トップノートの香りと君と―焙煎部の恋―



 姉の史帆には逆らえない。
 昔から俺を手玉にとっている。というか、俺が(なつ)きすぎているのかもしれない。
 幼い頃から俺が両手のひらで耳を押さえていると何も言わずに姉の手も重ねてくれたし、俺がぼんやりしている時に事前に後ろから両耳を押さえてくれることだってあった。
 校長室帰りの西島先輩と同じように。

 その史帆に「manakiくんに一度会ってみたい」と言われてしまった。
 俺がmanakiとのやりとりで常にエンパワメントされているという事実をアツく語ってしまったのがいけなかったかもしれない。
 俺は史帆には隠し事が出来ない。
 同性の先輩に心惹かれかけてるかもしれない話も、文化祭が終わって1週間後には吐かされていた。
 顔で分かってしまうのだ。
 そんな前途多難な俺の初めてのアオハルを、史帆は決して茶化したりはしなかった。そして必要以上に聞き出そうともしてこなかった。俺のペースを尊重してくれる姉に、俺は昔から甘えている。
 男子小学生に言われたあれやこれやを、俺はJK同士の会話のように微に入り細に入り史帆に話していたんだった。
「それヤバい。私も相談に乗ってほしい!」
 それがいつしか。
「一日だけでもいい。年の離れた弟になってほしい!」
 と、なって、結局。
「向こうのお兄さんに頼んで一日弟交換するのどう?」
 と言い出す始末。
 その交換というワードが軽薄に聞こえないのは、史帆が俺を弟として絶対的に愛しているという現実があるからだ。
 こんなこと言うと周囲にドン引きされるから言葉にしたことはないけど。

「manakiくんのお兄さん高校2年生よね」
「そうみたい。あまり話題にしないんだ」
「一度manakiくんときょうだいごっこしてみたい」

 そう言った史帆が漫画みたいに祈りのポーズをしてキラキラの目で天空を見上げていたので、俺はマジでビビった。

「ショウの部屋に泊まってもらって。小学生の弟に勉強教えたり寝癖直してやったりすんの」
「でた!シホちゃんの妄想癖」
「2歳下のショウも可愛いかったけど!今またランドセル背負ったコが帰宅したら萌えるわ〜」
「manaki。姉って生き物に怯えると思う」
「目玉焼きの黄身が付いてるよって唇を拭ってあげたりしたい」
「シホちゃん暴走しすぎ」
「どんな夢見たのって聞いたらmanakiくんはパンダと草原を転げ廻ってる夢でした…だなんてこと答えてくれて」
「いや。manaki絶対そんな夢見ない…」
「現役JKを姉にしたいと思わないか聴いてみて」
「ミーハーな小学生じゃないんだ」
「ミーハーな小学生じゃなくていいのよ。ショウを友だちにしようと思った小学生のmanakiくんが気になるの」
「気になるってどうして」
「あのね。私はショウが好きでmanakiくんもショウが好きでしょう。好きなものについて一緒に語りたいのよ」
「…マニアックだなぁ。確かに高校生と友だち関係になっている小学生は、世の中にほとんどいないだろうけど」

 そもそも俺のことを好きだって思っただなんて言葉にしてくれる小学生は、大人びていると言ってもいいだろう。
 史帆には、manakiと出会った日に彼から「可愛いね」と言われた話はしていない。
 何でも話す俺がこの話を伏せたのは、俺が恥ずかしかっただけではなく、manakiのプライベートな心のうちを勝手に晒してはいけないと感じたからだった。


〘 姉ちゃん体験してみない。姉がmanakiを一日弟にしたいってさ 〙

 俺が時候の挨拶みたいにメッセージを送ると〘 りょ 〙と秒で返信があって驚いた。
 え。
 いいの?
 太っ腹なmanakiに感心していたら〘ミキさんも兄ちゃん体験してみて〙とポコンとメッセージが届いた。

〘 いや。俺はいい 〙
〘 いや。したらいい 〙
〘 なんで。必要ない 〙
〘 俺がミキさんのためにならないこと言うと思う? 〙

 manakiのメッセージに俺は大きく首を傾げてしまう。
 manakiの兄の情報が全くない中で、俺には興味も感心もニーズもない。
 それでもいつもmanakiは、ほんとオマエは小学生かよ?と疑ってしまうほど、普段から大人びた優しさで俺にとって必要なエールを送ってくれていた。
 いつも、俺のためになることを言ってくれた。
 だから。
〘 思わない 〙
 俺は正直に返信する。
 すると、また秒でmanakiからメッセージが入る。
〘 一日だけ 〙

 一日だけ?
 どういうこと?
 一日だけでも、俺がmanakiの家でお兄さんと過ごす体験をすると、なんかいいことあるってこと?

〘 俺に男成分が少ないから分けてもらえってことかな 〙
〘 ハズレ 〙
〘 君の兄さん迷惑だろ 〙
〘 迷惑にはならない 〙
〘 知らない人苦手なんだ 〙
〘 俺も最初は知らない人 〙

 なんだかmanakiが何かのキャッチコピーみたいな言い回しをしはじめて、俺は何の話してたんだっけ…と混乱した。
 史帆が冗談のように言った“ 弟交換 ”が、にわかに現実味を帯びてくる。
 まぁ。いいけど。
 村地の恋を叶えた史帆が、こんなにうきうきしているのを見るのは俺だって悪い気分じゃない。
 manakiも最初は知らない人…か。
 ほんとだ。最初は接点なんかまったくなくて。
 あのとき声を掛けてもらわなかったら、俺は今頃どんなふうに過ごしていたんだろう。
 
 そして。
 高校生になって焙煎部に入ったのは、俺にとって自然な流れだったとして。
 初日に西島先輩が俺をかばってくれなかったらとしたら、俺は西島先輩のことを好きにならなかっただろうか。
 ただの同じ部の先輩ってだけの存在だったんだろうか。
 今も前までと変わらずに会話をしているけれど。
 西島先輩は俺が纏う珈琲の香りを胸に吸い込むことを止めたことが、わかる。
 わかってしまう。

 最初は知らない人だった誰かが、特別な存在になる。
 いつのまにか。
 気が付けば、そうなっていて。
 特別って存在があるのは、俺にとって幸せなことなんだって思う。
 でも。
 それは、同時に痛みも生み出すんだってことが俺には理解できるようになった。
 ちょっとは成長してるのかな。
 
 今日。
 ひとつ年を重ねた。
 16歳になった俺。

 毎年、俺が年をひとつ重ねる頃に学校の行き帰りに感じる金木犀の香りが、なぜか今年はまだ俺のところには届いてこなかった。
 
 
         


     ●    ●    ●



「今日manakiに言いたい!って思ってたことあったのに忘れちゃった」

 俺が3回目にリアルに対面でmanakiと公園で会った時、最初に言った言葉がこれ。
 とても間が抜けた発言だったと思う。
 物忘れ。
 年上の威厳なんて、カケラもない俺。
 俺が不思議に感じたことをmanakiだったらどう考えるか聴いてみなきゃって、今朝は心に思い浮かべていたっていうのに。

「俺に何かを伝えたいって思ってくれてたんだ」

 manakiはそう言って大きく笑った。
 あれ?
 こいつ。誰かに似てるような?
 俺は少しだけ、ドキッとした。
 普段こんなに歯を見せて笑わないmanakiが珍しく無防備な表情を見せたので、俺はゆっくりと思考を巡らせながら小学生を見下ろした。
 今はまだ20㌢ほど下にあるmanakiの瞳。
 俺たちは馴染みのベンチのところまで来ると、いつものように並んで座った。
 ここに来たときにベンチがふさがっていることがない。
 いつも俺たちのことを待っているように、スペースを空けてくれている。
 世の中で俺たち二人が、誰よりも時間をたっぷり持っている暇人だってことかもしれないけど。

「逢うたびに成長してるように感じる。manakiが」
「そう?」
「うん。毎日1㍉ずつ背が伸びてるんじゃない?」
「それは大袈裟」
「いいなぁ。俺もこれから伸びないかなぁ」
「俺が追いつくまで待っててよ」
「うわ。3年後にはそうなってそう」
「ミキさんが3年後も仲良くしてくれてたら嬉しい」
「それはこっちのセリフ。…あ!思い出した」

 俺はmanakiの真横でベンチに座っていたけれど、その場で立ち上がって伸びをする。
 10月の秋の風をたっぷりと胸に吸い込んだ。
 日曜日だった。
 manakiと会うときは互いに学校帰りだった今までと違って、今日のmanakiはランドセルを背負っていないし、俺は制服ではなく普段着で。
 はたから見たら、俺たち二人はどう見えているんだろう。
 家庭教師と生徒って感じかな。
 俺のほうがいろいろと教えてもらってるんだけど。

「いつもはこの時期に金木犀の香りがするのに。今年はまだなんだ」
「金木犀?」
「うん。金木犀の香りってわかる?」
「わかる。そういえばそうだね。秋なのに」
「実は去年の秋も思ったんだ。金木犀の香りが1年前より数日遅れたなぁって」

 俺がそう言いながらグレイのパーカーを脱いで腰に巻きつけ、シャツ1枚になってベンチに座り直すとmanakiが俺の目をじっと覗き込んだ。
 manakiがスルッと身を寄せてきたので、互いのジーンズの膝頭がぶつかる。
 俺の濃いデニムと、manakiの洗い晒しの薄い青色のデニム。

「manakiどうした?」
「ミキさんすごいね」
「なにが」
「金木犀の香りが数日ずれてるだなんて気付く人はあまりいないよ」  
「あぁ。そうか俺は自分の誕生日があるから記憶に残るんだろうね」 
「誕生日?ミキさん10月生まれ?」  
「うん。俺が小学生のときは誕生日より前に花のおかげで秋を感じることができてたよ」
「きっと夏が暑くなったからだね」
「そうか。夏が長くなったからか」
「たぶんそうだと思う。俺、金木犀の香りが待ち遠しくなったよ。ミキさんのおかげ」
「咲いてる花より香りに先に気付くよね。秋だなぁって実感する瞬間。俺、好きなんだ」

 俺が公園のベンチの上に枝を広げたナンキンハゼを見上げると、manakiも目線をあげた。
 ハートの形をした葉と小さな実がたくさん散らばっていて、美しい光景だった。

「ミキさん。この話を好きな人にした?その焙煎部の先輩に」
「してない」
「話す時間はあるんでしょう」 
「うん。文化祭までだったら俺はこんな話をしていたと思う。心に浮かんだことをすぐに言葉にしてた」 
「その先輩に彼女がいることが辛い?」
「うん。先輩には特別な人がいるんだなぁって思うと、前みたいに好き勝手に話せない。言葉をのみこんじゃう」
「先輩に彼女がいても、気にせずにミキさんは言葉を手渡したらいい」
「気にせずにってのが難しいんだ」
「先輩の彼氏になったらいいんだ」
「…え?」

 俺はmanakiが言った言葉の意味がよく分からなくて、右隣の小学生の顔を見た。
 口をポカンと開けて。

「彼氏?」
「うん。焙煎部の先輩に彼氏はいないんでしょ」
「…たぶん」
「だったらいいじゃん」
「いいじゃんって。いいのか」
「いいんだよ。どんどん攻めて」
「こんなやりとり。LIMEでもしたな」
「恋人は一人って誰が決めたの」
「…ぇえ。複数はダメだろ。恋人は一人であってほしい」
「じゃあ彼女はいったん横に置いておこう。ミキさん一人だけを彼氏にしてくれたらいいね」
「…ぇえっと。横に置いておけないよ。でも」

 俺は急な話の展開に頭が混乱しかけていたけれど、manakiが真面目な顔をしていたので俺も真剣に言葉を選んだ。

「男子生徒の中では、俺が一番先輩と仲良くしてもらってたかも。先輩のクラスでのことはよく知らないけど」


 俺は、西島先輩が俺の肩に自分の顔をうずめてきた日のことを思い出す。
 西島先輩の息がかかって、俺の肩が熱を持った日のこと。
 俺に体を寄せて、「甘い香りがする」って言ったり「珈琲豆に愛されてる」って言ったり。
 他の男子には、きっと、そんな言葉は言ってないと思う。
 たぶん。
 村地に抱き付かれた俺を見て「面白くないって思った」って言ってくれた西島先輩。
 あのとき。
 あの言葉を、どんな気持ちで俺に言ってくれたんだろう。
 弟扱いされるのは嫌だって、俺は強く感じて。
「弟みたいだなんて思ってない」って先輩が言って。
 俺はずっと、西島先輩のことがとても好きだったんだ。


「ミキさん。どうして泣いてるの」
「……え」

 manakiの言葉で我に返ると、俺の右頬に一筋だけ涙がこぼれていた。

「わ…。俺、かっこ悪い」
 俺は慌てて右手のひらでガシガシ頬をぬぐった。
 一瞬で体温が上がる。
 よりにもよって、どうしてmanakiの前で涙を見せてしまったんだろう。
 文化祭のあの日から、俺は泣き虫に戻ってしまったんだろうか。

「かっこ悪くなんかないよ」

 manakiが俺の右手首を自分の左手で掴んで、俺の頬から手をどけさせた。

「ミキさん。この木をもう一度見て」
「この木…。ナンキンハゼのこと?」
 
 小学生に涙を見せて恥ずかしいという気持ちは、落ち着いたmanakiの声で溶かされていく。
 manakiは俺を掴んでいないほうの右手を真上に上げ、緑の小さなハート型の葉が連なっている樹冠を指さしていた。

「前に来たときに葉の形がいいなって思って図鑑を見たんだ。“ 心が燃える ”って花言葉を持ってるんだって」
「花言葉…」
「ミキさん。ミキさんの心は燃えてるでしょう」
「先輩への気持ちのこと?……そうだね。燃えてる」
「相手が同性だろうが彼女がいようが、いいじゃん」
「……うん」
「ミキさんの心が燃えてるなら。心が燃える相手がいるっていい」
「そうだね」

 ナンキンハゼの緑の葉を見上げていた俺たちは、ゆっくりと視線をおろした。
 俺はmanakiから手渡された言葉を、忘れないように心の手帳に刻みこむ。
 俺にはそんな場所があった。
 今まではだいたい、叔父の言葉が刻み込まれていたけれど。
 最近、そのスペースにはmanakiの言葉が溢れてきている。
 夕方の柔らかい陽射しが、俺たちの顔を照らしていて温かかった。

「manaki。ありがとう」
「どういたしまして。そして。ミキさん16歳おめでとう」
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。ミキさんと知り合ってから、俺は心が燃やせて学校に通えてる」
「…え?」
「一年ほど家にこもってたんだ。去年ぐらいから頭痛が出てくるようになって。静かな場所じゃないと辛かった」
「そうだったんだ」
「今はね、ミキさんとやりとりした言葉を思い出して、痛みが出てきても乗り切れるようになった」
「そっか。おたがいさまだったんだ。俺もmanakiの言葉で救われてたから」
「俺たち似てる?」
「俺たち似てるね」

 そう言って、俺たちは目を合わせて笑った。
 何回「ありがとう」を言っても足りないくらい、この右隣に座る相手には感謝している。
 俺は、秋の陽だまりの匂いを胸に吸い込みながら、今日流した涙を見られた相手がmanakiで良かったと思い直した。
 どうか、このまま。
 俺は心を燃やし続けていられますように。

 ハートの形の葉が一枚落ちてきたのを目で追いながら、俺は優しい気持ちで夕陽に祈りをささげていた。