―ふみの寝言聞きましたか?
―おにぃ。段ボール食べてる夢、見てませんか?
―宵々山。俺も浴衣着るんで蒔田さんも是非!
―ふみにぃにも浴衣着せて下さい。
写真持ってないんで撮らないと。
着物姿1枚あるけど浴衣もレア。
「なぁ」
蒔田が朝から笑いすぎて言葉が出せない状態になっているのを、俺はしばらく放っておいた。
俺は蒔田より早く目覚める。
蒔田がカラーコンタクトをつける前の顔を見たい。ただそれだけの理由で早起きをするようになった。
普段は明るい茶色で外側は緑っぽい瞳。
俺がハシバミ色の瞳をしている男を見たのは、蒔田が初めてだった。3ヶ月以上そんな瞳の蒔田を見ていたから、コンタクトを外して黒色の瞳をした蒔田を見たとき新鮮に感じた。
一緒に住んで初めて見ることができる一面って面白いと思う。
俺の3倍くらい笑いに対する閾値が低いという一面も、また。
「蒔田くんまだ笑ってるん。息できてるン?」
蒔田がシュウとLINEを交換するようになってから、毎朝これだ。
朝一番に黒色の瞳で俺に笑顔で「おはよう」と言う。
朝食の前に歯を磨き、コンタクトをつけてから、もういちど俺に「おはよう」と言ってくれる。
極上の笑顔で。
コンタクトをつけて俺の顔がクリアに見えると嬉しいらしい。そう言われて俺はひさしぶりにスイと顔をそむけてしまった。
一緒に住むようになっても俺は心臓が時々やられかけてしまう。
俺の中に住む妄想小人の中には一人だけDr.っぽいヤツがいて、眼鏡に手を掛けながら俺に言う。「お大事に」。
朝食を食べた後に大学に行く準備をする蒔田がスマホをカバンに張り込む時、届いているメッセージに目を通すのが習慣らしい。
そして、シュウから短いメッセージが蒔田宛に毎日届いているらしい。
俺には来てないんだけど?
「…文哉」
「やっと喋れるようになったん」
「朝からキツい」
「シュウの一言でそこまでツボにハマるん蒔田くんぐらいやで」
「そんなことないだろ」
「…そんなことあるわ」
「俺まだ文哉の寝言、聞いたことない」
「寝言?…俺が子どもの時の話やん」
「段ボール食べてる夢って、…何?」
「笑わんといて!」
「それだけ聴いたら授業に集中できるから」
「俺がインフルに掛かった時の話。今日はこれだけ!」
「千夜一夜物語だ」
「なに?」
「毎夜、命がけで王に物語を語る、シェヘラザード」
「何の話してるン」
「文哉はシェヘラザードより綺麗だけど」
「…蒔田くん何言ってるん?」
「文哉は毎朝、俺に少しずつ過去を物語ってくれる」
「あまり語りたくない過去やん…」
俺はそっと蒔田に近付き、右手で相手の髪に触れた。蒔田の動きが止まる。
春より長くなった前髪。
ハシバミ色の瞳に似合う漆黒の髪。
顔を洗ったばかりの蒔田は額の上の髪に雫がついていた。
俺は濡れた髪の蒔田を見るのも好きだ。
浴室から出てきたばかりの蒔田のことは今でも直視できない時があるけど、これくらいの雫つきの髪の蒔田だったらなんとか対峙できる。
髪に触れたまま俺は手を滑らせて、そっと蒔田の額に触れる。
さっき笑い続けて声を出せないでいる蒔田に触れたいと思った俺の気持ちを、俺が勇気を出して実行に移した。
それだけ。
ささやかな行為だけど俺にとっては大きな一歩で。
笑顔だった蒔田が目を細めてどんどん真顔になっていくのを見ながら、俺は前髪の下にある蒔田の額の熱を柔らかく感じた。
好きなものに触れたい気持ちってシンプルやな。
そう思ったタイミングで蒔田が急に体を接近させてきたので俺は身を引き、ソファに背中から押し倒された。俺はたぶん無防備な顔をしていたんだと思う。蒔田がおおいかぶさるように俺に顔を近付けてくる。
朝一番にこのソファベッドをベッドからソファに切り替えるのは蒔田が起きたときにしてくれる。
今、俺が横たわってるのが15分前のベッドだったら。
俺はこの体勢でいる自分をリアルに客観視して、顔面に熱いほうじ茶…のあの時の赤面どころでは済まなかったと思う。
俺が逃げないように包み込むように迫ってきたけれど、俺は先ほど哲学的な思考に浸っていたこともあって体がこわばらずに済んだ。蒔田がぎりぎり触れないように意識しているのが分かったのもあって。
それでも。
…これはまだ無理!
「蒔田くん、逃げてもいいって言ったやん」
俺の声がまた少し震えたことに、きっと気付かれたと思う。
「うん。逃げてもいい。でも俺が捕まえにいってもいい?」
「あかん」
「だめ?」
「…まだ」
「だよな」
蒔田が真面目な顔を崩さないまま、俺から10㌢の距離で俺を見つめた。
蒔田の前髪の雫が一滴だけ、俺の額に落ちてくる。
「俺。猛獣になりかけてた」
「うわぁ…」
「ここをソファに戻してて良かった」
「蒔田くん…ライオンの檻、必要?」
俺の落ち着いた言葉とは真逆に、俺の心臓が高鳴っているのを、身体が熱を持っているのを、この距離では悟られてしまう。
そう思って緊張した途端に、蒔田は俺のからだのこわばりの予感を察知したのか体をすぐに離して身を起こした。
えっと。まだ朝やんな。
なんで朝いちばんからこんなに濃いねん…。
でも。
なんか嬉しい。と思えてる、自分が嬉しい。
俺は、日々新しい自分になってるんだろう。きっと。
▦ ▦ ▦
「浴衣着るの嫌や。蒔田くんだけ浴衣着せたらええやん」
「何言ってるん。ふみ!浴衣姿を蒔田さんに見せな」
俺が昼前の大学の講義を終えて叔父のうみどり堂に来て職人モードにスイッチを切り替えていたとき、一週間ぶりに俺を訪ねてきたシュウが耳元で語り掛けている言葉がしばらく入ってきていなかった。
シュウがいる…とようやく気付いて目を合わせると「あさって、宵々山行く前に伯母ちゃんとこで浴衣着る手配したからな」と一方的に宣告された。
うみどり堂で銀細工に向き合っていたはずなのに、俺はどうして浴衣の話をしてるんだろう。
祇󠄀園祭は前祭と後祭に分かれてなお、地獄なのか極楽なのかわからない有様で人で溢れかえっている。
ただでさえ俺は人混みが苦手だ。
それでも祇󠄀園祭の時にしか観ることができない各町の展示品が魅力的で、毎年シュウをシールド替わりに繰り出していたんだった。
今年の七月の祇園祭は。
各山鉾の工芸品を観たい気持ちと蒔田と一緒にただただ町を歩きたい気持ちがあって。
だからいつもの服装でじゅうぶん。
浴衣なんか着てたら人混みではだけるやん…。
「シュウ。俺の写真撮りたいだけやん」
「せやねん」
「なんでやねん!彼女の浴衣姿見とったらええやん」
「彼女は彼女。おにぃはおにぃ。真姫ちゃんもおにぃの浴衣姿見たいって。俺の待ち受け画面。真姫ちゃんも気に入っててん」
「…こわ。なんでそうなるん…」
「俺がふみのこと好きって言い切ったとこが俺を好きになった決定打やって」
「うわぁ。俺あさって真姫ちゃんに会うの、こわ…」
「俺ふみの着物姿見るの好き。顔が和風美人なんやろか。着物と相性のいい顔立ちしてますってふみの強みやなぁ。履歴書に書けるで?」
「…シュウ。よそでそんな話したらあかんで…」
「そや、いつものアレしようや」
「えぇ。さすがに大学生のシュウには無理やろ。記憶力ってのはどんどん落ちていくやん」
「若者なめんなよ?おにぃ今月中にハタチやなぁ。俺はしばらく10代続くんやで」
「1歳しか変わらへんやん何が若者やねん」
「ええねん。俺が言えたら…ふみにぃ浴衣着るんやで」
宵々山の数日前の今日。
うみどり堂でシュウと俺は、なんでこんな馬鹿な会話をしてるんやろ。
―文哉と修哉。普段どんな会話してるんだ?
―…あまり聞かせたないわ。
シェルブルー東山101号室の鍵を蒔田から手渡して貰った日に、蒔田からシュウと俺との普段のコミュニケーションの中身を尋ねられて応えたくなかったのはこういうことだ。
世の中の他の兄弟ってどんな会話をしているのだろう。
俺は昔から人と違う部分が多すぎて大衆に交われなかった上に、修業しはじめてからは絢堂先生の教えに素直に従って人嫌いに拍車をかけて過ごしていたので“ 標準 ”がわからない。
それでも。
兄弟で互いに「好きや」と言い合う俺たちは、特殊なんだろうとは気付いている。
今までかなり閉じられた世界で生きてきた俺だから、別に差し障りはなかった。
開かれた世界にいたシュウが兄への愛をオープンにして明るく生き抜いているってのが、逆に俺には謎だったんだけど。
それはシュウの人徳ってやつかもしれない。
記憶力うんぬんの俺たち兄弟二人だけで楽しむゲームみたいなものは、確か俺が最後にシュウと手を繋いだ真夏から始まったんじゃなかったっけ。
温かかった小さな手。
今はあんなにデカいけど。
祇園祭のニュースを見て、小学生だったシュウがふざけてニュースキャスターみたいに喋り出して。
そう。
兄弟ってどうでもいいようなことを面白がって、それを二人だけの世界でずっと温め続けるようなところがある。
あ。
そういえば。
ニュースキャスターみたいに蒔田も喋り出した日に、今の同棲みたいな日々が始まったんだった。
俺は少しだけ頬骨のあたりに熱を感じた。
今朝、蒔田に押し倒されたことを思い出したからだ。
「じゃあ。ふみ。聞いとけよ!」
「…どうぞ」
「どうぞちゃうわ。確認してや」
「…わかったから。はよ言いや」
「よし!長刀鉾。占出山。霰天神山。山伏山。函谷鉾。油天神山。綾傘鉾。蟷螂山。菊水鉾。保昌山。伯牙山。ええと…白楽天山。それから月鉾。木賊山。四条傘鉾。太子山。鶏鉾。芦刈山…やんな?で、次が郭巨山。孟宗山。…放下鉾。岩戸山。最後に船鉾!やった〜」
シュウは今年の巡行する順番通りに前祭の山鉾を正解に言ってのけた。
俺は素直に驚嘆する。
「すご…。俺には無理。シュウ若者や」
「ふみの浴衣姿ゲット!俺、蒔田さんに褒めてもらわな」
俺より顔付きは大人びているシュウだけれど。
この言葉を言いながらガッツポーズを決めている男の精神年齢は小学生なんじゃないか?と俺は呆れた。
「シュウ。俺が浴衣着たら蒔田くんが喜ぶって前提で突き進んでへん?」
「…え?蒔田さん喜ぶに決まってるやん」
「…なんでそんなに自信たっぷりなん?」
俺はさらに呆れてしまう。
シュウの前向きさには馴染みはあるけど。
俺はうみどり堂の天井を見上げて「まぁええか」と呟いた。
そんな俺をシュウは笑顔で見てから「あかん講義に遅刻する!」と慌てて工房を飛び出していった。
確かに蒔田とシュウは不思議と気が合う。
俺が好きになった蒔田が、もしシュウのことを好ましく思わなかったり俺がシュウを大切に想う気持ちを厭わしく思ったとしたら。
きっと俺は傷付いていただろう。
シュウは唯一無二の存在で、それこそ取り換えがきかないのだから。
うん。
だからこれは僥倖。
俺は気持ちを切り替えて作業を続けた。
今日、仕上げるまで帰宅はしない。
俺はそう決めて、そっと息を吐く。
まるで、俺の息で手元にあるこの小さなものが曇ってしまうのを避けるかのように。
この、小さな。
流れるような形をモチーフにした、銀色のピアスが。
―人生はおとぎ話じゃないだろ。
相手と両想いになったとしても、そこから深めていけるかが大切だから。
俺が勢いで告白する前、蒔田はこう言った。
この言葉を聞いたときも俺は感情が揺さぶられた。
そして共感もできなかったと思う。
俺は両想いという事態が俺の人生に起こるなんて想定していなかったし、どこかで期待する気持ちがあったとしても両想いになることは怖いと思っていたし。
今はどうなんだろう。
蒔田の言ったことが少し理解できる気がする。
確かに互いに好意を寄せていると分かった今でも、俺は不安になるときがある。
求められているのに俺がすり抜けるままでいたら、いつしか好きだという感情は変化してしまうのではないか。
触れさせてくれる誰かを。
好きなだけ抱きしめられる相手を、蒔田が新たに愛するようになったりしないだろうかって。
ほんまや。
両想いになってからが長いんやん。
知らんかった…。
当たり前やけど。
え。
じゃあ。
なんで蒔田くんには分かってたん?
誰かと両想いになったことあるん?
あかん…。
また無限の恋煩いループやん。
「おーい。文哉!」
「…あ」
俺が呼ばれて顔を上げると、目の前に浴衣を着た蒔田が俺の顔を覗き込んでいた。
俺が先に伯母に着付けてもらって、椅子に座って待っていた間に瞑想しすぎていた。
現実に戻ってきたばかりの俺は、目の前の映像が完璧に整い過ぎていて非現実的なものに見えた。
濃い灰色の浴衣がハシバミ色の瞳をした蒔田にしっくりと馴染んでいる。
どうしよ。
めっちゃカッコいいやん…。
「…浴衣似合うなぁ。蒔田くん」
俺はまさか自分が、浴衣姿の恋人を見てこんなに胸が高鳴るとは想像もしてなくて。
これや。
シュウが言ってたのはこのことやったんや…。
俺は一昨日の自分が「普段着でいいやん」と言ったことを思い出して、脳内で過去の俺に自分でビンタを喰らわしたくなるほどに蒔田のクールな立ち姿に衝撃を受けた。
心の中でシュウに感謝する。
山鉾巡行の順番、間違えんといてくれてありがとう。
後で会ったら、ひさしぶりにハグしそう…。
「俺、浴衣着るの初めて」
「そうなん…」
「文哉どうした?その顔」
「蒔田くんに見惚れてるんやん」
「文哉?もしかして呑んでる?」
「呑んでへんわ!」
「その言葉聴けただけで浴衣着た甲斐があった」
「…じゃあ毎年言うから。夏になったら着てな」
俺はそう言った後、自分でも驚いて「あ…」と呟いて右手を自分の口元に手を当てた。
俺の言葉がこれからも一緒にいるのを前提にしてるってことに。
互いに下駄も履かずに裸足のまま伯母の家の畳で見つめあっていて、蒔田の背後で伯母が無言でエールを送ってきているのに俺は気付いて慌てた。
あ、やば。
俺の声、聴かれてたな。
伯母ちゃん…。
なんであんなに嬉しそうなん?
蒔田が俺に額を近付けてきたのをするりとかわして「伯母ちゃんありがと!」と挨拶して階段を降りる。
宵々山の今日。
幕開けから俺は、俺自身のシフトチェンジに戸惑っている。
人混みを川魚のように二人ですり抜けながら、俺たちは菊水鉾の前に来た。
この鉾の稚児人形は菊丸と名付けられている。能装束を着けた童子の舞姿だ。
俺は1年ぶりに再会した彼を見て感極まり、隣に立つ蒔田の浴衣の袖を強く握りしめてしまった。
俺の変人ぶりがさらに暴露されるけど。
もうどうだっていいやん。
「菊丸くん…おかえり」
菊の露を飲んで700歳もの長寿を保ったという物語の能楽に登場する舞姿。
これを人形に再現したと聴いて菊丸くんに見惚れたのは…小学1年生の時だっけ。
「菊丸くんが俺の初恋の相手かもしれんわ」
俺が呟くと、蒔田は大きな声を出した。
「えっ!あいつ?」
蒔田が真面目な顔になって稚児人形をガン見した。
俺はそんな蒔田の誠実な横顔を見て、どんどん頑なさがほどけていく。
素直な自分が、素直なタイミングで素直に疑問を口に出した。
「蒔田くんの初恋は」
「…うん」
「à gauche のヴォーカルの彼やって聞いてから。…俺はそれからずっとà gaucheが聴けなくて」
「聴けない?」
「うん」
浴衣姿の蒔田をクールだと思う恋心と、蒔田が俺に触れたいと言ってくれた言葉と1年ぶりに姿を見せてくれた菊丸くんを御守りに、俺は勇気を出して3ヶ月懊悩した心情を打ち明けた。
「蒔田くんが好きだった彼のことを俺は知らない」
「…」
「それでも世界中で耳にできる彼の歌声が綺麗すぎて。存在感が大きすぎて。…俺は圧倒されるねん」
「…圧倒?」
「そう。なんかかなわへんなぁって気持ち」
「文哉。あいつはただの同級生。片想いだったって言っただろう?」
「ただの、じゃないやん。片想いの相手をただの同級生って言わんといて。俺泣きそうになるやん。俺は片想いするだけですごいことやと思ってるんやから」
「…文哉」
俺はかつての片想いの相手に聞かせる話ではないと思って、菊水鉾から離れて歩きだした。
菊丸くんに聞かせたくないと本気で思っている時点で、俺は世界の変人ランキングで百位以内には入ってるんじゃないかと感じて溜息をつく。
こんな俺だけど。
蒔田は俺を好きでいてくれるんやろうか。
俺の変人ぶりを封印しないと俺は愛を貫くことができないんやったら…。
俺はどうすればいい?
「なぁ文哉」
「なに」
「こうやって思ってること互いに言葉にするの。いいな」
「…いい?」
「うん。確かにさっきの俺。“ただの同級生”って言葉にしたのは俺の焦りだったと思う」
「焦り?」
人でごった返している室町通を歩きながら、俺は右隣にいる蒔田の横顔を見た。
浴衣に着替えるときにピアスを外した蒔田の左耳が、俺には無防備な器官に見えた。シャワーを浴びるときにも外しわすれているくらい、普段は左耳には銀色ピアスがつけれている。
まだ陽が落ちていない時間帯から就寝時間のように耳朶が自由になっている蒔田に、俺はどうやって切り出そうかとタイミングを見計らいながら実行に移せずにいることがあって少し焦っていた。その自分のことを言われたような気がして蒔田の言葉に反応してしまったのかもしれない。
「前にも言ったけど。文哉に片想いしてから声掛けるまでに俺は1年半あったから」
「…うん」
「もうここまで待ったんだからがっつくなよと自分で牽制もしてて」
「…うん」
「そのくせ接近した途端、文哉の反応見て好きになってもらえるかもと自惚れて。そこからは強欲になった」
「…強欲」
「そう。文哉が欲しいと思った」
「…」
歩きながら前を向いて喋っていた蒔田が俺を見た。
だから俺は胸が詰まり、逆にスイと前を向いてしまった。目を逸らしたかったわけではなく、溢れそうになった感情の持つエネルギーがオートマティックに俺の動きを指示したんだと思う。
浴衣姿ってだけで心臓鷲掴みにされてんのに。
蒔田くんのこの言葉。
ストレートすぎひん?
「さっきは文哉が普段言わない心のうちを曝け出してくれたから。嬉しくて前のめりになった」
「…蒔田くんでも前のめりになるんや」
「やきもち焼いてる文哉が可愛いくて」
「可愛いって何やねん!…って嫉妬って醜いやん!」
「ぜんぜん。そんなことない。可愛いすぎて焦った」
「…それ本来の焦るって意味とちゃうやん」
あれ。
俺は何を焦ってたんやっけ。
あかんわ。
蒔田くんがぶっ込んでくる案件で手一杯になって、俺、今日の目的忘れそうやん!
もう情緒もへったくれもないわ。
今しとかんと。
霰天神山が見えてきた街角で、俺は決心して歩みを止めた。
陽がようやく落ちたことが提灯の明るさで分かる。
蒔田が振り返る直前、俺は両手で蒔田の浴衣の左腕を掴んだ。慣れてないから直ぐにできない。袖の織の手触りの良さを感じながら右手だけを滑らせ、ようやく蒔田の左手に辿りつく。
手を繋ぐのを、俺が俯いて自分自身の視線で追っていたのが子どもみたいだった。
それだけじゃなく蒔田の視線も俺の右手が蒔田の左手と繋がるまでの軌跡を追っていたことが分かって、俺の耳朶が熱くなった。
「あかん…火事や」
俺の中の妄想小人がひさしぶりに独り言を言った。
「えぇとあの。手を繋ぎたいんじゃないねん。渡したいもんがあんねん。でも手渡す前に一度手を…」
なんや。
結局手を繋ぎたいだけやん。
頬骨と首筋の熱を感じて俺は一瞬パニック状態に陥ったけれど、蒔田が力を込めて手を握り返してくれたので呼吸を深めることができた。
シュウと手を繋いだ後、七年ほど誰とも繋がれたことのなかった俺の手が、蒔田の手の中にある。
息を一つ吐いて蒔田を見上げると、蒔田が目を細めて優しく笑っていた。
「蒔田くん。見てほしいものがあるから手離して」
「嫌」
「…いやって言われても」
「初めて文哉が手を繋いでくれたから。しばらくこれで」
「…ぇえ?」
「文哉〜。この山鉾は何?」
蒔田が手を繋いだまま話題を霰天神山に向けた。
俺は、男と男が浴衣姿で手を繋いでいる…というシチュエーションの只中、しかも当事者であるという現実にまたまたパニックになりかける。
顔が火事や…。
あ。
そんなタイミングで霰天神山?
俺は神様から愛されてるんちゃうやろか。
神様からも。
「これは鉾じゃなくて山。霰天神山」
「あられ?…京都に大火があったとき、時ならぬ霰が降り、猛火はたちまち消えた。そのとき一寸二分の天神像が降ってきた。あぁこの天神を祀ってるんだな」
蒔田は山の説明が書かれた木板を読み上げながら、俺の手を離さないという意思を手のひらの力で伝えてきた。
「火除けの守り神やねん」
「いろんな神様がいるんだな」
「俺の火事消してくれへんやろか」
「文哉の火事?…あぁ。そんな顔してるな」
「わかってるんやったらいったん離して!」
俺が右隣の蒔田を睨みつけると、蒔田が大きく笑ってから手をそっと離した。
「火事は消しても、恋の炎は消すなよ」
「それ言い方昭和のオッチャンやん!」
「ふはは。で。何見せてくれるって?」
「切り替え早…」
俺は気を取り直して解放された右手を浴衣の左袖口に入れ、小さな巾着を出した。
霰天神山の人の流れが俺たち二人を東に運び、烏丸通に向かわせていた。
巾着の中から、俺は銀色のピアスをコロンと出す。
俺が初めて作ったピアス。
シルバー950で作った銀細工。
蒔田の詩からインスピレーションを得て、『流れる』という動きを表現したもの。
蒔田がピアスを見てハッと息を呑んだのが分かった。
俺の手のひらを真ん中にして男二人が錦小路通西入ルの街角で立ち止まっているのを、何人もの人が振り返って見ている。
「文哉…完成してたのか」
「一つだけ。あと二つを八月に仕上げるわ」
「これ…すごい。文哉。クールだ」
「蒔田くん。あそこの軒下借りよ」
俺は烏丸通に出る手前にある町家を指さして蒔田の腕を掴んだ。
え。
俺、自然に触れたな。
今。
「ここに立っててな」
俺は手元のシルバーピアスのキャッチを外した。直ぐにつけられるように消毒は済ませてきてある。
「かなり重たいかもしれん。耳痛かったら言って」
俺は蒔田の左耳に触れた。
ピアスホールを開けたことがない俺は、ピアスをつけるという行為をしたことがなかった。
痛くないと理解していても、ピアスの針が蒔田の耳朶を貫く瞬間にゾワッとしてしまう。
「…痛くないんやんな?」
「大丈夫」
「似合う。良かった。これやと浴衣にも合うわ」
「俺がつけていいの?」
「うん」
「文哉が作ったピアスは片方だけなんだ?」
「蒔田くんにつけてもらいたいピアスを作ろうと思ったらそうなってん。フツーはピアスって二つやんな?」
「うん。俺はホール一つにしてるから片方はお蔵入り」
「やんな。だから。俺が作るのは片方でいい」
「…他の人が使えないだろ」
「それがいい。片方でいい…ちゃうわ。片方が、いい」
「それ。文哉が作るピアスは俺限定ってこと?」
「まぁ。そうやな」
俺がそういうと蒔田が俺の浴衣の衿元を強く掴んだ。
え?
なんか俺怒らせた?
人が見たらカツアゲされてると心配されるカッコやん。
「俺。文哉にくちづけしたい」
蒔田の言葉に俺は慌てた。
さっき火事消したばっかりやん!
また顔が火事になったらどうしてくれるん。
霰天神山の御守り買えば良かった…。
「なんでまた古文みたいな表現で言うン」
「それは後で説明するから。フツーに言ったらいい?」
「…あかん。無理。人見てるやん。はよぉ手ぇ離して」
「やだ」
「やだ、ちゃうわ」
「じゃあ頬かおでこだったらいい?」
「あかん!話聴いてた?」
「聴いてた。人が見てる」
「わかってるやん!」
「じゃあ部屋に戻ったら」
「じゃあって何やねん!」
蒔田がそっと手を離した。
俺はホッと溜息をつく。
蒔田に荒々しく掴まれていた衿元を慌てて押さえながら俺は目線を落とした。
あ。
俺の浴衣。
はだけてるやん…。
やっぱ。
ライオンの檻いるんちゃう?
祇園祭の御囃子に包まれながら、夕闇の中で蒔田の顔を見た。軽く睨みつけてやろうと思いながら。
蒔田は空を見上げながら真面目な顔をしていた。
俺は、意表を突かれて文句が言えなくなってしまう。
蒔田は左耳のピアスを左手で触っていた。
宵々山の今日は晴れていて、陽が落ちるまでは青空が広がっていた。
蒔田が見ている空に星が出ているか、祇園祭の明るい光に包まれたこの場所からはわからない。
見えてないけど空には星が瞬いているんだろう。
「文哉。ピアスありがとう」
「うん」
「さっきはごめん」
「うん」
空から俺に視線を移して蒔田が言葉を出した時、暗闇に浮かび上がる駒形提灯の明かりに照らされた蒔田のピアスがキラリと光った。
銀色の光を左耳に燈した浴衣姿の蒔田。
俺は蒔田の立ち姿に“この人が好きや”と思った。
たぶん。七十七回目くらいに。



