祗園青空下上ル



 これは同棲…というやつなんだろうか。

 あの夜。
 俺が蒔田のスマホからシュウに連絡を取った夜から、俺は自宅には戻っていない。


―おにぃ泊まるん?蒔田さんの部屋やんな今。
―うん。笹木先生…家に来はるかもしれへん。
―来たで。
―えっ?…もう?
―ふみのスマホ届けに。
―何て言ってはった?
―文哉さんが忘れていったみたいです。顔色悪かったから体調が優れなかったんじゃないか…って。
―…ぇえ。
―ふみ顔面蒼白やったんやて?
―…ん。まぁ…。
―今はどう?
―今はかなり安心してる。
―良かった〜。
―シュウは初めて笹木先生に会ったやろ。先生と喋ってどう思った?
―あ〜。DV男。
―ぇえっ!?
―すっごい紳士な喋り方してさぁ。ふみを気遣う言葉並べて。でも目がこっわいねん。
―シュウって人を見る目あるんやな…。
―おにぃに何かしやがったなぁって俺、ニッコニコ笑いながらこぶし握っててん。俺も自分が怖かったわ〜。


 シュウに蒔田が直接挨拶をしたいというのでスマホを返し、蒔田がシュウとやり取りをしているのを深緑色のソファに座りながら眺めた夜。
 俺は、二人の男から守られている。
 こんなふうに思いながら、蒔田がスマホを耳に当てて大笑いしているのを俺は見つめていたんだった。


「シュウに服持ってきてもらうわ」

 今日から文月だ。
 七月の太陽は心なしか、陽気だ。先月までの雨が空のくすみを洗い流して太陽の透明度が上がっている。
 この二日、蒔田に服を貸してもらったりコンビニで新しい下着を買ったりして旅先にいるような気分のまま、なんとか大学に行った。
 
「うん。何も持たずに来たしな。俺、修哉に会いたい」
「シュウも同じこと言ってた」
「お、相思相愛」
「三日前、電話でシュウと何を話して笑ってたん?」
「修哉が俺に“ ふみは今日着物を着てませんよね ”って言ったんだ」
「着物?」
「うん。変なこと言うなと思ってたら“ 洋服だったら脱がせやすくていいですね ”って。俺、笑った」
「シュウ…」
「文哉の弟だし個性的だろうとは想像してたけど俺の予想をかっ飛んでた。“ 俺は猛獣じゃねえよ ”ってきちんと言っておいた」
 どんな会話してんねん…。
 蒔田が朝食のために珈琲を淹れながら、背中を向けたまま笑い続けている。
 テレビの置かれていない部屋にある家電はトースターだけだった。俺は二人分のトーストを焼いた。
 電子レンジと小さな冷蔵庫は、台所とも呼べない狭い空間に置かれていて、ガス台で湯を沸かしていた蒔田を押し潰そうとしている。
 蒔田はそんなことを全く気にもかけていないふうに優しいメロディーを口ずさんでいた。



 蒔田が先に大学に行くのを朝に玄関で見送った。
 シェルブルー東山に一つしかない洗濯機の横を通り過ぎ、義定さん命名“ライオンの檻”を蒔田が内側から開けて出ていく。
 俺は心の中でささやく。
 いってらっしゃい。
 家族以外の誰かを朝に見送っている俺。
 新しいステージの俺。
 フェンスが閉まる瞬間、蒔田は顔を上げた。
 俺が101号室の扉から顔と半身だけ出して蒔田の背中を見続けていたことを確信していた顔。
 いってきます。
 蒔田がそう心で言っていたんだと思う。
 すっごく嬉しそうに、大きな笑顔を見せた。
 また夕方に会えるな。
 狭い部屋で一緒に朝まで過ごそう。
 蒔田の心の声が俺に届く。たぶんこれは、俺の中に住む妄想小人が創り出した台詞ではない。
 きっと。


 俺は工房に今日の夕方も行かないつもりだ。
 初日は、休むということに葛藤した。
 師匠の怒りを孕んだ目を思い出すと体が強張るのに、見習いという身分で工房に出入りする俺が病気でもないのに休むだなんて…と別の怯えが生じてしまって。
 金工芸の匠の道に進みたいと思っている俺が、双葉会に所属する工房から逃げ出したあかつきには伝統工芸の世界で生きていけなくなるんじゃないかと怯えた。
 こんな思いに囚われていたから、蒔田がいなければ工房に向かったかもしれない。
 蒔田が突然ニュースキャスターみたいに『危険事象を認知した場合には被害者を帰宅させることなく安全な場所へ速やかに避難させることとする』と言い出したときは、他人事みたいに思ったけれど時間が立つと分かる。
 俺が安全な場所にすみやかに隠れることができたから。
 体の震えを止めてくれる相手がいる場所でいったん守ってもらえたから。
 こんなふうに安心できる居場所を手放したくないという気持ちを原動力にして怯えに抗うことができるんだって。

 
 平日に三日続けて修業を休むなんて初めてのことだから、体が馴染まない。
 態勢を立てなおさないと。
 俺はモスグリーンの葉に包まれながら思案しているミノムシの自分を妄想していた。 

 うん。
 やっぱり葉っぱに囲まれてるみたいで安心するわ。
 ここ、安全基地みたい。

 俺は蒔田の部屋のベッドに横たわっていた。
 深緑色のベッド。
 予想通り。
 蒔田の狭い部屋にスタイリッシュに置かれたソファを見て、スペースの無さに「どこで寝るん?」と尋ねた俺は正しくて。
 三日前の夜、蒔田が背もたれを押すとギギギと音がしてソファはモスグリーンのベッドに様変わりした。
 ソファベッドなるものが世にあることを知らなかった俺は、初めて101号室を訪れた日に蒔田のベッドでうたた寝をしていたんだという事実に気付いて頬をまた熱くしたんだった。
―あの日の俺。蒔田くんのベッドで寝てたん…?
 俺はどうも激しく赤面すると無意識に涙が少し浮かぶようだ。
 蒔田は俺のそんな顔を見て、優しく無言で新しいリネンを用意してくれた。俺にベッドを譲り、蒔田はラグの上にシーツを敷いて寝た。
 約束を守って、ゆっくり進めてくれているのがわかる。
 
 俺との距離を縮めるのを。
 俺に触れるのを先延ばしにして。

   まだ触れさせてくれない君は
   流れる
   緑色の葉のようにすり抜けて

 いつか、蒔田をすり抜けようとせずにいられるんだろうか。俺は心を覗き込む。
 すり抜けたりなんかせず、とどまって。
 とどまる以上に。
 絡め取られたいと思うような俺になるんだろうか。
 どうして、こんなにも好きという思いが溢れてるのに相手からすり抜けようとしてしまうんだろう。

 


▦ ▦ ▦


 
 態勢を立てなおすと決意した俺は、大学の授業のあとシェルブルー東山に帰らずに叔父の工房を訪れた。
 これからのことを相談するためだ。
 夏の間に総合芸術クラスの課題を仕上げる。俺は叔父の工房を使わせてもらいたかった。
 夏休み明けに作品を提出して教授に観てもらう。その後、秋から学年末までクラスメイトで協力して企画して展示会などで大学全体に公開する流れだった。



「文哉。優しい顔になったやん」
「そう…?」

 叔父は俺の顔を見るなり、嬉しそうに目を細めてこう言った。
 子どものいない叔父は、甥の俺を息子のように可愛がってくれていた。
 俺がシュウ以外の同世代と交わろうとしないのを叔父は常に心配していて、俺はそんな叔父にも尖った態度を取ることもあった。今日の俺が全身の力を抜いて柔らかい顔をして工房の扉を開けたとき、叔父はとても驚いたようだ。

「文哉が工房使うのぜんぜんかまへんで。大歓迎するわ。でも兄さんとこの工房もあるやん」
「父さんとこはあかん」
「なんで」
「父さん俺のこと気にしすぎる。創作してる背後でウロウロされたらかなんわ」
「言えてる」
「シルバー950を使って銀色ピアスを3種類作りたい」
「おぉええやん。うちの若い衆でハンドメイドジュエリーやってるやつおるから相談したらいいわ」
「そうなんや。みずどり堂のシルバー使ってもいいん?」
「えぇよ。925より銀の白さが強くなるのがええんか。950は高級感出せるな」
「…あの色が。似合う人がおんねん」

 蒔田の立ち姿が浮かんだ。
 俺はまた、蒔田の残像と今日も一日対峙しないといけない。
 夕方にはまた、その本人に会うというのに。

「笹木堂では工房使わせてくれへんのか」
「……」
 俺が表情を硬くしたのを叔父が気付いたのが分かった。
「みずどり堂を文哉が使ってくれるのが嬉しいんよ」
 俺は言葉を出せないでいた。
「昨日の昼前に笹木先生がうみどり堂の工房に初めて来たって兄さん驚いて連絡してきたわ」
「…え。絢堂先生が父さんのところに?」
 俺の心臓がまた固く乾いた音を立て始めた。
 蒔田いわく、七年以上束縛されていた俺は容易には呪縛が解けないらしい。怖くなるのは当たり前らしい。
 蒔田は何度も俺に言い聞かせた。
 だから。
 そうなるのが当然だから、怖いという気持ちに支配されても絶対に笹木堂にはもう戻るな。シェルブルー東山101号室に帰ってこい…って。
「双葉会の会合とかで挨拶するくらいやったからな。笹木先生ふと思い立って寄ったんやて言ってはったらしい」
「…そうなんや」
「まぁうみどり堂も地味にやり過ぎてるし。たまには笹木先生突撃の刺激くらいあったほうがいいわ。兄さんカミナリに打たれるくらいしたらえぇねん。平和過ぎ」
 叔父はたぶん、俺と笹木先生の間に何かあったから俺が顔色を変えていることを理解してるだろう。
 それでも何も触れず、笑い話にしてくれた。
 俺の親族はひたすらに優しく、俺に甘い。
 氷点下の厳しさを持つ師匠とは真逆に。



「文哉また宵々山行くやんな」
「行く」

 装飾金具の製作を一部受け取っている父のうみどり堂と叔父が継いだ織田家のみずどり堂は、祇園祭の山鉾に作品を提供していることもあって夏前は忙しい。
 逆に祇園祭が始まると、山場を越えて一息つく。
 鬼板(おにいた)破風(はふ)など様々な部分に精緻な彫金が施された金具が使用されているが、これらの錺金具(かざりかなぐ)を父が作っている姿を見て俺は育った。祇園祭が始まって工房の職人が休みに入り、のんびりしはじめると俺はわくわくした。親以外の大人に連れられて宵々山と宵山の二晩を楽しめるからだ。
 去年は浄妙山に縁がある職人に連れられ、祭り期間中しか観ることができない工芸品を見せてもらうことができた。ここは神体として黒装束の筒井浄妙が24本の矢を入れた(えびら)を背負い、弓を持つ姿で知られる。
 武具飾りが美しかった。俺は同じような年代の男が浴衣姿の女性に見惚れている横で、一人で武具の前で瞳を輝かせていたらしい。
―お願いやから誰かニンゲンのことを綺麗やと思ってくれ!おにぃ〜。
 そうシュウが泣きそうに言ったのを聞いたうみどり堂の職人数名が大笑いし、俺は憮然としていたんだっけ。

 弓矢町の家々で祭り期間中に武具が飾られるのは毎年のことだから、再来週の宵々山には蒔田と行こうか。
 蒔田にも見せてあげたい。
 あの美しい工芸品を。 武具飾りを。




「宵々山?行ったことないな」
「1年生の夏、祇園祭に行かんかったん」
「気になってたんだけど東京に帰ってたんだ」
「…あ。蒔田くんの実家って東京なんや」
「そう。三鷹ってあたりなんだけどさ」


     花を渡そうか
     どんな花がいいかな
     星を見上げようか
     隣に君を誘って
     (うた)を歌おうか
     僕の想いをなぞる詩を

     どうすれば
     君に()れられるかな

 
 顔も知らない男の声が再生された。
 シュウの部屋で聴いた時に胸が痛んだのは、蒔田が過去に彼に触れたいと思ったんだなと想像したから。
 蒔田は彼に触れたんだろうか。
 片想いだったと言っていたけれど、同級生として過ごした日々の中で相手に触れたくて気持ちを抑えられずに触れることもあったんだろうか。 
 触れて。
 彼も触れさせて。
 夜空を見上げたんだろうか。
 
 あかん。
 俺また恋煩いループやん。

「芸大って東京にもあるのに京都に来たんや」
「うん。高卒で働いてたのは大学に進学する余裕なかったから自立するため。でもいろいろあって滋賀にいる伯母夫婦と養子縁組することになってさ。20歳で大学進学させてもらって」
「あ…。それで平野から蒔田になったん」
「あれ。俺が平野だったって知ってた?」
「…シュウが教えてくれてん。à gauche(ア ゴーシュ)の作詞家の名前はhiranoyakuやって」
「うん、蒔田ってまだ2年目だから馴染んでないんだよな。でも文哉が名前呼んでくれてるうちに俺の名前になった気がする。いつかは下の名前で呼んでもらうけど今はまぁいいや」
 ソファに並んで座っていた蒔田が、珈琲を入れたマグカップを右手に持ったまま剽軽に笑った。
 俺と蒔田の間には5㌢くらいの距離が、あった。
 俺仕様。
 蒔田仕様だとしたらどんな感じなんだろうか。
 0センチの距離は勿論のこと、肩を抱かれて互いの頬が触れて…というところだろうか。
―俺はあんたを触りまくりたいけど。
 文哉のペースを尊重するから。
 そう静かに言ったあの日の蒔田の表情は、真剣だった。


 
 弓矢が象徴するもの。
 俺は浄妙山に蒔田を連れていこうと思ったことで、自分が創る作品のデザインを考えながらもさまざまな思考が横入りする脳内多忙時期に突入した。
 シュウは俺が金工芸の職人見習いモードになっている時は顔付きが違うと指摘した。
 好きな伝統工芸の世界に浸っている時はシュウの言葉が届かないときもあるようで。
 きっと深く深く、俺は一人で俺自身の聖域に潜っていっているんだろう。
 浄妙山は神輿の先導と警護という使命があったような。祇園社の神聖な領域を守る役割って、音楽の世界で言えば表に立たずに裏で支える作詞家みたいなものではないだろうか。
 俺は最近、やたらと蒔田のことばかり考えてる気がするけど仕方ない。
 疫病退散や厄除けの祈願を弓矢の持つ力でしていると去年弓矢町の町衆から聴いた気がする。
 祇園祭の弓矢は、単なる装飾品じゃなく、意味があるんだって。




 空想状の弓矢を放つ。
 それをひらりとよける?







7月1日から5日は各山鉾町でくじ取り式。
各町に於いて祭礼奉仕の決定、神事の打合せを行う。

■長刀鉾町御千度
7月1日 10:00~ (八坂神社)
町内一同稚児を伴い参拝し、神事の無事を祈る。 祭典後、本殿の周りを右回りに3周し拝礼する。



              L'histoire continue.