた灰谷を嫌な顔せず、緑川は呆れたように、一時間目の授業の準備をし始めた。
「もうすぐ、中間テストだよ。集中しないと、入学早々赤点取ることになるよ」
「そ、それだけはっ」
灰谷が慌てて教科書とノートを机の中から取り出す。
「スポーツ特待生といえども、赤点じゃ大会は出られないもんね」
「嫌味か、緑川」
眉根をぎゅっと寄せた灰谷が、涼しい顔をして教科書を捲っている緑川を睨んでいた。
「まさか、事実を言ったまでだよ。入学早々の実力テストで先生を嘆かせる程度の点数を取っていたんだし」
ぐうの音も出ないらしく、灰谷は机に突っ伏した。律も笑えるほどの余裕はないので、まじめに教科書を開いた。
スポーツ特待生として入学しても、赤点を取れば部活への参加は補習が終わるまでできない。スポーツ強豪校としてだけではなく、進学実績にも注目があつまる高校なだけに、日ごろから勉学を欠かしてはならないのは言うまでもなかった。
午前中の授業を全て終えたところで、元気をなくしていた灰谷も徐々に回復したのか、チャイムが鳴り終わるなり、体を机の上から起こした。
「自主練、行くんだろ。オレも行くっ」
授業中の疲れはどこかにすっ飛んだらしく、元気を取り戻した灰谷は律の腕を掴んで教室を出た。昼ご飯を早めに済ませた律は引きずられる形で、部室に連れていかれた。
「昼休みは筋トレとか体幹トレーニングだろ?」
「……まあ、そうだけど」
「ならば、どちらがプランクを長くやれるか競うぞっ」
こうもやる気が溢れている奴とやると、自分のペースが乱れるから、できれば避けたい。どうやって逃げ出すかを考えていると、部室前に隼人と赤城が何かを話していた。隼人がバインダーを持っているところから察するに、トレーニングメニューの話だろうか。
いつも気難しい顔をしているか、強面を見せているかの二つだが、赤城と話している時は砕けた表情をしている。同学年で部活仲間ならではの気心知れたものがあるのだろうか。
「お前ら、昼飯は?」
律たちに気づいた隼人が片眉を上げて訊いてきた。
「もう食べましたっ。これから、こいつとプランクで競うんですっ」
「トレーニングメニューの量をきっちり守れって、朝言ったばかりだろ」
「でも、コイツ、こっそりやろうとしてましたよ」
おのれ、灰谷。黙っていれば良いものを。
気まずげに隼人から視線を逸らした。
「白石も、朝の自主練と言い、練習しすぎだ」
尖った声で隼人は律に言ってきた。
「白石は練習の鬼だよな。校内選考会に向けて気合いが入っているのは悪いことじゃないけど、怪我に繋がるから、自主練もほどほどにしなよ」
追い打ちをかけるように赤城も言葉を重ねてきた。
「ほら、教室に帰れ」
しっしと手で追い返す隼人たちに頭を下げ、律と灰谷は大人しく来た道を戻ることにした。
「お前のせいで、怒られたじゃねぇか」
不満たらたらな言い方をしてきた灰谷を律は横目で睨んだ。
「もとはと言えば、お前がプランク競争とか言ったからだろ」
「お前の抜け駆けだけは許さないからな」
はいはい、と適当にあしらった返事を灰谷に返していると、後ろから律を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返ると、小走りで隼人がプリントを持ってきた。
「寮の連絡があったの、忘れてた」
「……帰ってからでも良いじゃないですか、コレ」
隼人が渡してきたプリントは、一学期最終日の寮内の大掃除の案内だった。
「俺もさっき寮長に渡されたんだよ。あいつ、こういうのはさっさと渡したいタイプだからな」
「どうせ、同じ部屋なんだし、机の上に置いてもらえばわかるんですけど」
「教科書とノートが乱雑に置かれている机の上にか?」
ニヤッと意地悪そうに隼人は律を見た。
県外の入学者や、県内の入学者の中でも入寮を希望する場合は、学校併設の寮に入ることができる。律も隼人も通学可能な範囲だが、陸上に専念するために入寮した。一年生は例外なく、くじ引きで決まった上級生と相部屋になり、寮での過ごし方を教わる。
それが、まさか、憧れていた人と相部屋になるとは。
あれだけの結果を叩きだした隼人と相部屋になったからには、インターハイ優勝するための技術を盗めるだけ盗もうと考えていた。それに、日々の生活や自主トレを学び、隼人が卒業するまでには、大会で勝つことも目標に掲げていた。
だが、それも入寮初日に隼人に出会うまでのことだった。
部屋に迎え入れてくれた隼人の膝には彼の肌と同じ色のテーピングがしっかりと施されていた。少しばかり足を引きずっただけでも、律はすぐにわかってしまった。
この人は、もう選手として、大会に出る可能性が低いのではないか、と。



