祗園青空下上ル〜人嫌いの俺がくちづけするまでの、怒涛の七十七日〜

 

 白川通りの柳はいつも俺の視線を揺らがせる。

 工房から出てきた俺は、体が震えていた。
 師匠に言われた言葉に体が冷たくなることは、七年間の間に無数にあったけれど。

 え。
 俺、スマホ奪われたん?
 俺が絢堂(けんどう)先生に手渡したわけじゃないよな。
 俺、家に帰るの怖い。
 絢堂先生。家まで押しかけてきたりする?
 どうしよう…。

 いつもだったら俺は工房での修業が終われば、柳の揺れを愛でながら白川通りから花見小路を横切って三条まで行き、地下鉄の駅まで歩く。
 俺は咄嗟に工房から飛び出すときに自分のリュックを手にしていて良かったと思った。
 スマホがなくても、財布はカバンにあるから電車に乗れる。いや。そういうことじゃなくて。
 そうじゃなくて。
 さっきの。
 絢堂先生の怒りは…何なン?



 気がつくと、俺はシェルブルー東山に来てしまっていた。
 京阪電車に乗らず、結局俺は鴨川まで出て川沿いを南に七条大橋まで歩いたのだった。
 101号室の前まで行こうとすると、学生用のレジデンスによくある鍵付きのフェンス扉に阻まれて進めなかった。前は蒔田が鍵を開けたんだろう。俺はフェンスがあったことを覚えていなかった。
 スマホがないから蒔田には連絡出来ず、部屋にいるかも分からなかったけど。
 そもそも部屋の前にも辿りつけないなんて。
 俺はうなだれた。
 それでも、前回ここに来た時に義定さんが言ってくれた言葉が耳に蘇った。

―たまには義定のオッチャンを頼りにしてや。
 僕は若者の味方やで。

「義定さん…」
 俺がチャイムを鳴らすと、義定さん本人がすぐに出てきてくれた。
「文哉くんやん。どないしたん」
「…こんばんは。夜分にすみません」
 時間は20時を過ぎてしまっているかもしれない。
「かまへん。顔色悪いで。大丈夫か」
「あの…。蒔田くんの部屋に行きたいんです」
(やく)くんの部屋か?自由に行きぃや」
「僕。本人に連絡取ってないんです。急に訪問することになって。あの。部屋ノックしようと思ったら部屋に辿りつけなくて」
「あぁ!ガードな。ライオンの檻みたいなやつな。あれな、文哉くんでも開けれるで。教えたるわ」
 義定さんが草履を履いて出てきてくれた。
 鍵付きフェンス扉の前に来た義定さんは、笑いながら俺に向かって言う。
「ライオンの檻やって僕は呼んでるんやけどな。男子学生ばかり住んでるやん。まぁ猛獣やなくて草食系男子ってコもおるやろけど」
「……」
「僕の手は入らんから鍵使わなアカンねんけど。文哉くんの細い手やったらここ抜けるやろ?」
 義定さんが教えてくれたフェンスの隙間に、俺は言われた通りに手を差し入れるとするっと入った。
「ほなノブの後ろに届くな?クルッと廻してみ」
 俺は手のひらをひねってノブに付いている水平の鍵を垂直に廻すと、ガチャンという音が夜の静寂に響いた。

「な?文哉くんやったら勝手に檻ン中入っていいで。あ、檻ン中言うたらあかんな。喰われにいくて言うてるみたいやもんなぁ。躍くんに悪いな」

 義定さんの優しい言葉に、俺は今晩初めて笑顔になれた。
 まだこわばった顔をしていたかもしれないけど。
 それでも。
「オッチャンが役にたって嬉しいわ」
「ありがとうございます」
 僕は喰われたりしないんで安心してください。
 いつもの俺だったら信頼できる義定さんには、こんなふうに柔らかく返事ができていただろう。
 でも今晩は無理だった。
 震えを隠して、笑顔を作っているだけで精一杯だったから。




「それ。文哉の先生、かなりヤバいな」
「……やっぱりちょっと…おかしい?」
「ちょっとじゃねえよ」

 蒔田が部屋にいてくれて、今晩の俺はどれだけ安心しただろう。
 シェルブルー東山101号室の狭い部屋。
 座ると眠りを(いざな)われる、深緑色のソファ。
 珍しく眉間に皺を寄せ、怒った顔をしている蒔田。
「俺の書いた詩を見せる羽目になったんだろ?」
「…うん」
「恋人が書いたんだって言ってやった?」
「恋人やなんて。…よう言わンわ」
 俺は蒔田からさり気なく手渡された言葉を噛み締める。

 俺たちは、恋人になったんや。
 友だちじゃ、ない。
 
「見せた途端に顔色変わっただろ。センセ」
「…え。なんでわかるん」
「くっそ。ムカつく!文哉を支配しやがって」
 蒔田が荒々しい言葉を使うのを初めて聞いて、俺は驚いた。
「支配って言った?」
「そ」
「俺。絢堂先生に支配されてるン?」
「そう」
「そんなふうに思ったことなかった」
 確かに、常に怯えてはいるんだけど。
「DVだとかストーカーとかのレベルと俺は勝手に一人で怒ってるけど。DVはパートナーからの暴力だから絶対違うけどな。パートナーは俺だっつの!」
 蒔田がイライラしたように言う。
 苛ついている言葉の中に、何故か俺を内側から温める言葉があった。
 俺はようやく緊張が取れ、ソファに沈み込みながら自分の両手を見た。

―文哉。最近のおまえ。顔が違う。

―雑音が入ったんか。誰かと一緒におるやろ。

―合同クラスのパートナー?作品は何にするんや。

―えげつないな。そんな腑抜けになってるんはこの詞をしょっちゅう見てるからやな。おまえの親にも見せなアカンやろ。これ俺が預かるわ。

 俺はスマホを師匠に見せることは今までなかった。
 今日はやり取りの中で蒔田からもらった詩を見せない訳にはいかなくなり、ファイル保存していたドキュメントを見せた。
 絢堂が顔をあげた時。
 俺はたぶん、この七年間でいちばん相手を怖いと思った。激しい怒りか憎しみか、何か。
 俺のスマホを師匠は作務衣の(あわせ)にスッと入れてしまった。
 俺は返してもらおうとして片手ではなく、両手を差し出していた。片手だけ差し出すだなんて、師匠に失礼すぎて俺にはできない。

「川口悌一郎さんが前に言ってたじゃん。前の弟子を潰したとかなんとか」
「…うん」
「きっと若くて文哉みたいに綺麗な男だったんじゃない?あ、逆かも。好みに合わなくてハラスメントで潰したのかもしんない」
「…。俺、前のお弟子さんに心寄せる余裕なかった」
 俺は前に義定さんの言葉を聞いたとき、初めて聞く内容だったけれど、さもありなん…と思ったのだった。
 でも、どんなお弟子さんだったんだろうと考えようとしたときに思考がストップした。
 師匠の過去を探ったり興味本位で詮索したりするような真似をしたら駄目だ、とアラームが鳴ったんだった。
 …これが、支配ってやつなん?

「保護措置の徹底って記事を読んだ」
「保護措置?蒔田くん。新聞よく読むんやな」
「警察庁の出した通知だったと思う。恋愛感情等のもつれに起因する暴力的事案への対処に当たっては、事案を認知した段階から終結に至るまで、その危険性・切迫性を正確に評価して被害者の生命・身体の安全の確保のため措置を最優先に講じる必要があるって内容」
「…蒔田くんって。賢いんや」
「何その、意外って言い方。まぁいいや」

 蒔田は真面目な顔を崩さずに記事を思い出すためか両腕を組んで目を閉じた。
 ソファに座っているのは俺だけで、蒔田は俺の目の前でラグの上に胡座で座っていた。
 俺の方が視線が高いというのは滅多になく、目を瞑っている蒔田の長い睫毛に俺は見惚れた。
 蒔田の頬骨に柔らかく影が落ちて美しかった。

「だから危険事象を認知した場合には被害者を帰宅させることなく安全な場所へ速やかに避難させることとする。やむを得ない事情があり避 難させられない場合には、被害者の身辺の警戒等の措置を確実に行う。うん。これだ」
「蒔田くんの記憶力すごいわ」
「聴いてた?」
「うん。被害者云々の物騒なハナシ」
「そう。物騒なワケ。だから!文哉」
「なに?」
「もう家に帰るな。今晩からここな」
「…え?」

 今、何を言われた?

  晴れる
  道に 雨降る夜に
  君とどこまでも歩きたい
  五センチ底上げされた目線の君と

 俺の心の中に、俺だけのために作られた詩が、またリフレインした。
 蒔田の低い声で。