君を見た。
ほんの少しだけ。
大学は6月の雨に閉じ込められた生徒の気配が満ちている。
そんな教室が息苦しくて俺が渡り廊下に出た時、蒔田の横顔が遠くに見えた。
肌寒い一日だったからか蒔田はカーキ色のフード付きのコートを羽織っている。柵にもたれて、2階の高さの渡り廊下から小雨の中を歩く生徒たちを眺めているようだった。
コートのポケット。
出した右手。
文庫本の表紙のイエロー。
蒔田が視線を遠くから自分の右手に移したのが分かった。目線が下がる。小説か何かを手にしている?
俺は蒔田がポケットから出したのがスマホではなく、小さな本だったことで相手への好ましさが増した。
1割くらい。
また恋心の増加。
もう止めてほしい。
比例してしんどさも増すに決まっている。
そして。
俺の病も深刻に、なる。
「おはよう」
俺から声を掛けたのは初めてだった。
蒔田がひどく驚いたような顔をしてこっちを見る。
俺の顔を黙ったまま見た。
見開いた瞳がゆっくりと細くなって、今まででいちばん大きな笑顔を見せた。
「…なんでそんなに嬉しそうなン」
なんだか俺は胸が詰まってしまって、突っかかるような言い方をしてしまった。
「嬉しいんだ。会えるかもしれないと期待はしてたけど、アンタから声掛けてもらえるとは思わなかった」
蒔田が惜しげもなく極上の笑顔を向けてくる。
あかん。
今日も工芸品なみに綺麗やわ。
俺は諦めた。
きっと病が進行している俺は、今日何かをくちばしってしまうだろう。そう思った。
もうえぇわ。
「…まぁ。開国したことやし」
「え?何?」
「こっちの話」
シュウに言われた俺の鎖国のハナシをしていると収集がつかなくなる。
「何を読んでたん?」
俺が蒔田の右手を見て尋ねると、蒔田も視線を手元に落とした。
「あぁ…これ。向田邦子の脚本」
「脚本?…小説じゃないんや」
蒔田の大きな手に包まれて、文庫本は小さく見えた。黄色い菊のような花が描かれた表紙。
俺は珍しく自分から蒔田に近寄った。普段、ここまで距離を縮めたことはない。
そんな俺を見て、蒔田はまた少しだけ目を細めて笑う。
「どんな本なン?」
「すごいよ。表向きの顔とは別に姉妹四人それぞれが裏の顔を持ってるってハナシ。のっぴきならない男と女の問題を抱えてて。女に潜む阿修羅の顔を辛辣かつ愛おしく描いた向田作品の真骨頂って言われてる」
「…こっわ」
「怖いよな。女のことはよくわかんないけど」
蒔田の言葉を聴いて、じゃあ男と男の問題だったらわかるン?と尋ねてしまいそうになった。
高校時代の蒔田が好きになった男との問題。
エビアンを持つ手も好きだと思った男。
まるごと好きだと思えた男。
俺は胸が痛くなって蒔田から顔を背けた。
「誰かが誰かを愛して、そして愛されてハッピーエンドって話も嫌いじゃないけど。人生はおとぎ話じゃないだろ。相手と両想いになったとしても、そこから深めていけるかが大切だから」
左頬で聴いた蒔田の“ 両想い ”という言葉がガラスみたいに俺の心臓を突き刺す。
両想いになったとしても?
えらい簡単に言うんやな。
「…俺は今、自分が怖い」
「文哉。どうした」
「今。すごくあなたに腹が立った」
「え?俺に?俺、何か失言した?」
「失言してへん。きっと俺の問題」
「気になる。話してよ」
「きっとうまく言えへん」
「いいじゃん」
「…前もそんなふうに軽く言った」
―友だちじゃないって言いたいんだったら。俺を恋人にしてくれる?
―恋人作るなとは言われてないんだろ。きっと。
―だったらいいじゃん。
「俺はもうかなり重症。蒔田くんが作詞するのってどんな感じなんやろって思ってたら心の中で妄想小人が作詞はじめたし」
「…え?」
「もともと俺は変やからマイナス✕マイナスでプラスになるかと思ったけど、どうもマイナス+マイナスで変なとこに深みが出たみたいし」
「文哉?」
「俺はあなたから尋ねられたことに、逆に心であなたに何度も尋ね返してて苦しいし」
「文哉…」
そう。
何回も妄想トークをした。
蒔田に尋ねられた俺は、質問を質問で返す。
―だったらいいじゃんって何なン。
だったら。じゃなくて。
そうじゃなくても。
どんな状況でも。
俺がどれだけ変人でも。
蒔田くんは、俺を恋人にしてくれるん?
きっと俺は苦しそうな顔をしていたんだろうと思う。蒔田が真面目な顔をして、右手を伸ばして俺の左頬に触れようとした。
俺は慌てて身を翻す。
触れられるのが怖い。自分がどうなるか想像できない。
シュウが揶揄する、あの“ 鎖国 ”状態に、俺がまた戻るかもしれない。
…それはないか。
心の中に綺麗なものが溢れて胸が苦しいのに、前に一人で過ごしていた静寂を恋しく思う自分はいなくなってる気がする。
「文哉ちょっと外を歩こう。次の授業サボってさ」
「雨降ってるやん」
「文哉の中にいる妄想小人は雨が嫌い?」
「嫌いじゃない」
「それは良かった」
良かった?
いや。
良かった、ちゃうやん。
何で妄想小人トークができてんねん。
やっぱり詩人は懐が深すぎる。
俺は少しぼんやりとしていたかもしれない。授業をサボってと言われて自然に同意した自分に驚きもしなかったのだから。
大学生になって、授業に出なかったことは今までなかった。学校をサボタージュしてやりたいことなんて、何もなかった過去の俺。そんな過去は、たった3カ月前のことだけど、蒔田に会ってからの数か月で俺は嵐に呑まれたみたいに翻弄されていたから遠い昔のことのようにも思える。
蒔田が歩き出したので、俺も同じリズムで歩く。
蒔田の左側。
今日つけてるピアスが初日に蒔田がつけていたピアスと同じだということには、「おはよう」と俺が言った1秒後に気付いていた。
その時に無意識に自分でも覚悟をしたのかもしれない。
俺の運命を変えてしまった、このピアスに俺は自分の恋心を聴かせることになるんだろうって。
「俺の一方的な文哉との逢初は夏だった」
大学の正門を出て、他の学生のざわめきが後退したタイミングで蒔田が呟いた。
俺は傘の淵から落ちる雨粒を追っていた視線をあげ、右隣の蒔田を見る。
透明な傘をさしている俺と、黒い折り畳み傘を広げている蒔田との間には、2つの傘の半径ぶん距離が空いていた。俺はなぜか晴れた日の距離感が恋しくなる。
いつの間に、誰かと近い距離で歩くという行為に俺は馴染んでいたんだろう。
「あいぞめ?」
「ファーストコンタクトのこと」
「なんで古文から英文になんねん」
「表現が詩的って言ってほしい」
「詩的過ぎて伝わらんやん」
「文哉はその時、着物だった」
「…え。俺が着物?…いつの話してるン?一方的なあいぞめってどういうことなん」
「文哉が初めて自分から俺に声掛けしてくれたら、この話を打ち明けようと思ってたんだ」
「なんか聴くの怖い」
「文哉は今日は今までになく喋るし、怖いって何回も言うし、俺は安心する」
「なんでやねん」
「クールビューティからの脱却。人間味の増加」
「…なんの話してんねん。意味わからん」
「あの時。文哉は俺が見ていることなんて気づきもしなかった。誰のことも見ていなかった。俺は若い男の着物姿を初めて見て。半端なくクールだと思った」
「夏に着物…。オープンキャンパスに蒔田くん来てたンや」
俺は高校3年生の夏の一日を思い出す。
先月みたいに伯母に着流しを着せてもらった朝。
三十三間堂に入ろうとする観光客に注目されて、俺は居心地が悪くて。
その時の緊張感を思い出していると、着物を自分で脱いで蒔田の服を着て帰宅した夜のことも併せて心に浮かんできた。蒔田の香りは消されているのに、何故か大きな手に包み込まれているような気配がして。頬骨あたりの熱を両手で感じながら一人で悶えていたっけ。
誰かが俺を見て、ヤバいヤツやって怯えたかもしれへん。
「文哉のこと、芸大生だと思った」
蒔田の言葉で我に返った。
俺たちは七条大橋まで来ていた。
「まさか。浪人覚悟してた受験生やったわ。俺の師匠がオープンキャンパスにゲストで呼ばれてて。俺は荷物持ちしてただけ」
橋を渡って東山の方に向かうと、蒔田の住むシェルブルー東山まで5分くらいで着く。
蒔田は東山には向かわず七条大橋横の階段を降りていったので、俺も傘をさしたまま蒔田の背を追った。
「蒔田くん。浪人生やったん?」
俺が尋ねると、蒔田が振り返って笑った。
「俺。社会人してたんだ」
蒔田が軽く返した返事に俺は度肝を抜かれた。
「えっ?」
社会人だった?
俺は誰とも交流しないまま高校を卒業してしまったけれど、社会人になる同級生はいなかったと思う。大学、専門学校、あとは浪人生。
2歳上ってだけではなく、かつて大人として働いていたという経歴を聴いて、俺は蒔田のことを本当に何も知らないんだと思い知らされた。
俺たちは雨の降りしきる鴨川に沿って、傘を並べて北に向かって歩く。
雨の日だから、今日は鴨川沿いを歩く観光客はまばらだった。
「俺が働いてた話は、また今度な」
「…聴きたいわ」
「そう言ってくれてありがとう」
「…俺。蒔田くんのこと何も知らんやん」
「今まではそれで良かったんだろ」
「…うん」
「でもそうじゃなくなったんだな」
「…うん」
雨が降っているのにウィンドブレーカーも身に着けずにTシャツだけで走っている若い男が近付いてきた。
留学生かもしれない。日本人ではない風貌で、背が高い俺たち二人を優に超す高身長だった。
五条大橋が近く、川沿いの道が細くなりかけたところで相手とすれ違うことに気付いた俺は素早く傘を閉じた。
若い男は俺を見て「メルシー」と言って一瞬微笑み、風のようにすり抜けて行く。
メルシーって何やっけ。
お菓子の名前やったっけ。
ちゃうやん。
あれはチェルシーやん。
俺はシュウと会話するように、一人で心の中で馬鹿なことを言っていた。
そうしないとやり過ごせなくて。
蒔田が話すことが核心に近付いてきたように感じて俺の呼吸が浅くなってきたから。
―ふみは緊張したら魂とばすよな。さらに変なこと言い出すからすぐに分かるわ。
シュウによく言われた。
そう、まさに今みたいに。
体の力を抜くために、少しだけ目を閉じていると前髪に落ちてきていた小雨の冷たさが消えた。
目を開けると蒔田が自分の傘を俺にさしかけてくれていた。
俺の右肩が、もう少しで蒔田の左肩に当たりそうになって。俺はまた慌てて体を逸らせる。
悲しいけれど、人と触れ合うという行為に、安心できない。シュウ以外は、まだ。
「着物を着ている文哉を見て、俺は」
傘が一つ消えた分、距離が一気に近くなって蒔田の体温が伝わってくるようだった。
俺は恐る恐る、蒔田の目を、見た。
「あっけなく恋に落ちた。出逢えていない20年がもったいないと思うくらいに」
蒔田が静かに手渡してきた言葉で、俺は足を止めてしまった。体がこわばり、体温が急激に上昇した。
熱いほうじ茶を顔面にかけられたみたいやな…と、頭の片隅で妄想小人が俺をからかいはじめる。
「蒔田くん。俺のこと好きなン?」
「そう」
「俺、あなたが好きやのに」
「文哉も俺が好き?…だよな。予感が当たって幸せ」
蒔田がうっれしそうに笑う。
俺。
さっきさらっと言ったな。
好きやって言葉。
え。
こんなに簡単に言っていい言葉なン?
「…あかんやん」
「あかん?…駄目って何が?」
「両想いってやつやん」
「すごく俺は嬉しいよ」
「…俺はムリ」
「…は?」
「誰かを好きってだけで死にそうやのに。両想いなんかになったらどうなるん?」
「どうなるって。好きな気持ちが深まって熟成していくじゃん。俺は満たされて幸福だよ」
「深まって熟成って。俺は…」
「文哉が伝統工芸に夢中なのもスキンシップが駄目そうなのも理解してるつもり。俺はあんたを触りまくりたいけど文哉のペースを尊重するから」
黒い傘を前に傾け、蒔田は前からくる二人連れから俺たちが見えないようにして顔をそっと近付けてきた。
触れるか、触れないかギリギリの距離で俺の左頬の当たりに唇を近付ける。
俺は心臓が止まりそうになった。
…無理。息の根が止まる!
俺が頬骨の当たりの熱を感じてギュッと目を閉じると、自然と涙が出てきてしまった。恥ずかしいけれど幼子みたいに打ち震えてしまう。
蒔田は、きちんとストップをかけた。
「入学して文哉を見つけてから一年待って声掛けたんだ。待つのには自信がある」
「…待つって何を」
「俺が文哉にあれやこれやするのを」
「…今、なんか耳にしたらあかん言葉を聴いてしまった気がする」
「文哉が俺を恋愛対象にしてくれたのが奇跡だって思う。文哉はバイ?それともゲイ?」
「…えぇ。弟以外のニンゲンがあかんかったから。そんなん分からん…」
「かなり独特だよな」
「狭いとこ好きやし妄想小人も俺の中に住んでるし」
「俺は文哉が突然スマホを地面に埋めはじめたとしても受け入れるよ」
「…そんなことせぇへんわ」
「俺が文哉と寝てるときに修哉が入ってきて川の字で寝ることになってもいいし」
「なんの話してんねん」
俺は不思議な気がした。
さっき互いに相手への愛を打ち明けあったよな。
そういうときってあれちゃうん。
なんか激情に溺れてどうのこうのとか。
さっき蒔田くんに触れられそうになって一瞬殺されかけたけど。
俺、今はなんか体の力が抜けてるやん。
「ところで俺たちどこに向かってるん?」
蒔田の傘に入ったまま、俺は視線を北に向けた。
鴨川が梅雨の優しい雨粒を集めて静かに流れているのを右側に見ながら、俺は五条大橋を見上げる。
「文哉が辛いものでも食べれるんだったら四条の熱帯食堂に行きたいな。ランチしよ」
「熱帯…。肌寒いから温かいとこ嬉しいけど。暑そうなネーミングの店やなぁ」
俺は右腕が蒔田に触れないように気をつけながら歩いた。左肩が小雨で冷たくなっているけど蒔田に触れて俺がバグるよりは、いい。
雨に濡れて冷えるほうがいい。
今から、熱帯に行くらしいし。
「タイ料理うまいよ」
「タイって熱帯の国なんや」
「うん。異国の料理好きなんだ。口にすると現地で語られてる言葉の響きとか景色に含まれる彩や湿度とか。風の匂いとかに包まれてる気分に浸れる。最高」
「…変わってる」
瞬時、どの口が言うねん…と俺は俺自身に突っ込んだ。
「だから俺レアだって前に言ったじゃん」
「…そういう意味やったん」
「希少価値って意味じゃない。まぁ俺バイだから性的指向はマイノリティだよって文哉に伝えたかったこともあるんだけど」
「……」
「熱帯食堂に着いたら、文哉のために作った詩を見せる」
「え?…作ってくれてたん?」
「うん。短い詩って感じかな」
蒔田は傘を持った左手越しに俺の顔を覗き込むようにして動きを止め、大きくニコッと笑った。
左耳の銀色のピアスと蒔田の笑顔の相乗効果で、俺はまた心臓をやられかける。
首筋と頬が熱を持つ。
熱帯食堂じゃなくて、亜寒帯食堂に行かな…。
えっと。
ツンドラ…ってなんやっけ。
ツンデレって言葉に似てる。
俺は本日二度目に魂を飛ばしかけた。
▦ ▦ ▦
まだ触れさせてくれない君は
流れる
緑色の葉のようにすり抜けて
舞える
filamentとstaple
その織の片隅を
掴みたいと思った
晴れる
道に 雨降る夜に
君とどこまでも歩きたい
五センチ底上げされた目線の君と
―流れる、舞える、晴れる
「蒔田くん…」
俺は蒔田の手書きの詩を見て、なんだかワケの分からない感情が渦巻いて言葉が出せなかった。
熱帯食堂のテーブルに両肘を付き、俺は両手で自分の顔を覆う。
そっと外を見る。
左側のガラス窓。
俺はビル7階分の高みから、今度は四条大橋を見下ろしていた。
『流』
『舞』
『晴』
三つの言葉が使われている。
俺。
三つの銀色ピアスを作ってみようかな。
形が違うやつ。『流』は流線型のデザインにしようか。『舞』はなんやろ。カタチは丸みを帯びたイメージ。今日五条大橋見たけど。義経が牛若丸やったとき母の常盤御前が「淋しくなったら父上の形見の、この横笛を吹きなさい」と言って渡した薄墨の笛を吹いてたとき。弁慶に刀取られそうになってひらって舞った、あのイメージ。綺麗な動きを表現して。
『晴』は…いちばん難しい。
でも、言葉の響きが明るい。眩しい太陽。太陽は丸いけど光は尖ってる。晴れてきらきらしている光景は四角か菱形みたいなイメージやなぁ。
俺は目の前に蒔田がいるのを束の間、忘れた。
急速に創作意欲に火がついたというか、心の螺子が巻かれたというか。
ワクワクと俺の生命の螺子がフルスロットルで巻かれ始める。
ギリギリと音が聴こえてくるぐらい。
『流』はシルバー950を使おう。シルバーの合金以外、俺には考えられない。
純銀にしたいくらいだけど、強度を増すためにほかの金属を混ぜるとして…。
たぶん、だいたいは銅を混ぜるよな。錫は使えへんやろか?
『舞』はシルバー925で行くか。
キャッチや引き輪などの金具は、既製品のシルバー925にしよう。
秋田銀線細工。あれも美しかったなぁ。純銀線を素材に作られる繊細な金工技法。0.2mmの線を2~3本撚り合わせるやなんて、匠やん。
俺も、匠になりたい。
「晴れる…は」
言葉とは真逆の雨降りを窓から見ながら、俺がつい口に出してしまったタイミングで料理が運ばれてきた。
前を向いた俺は、蒔田が俺の顔を微笑みながら見つめている視線とぶつかり、覚醒した。
熱帯食堂に漂うスパイスの香り。
「蒔田くんお勧めのこれ。真っ赤やん」
「トムヤムクンの麺だから赤くて正解」
「…5㌢底上げって。俺のスニーカーの厚底暴露やん」
「ふはは。俺は文哉のスニーカーのおかげで背が伸びた気分を味わえたから感謝してるんだ」
「ありがとう」
「俺の背が文哉より5㌢高いこと?」
「ちゃうわ!」
詩を作ってくれたこと。それが俺をインスパイアさせるけと。俺にしか分からない言葉が散りばめられていること。
俺を好きになってくれたこと。
全て。
それらのことで俺はこんなにも多幸感に包まれている。
「わかってる。冗談だって。食べて温まろう」
蒔田が目を細めて優しく笑った。
あかん。
倒れそう。
ひざまずいちゃうほどの恋、してもうたやん。
どうしてくれるん。
▦ ▦ ▦
白川通りの柳は文哉の視線を揺らがせる。
工房から出てきた俺は、体が震えていた。
師匠に言われた言葉に体が冷たくなることは、七年間の間に無数にあったけれど。
え。
俺、スマホ奪われたん?
俺が絢堂先生に手渡したわけじゃないよな。
俺、家に帰るの怖い。
絢堂先生。家まで押しかけてきたりする?
どうしよう…。
いつもだったら俺は工房での修業が終われば、柳の揺れを愛でながら白川通りから花見小路を横切って三条まで行き、地下鉄の駅まで歩く。
俺は咄嗟に工房から飛び出すときに自分のリュックを手にしていて良かったと思った。
スマホがなくても、財布はカバンにあるから電車に乗れる。いや。そういうことじゃなくて。
そうじゃなくて。
さっきの。
絢堂先生の怒りは…何なン?
気がつくと、俺はシェルブルー東山に来てしまっていた。
京阪電車に乗らず、結局俺は鴨川まで出て川沿いを南に七条大橋まで歩いたのだった。
101号室の前まで行こうとすると、学生用のレジデンスによくある鍵付きのフェンス扉に阻まれて進めなかった。前は蒔田が鍵を開けたんだろう。俺はフェンスがあったことを覚えていなかった。
スマホがないから蒔田には連絡出来ず、部屋にいるかも分からなかったけど。
そもそも部屋の前にも辿りつけないなんて。
俺はうなだれた。
それでも、前回ここに来た時に義定さんが言ってくれた言葉が耳に蘇った。
―たまには義定のオッチャンを頼りにしてや。
僕は若者の味方やで。
「義定さん…」
俺がチャイムを鳴らすと、義定さん本人がすぐに出てきてくれた。
「文哉くんやん。どないしたん」
「…こんばんは。夜分にすみません」
時間は20時を過ぎてしまっているかもしれない。
「かまへん。顔色悪いで。大丈夫か」
「あの…。蒔田くんの部屋に行きたいんです」
「躍くんの部屋か?自由に行きぃや」
「僕。本人に連絡取ってないんです。急に訪問することになって。あの。部屋ノックしようと思ったら部屋に辿りつけなくて」
「あぁ!ガードな。ライオンの檻みたいなやつな。あれな、文哉くんでも開けれるで。教えたるわ」
義定さんが草履を履いて出てきてくれた。
鍵付きフェンス扉の前に来た義定さんは、笑いながら俺に向かって言う。
「ライオンの檻やって僕は呼んでるんやけどな。男子学生ばかり住んでるやん。まぁ猛獣やなくて草食系男子ってコもおるやろけど」
「……」
「僕の手は入らんけど文哉くんの細い手やったらここ抜けるやろ?」
義定さんが教えてくれたフェンスの隙間に、俺は言われた通りに手を差し入れるとするっと入った。
「ほなノブの後ろに届くな?クルッと廻してみ」
俺は手のひらをひねってノブに付いている水平の鍵を垂直に廻すと、ガチャンという音が夜の静寂に響いた。
「な?文哉くんやったら勝手に檻ン中入っていいで。あ、檻ン中言うたらあかんな。喰われにいくて言うてるみたいやもんなぁ。躍くんに悪いな」
義定さんの優しい言葉に、俺は今晩初めて笑顔になれた。
まだこわばった顔をしていたかもしれないけど。
それでも。
「オッチャンが役にたって嬉しいわ」
「ありがとうございます」
僕は喰われたりしないんで安心してください。
いつもの俺だったら信頼できる義定さんには、こんなふうに柔らかく返事ができていただろう。
でも今晩は無理だった。
震えを隠して、笑顔を作っているだけで精一杯だったから。
「それ。文哉の先生、かなりヤバいな」
「……やっぱりちょっと…おかしい?」
「ちょっとじゃねえよ」
蒔田が部屋にいてくれて、今晩の俺はどれだけ安心しただろう。
シェルブルー東山101号室の狭い部屋。
座ると眠りを誘われる、深緑色のソファ。
珍しく眉間に皺を寄せ、怒った顔をしている蒔田。
「俺の書いた詩を見せる羽目になったんだろ?」
「…うん」
「恋人が書いたんだって言ってやった?」
「恋人やなんて。…よう言わンわ」
俺は蒔田からさり気なく手渡された言葉を噛み締める。
俺たちは、恋人になったんや。
友だちじゃ、ない。
「見せた途端に顔色変わっただろ。センセ」
「…え。なんでわかるん」
「くっそ。ムカつく!文哉を支配しやがって」
蒔田が荒々しい言葉を使うのを初めて聞いて、俺は驚いた。
「支配って言った?」
「そ」
「俺。絢堂先生に支配されてるン?」
「そう」
「そんなふうに思ったことなかった」
確かに、常に怯えてはいるんだけど。
「DVだとかストーカーとかのレベルと俺は勝手に一人で怒ってるけど。DVはパートナーからの暴力だから絶対違うけどな。パートナーは俺だっつの!」
蒔田がイライラしたように言う。
苛ついている言葉の中に、何故か俺を内側から温める言葉があった。
俺はようやく緊張が取れ、ソファに沈み込みながら自分の両手を見た。
―文哉。最近のおまえ。顔が違う。
―雑音が入ったんか。誰かと一緒におるやろ。
―合同クラスのパートナー?作品は何にするんや。
―えげつないな。そんな腑抜けになってるんはこの詞をしょっちゅう見てるからやな。おまえの親にも見せなアカンやろ。これ俺が預かるわ。
俺はスマホを師匠に見せることは今までなかった。
今日はやり取りの中で蒔田からもらった詩を見せない訳にはいかなくなり、ファイル保存していたドキュメントを見せた。
絢堂が顔をあげた時。
俺はたぶん、この七年間でいちばん相手を怖いと思った。激しい怒りか憎しみか、何か。
俺のスマホを師匠は作務衣の袷にスッと入れてしまった。
俺は返してもらおうとして片手ではなく、両手を差し出していた。片手だけ差し出すだなんて、師匠に失礼すぎて俺にはできない。
「川口悌一郎さんが前に言ってたじゃん。前の弟子を潰したとかなんとか」
「…うん」
「きっと若くて文哉みたいに綺麗な男だったんじゃない?あ、逆かも。好みに合わなくてハラスメントで潰したのかもしんない」
「…。俺、前のお弟子さんに心寄せる余裕なかった」
俺は前に義定さんの言葉を聞いたとき、初めて聞く内容だったけれど、さもありなん…と思ったのだった。
でも、どんなお弟子さんだったんだろうと考えようとしたときに思考がストップした。
師匠の過去を探ったり興味本位で詮索したりするような真似をしたら駄目だ、とアラームが鳴ったんだった。
…これが、支配ってやつなん?
「保護措置の徹底って記事を読んだ」
「保護措置?蒔田くん。新聞よく読むんやな」
「警察庁の出した通知だったと思う。恋愛感情等のもつれに起因する暴力的事案への対処に当たっては、事案を認知した段階から終結に至るまで、その危険性・切迫性を正確に評価して被害者の生命・身体の安全の確保のため措置を最優先に講じる必要があるって内容」
「…蒔田くんって。賢いんや」
「何その、意外って言い方。まぁいいや」
蒔田は真面目な顔を崩さずに記事を思い出すためか両腕を組んで目を閉じた。
ソファに座っているのは俺だけで、蒔田は俺の目の前でラグの上に胡座で座っていた。
俺の方が視線が高いというのは滅多になく、目を瞑っている蒔田の長い睫毛に俺は見惚れた。
蒔田の頬骨に柔らかく影が落ちて美しかった。
「だから危険事象を認知した場合には被害者を帰宅させることなく安全な場所へ速やかに避難させることとする。やむを得ない事情があり避 難させられない場合には、被害者の身辺の警戒等の措置を確実に行う。うん。これだ」
「蒔田くんの記憶力すごいわ」
「聴いてた?」
「うん。被害者云々の物騒なハナシ」
「そう。物騒なワケ。だから!文哉」
「なに?」
「もう家に帰るな。今晩からここな」
「…え?」
今、何を言われた?
晴れる
道に 雨降る夜に
君とどこまでも歩きたい
五センチ底上げされた目線の君と
俺の心の中に、俺だけのために作られた詩が、またリフレインした。
蒔田の低い声で。



