祗園青空下上ル


à gauche(ア ゴーシュ) ってバンド。知ってる?」
「知らない。名前は聞いたことあるけど顔が浮かばない。俺は音楽にも疎いから」
「顔浮かばなくて当然だよ。顔出ししてないからさ。GReeeeNやtukiみたいに」

 若葉が一番青々とする季節。
 梅雨前の太陽の光はとても美しい。
 蒔田と俺は六月から本格的に作品を形にする作業を進めるために、まずは蒔田の創る詩をどんなイメージにするか語り合う時間が必要だった。
 俺は毎日大学では一人でいるから、合同クラス以外でも蒔田から会おうと連絡が来た時は常に会えた。
 朝いちばんの隙間時間だったり、昼間だったり、夕方のひとときだったり。
 そして雨が降っていない水曜日は、だいたい外を歩いてアイデアを練っている。

「曲聴いたら分かるかもしれへん。シュウがいろいろ聴かせてくれるから」
 そう言いながら俺は蒔田に紙袋を手渡した。
「ん?何?」
「借りた服。毎回忘れてて遅なったわ」

 シェルブルー東山101号室に初めて寄った夕方。
 俺は不覚にもソファで眠ってしまった。
 たぶん半刻近く。
 大量に消耗したエネルギーを回復するためにミノムシ化しないといけなかったようで、目覚めた時には珈琲はすっかり冷めてしまっていた。
 七条通りの夜を着物姿で横切る勇気はなく(確実に昼間の倍以上に注目を浴びる)、蒔田の服を借りて着物を脱いで七条通りを歩いて帰宅した夜だった。
 あの夜。
―蒔田くん外出てて。着物脱ぐから。
 俺がそう言うと蒔田はまた涙を浮かべてひとしきり馬鹿笑いをした。
―俺の部屋だっつの!
―狭すぎて隠れるとこないんやもん。
―いや、だから。今日は失礼が過ぎる。

 そんなふうに軽口を叩きながら誰かの下宿で過ごす時間を俺が大学生活で持つことになるとは。
 そんなこと、夢にも思っていなかった。
 俺は「あっち向いとって」と文句を言いつつ蒔田の服に着替えさせてもらいながら、101号室を訪問する前に夕闇の中で聴いた蒔田の言葉が頭の中をリフレインしていたんだった。
―俺を恋人にしてくれる?

 その蒔田の言葉には、あれから互いに触れていないままだ。

「蒔田くんの服着て帰った夜、シュウに絡まれたわ」
「絡まれた?」
「うん。何そのクールな服、俺も着たいって」
「子どもかよ」
「子どもやねん」
 あの夜、確かにシュウはそう言って蒔田の服を着たがった。
 だけどシュウが俺に絡んだ理由は他にあって。

―え?ふみにぃ着物脱がされたん?その綺麗な男に。
―ちゃうわ!なんでそんな思考になるねん。
―だって。ふみが自分でそいつの部屋入ったんやろ?
―うん。
―ふみが!…やで。
―…うん。
―そういうことなってもええと思える相手やないと、君は誰かの部屋には入らんと思ってたわ俺。
―なんでやねん!

 シュウとの会話で、かつてここまでダメージを受けたことがあっただろうか。
 激しすぎる。
 この会話については、絶対に蒔田に言いたくない。



「文哉は弟愛が過ぎると思う」

 蒔田はそう言ってから、図書館前のベンチに座って青空を見上げる。
 笑顔でもなく、不機嫌な顔でもなく、蒔田がニュートラルな顔をしていたので言葉の意図は掴めないまま俺は横に腰を降ろした。
「仕方ないやん。シュウは俺の安全基地なんやから」
「俺を安全基地にしたらいい」
 空を見ていた蒔田が俺に向き直る。 
「…」
 真面目な顔をした蒔田の瞳が五月の色をしていると思った。もうすぐ水無月を迎える皐月の終わりの色。
 浅葱色の青空とユリノキの緑色が映えて。
「今一緒に作業してるパートナーだろ。俺」
「そんなん、すぐ移行できひんわ」
「俺は今、文哉のエネルギーを全部俺に向けてほしい」
「エネルギーって」
「ちょっとずつでいいんだよ」
「…ちょっとずつって。蒔田くん安全なん」
「一緒に居て安心しない?」
「…まぁまぁ」
 俺は左隣に座っている蒔田がそっと尋ねてくれたので、正直に答えた。
「前よりは安心できるようにはなったかな」
「だろ?でも安全かと聴かれると、ある意味危険かもしれない」
「…どういう意味?」
「俺の初恋について聴きたい?」
 なんの脈略もなく蒔田が急に話題をぶった斬った。
「…話飛び過ぎやん」

 初恋。
 蒔田が好きになった人がいる。

 そんな普通の男だったら当たり前にしているだろう行為に、俺は馴染みがない。
 蒔田が俺との会話の中に突然過去をねじこんできたことに、俺はかなり狼狽えてしまった。

「さっき話したà gauche(ア ゴーシュ)の曲。文哉、聴いてくれる?流すからさ」
 蒔田にしては珍しく、気弱な声だったので俺は少し胸が震えた。
 何をこれから語ろうとしてるんだろう。
 何故か、蒔田の過去に触れるのが怖い。
 そう思った。
 どうしてかは分からないまま。
「聴く…。けど、その曲に何があるん?」
 俺は尋ねずにはいられない。
「歌詞に耳を傾けてくれたら。聴いてもらった後に話すからさ」
 蒔田はいつになく小さな声のままだ。俺を見ずに俯いている。
 普段は真っ直ぐに俺を見て話すことの多い蒔田が横顔のままでいる姿を見て、(こっち見てや)と何処かの俺が吠えた。
 そんな自分の心の雄叫びに、俺自身が驚愕した。
 え。
 なんで俺。
 怒ってんのやろ。
 怒ってる?
 違う。
 怖がってるんやろか。
 なんで?
 この気持ちは何なんやろ。

 俺が一人で心臓をバクバクさせていると、蒔田が俺の鼓動を聴き取ったかのように急に俺を見た。

「これ歌ってんのが俺の初恋の相手なんだよ」

 …え。
 どういうこと?
 俺は蒔田の言葉を聞いて、たぶん目を丸くしたと思う。
 推しの話してんの。蒔田くんは? 

 俺はよく分からないまま、無言で頷いた。
 蒔田がスマホを俺の前に置いて曲を流し出したので、俺は目を閉じて心を傾けた。  
 美しい五月のユリノキ並木の下で。
 聴こえてきた声は、シェルブルー東山101号室のあの部屋で俺が眠りに落ちる直前に頭の片隅に忍び込んできた、あの声と同じだった。



   スリーカウントで
   ステージに踊り込む
   こめかみの痛みも左胸の痛みも
   一瞬で霧散する
   だけど手渡してもらった言葉だけが
   消えずに残ってる

   「エビアンを持つ手も好き
   君のまるごとが好き」

   5本の指先を大地に重ね
   無重力だと思わせるダンスをしながら
     僕らの10本の指先が
   互いに重なるといいなと祈ってた

   ヴェローナのあの2人と
   重ね合わせないでほしい
   鮮やかな魚が泳ぐ水槽越しの恋人の
   運命の行方を知っているから

    住む世界が違うだなんて
   言わせておけばいいじゃない
   僕は君を想い続ける
   踊ることを止めないように


   七色の虹が描かれたTシャツ
   まくれて素肌を見られても気にはならない
   ステージの相手みたいに
   タトゥーはいれてない

  
   ウェストサイドストーリーと
   だぶらせないでいてほしい
   確かにそんな世界で生きる
   僕には似合いの物語だけど

   僕は逆さまでフリーズしながら
   君と空とを見上げてるんだ

   「エビアンを持つ手も好き
   君のまるごとが好き」
   君がいなくなった 夜明けの街角で
   この言葉を聴いた時の影の色と形を
   僕はずっと忘れないでいる




 ヴォーカルはハスキーボイスの女性を時々思わせる、中性的な声だった。
 若い男。
 瑞々しい高校生の声みたいだと俺は思った。
 この曲は俺も聴いたことがある。
 そのとき。俺自身も高校生だった。
 瑞々しかったかどうかは疑問だけど。

 俺が目を開けて横の蒔田を見ると、蒔田はまた青空を見上げている。
 俺の視線を感じたのか、蒔田が右隣の俺を見た。

「高校の時の同級生なんだ」

 蒔田の言葉に俺は意表を突かれた。
 初恋というのが画面越しとかではなく、リアルな相手への恋心だったということに。

「…俺。この曲を高校生の時に聴いた」
「あぁ。2年前の春に結構流れてたな。でも実際に録ってんのは3年前。あいつが高校卒業式間近の時に歌った曲だから」
 3年前の卒業式?
 三回ぶん前の春が急に目の前に立ち昇る。
 高校1年生を終えた俺。
 シュウが同じ高校に入学が決まったというLINEを見て、初めて校舎の中で一人で笑った春。

「ヴォーカルの人。蒔田くんの同級生なん」
「うん」
「他のメンバーも?」
「ドラムとギターは同じ高校の先輩。キーボードだけ別の高校」
「蒔田くんって22歳?」
「うん。もうすぐな。夏生まれ」
「俺より2学年上やん」

 俺は小さな声で拗ねたように言った。
 大学って場所は年齢も出身地もばらばらなのは当たり前の話だったけれど、なぜか俺は蒔田が同級生だと思い込んでしまっていたのもあって。
 でも本当に聞きたいことは別のことだった。
 気になるのに、気付かないフリをしていた。
 俺は自分で自分を騙すことに、慣れていたのかもしれない。

「なんで早く言ってくれへんかったん」
「やだよ。言ったら絶対、敬語崩さねぇじゃん文哉」
「うん。さらに堅苦しく喋ってたわ」
「だろ?」
「また敬語に戻さないと」
「おい。なんでだよ」
「…初恋の人」
「うん」
「…蒔田くんって男が好きなん」
 俺は結局、自分を騙しきれなくて。
 勢いのまま素直に尋ねた。
「そう。自分でも驚いたけど。好きだと思った相手は男だった」
「…それでどうなったん」
「どうにもならなかった」
「…なんで?」
「なんでって…片想いだよ」
「…蒔田くんが?」
「そう。好きだなって気付いた時には向こうには既に恋人いたし」
「…そうなんや」
「この(はなし)したのは俺が創りたい詩について語りたかったからだよ」
「これから作る詩のこと?」
「うん。次は新しく文哉の世界観に合わせて創りたいから」
「新しく…」
à gauche(ア ゴーシュ) の歌、歌詞はだいたい俺が作ってるんだ」
「…えっ!?」

 

   エビアンを持つ手も好き
   君のまるごとが好き



  蒔田の言葉を聞いて、俺の中で男の歌声がまた繰り返された。
 柔らかく、優しく。
 
 





▦ ▦ ▦




 俺が普段出入りする工芸棟は図書館の近くにあり、蒔田が所属する作詞家コースのある音楽棟はユリノキ並木のメインストリートから離れた東山側にあった。
 三階建ての最上階からは鴨川が見えるかもしれない。
 俺は蒔田に会うまで音楽棟とは無縁の人生だったこともあり、作詞家と耳にしてもイメージが立ち上らなかった。
 詩人とか劇作家とか歌人とか、言葉という手で触れないものを創り上げる人というものがどういう人か想像できない。
 こもりびとだと揶揄される俺だけれど、音楽はシュウのおかげで身近にある。
 でも、それは遠い世界の話で。
 俺と人生が交わることのない次元のアーティストが、音を紡ぎ、言葉をメロディーに乗せて魂の欠片を手渡してくれる。
 そんな感覚でいた。
 だけど今。
 作詞家という抽象的な概念が具体的なものに切り替わっている。

 珈琲カップを手にして口元に手を当て、物思いに沈んだようにしている蒔田の横顔。

 俺が蒔田の部屋で目覚めた瞬時に、目に飛び込んできた姿だ。


 あの後からずっと。
 俺はà gauche(ア ゴーシュ)の歌を聴けないままでいた。
 あの時に聴かせてもらった“ ダンス・ダンス・ダンス・ダンス ”という歌は、 à gauche(ア ゴーシュ) のヴォーカルから「恋をテーマに」と依頼されて蒔田が歌詞を提供した作品だと教えてもらった。
 初恋の相手から頼まれて作るとき、苦しくはなかったのだろうか。
 俺は高校3年生の時に蒔田が感じた気持ちについては尋ねることはできなかった。

―エビアンを持つ手も好き君のまるごとが好きって。
―あぁ。アオハルでいいだろ。
―蒔田くん、彼にそう言われたん?
―言われてないよ。だから片想いだって。
―恋をイメージして言葉をつなげた?
―うん。俺が相手に対して思った言葉を散りばめたり。
―そうやって創ってるん。
―うん、架空の世界を創り上げてる。
―あ、そっか。蒔田くんがダンスやってたわけじゃないんや。
―ふはは。俺は踊れないよ。
―ふぅん。
―帰宅部でダンスやってる男がいてさ。俺はバイト三昧で接点はあまりなかったけどカッコいい男で。一度舞台を観にいったらパフォーマンスに魅せられて。そんなワクワクした気持ちを抱えてる時に作ったからダンスの世界がモチーフになったってワケ。

 そんなふうに少しずつ、蒔田の高校時代の記憶を俺は手渡してもらった。
 俺には手渡す高校時代のエピソードというものがないから、もらうばかりになるけれど。

 

 芸術大学で作詞コースもあるのは珍しいらしい。
 作詞の基礎理論から比喩の使い方、リズムと言葉の相性とか音の響きとか作詞家に求められる資質やスキルを学んでいる日々だと蒔田から聞いた。
 作詞家は音楽の知識だけではなく歌詞に必要な表現力や語彙力の研鑽も必要だから世界広げるためって口実つくって好きなことばかりしてるんだ…と蒔田は笑っていた。
 確かにそうなんだろうと俺も思う。
 金工芸の世界だって、アーティストとしてやっていこうと思えば同じことが言えるんだろう。
 旅をしたり、映画を観たり。
 幅広いジャンルの音楽を聴いたり、異国の物語に触れたり。
 現実の世界で恋をしたり?

 まるごと好きって、どんな気持ちなんやろ。

 あの時。
 蒔田の初恋の相手がà gauche(ア ゴーシュ)のヴォーカルの男性だと聞いたとき。
 俺は胸が急に締め付けられて呼吸が浅くなったのを隠すために、後ろ手をついて工芸棟横のユリノキ並木を見上げたんだった。
 蒔田がその日、青空を見上げていたのと同じ角度で。
 なんだか自分の心がぐちゃぐちゃになってる…と感じた俺は、いつの間にか知らないフリができないくらい存在感を増してしまった初めての恋心を自覚した。
 
 好みの激しい俺が、心を無意識に向けてしまうことに気付いた四月。
 目で追いたい。でも見てしまったあと目が離せなくなったらどうしよう…だなんて思っていた時は、まだ蒔田の見た目という外側への恋だったように思う。
 今は、たぶん、蒔田の内側の、ニンゲンとしての部分に向けた好意というか。
 

 錫工房の中で俺は心を飛ばしていた。
 普段、俺は週5日見習いとして通う工房で物思いに沈むことはあまりない。
 錫器などの金属工芸品を扱っている工房に今は師匠がおらず、普段感じる氷点下の厳しい空気感は霧散していた。
 工房のそこかしこに置かれた錫器。
 純錫板に天然石や金鎚を打ちつけた伝統的な模様。
 俺は蒔田への気持ちをなかったことにしたいのか、したくないのかを腑分けできないまま、その美しい模様を見つめていた。
 薄い氷がカシャンと音をたてて氷片になる様子を表現した模様の入った錫の器は、とても綺麗だ。
 冷たいイメージのある綺麗さと温かいイメージのある綺麗さ。
 俺はどっちが好きなんやろ。
 ルーシー・リーの陶芸ボタン。
 あれは温かいイメージやったな。
 美しかった。 
 子どもだった俺が目を奪われた。
 あのボタンみたいに美しくて大きなピアスをひとつ。
 陶芸ではなく、金属で。
 両耳につけるピアスではなくて、片方だけの。
 この世に一つしかないカタチで。

 蒔田くんが付けたら、似合いそうな銀細工にして。

「あかん。また考えてもた」

 俺が小さな声で独り言を呟くと、真後ろから声がした。
 
織田(おりた)くんの独り言。初めて聞いたわ」

 振り返ると職人の竹田さんが金槌(かなづち)を持ったまま、俺を見下ろして立っていた。
「すみません…僕。集中できてなくて」
 俺が慌てて謝ると、竹田さんは「ええやんそんなん」と返してくれた。
 普段あまり会話することのない竹田さんに俺は無愛想で無骨な印象を持っていたけれど、声は予想以上に温かなものだった。
「織田くんが取りに行ってくれた義定さんの新しい(ツチ)な、使いやすいわ」
 そう言ってから竹田さんは少し口角を上げた。40代後半か50代前半だろうと思う竹田さんが笑ったのを、俺は初めて見た気がする。
 笹木絢堂という師匠の不在が工房の雰囲気を柔らかくしていると俺は思った。
 こんなことを考えてしまって後で痛い目を見るだろうかと、もう一人の俺が小さく怯えた。
「僕なぁ。義定さんがやってる下宿に住んでたことあんねん」
 竹田さんが普段話さないプライベートな話題に俺はびっくりしたけれど、その内容にも驚いた。
「竹田さんがシェルブルー東山に?」
「あぁそう。よう名前覚えてんなぁ」
「僕。竹田さんは京都の人やと思ってました」
「ちゃうねん。出身は兵庫の丹波篠山。学生のときは義定さんに世話になったわ。下宿代手渡しに行ったらご飯食べさせてくれたり」
「…令和の今も下宿代手渡しらしいですよ」
「え?ほんまかいな!…義定さんらしいわ」
 俺はシェルブルー東山の部屋に入ったことがあるということも、誰が情報源かということも、竹田さんには伝えないままでいた。
「どの部屋も小さな部屋なんは同じなんやけど、僕が4年間住んでた101号室だけ格別に安かってん」
 竹田さんから101号室の話題が出たので俺はドキッとした。
「…何かいわくつきの部屋なんですか」
 俺がこわごわと尋ねると、また珍しく竹田さんが笑った。
「何も出ぇへんで。部屋が狭すぎて三階建てのどの部屋に住む学生も洗濯機が置けへんやろ。101号室出て横のスペースに1個だけ置いてあるのを共同で使うんよ。だから音が(うるさ)くてごめんなぁって家賃下げてくれはるねん」
 そう言ってから竹田さんは「懐かしいなぁ」と言いながら背を向け、静かに工房の奥に去っていった。

 
 蒔田が101号室を出て、洗濯機の前に立ち、洗濯をしながら腕組みをしている姿を思い浮かべる。
 コンクリートの白壁に背中を預け、洗われている衣料のことは頭から追い出して。
 あの時みたいに左指を唇に押し当て、長い睫毛を伏せて心の中で詩を紡ぐ蒔田。


「あかん。また考えてるやん」

 俺はまた独り言を呟いてしまう。
 病気みたいやん。
 (わずら)う…ってこれか。
 俺はひそかに溜息をついた。




▦ ▦ ▦




 その夜、工房から帰宅してシュウの部屋に入ると俺の弱ったメンタルにとどめを刺すかのようにà gauche(ア ゴーシュ) の曲が流れていた。
 よりによって、なんで今?
 俺はたぶん、泣きだしそうな顔をしていたんだろうと思う。
 シュウが、ドアを背中に突っ立っている俺のところまで歩いてきて「どしたん」と顔を覗き込んできた。



     語りたいこと言葉にできない
     伝えたいのにココロ手渡せない
     だけど君ばかり追う この目は
     きっと無邪気に澄んでるんだろう

     花を渡そうか
     どんな花がいいかな
     星を見上げようか
     隣に君を誘って
     (うた)を歌おうか
     僕の想いをなぞる詩を

     どうすれば
     君に()れられるかな


「なんでこの曲聴いてたん…」
「…え?…Spotifyでマイライブラリ聴いてたんやけど」
「なんてタイトルなん」
「え。ふみ。曲のこと聴いてるん?」
「うん」
「えっと。“ 花を渡そうか ”って曲じゃかったかなァ」
「誰に花を渡すんやろ」
「えっ!…おにぃ大丈夫?君ちょっと変やで」
「変なのは前からやん」
「そやな」
(わずら)ったことでさらに変になったから」
「え?わずらった?」
「マイナス(かける)マイナスでプラスになるやろか」
「は?」
「俺がまともになったら恋人ってものになれる?」 
「ええっ!恋人!?」
 シュウが叫ぶように言い、俺の両肩を掴んで揺らした。
「ふみにい〜!どないしたん!大丈夫か〜」
 俺の体が揺らされ、大波に呑まれた子どものようになすがままに俺は頭を揺らす。
「お〜い!」
「シュウ…」
「おぅ」
「この曲の作詞って誰かわかるん?」
「はい?さっきからなんなん?à gauche(ア ゴーシュ) 好きになったん?」
「…気になるようになったのは確か」
「へぇ。ってか恋人って言葉。君、さっき初めて口にしたね?」
「…それはおいおい話すから」
 俺は、昔からシュウには隠し事ができないのだった。
 きっと俺は、今はうまく言葉にできない蒔田への想いをシュウには打ち明けてしまうんだろうと分かっていた。
 今はまだ感情がぐちゃぐちゃ過ぎて、どこから結び目をほどいていけばいいかも分からない。
「今は作詞家の具体像に圧倒されて残像に脅かされてる」
「また理由(ワケ)のわからんことを…」
「今まで誰が歌を作ってるのか考えたことなかった」
「あぁ作詞が誰ってさっき言ってたな。調べたるわ」
 シュウが俺を掴んでいた手を離して、スマホを覗き込む。
 俺は少しぼんやりしながら普段見えないシュウのつむじを見ていた。
 俺と同じ、カラーリングを一度もしたことのない漆黒の髪。柔らかい俺の黒髪と違って、触ると手触りが(はがね)のような黒髪。
 そして蒔田の髪もまた同じように。
 …こっわ。
 また残像。
 恋煩い。
 怖すぎる。
「hiranoyakuって人。hiranoが名字やろか。hiraやろか」
「ひらの やく…」
 俺は瞳の焦点をどこに合わせていいのかわからないまま呟いた。
 シュウの姿が、海をもぐって見ているみたいにぼやけている。
 蒔田躍じゃなくて、平野躍。
 名前、変わったんかな。
 あ。
 アーティスト名ってやつやろか。
「ふみにぃ共同作業する同級生、作詞家志望なんやろ?」
「…うん」
「この人と関係あるん?」
「…うん」
「え。この人なん?」
「そうみたい」
「え!ふみの着物脱がせた男やんな!?」
「だから!脱がされてへんわ!」
 俺はシュウの言葉に脱力して、壁際に置いてあるシュウのベッドまで力なく歩いて倒れこんだ。     
 六月の気候に合わせた薄いベージュのタオルケットからシュウの匂いが立ち昇る。
 俺が安心する、馴染みのある香り。
 この香りだけでじゅうぶんだと思っていたのに。
 弟愛が過ぎるのは自覚していた。
 でも。弟だけでは足りなかった。
 あの101号室のソファで安心して暗闇に落ちていった時に俺を包み込んだ珈琲の香り。
 蒔田に借りた黒いシャツとグレイのタンクトップ。黒色のタイトパンツ。蒔田の香りはまだ知らない。



 俺は初めて外の世界と繋がりたい、世間に認められる作品を生み出したいという希求が生まれたことで、周りの世界にソフトランディングするために彼を利用しようとしているんだろうか。
 乗っかると、楽だから。
 一緒にいて気楽ってなかなかないことだし。
 それを恋だと思い込んでるんだろうか。リアルな世界で恋するのもアーティストとして大事だとか先日考えたような。それなんだろうか。この感情は。
 芸術家として世界を広げるために?
 人間としての器を大きくするために?
 人が変化して成長するには、痛みが伴うと言う。

 そうやん。
 だから胸が痛くなったりするんや。

 俺は不覚にも泣いてしまいそうになった。
 

「ふみ。泣いてるん」
 ベッドでうつ伏せに寝ているからシュウには俺の顔は見えていないはずなのに、泣きそうな俺の波長が伝わったのかもしれない。
「まだ。泣いてない」
 シュウが横に来てベッドの端に腰を降ろした気配がした。
 シュウの声が後頭部に降ってくる。
「わずらったって恋煩いのことなんやな」
「…俺、最近変やねん」
「前から変やって自分でさっき言ってたやん」
「…気がついたら蒔田くんのことばかり考えてる」
「まきたって名前なんや。綺麗な顔の男」
「うん。マキタヤク。種を蒔くって字のマキタに活躍するの躍って字って最初に教えてくれた」
「ふみ。良かったな。俺、安心したわ」
「…何がえぇねん。しんどいわ」
「ずっと鎖国してたふみにぃ。開国やん」
「開国ってなんやねん!」
 俺は半身を起こしてシュウを睨みつけた。
「うわぁ珍しい顔。そんな顔もえぇな。可愛いわ。写真撮っていい?」
「ふざけんといて」

 俺は多分生まれて初めて、シュウに対してキツく言葉を投げつけてしまったかもしれない。
 これが兄弟喧嘩ってやつ?
 俺がベッドから降りて部屋を出て行こうとしたら、シュウが俺の背中に声を掛けた。

「ふみに俺以外に好きな人ができて嬉しい。健全やん」

 健全?
 どこが?

 ゆっくりと振り返って俺はシュウの顔をまじまじと見る。シュウはいたって真面目だった。

「シュウ。俺の好きな相手、男やで?」
「うん。それがどうしたん」
「それでも健全なん?」
「うん。いいやん」
「…いいんや」
「俺だって男やで。しかも弟やで。弟LOVEより健全やん」
「…シュウって前向き」
「そう。前向きな俺。で。恋人になりたいん?さっき恋人がどうのこうの言ってたで君」
「…蒔田くんに言われてん。恋人にしてくれる?って」
「え、え〜っ!?」
 シュウが夜中にも関わらず大声を出した。
 俺より身体の大きいシュウが詰め寄ってきて俺の両肩を掴んだ。
 これ、30分前にされたやつやん。

「もうすでに両想いなん?」
 両想い。
 片想いの、逆。
 蒔田も俺を好き?
 それは、言われていない。
 両想い。
 俺の人生に今まで無縁過ぎて、言葉の理解が追いつかない。
 そうなったらどうなるんやろ。

「ふみにぃ。ほんとはやっぱり着物脱がされたん?」
「だから!脱がされてへんって言ってるやん!」

 水無月の夜の静寂に、俺の叫ぶような声が溶けていった。
 月は出ていなかった。