祗園青空下上ル〜人嫌いの俺がくちづけするまでの、怒涛の七十七日〜



 これは同棲…というやつなんだろうか。

 あの夜。
 俺が蒔田のスマホからシュウに連絡を取った夜から、俺は自宅には戻っていない。


―おにぃ泊まるん?蒔田さんの部屋やんな今。
―うん。笹木先生…家に来はるかもしれへん。
―来たで。
―えっ?…もう?
―ふみのスマホ届けに。
―何て言ってはった?
―文哉さんが忘れていったみたいです。顔色悪かったから体調が優れなかったんじゃないか…って。
―…ぇえ。
―ふみ顔面蒼白やったんやて?
―…ん。まぁ…。
―今はどう?
―今はかなり元気。蒔田くんの部屋で安心してる。
―良かった〜。
―シュウは初めて笹木先生に会ったやろ。先生と喋ってどう思った?
―あ〜。DV男。
―ぇえっ!?
―すっごい紳士な喋り方してさぁ。ふみを気遣う言葉並べて。でも目がこっわいねん。
―シュウって人を見る目あるんやな…。
―おにぃに何かしやがったなぁって俺、ニッコニコ笑いながらこぶし握っててん。俺も自分が怖かったわ〜。


 シュウに蒔田が直接挨拶をしたいというのでスマホを返し、蒔田がシュウとやり取りをしているのを深緑色のソファに座りながら眺めた夜。
 俺は、二人の男から守られている。
 こんなふうに思いながら、蒔田がスマホを耳に当てて大笑いしているのを俺は見つめていたんだった。


「シュウに服持ってきてもらうわ」

 今日から文月だ。
 七月の太陽は心なしか、陽気だ。先月までの雨が空のくすみを洗い流して太陽の透明度が上がっている。
 この二日、蒔田に服を貸してもらったりコンビニで新しい下着を買ったりして旅先にいるような気分のまま、なんとか大学に行った。
 
「うん。何も持たずに来たしな。俺、修哉に会いたい」
「シュウも同じこと言ってた」
「お、相思相愛」
「三日前、電話でシュウと何を話して笑ってたん?」
「修哉が俺に“ ふみは今日着物を着てませんよね ”って言ったんだ」
「着物?」
「うん。変なこと言うなと思ってたら“ 洋服だったら脱がせやすくていいですね ”って。俺、笑った」
「シュウ…」
「文哉の弟だし個性的だろうとは想像してたけど俺の予想をかっ飛んでた。“ 俺は猛獣じゃねえよ ”ってきちんと言っておいた」
 どんな会話してんねん…。
 蒔田が朝食のために珈琲を淹れながら、背中を向けたまま笑い続けている。
 テレビの置かれていない部屋にある家電はトースターだけだった。俺は二人分のトーストを焼いた。
 電子レンジと小さな冷蔵庫は、台所とも呼べない狭い空間に置かれていて、ガス台で湯を沸かしていた蒔田を押し潰そうとしている。
 蒔田はそんなことを全く気にもかけていないふうに優しいメロディーを口ずさんでいた。



 蒔田が先に大学に行くのを朝に玄関で見送った。
 シェルブルー東山に一つしかない洗濯機の横を通り過ぎ、義定さん命名“ライオンの檻”を蒔田が内側から開けて出ていく。
 俺は心の中でささやく。
 いってらっしゃい。
 家族以外の誰かを朝に見送っている俺。
 新しいステージの俺。
 フェンスが閉まる瞬間、蒔田は顔を上げた。
 俺が101号室の扉から顔と半身だけ出して蒔田の背中を見続けていたことを確信していた顔。
 いってきます。
 蒔田がそう心で言っていたんだと思う。
 すっごく嬉しそうに、大きな笑顔を見せた。
 また夕方に会えるな。
 狭い部屋で一緒に朝まで過ごそう。
 蒔田の心の声が俺に届く。たぶんこれは、俺の中に住む妄想小人が創り出した台詞ではない。
 きっと。


 俺は工房に今日の夕方も行かないつもりだ。
 初日は、休むということに葛藤した。
 師匠の怒りを孕んだ目を思い出すと体が強張るのに、見習いという身分で工房に出入りする俺が病気でもないのに休むだなんて…と別の怯えが生じてしまって。
 金工芸の匠の道に進みたいと思っている俺が、双葉会に所属する工房から逃げ出したあかつきには伝統工芸の世界で生きていけなくなるんじゃないかと怯えた。
 こんな思いに囚われていたから、蒔田がいなければ工房に向かったかもしれない。
 蒔田が突然ニュースキャスターみたいに『危険事象を認知した場合には被害者を帰宅させることなく安全な場所へ速やかに避難させることとする』と言い出したときは、他人事みたいに思ったけれど時間が立つと分かる。
 俺が安全な場所にすみやかに隠れることができたから。
 体の震えを止めてくれる相手がいる場所でいったん守ってもらえたから。
 こんなふうに安心できる居場所を手放したくないという気持ちを原動力にして怯えに抗うことができるんだって。

 
 平日に三日続けて修業を休むなんて初めてのことだから、体が馴染まない。
 態勢を立てなおさないと。
 俺はモスグリーンの葉に包まれながら思案しているミノムシの自分を妄想していた。 

 うん。
 やっぱり葉っぱに囲まれてるみたいで安心するわ。
 ここ、安全基地みたい。

 俺は蒔田の部屋のベッドに横たわっていた。
 深緑色のベッド。
 予想通り。
 蒔田の狭い部屋にスタイリッシュに置かれたソファを見て、スペースの無さに「どこで寝るん?」と尋ねた俺は正しくて。
 三日前の夜、蒔田が背もたれを押すとギギギと音がしてソファはモスグリーンのベッドに様変わりした。
 ソファベッドなるものが世にあることを知らなかった俺は、初めて101号室を訪れた日に蒔田のベッドでうたた寝をしていたんだという事実に気付いて頬をまた熱くしたんだった。
―あの日の俺。蒔田くんのベッドで寝てたん…?
 俺はどうも激しく赤面すると無意識に涙が少し浮かぶようだ。
 蒔田は俺のそんな顔を見て、優しく無言で新しいリネンを用意してくれた。俺にベッドを譲り、蒔田はラグの上にシーツを敷いて寝た。
 約束を守って、ゆっくり進めてくれているのがわかる。
 
 俺との距離を縮めるのを。
 俺に触れるのを先延ばしにして。
 
 四月に蒔田に出逢った後、次の合同授業で一度だけ蒔田から触れられたことを俺はよく反芻する。
―なぁ文哉。おまえ。熱あるんじゃねぇの。
 そう言って蒔田が俺の額に手を添えた日のことを。
―熱は……ないです。
 そう言った俺の言葉を疑うようにして、蒔田は俺に触れたまま斜めの視線を俺の顔に注ぎ続けたんだった。
 この記憶だけで、俺の心臓が早鐘を打ち始めるのもいつものことだ。

   まだ触れさせてくれない君は
   流れる
   緑色の葉のようにすり抜けて

 いつか、蒔田をすり抜けようとせずにいられるんだろうか。俺は心を覗き込む。
 すり抜けたりなんかせず、とどまって。
 とどまる以上に。
 絡め取られたいと思うような俺になるんだろうか。
 どうして、こんなにも好きという思いが溢れてるのに、俺は相手からすり抜けようとしてしまうんだろう。
 触れさせてくれないって言い方に、俺の心が反応している。
 触れたいって思ってもらえるのは嬉しいと思う自分が、確かにいる。
 すごい変化だと我ながら思う。
 うん。成長してるやん。
 俺は?
 蒔田に触れたい?触りたいと思う?

 うん。触れたい。
 
 俺は、深緑色のベッドに横たわったまま静かに愛について深く考察した。
 モスグリーンの葉に包まれたミノムシのままで。
 


▦ ▦ ▦


 
 態勢を立てなおすと決意した俺は、大学の授業のあとシェルブルー東山に帰らずに叔父の工房を訪れた。
 これからのことを相談するためだ。
 夏の間に総合芸術クラスの課題を仕上げる。俺は叔父の工房を使わせてもらいたかった。
 夏休み明けに作品を提出して教授に観てもらう。その後、秋から学年末までクラスメイトで協力して企画して展示会などで大学全体に公開する流れだった。



「文哉。優しい顔になったやん」
「そう…?」

 叔父は俺の顔を見るなり、嬉しそうに目を細めてこう言った。
 子どものいない叔父は、甥の俺を息子のように可愛がってくれていた。
 俺がシュウ以外の同世代と交わろうとしないのを叔父は常に心配していて、俺はそんな叔父にも尖った態度を取ることもあった。今日の俺が全身の力を抜いて柔らかい顔をして工房の扉を開けたとき、叔父はとても驚いたようだ。

「文哉が工房使うのぜんぜんかまへんで。大歓迎するわ。でも兄さんとこの工房もあるやん」
「父さんとこはあかん」
「なんで」
「父さん俺のこと気にしすぎる。創作してる背後でウロウロされたらかなんわ」
「言えてる」
「シルバー950を使って銀色ピアスを3種類作りたい」
「おぉええやん。うちの若い衆でハンドメイドジュエリーやってるやつおるから相談したらいいわ」
「そうなんや。みずどり堂のシルバー使ってもいいん?」
「えぇよ。925より銀の白さが強くなるのがええんか。950は高級感出せるな」
「…あの色が。似合う人がおんねん」

 蒔田の立ち姿が浮かんだ。
 俺はまた、蒔田の残像と今日も一日対峙しないといけない。
 夕方にはまた、その本人に会うというのに。

「笹木堂では工房使わせてくれへんのか」
「……」
 俺が表情を硬くしたのを叔父が気付いたのが分かった。
「逆にえぇねん。みずどり堂を文哉が初めて使ってくれるのが嬉しいんよ」
 俺は言葉を出せないでいた。
「昨日の昼前に笹木先生が、うみどり堂の工房に初めて来たって兄さん驚いて連絡してきたわ」
「…え。絢堂先生が父さんのところに?」
 俺の心臓がまた固く乾いた音を立て始めた。
 蒔田いわく、七年以上束縛されていた俺は容易には呪縛が解けないらしい。怖くなるのは当たり前らしい。
 蒔田は何度も俺に言い聞かせた。
 だから。
 そうなるのが当然だから、怖いという気持ちに支配されても絶対に笹木堂にはもう戻るな。
 俺を安全基地にしろ。
 シェルブルー東山101号室に帰ってこい…って。
「双葉会の会合とかで挨拶するくらいやったからな。笹木先生ふと思い立って寄ったんやて言ってはったらしい」
「…そうなんや」
「まぁうみどり堂も地味にやり過ぎてるし。たまには笹木先生突撃の刺激くらいあったほうがいいわ。兄さんカミナリに打たれるくらいしたらえぇねん。平和過ぎ」
 叔父はたぶん、俺と笹木先生の間に何かあったから俺が顔色を変えていることを理解してるだろう。
 それでも何も触れず、笑い話にしてくれた。
 俺の親族はひたすらに優しく、俺に甘い。
 氷点下の厳しさを持つ師匠とは真逆に。



「文哉また宵々山行くやんな」
「行く」

 装飾金具の製作を一部受け取っている父の小さなうみどり堂と叔父が継いだ織田家のみずどり堂は、祇園祭の山鉾に作品を提供していることもあって夏前は忙しい。
 逆に祇園祭が始まると、山場を越えて一息つく。
 鬼板(おにいた)破風(はふ)など様々な部分に精緻な彫金が施された金具が使用されているが、これらの錺金具(かざりかなぐ)を父が作っている姿を見て俺は育った。祇園祭が始まって工房の職人が休みに入り、のんびりしはじめると俺はわくわくした。親以外の大人に連れられて宵々山と宵山の二晩を楽しめるからだ。
 去年は浄妙山に縁がある職人に連れられ、祭り期間中しか観られない伝統工芸品を鑑賞しにいった。この山鉾のご神体は筒井浄妙が24本の矢を入れた(えびら)を背負い、弓を持つ姿で知られる。
 武具飾りが美しかった。俺は同じような年代の男が浴衣姿の女性に見惚れている横で、一人で武具の前で瞳を輝かせていたらしい。
―お願いやから!
 誰かニンゲンのことを綺麗やと思ってくれ!
 おにぃ〜。
 そうシュウが泣きそうに言ったのを聞いたうみどり堂の職人数名が大笑いし、俺は憮然としていたんだっけ。

 弓矢町の家々で祭り期間中に武具が飾られるのは毎年のことだから、再来週の宵々山には蒔田と行こうか。
 あ。
 浄妙山は後祭か。再来週の前祭には出てへんわ。
 今年はどっちも行こう。
 前祭と後祭。
 蒔田にも見せてあげたい。
 あの美しい工芸品を。 武具飾りを。




 その夜、俺がみずどり堂を辞してシェルブルーに戻り、鍵を使うことなくフェンスの隙間から手を差し入れてライオンの檻を開けていると蒔田もちょうど帰宅してきた。
 俺は蒔田の姿を見ると心がふわっと跳ねた。

「おかえり」「ただいま」

 二人の声が重なって、互いに笑い出してしまう。

「文哉に渡す部屋の鍵作ってきた。こっちのフェンス鍵は不要だからひとつな」 
「101号室の鍵…」
 俺は手のひらに落とされた一つの鍵が銀色に輝くのを、夕方のシェルブルー東山の101号室前でしばらく見つめ続けた。
 工芸品でも何でもない普通の銀色の鍵を見て、心が震えるのは初めてだった。
 なんの変哲もない鍵を美しいと思うなんて。
 この春から、俺にとっては初めてのことばかりだ。



 部屋に入って、俺はすぐに祇園祭に一緒に行こうと蒔田を誘う。ユニットバスに湯を溜めながら、蒔田は俺を振り返って笑顔で答えた。
「宵々山?行ったことないな。文哉連れてって」
「1年生の夏、祇園祭に行かんかったん?」
「気になってたんだけど東京に帰ってたんだ」
「…あ。蒔田くんの実家って東京なんや」
「そう。三鷹ってとこなんだけどさ」


     花を渡そうか
     どんな花がいいかな
     星を見上げようか
     隣に君を誘って
     (うた)を歌おうか
     僕の想いをなぞる詩を

     どうすれば
     君に()れられるかな

 
 顔も知らない男の声が再生された。
 蒔田の高校時代の同級生。
 この曲をシュウの部屋で聴いた時に胸が痛んだのは、蒔田が過去に彼に触れたいと思ったんだなと想像したから。
 蒔田は彼に触れたんだろうか。
 片想いだったと言っていたけれど、同級生として過ごした日々の中で相手に触れたくて気持ちを抑えられずに触れることもあったんだろうか。 
 触れて。
 彼も触れさせて。
 夜空を見上げたんだろうか。
 
 あかん…。
 俺また恋煩いループやん…。

 俺は気持ちを切替えるべく「先にお風呂入らせて!」と言って、蒔田に借りたスエットを抱えて風呂場に避難した。
 頭を冷やさないと。
 俺は夏でもシャワーではなくて湯に浸かりたいので、蒔田に湯舟に湯を溜めてもらっていた。
 蒔田は綺麗好きで掃除が行き届いており、湯舟が陶器のようにツルツルしていている。
 そのツルツルした象牙色の湯舟に俺はおでこをつけた。

(今は俺を触りたいって言ってくれてるやん…)

 そう心で思って胸の痛みを自分で柔らげようとしたけど、俺はそのままブクブクと湯の中に顔を沈めてしまった。
 触わられるのは苦手なはずなのに、想像すると心臓がばくばくするのは何故なんだろう。
 狭い湯舟で湯に浸かりながら、俺は勢いよくシャワーで頭に冷水を掛ける。
 滝に打たれ続けている気分で。




 俺が風呂から上がったタイミングで、修哉がシェルブルー東山101号室に俺の荷物を届けに来てくれた。

「うっわ。愛の巣せっま!」
「変な言い方せんといて!」
 
 俺は慌ててシュウの口を押さえた。
 待ったをかけないと何を言い出すかわかったもんじゃない。
 でも、せっま!って俺も言ったな…。
 シュウが玄関に入った途端に遠慮なく放ったコメントに、蒔田は大笑いした。
 笑っている蒔田をシュウがじっと見て、俺の手をそっと掴んで口元から外した。
「蒔田さん。はじめまして」
「うん修哉。はじめまして」
「ふみが好きになる顔や…」
「俺のどんなところが?」
「徹底的に完璧に綺麗な感じ」
「綺麗ってのは文哉みたいな顔のことだろ。俺は違うんじゃないかなぁ」
「そんなことないです。その顔で生まれてくれてありがとうございます」
「お礼言われたのは初めてだな」
「ところで蒔田さん」
「なに」
「どこで寝るんですか?」

 何で俺とおんなじことを…。
 俺はシュウが蒔田に不思議そうに尋ねている姿を見て、ソファに沈み込みながら脱力した。
 俺とシュウは、見た目も志向も性格も何もかも違うと思っていたけれど。
 同じ血が流れてるから変なとこが似るんやろか。
 あ。
 そういえばシュウは誰か好きなコがおるんやろか。
 俺以外に。
 女子か男子か。
 俺、こんなこと聴いてみようとも思わなかった。
 今までは。




「芸大って東京にもあるのに京都に来たんや」
「うん。俺には実家が二つあるんだ」

 シュウをライオンの檻まで見送ってから部屋に戻った俺が蒔田に声を掛けると、蒔田はソファの横を優しく右手でぽんぽんと叩いた。

 ココニスワレの合図。

「高卒で働いてたのは大学に進学する余裕なかったから自立するため。でもいろいろあって滋賀にいる伯母夫婦と養子縁組することになってさ。20歳で大学進学させてもらって」
「あ…。それで平野から蒔田になったん」
「あれ。俺が平野だったって知ってた?」
「…シュウが教えてくれてん。à gauche(ア ゴーシュ)の作詞家の名前はhiranoyakuやって」
「うん、蒔田ってまだ2年目だから馴染んでないんだよな。でも文哉が名前呼んでくれてるうちに俺の名前になった気がする。いつかは下の名前で呼んでもらうけど今はまぁいいや」
 並んで座る蒔田が、珈琲を入れたマグカップを右手に持ったまま剽軽に笑った。
「俺は明日から叔父の工房に行く」
「いよいよ作りだすんだな」
「まず一つ。大学の授業の合間と夕方の時間で」
「うみどり堂にもアイツ来たら。俺を呼べよ」
「…それは考えてへんかった」 
 俺は瞬時に体を固くしたけれど、蒔田がうみどり堂に駆け込んでくるイメージが頭に溢れて安心できた。
 怒った蒔田の顔。
 俺は蒔田が息を切らせている顔を思い浮かべ、妄想の中の俺自身が蒔田に見惚れている映像がリアルに浮かんで体の力が抜けた。
 俺の妄想力。
 怖すぎる。
 蒔田のこめかみから流れる汗と息づかいを脳内で再生して、俺は心臓が高鳴った。
 俺はかなりヤバいやつかも。
 でも。
 恋人の顔面に溺れて妄想しまくっているおかげで、俺は笹木絢堂の冷たい表情を思い浮かべずに済んだのかもしれない。

「三つ作りたいねん。銀色のピアス」
「文哉の中ではカタチになってんだな」
「シュウ…」
「うん」
「今、付き合ってる彼女がおんねんて」
「…何その顔。文哉知らなかったの?」
「さっき見送る時まで尋ねたことなかったから」
「文哉と修哉。普段どんな会話してるんだ?」
「…あまり聞かせたないわ。シュウの彼女は高校の同級生で一緒の大学に進学したんやって」
「やるな」
「さっき初めて聴いてん」
「修哉はお喋りなのに黙ってたんだな」
「彼女と一緒に俺が開国するの待ってたって」
「文哉。鎖国してたの?」
「そうみたい」
「修哉は表現が独特。でも優しいな」
「そうやねん」
「普通そこまでできないよ」
「…うん。俺が死ぬと思ったんやって」
「修哉に恋人がいたら?」
「うん。俺が死ぬってどういうことやろ」
「文哉が寂しさを感じて生きていけない」
「…そうか。これが寂しいって気持ち?」
「今は俺が居るから生きていけるだろ?」
「うん。そやな。生きてる」
「修哉も兄弟愛が過ぎるな」
「…今度会わせたいって言われた」
「会っておいで」

 俺と蒔田の間には5㌢くらいの距離が、あった。
 俺仕様。
 蒔田仕様だとしたらどんな感じなんだろうか。
 0センチの距離は勿論のこと、肩を抱かれて互いの頬が触れて…というところだろうか。

―俺はあんたを触りまくりたいけど。
 文哉のペースを尊重するから。

 そう静かに言ったあの日の蒔田の表情は、真剣だった。




▦ ▦ ▦



 各山鉾町でくじ取り式が行われ、それぞれの町に於いて祭礼奉仕の決定、神事の打合せを行っている頃、俺はうみどり堂で瞑想していた。
 迷走していた…のかもしれないけど。


 空想状の弓矢を放つ若武者。
 それを俺はひらりとよける。
 彼は俺を狙って矢を放ったわけではない。彼と俺が生きる時代は違っていて、時空が歪んでいるだけで人生は交わりはしない。
 それでも俺は、飛んでくる矢の軌跡を見ることができる。
 流星のように輝く光の糸を、俺は美しいと感じる。
 流れるような矢の軌跡。
 この動きを、銀色のカタチにして。


 俺が中学生、シュウがまだ小学生だったとき。
 一度だけ祇園祭の長刀鉾町の御千度を観に行ったことがある。
 平日だったので学校を休まないといけなかったけど、父と叔父に行けと命じられたのだ。
 父たちも同じような年頃に観たと言っていた。
 町内の大人が着物を着て稚児を伴い参拝し、神事の無事を祈る。
 祭典後に本殿の周りを右回りに3周する。拝礼する大人に普段着の俺たちが紛れ込んで歩いたけれど、不思議な時間だった。
 もともと妄想の世界にすぐに入り込んでしまう俺だったけれど、この七月一日の参拝のときは特別だった。
 俺は確か、違う時代を生きる何者かと一緒に歩いている気がしたんだったと思う。
 俺は怖くなって右隣を歩くシュウの左手を掴んだんだった。
 前を見たまま。
 シュウも前に視線を向けたまま、俺の右手を強く握り返してから手を離した。
 あの時以降、俺は誰かと手を繋ぐという行為をしていない。

 俺はうみどり堂の工房で、祇園祭を象徴する笛と鐘の音に包み込まれていた。実際には鳴っていなくても、俺にはリアルな音色だった。




「蒔田くん待ってて。もうすぐできるから」
「先にシャワー浴びてるから。指切るなよ」
「うん。たぶん大丈夫」
「たぶんじゃ駄目だっつーの。俺しようか」
「あかん。俺もやればできる」
 …はず。
 心の中で俺は二文字つけ足して夕飯作りを再開した。
 料理は嫌いじゃない。
 なんなら得意と言ってもいい。
 工房で修業する以外は誰とも交流することのない俺にとって、週末は自由になる時間がたっぷりあった。バスケで腹を空かせて帰ってくるシュウを喜ばせようと、中学時代から俺は週末にあれこれ作ってきた。
 今回いきなり蒔田と一緒に生活するようになって、俺は適当に作った夕食で蒔田が感動してくれたので逆に驚いた。意図せず俺は免疫力全開レシピを作っていたようで、相手の胃袋を掴むってこれか…と呆然とした。
 今なら「カラダにいい最新NEWS」とか「注目素材を取り入れてカラダメンテ」とかがコンテンツの雑誌を手に取る女子高生の気持ちが分かるかもしれない。
 蒔田が喜ぶのが嬉しくて。
 交互に夕飯を作るってのが楽しくて。
 うみどり堂の帰りに七条大橋の近くのスーパーに寄るのもわくわくして。
 人間は短期間で変わるものだという事実に20歳になる前に気付いた俺は少し老成しすぎかもしれない。
 今回、蒔田が心配しているのはレシピの選択や料理の腕という問題ではなく。
 今日さらに。
 俺の創作スイッチが深く入ってしまったから。
 それは俺も自覚していたけれど、蒔田が今日の俺を見て工具以外の刃物を持たしたくないと言ってきた。
 包丁を持つ手が危なっかしくて仕方がないみたいだ。


 弓矢が象徴するもの。
 俺は浄妙山に蒔田を連れていこうと思ったことで、自分が創る作品のデザインを考えながらもさまざまな思考が横入りする脳内多忙時期に突入した。
 シュウは俺が金工芸の職人見習いモードになっている時は顔付きが違うと指摘した。
 好きな伝統工芸の世界に浸っている時はシュウの言葉が届かないときもあるようで。
 きっと深く深く、俺は一人で俺自身の聖域に潜っていっているんだろう。
 浄妙山は神輿の先導と警護という使命があったような。祇園社の神聖な領域を守る役割って、音楽の世界で言えば表に立たずに裏で支える作詞家みたいなものではないだろうか。
 俺は最近、やたらと蒔田のことばかり考えてる気がするけど仕方ない。
 弓矢の持つ力で疫病退散や厄除けの祈願をしていると、去年弓矢町の町衆から聴いた気がする。
 祇園祭の弓矢は、単なる装飾品じゃなく、意味があるんだって。
 祇園祭のこの時期に、矢の軌跡のような『流』を生み出すことが俺に出来たら。

「文哉!」
「はい!」

 俺は狭い空間で振り返って、蒔田と目を合わせた。
 前髪から雫を落としながら、土砂降りの中を歩いて帰宅した少年みたいになっている蒔田が綺麗だと思った。
「…指。切ってないよな?」
「…うん。繋がってるわ指」
「やめろ!そういう言い方」
「ごめん。ぼんやりしてた」
「俺もごめん。急に声掛けるほうが危ないのに心配で」
「…だから大丈夫やって言ったやン」
「大根おろしてたの?」
「うん。指おろしてへんから安心して」
「あ〜もう!やっぱり一ヶ月くらい俺が作る」
「なんでやねん」

 蒔田が俺を心から気に掛けている様子がくすぐったくて、俺は自然に口角が上がってしまう。

「真夏に鍋って発想が新鮮」
「蒔田くん一人暮らしで土鍋あるのがすごいわ。俺は夏に熱いもの食べるの好きやねん」

 俺が今日、指を切らずに長ネギを切り、指をおろさずに大根おろしを作ったのは甘酒みぞれ発酵鍋を作るためだった。
 こんなに簡単で美味しい料理はない。
 白菜をざく切りにして(この時は妄想小人を眠らせておき)長ネギは斜め切り。玉ねぎ、椎茸、豚肉と豆腐を食べやすい大きさに切るだけ(もうここでは小人が目覚めても大丈夫)。
 土鍋に切り干し大根と水と赤穂の塩を入れ、蒔田がシャワーを浴びている間に切った野菜を煮る。
 味噌と甘酒を溶かし入れて大根おろしを加えるだけで、冷房に冷やされた体を温めてくれる一品ができる。
 夕食の時だけ出す丸い白いテーブルの上に土鍋を置くと、部屋の中が湯気で霞んだ。

 真夏に冷房を入れて土鍋を囲んでいる大学生って、世界中で俺たちだけじゃない?
 世界中の恋人たちが食事の時間を楽しんでて。
 二人だけの食事は特別で。
 フレンチ。イタリアン。和食。
 ブータンの唐辛子多用料理ってのもあったな。エチオピアの郷土料理は「インジェラ」って名前やったっけ。
 俺なんで覚えてるんやろ。
 料理も好きなんかな。俺。
 インドネシアの「ルンダン」は世界一美味しい料理に選ばれてた。
 ジャマイカの果物を使った「アキ・アンド・ソルトフィッシュ」。毒性を持つ熱帯の果物「アキ」と塩ダラを炒めたおかず。
 さすがにジャマイカの果物は手に入らないけど。
 蒔田くんが異国料理好きなんやったら簡単なレシピ手に入れて作ってみようか。
 俺が作るのは和食が多いから、週イチでどこかに旅した気分で新しい料理にトライするのいいな。
 いろんな国でいろんなご飯を前にして夕食を共にしてる恋人はいるだろうけど、今この時間に甘酒みぞれ発酵鍋を食べてる男子二人は俺たちだけやと断言できるわ。 
 二人でご飯を食べるって贅沢な時間やなぁ。

 木綿豆腐を口に運んで「うまい〜!」と言っている蒔田の口元を見ている時、俺は金工芸職人モードではなく恋人モードに初めて切り変わっていたのかもしれない。
 蒔田がゆっくりと箸を置いて、身を寄せてきても俺は気にならなかった。
 ゆったりとした心持ちでいた。
 もしかしたら俺の中でいちばん恋愛に長けた妄想小人が、少しの間だけ俺の前面に出てくれていたのかもしれない。
 ただ、それは束の間のできごとだった。
 顔を寄せてきた蒔田のイケメンぶりに妄想小人も怖じ気づいて逃げ出したようで、俺は顔を逸らしてしまった。
 蒔田の唇が、俺の左頬から3㌢くらい浮かべた距離のところにある。
 俺が右下を見なかったら、きっと互いに唇を重ねていたと思う。
 これが。あの…。
 互いに想いを伝えたくても言葉が途切れてしまうという、あの行為。
 俺はまた、震え出してしまう。
 嬉しいのに。
「逃げたらアカンやん…」
 俺が震える声で自分でダメ出しすると、蒔田がそっと笑って言う。
「それ。俺のセリフな」

 そして、優しくつけ足した。


「うそ。逃げてもいいよ」