祗園青空下上ル

 

 大学に向かうために自宅を出た俺は、公園横を通りかかった時にサッカーのユニフォームを来た三人の小学生男子が身を屈めて何かを熱心に拾い集めているのを見た。
 スズカケノキの大きな葉をそれぞれ手にしている。葉が落ちる季節ではないのに彼らの足元にたくさん葉が積もっていて、謎にシュールな光景を生み出している。青々とした葉が美しく散っているのは伐採したものだろう。練習前に片付けるように監督から指示されたのかもしれない。 
 俺はなんだか勿体ないと思ってしまった。

 あの大きな葉を集めて寝床を作り、自分が横たわっているのを妄想する。
 でも、何故か横たわっているのは子ども時代の自分だった。
 小さな俺がスズカケノキの葉に包み込まれて眠る。
 そこは温かくて、静かで、安心できる場所だ。
 誰からも脅かされず、支配されず、心ゆくまでひとりきりでいられる。
 まるでミノムシみたいに守られた自分。

 時々、俺は自分のことをミノムシみたいだと思った。
 その思いが、先日うっかり蒔田の前で呟いてしまった奇抜な独り言を生み出したのだった。
 今と違って話しかけてくる同級生はまだいたけれど、自分一人の世界に閉じ込もりがちな傾向は昔からだ。
 若い男も向こうの方で葉を拾い集めていて、子どもにさせるだけじゃなくて大人も動いているという状況が不思議に俺の心を優しい気持ちにさせた。
 子どものうちにスポーツや所属しているクラブなどでこんなふうに集団行動を取ることで、人は仲間との繋がりを学び、協力しあう気持ちを育み、友情を結ぶのだろうか。
 好きなものが一緒だから。
 俺が好きなものが特殊すぎたから、誰とも最終的には交われなかったのだろう。
 残念だと思っていた幼い自分が、今では遠く感じる。
 残念だと思わなくなった俺のほうがしっくりくる。

 だから。
 俺はいびつなままなんやろなぁ。
 まぁええんやけど。





「文哉〜。新聞読む?」
「読みません」

 大学の総合芸術クラスの教室。
 ざわついたクラスで誰かと会話しているという行為に、俺自身が早く馴染まないといけない。
 いつまでもミノムシ化していられない。
 修業や…。
 滝に打たれてるくらい、俺は相手との会話にエネルギーを注ぎこんでるんじゃないかと思う。

「俺はスマホで情報得るのが嫌でさ。新聞派」
「…令和の大学生としては貴重な存在ですね」
「独り暮らしなのに定期購読してるってのは確かにレア」
「…新聞がどうかしたんですか」
「うん」
 そう言って、蒔田が床に投げ出していた黒リュックを持ち上げて新聞を取り出した。
 水曜日の教室で、俺たちは相変わらず机を横並びにしたまま話をしていた。
 俺は意識して蒔田の右隣に座るようにしている。
 蒔田は右耳にはピアスはつけていないからだ。
 耐性のない、新たな極上ピアスと蒔田の顔面で、俺は殺されたくはない。
「他にも俺レアなんだけど」
「なんの話ですか」
「こっちの話。また話すわ」
「…」
「今朝。ことばのコラム見て文哉のこと思い出してさ」
「…私の何を?」
「文哉って物静かに、誰にも気付かれないようにしながらも感情が豊かだよなぁって」
「感情豊か?私のどこが?」
 蒔田の言葉に驚く。
 同年代から見て俺は能面のような顔をしてるように見えるんじゃないのかと思っていたから。
 その面は有効で、独りで過ごしたい俺の味方をしてくれた。俺にとっては御守りみたいなものだった。
 面を付けていると息苦しいし、自然と出す声も抑揚を欠くので内心で感情を持て余すこともあったけれど、それは帰宅してからシュウに接することでバランスを整えることができた。
「ここ。読んでみて」
 蒔田が指をさした部分は、新聞一面に連載された哲学者のコラムだった。
「…“ 感情の豊かな人は感情的ではない ”」
「そう」
「どういう意味だろう。“ ヒステリックな感情表現は感情の貧しさを示すに過ぎないと、詩人は言う ”…」
「そうそう。うまいこと言うよな」
「え?…私にはよく分からない」
「詩も(なま)の感情の発露ではないって続いてるだろ」
「はい」
「文哉のことと俺が創り出したい世界の話を同時に伝えたいから、なんかごっちゃになって説明難しいんだけど」
 新聞を互いに手にしていたから、気付くと俺は蒔田に顔を近付けてしまっていた。
 あかん。
 冷静なフリはキープせんと。
 俺は上目遣いで蒔田を見て、静かに返答した。
「…どうぞ。ごっちゃのままで」
「…どうも」
 極上の笑顔を返されてしまう。 
 万が一に備えて先に呼吸を深めていて良かった。俺は平気な顔ができていた、と思う。
「言葉のリズムや色彩、語と語とのデリケートな関係などによって人の感情を内側から補強した固有の構築物だって詩について語ってる、この語りかた。俺は好き」
「言葉のリズムと色彩…」
「うん。で。アンタの言葉って色彩が豊か」
「…え」
「“ 軌跡のような模様やなぁ。蝶が舞った跡を辿ったような ”って言葉に俺は詩を感じた」
「…他の人がいるから黙ってて下さい」
 俺が小さな声で抗議すると、蒔田が声を殺して笑う。
 肩を震わせている隣の男に、俺は誰にも気付かれないように肘鉄(ひじてつ)を喰らわせた。
「痛ぁ!」
 蒔田の笑いを含んだ声に、他の学生が何人か顔を上げた。
 そんな大声出さんといて…。
 周りから視線をぶつけられるのが痛みにすら感じる俺は、今までだったら冷めた心で蒔田の軽さを疎ましく感じていたと思う。
 けれどもなぜか、今は冷めていない。
 それどころか、なんだか身体が熱い。
 さっき自分が初めて、シュウにするような仕草を蒔田に自然にしたことに俺は今になって驚いていた。

 自分に絡んでくる同級生は、俺が誰とも打ち解けようとしない姿勢を崩さないでいるとフェイドアウトしていった。
 蒔田は違う。
 消えていかない。
 自然体でしつこい。 
 蒔田には、うっかり素を曝け出してしまったから?

文哉(ふみや)。昼休み予定ないんだったら向こうの教室に行こう」
 蒔田が小さな声で俺に言う。
「他のヤツ居たらアンタ堅苦しい喋り方ばかりするから。俺、嫌なんだ」
 そう言って少し恨めしそうな顔をしてから蒔田は笑った。
「いつも通り昼ご飯持ってきてんだろ?」
 当たり前のように昼休みを一緒に過ごそうとしてくる。そんな蒔田を押し付けがましいと思わない自分に、俺はまたまたびっくりした。
 目を見開いたまま、俺は自然に頷いてしまう。
 なんなん?なんで俺頷いてるん?
 …ペース乱されるわ。

 
 昼前に使われていなかった広い講義室に入り、一番前まで二人で段差を降りていく。
 木の椅子を三つ座れるように倒し、一つ間を空けて二人で座った。

「…水曜日のクラス。人が多いから苦手やねん」

 そっと言葉を出す。
 蒔田との約束どおり、周りに人がいなくなったので俺は努力して言葉を本来の自分のものに切り替えた。
 しばらくはエネルギーを多大に使うだろう。素を晒して地を出すのは、銭湯で服を脱ぐような行為に近い。世の中には平気な男もたくさんいるのだろうけれど、俺は場所見知りも激しいから駄目だ。
 裸でいるような心許なさになる、この喋り方。
 でも。
 銀細工に挑戦できるよう、がんばらな。
 それに。
 蒔田の創る詩。
 それにインスピレーション得てピアスのデザイン考えるの、めっちゃ面白そう。
 独りでは無理やん。
 蒔田に味方になってもらわな。
 そのためには裸になるのも嫌がってたらアカン。
 …裸。
 俺。
 何言ってるんやろ。
 やっぱりかなり混乱してるんちゃう?
 俺の溜息を聴き取ったのか、蒔田は優しく笑みを深めた。
「俺は合同クラスのおかげで文哉と喋れるようになったから嬉しいんだけど。確かに人数は多いな」
 蒔田はリュックから竹籠のランチボックスを取り出しながら俺の手元を見て、急に笑顔を消した。
「おい。昼飯こんだけ?」
 そう言われて俺は自分の手元に目を落とす。
 いつもどおり俺は軽食だった。
 ブラン入りのサンドイッチと林檎味のゼリー。
 幼い時分から少食なのだ。
「もっと食え。こんな折れそうな腕で修業できるのか?」
 そんなことを言われても体質なのだから仕方がない。
「一個やるよ」
 蒔田が大きなオニギリを俺の前に置く。
 手作りなのか形が悪い。さらに海苔が全体に巻かれて爆弾みたいになっている。
 蒔田は竹籠から出した別のオニギリに齧りついた。

 この綺麗な顔で、このワイルドな爆弾オニギリ。
 バランス悪すぎちゃう?

「唐揚げを三つ放り込むのが俺流。で、美味い」

 俺は黙ったまま、サンドイッチに小さく齧り付いて蒔田を見ていた。
 何も言わない俺の目を蒔田は優しく見て、視線を俺の口元に移した。
 何故か急に、蒔田が眉間に力を入れて怖い顔をする。

「やっぱ食うな。俺が先にさらに背を伸ばす」
「……蒔田くん。何言ってるん…?」

 俺が小さな一口を飲み込んで大きな目を見開いて呆れていると、蒔田は真面目な顔で黙って俺を見て自分を納得させるように頷いた。
 それから大きく笑う。
 背を伸ばす決意でもしたのだろうか。
 そんなこと自分の意思ではどうにもできるわけないのに。
 顔の造作が秀逸なぶん、変わった人や。
 俺より先に背ぇ伸ばして(なん)かいいことあるン。

 身長の話をされたことで、俺は自然に俺自身の身近な話題に触れてしまった。 
 うっかり。
「弟にはとっくに背ぇ抜かされてる」
「弟いるんだ」
「見おろされるの、ほんまいややわ」
「そう言ったわりに何で嬉しそうな顔したんだ?」
 そう言われて俺はハッとした。目の前の蒔田のハシバミ色をした瞳を見る。
「俺、嬉しそうな顔してた?」
「うん。してた」
 蒔田は真っ直ぐな視線を俺に向けてきた。
 何気ない表情を捕らえて、隠そうとした気持ちも掬い上げてくる。 
 言葉を大切にする人は、自分以外の人間の感情の揺らぎを鋭く観察するものなのだろうか。
 蒔田の持って生まれたものなのか。

「俺の弟なァ…。可愛いねン」

 俺がそう言うと蒔田は真顔になった。
「文哉…可愛いなんて言うんだ。おまえが可愛いと思う弟、気になる。中学生?高校生?」
「…大学生」
「は?…年子?歳が離れた弟をイメージしてた」
 蒔田は驚いた顔のまま、前より少しだけ顔を近付けて俺の目をじっと見つめた。
「…な、何なん?」
 声が少し震えてしまった。
 俺が人よりパーソナルスペースを広く取る性分だと知っている蒔田は、ぎりぎりのところできちんと体を止めてくれる。
 それでも暗黙の中で互いに押し引きがあって、俺は押されているようで引き込まれそうにもなる。
 その微妙な空気の揺れが、毎回俺を戸惑わせた。
 蒔田は今は真面目な顔をして俺を見ている。
「弟がいるイメージ。なかった」
「ふぅん。そう。まぁええけど」
「でもって仲がいいきょうだいがいるって意外」
「仲えぇなんて言うてへんよ」
「可愛いって言いながら甘い顔したじゃん。弟と仲悪いワケない」
 甘い顔?
 俺、そんな表情したやろか。
「…うん。まぁ。えぇコやねん。喧嘩できひんわ」
「いい子?大学生の弟にイイ子って普通言わないだろ」
 俺に言っているというより独り言のように蒔田が囁いて、俺から体を離していった。
 少し息を詰めるように呼吸していた俺は、蒔田に気付かれないように深く息を吐く。
「家族。兄弟。文哉について知れば知るほど文哉のひととなりが立ち上がる。彩りが増えて鮮やかになってく。平面的だったものが立体的に見えるようになってくる。情熱的だと分かる。あんなにクールビューティーだったのに」
 蒔田の言葉に俺は度肝を抜かれた。
 あんなにクールビューティだった?
 俺が?
 いつの話してるん。
 過去形で言われるほど交流してへんやん。
 詩人って独特すぎひん?
「蒔田くん…さっきから何言ってるん」
「文哉みたいに金工職人の修業してんの?弟」
「してへん」
「何してる」
 蒔田が突っ込んで尋ねてくるのが不思議だった。
 誰も俺に関心なんて持たないと思って生きてきた、そんな20年だったから。
「バスケしてる」
「…バスケ?」
「うん。昔から体育会系」
「へぇ。1歳違いで生き方かなり違うんだな」
「そう。俺には無理」
 走ったりドリブルしたりという行為だけでなく、チームで競技するという精神が、そもそも無理。

「文哉の弟の名前は?」

 ここまで来て俺は疑問に思った。
 これ何なん?
 面接なん?
 見合いなん?
 共同作業を進めるにあたって互いのデータを交換しましょう的な?
 俺、今。
 課題制作のパートナーに相応しいか見極められてるン?

「シュウ…。修哉(しゅうや)って名前」

 俺はシュウの笑顔を思い浮かべながら、蒔田に大好きな弟の名前を教えた。

―ふみ〜!

 シュウが先日水曜日の晩に出した大声が脳内に蘇る。

―君が初めて綺麗やと思うニンゲンは男やったか!
 ふみにぃこもりびと卒業やん。
 俺。
 その人に会ってみたいわ〜!
 





▦ ▦ ▦




 火曜日。
 俺は師匠からのミッションをこなす必要があった。

 義定さんという古くから工房が懇意にしている取引き先に注文をしている(つち)を受け取る日だった。
 着流しを着て行くように言われていた俺は、朝からかなり緊張していた。
 普段は全く着物とは無縁の生活をしている。
 祖父の代までは織田家の工房でも職人たちは着物を着ていたと聞いているけれど、令和の今は織田家を継いだ叔父も作業中はラフな普段着だ。白シャツにデニムを合わせている姿だって見たことがある。
 古びた作業台の前で真新しいカッターシャツと洗い晒しのブルージーンズを身に付けている叔父はかっこよかった。中学生の俺が見惚れていると、振り返って歯を見せて笑いかけてきたから驚いたんだった。
 作業中なのに笑顔を見せていいのかって。
 たぶん、その時には既に師匠の絢堂の冷徹さに馴染みすぎていたんだろうと思う。
 俺はデザインのクラスが終わると、そんな5年ほど前の記憶に浸りながら三十三間堂近くの親族宅を訪問した。預けていた着物を着付けてもらうためだった。
 俺はシュウほどではないけれど背は高いほうだったから、着付けをしてくれる小柄な伯母は「えぇわぁ」と何度も言って喜んだ。
 伯母は普段女性にばかり着物を着せているためか、昔から甥の俺に着物を着せたがる。若い男の着物姿を見て寿命が延びると毎回言われている。
 似合ってないと思うけれど、年に1回あるかないか着物を着ることになる。今回みたいに絢堂に指示されたときは従わざるを得ない。
 俺は緊張するし、目立つのが嫌いだから着物を着付けてもらうときは普段より無口になる。伯母によるとクールに見えて、それがまたいいらしい。
 俺にはよく分からないけど。

「伝統と革新が融合した非日常を届けるコンセプトショップって」
 伯母が最後に帯を締めながら、俺の背後から話しかけてきた。
「着物の畳紙(たとうし)に書いてあったんよ。あんたこれどこで買ったん」
「伯母ちゃん前に言うてたやん。“ 姉小路下ルの店が気になる ”って」
「あぁ!そこの店なん。店の雰囲気どうやったん」
「確かに日本文化の革命って感じやった。春からパリのマレ地区にも新しい支店がオープンしたんやって」
「マレってどこ。あんたパリ行ったことあるん?」
「…ない。伯母ちゃん。俺がほとんど京都からでぇへんの知ってるやん」
 東京にも行ったことのない俺が、なんでパリに行った経験があると思ったのだろうか。
 実際、俺は京都からほとんど出たことはなかった。
 今までに行ったことがあるのは金沢。神戸。
 瀬戸内海の直島くらい。
 ひきこもり、もとい、こもりびとだとシュウにからかわれている。
 シュウが目を細めて笑ってる姿を脳内に満たして俺が心を温めていると、カシャンとスマホの撮影音がした。
「伯母ちゃん!」
 畳の上の自分の白い足袋を見ながら大きな鏡の前で俯いていた俺は、顔を上げて即座に反応する。
「写真撮らんとって」
 こちらにスマホを向けている伯母に、俺は珍しく苦情を言った。
「ごめんなぁ。でも修ちゃんに頼まれたんやもん」
 伯母は謝っている言葉とは裏腹の笑顔でしゃあしゃあと開き直る。
「文くんに気付かれへんうちに撮ってや〜って」
「シュウこんなことで連絡してきたん…」
「着物姿の写真持ってへんから貴重なんやて」
「貴重って…」
 俺は溜息をついた。

 シュウが待ち受け画面に俺の写真を使っていたことを、俺は知っている。
 「修哉の推しか」と尋ねられたシュウは躊躇いもなく「推しじゃなくて兄」と真実を告げ、同級生からドン引きされたと春に聴いたばかり。
 いや、なんで隠さへんの。
 いや、ちゃうやん。
 そもそも待ち受けに俺の写真使ってるのがおかしいやん。
 そういうとこも可愛いンやけど。
「…もぉどうでもえぇわ。行ってきます」
「着替えには何時でも来てくれたらいいわ。でも用事終わったってすぐ脱がんと、家帰って修ちゃんに見せたったらええのに」
「いやや。こんなカッコで地下鉄乗ったら目立つやん…」
 俺は伯母との会話を打ち切るように、2階の和室を出て階下に降りた。
 目立つのは本当に嫌いだった。
 伯母宅の玄関を出て、七条大黒町通を上がる。歩く女性や観光客らしい数名がちらちらと俺を見た。
 あと三分の辛抱だと思って心を無にして義定さん御宅へ向かった。



 俺が義定さん御宅のリビングを出て御礼を言ったタイミングでチャイムが鳴り、玄関が開いた。
 入ってきた客人を見て、廊下に居た俺は瞬時に固まる。
 客人は蒔田だった。
 相手も着物姿の俺を見てかなり驚いたようで、「文哉」と俺の名前を呟いて立ち止まった。
 大きく見開いた目を、今度は眩しいものでも見るように細めて蒔田は俺を眺め続けた。
 普段つぎつぎと言葉を繰り出してくる蒔田が、何故か黙ったままで見つめてくるので俺はさらに落ち着かない。
 俺の背中越しに義定さんがリビングから顔だけ出して蒔田に声を掛けた。
「おかえり(やく)くん」
 その義定さんの言葉に俺は度肝を抜かれる。
 おかえり?
 え。
 ここに住んでるん?
 そういえば住んでるとこも何も聴いてへんかった。
 俺は蒔田に歩みよって玄関の框を降り、草履を履きながら「蒔田くん下宿先ここ?」と尋ねる。
 義定さんは自宅横に三階建てのアパートを所有していて、男子学生限定で部屋を貸していた。
 『シェルブルー東山』
 そんな洒落た名前とは真逆の古いアパートに、見た目が華やかな蒔田が住んでいるというのが意外だった。
 スニーカーではなく薄い草履だったからか、今日は間近にいる蒔田を少しだけ見上げるような格好になってしまった。
 蒔田も同じように感じたようで、ようやくいつもの笑顔を見せた。
「文哉。俺のほうが背、先に伸びたな」
 なんでやねん。
 俺は着物で緊張していた気持ちが緩む。
「俺が草履なん気付いてるんやろ」
 少し俺が睨みつけると蒔田が「ふふ」と大きく笑った。
 蒔田の笑った顔に耐性がついてきたのもあって、俺はじっと蒔田の表情の変化を見ていた。
 少し口角をあげる。
 目を細めて大きく笑う。
 歯を見せてバカ笑いをする。
 いろんな笑い方を持ってる男だと思う。
 しかもその表情全てが、この男は雑誌のモデルなのかと勘違いしちゃうくらいバランス良く整っている。
 俺に耐性がついて良かったと思う。
 適応するのに普段かなりの時間を要する俺が今回素早く柔軟になれたのは、新しい作品を創作したいという本能がイケメンに怖じ気づく俺に徹底的にダメ出しをしたんだろう。
 無意識に。
 一年間共同作業をする相手を見るたび、死ぬワケにはいかないから。
 それにしても。
 俺の美意識ド真ん中にくる人間って、世の中に他に何人くらい存在するんだろう。
 俺は着物を着て非日常の自分だったこともあり、普段は掘り下げない分野の疑問に真面目に向き合ってしまった。

「あれ。文哉くんと友だちやったんか」

 廊下に出て来た義定さんの言葉で、俺はハッと現実に引き戻される。
 他人と一緒にいるのに(くつろ)いだ気持ちになったことを、俺自身が何かから(とが)められたかのように緊張が走った。

「義定さん。この人は友だちじゃありません」

 俺が声のトーンを瞬時に切替えて言うと、真横で蒔田が「おい」と突っ込んできた。
 それに俺は全く反応できなかった。
 心臓の鼓動が速くなって苦しくて。
 俺は青ざめた顔をしていたかもしれない。
「だから…。私が同級生と喋っていたことは師匠に黙っていて下さい」

―不協和音はいらん。
 文哉の世界を乱す余計な物は排除せなあかん。

 絢堂の低い声が蘇って、俺の体がさらに堅くなる。 

 俺は今まで同級生と会話することがなかったから、こんなふうに親しそうに誰かとやりとりする俺を義定さんが見るのは初めてのはずだ。伝統工芸の集まりなどで師匠と顔を合わせた際に、義定さんが話すかもしれないと思っただけで怖くなった。
「笹木さんには言わへん。文哉くん大丈夫か」
 義定さんが柔らかい声で応じてくれた。
「あの人、前のお弟子さん潰してはるねん。あんまりこの(はなし)したないけど」
 普段師匠の話を持ち出さない義定さんが、蒔田の前で双葉会に関することを語り出したので俺は驚いた。
「さっき文哉くんが言った言葉な。なんや事情があるんは分かるわ」
 義定さんは白髪の交じった髪を自分で少し掻き混ぜて、ちょっと考えるような仕草をしてから俺を見た。
「僕はさっきな、文哉くんが躍くんと喋ってる顔見て安心したんや。年相応のあんた、初めて見たからな。中学生の時から文哉くん大人びてたからなぁ」
 義定さんに言われた言葉で、俺は少しだけ混乱した。
 俺。
 どんな顔をしてたんやろ。
 年相応の顔って、何。
 俺がシュウに見せてるような顔なんやろか。
「文哉くん。たまには義定のオッチャンを頼りにしてや。僕は若者の味方やで」
 そう言いながら俺たち二人に近付いてきた義定さんは、蒔田が手にしていた封筒を受け取った。
「なんで躍くんの前で僕がこんな話はじめたんか理由を言うとな。僕、この躍くんのファンやねん。かなり信頼してんねん」
 義定さんは蒔田を見て力強く頷いた。
「今日は喋りすぎたかもしれん。まぁええわ。文哉くん。またいつでも来てな」
 俺は、義定さんが優しく言ってくれた言葉を消化しきれなくて返事が出来ずにいた。
 頭がぐちゃぐちゃのまま「失礼します」とお辞儀をして玄関を出た。
 蒔田も一緒に出てくる。
 夕闇の塗師屋町の景色に蒔田が溶け込んでいるのを、俺は不思議に思いながら呆然と立ち尽くしていた。
 着流しを着て緊張する1日になるとは予測していたけれど、ここまで感情を揺さぶられる日になるとは思っていなかった。
「なぁ文哉」
 蒔田に声を掛けられ、俺は無表情のまま、ゆるゆると顔を上げる。
「よくも友だちじゃないって言ってくれたな」
 言葉は責める内容なのに、蒔田の顔はとても優しかった。
「事情あるのは分かったから」
 蒔田が夕焼で染まった道端で、俺の傍に身を寄せて囁く。
「友だちじゃないって言いたいんだったら。俺を恋人にしてくれる?」
 小さな声で俺の耳元でそう言った蒔田は、体をそっと離して真面目な顔をして俺を見た。 

「恋人作るなとは言われてないんだろ。きっと」

 相手の言葉が唐突過ぎて最大級に驚いた俺は、呆然としたまま素直に頷いてしまう。

「だったらいいじゃん」 

 いいじゃん?
 いいじゃんってなんやねん。
 軽いのに重すぎるやん。 
 蒔田くん。
 何言ってるん?

 俺は着物から香が漂ってきたことに気付き、蒔田から目を逸らした。
 シェルブルー東山の建物が目に飛び込んでくる。
 それは、濃い夕闇に浸されて、静かに眠っているように俺には見えた。




▦ ▦ ▦




 蒔田に促され、初めて相手の部屋に入った。
 シェルブルー東山101号室。

「…わ。せっま」

 俺は普段、こんな失礼な言葉は口にしない。
 失礼に当たるとはわかっていても言ってしまったのは、俺にとっては“ 狭い ”という言葉が、何故か褒め言葉だったからだ。
 このことはシュウしか知らない。

「文哉。心の声が出ちゃってるよ」
 先に入った蒔田が振り返って笑う。
「ごめん…」
 そう謝りながらも、俺は少しワクワクした。
 なんだか秘密基地みたいで。
 昔からミノムシ妄想をしている俺は、狭い空間で安らぐという特異な体質を持っている。
  玄関を入ってすぐ右手に流し、左手に風呂場だろうと思われる扉があったきり。あとは小さな6畳間だけだった。小さな空間なのに、スタイリッシュに整えられていた。
 ゆったりとしたソファが置かれ、クリーム色のテーブルと華奢な椅子。
 そして、白色と銀色の2色のクローゼット。

「どこで寝るん?」

 俺が蒔田に尋ねると、堪えきれなくなったように蒔田が「ふはは」と笑い出した。
「さっきから失礼過ぎない?文哉」
 蒔田は目に涙を浮かべて俺を見下ろす。
 そう。
 互いに全く同じ身長だと認識していたけれど、初めて靴と草履を脱いで裸足になった俺たちが並んでみて気がついたのは蒔田のほうが5㌢背が高いという事実だった。
 そんなことは俺にはどうだっていいのだけど、前に謎に「背を先に伸ばす」宣言をした蒔田はかなり嬉しそうだった。
 俺の百倍くらい大人の男の雰囲気を纏っている蒔田も、この点においてだけはやんちゃな中坊みたいだ。
 俺の外靴は常にシュウの見立てたスニーカーだった。
 バスケのコートは固い。シュウは衝撃を和らげるために厚底のバッシュを履いている。そのクッション性のある厚底のバッシュに慣れているシュウにもらったスニーカーは、たぶん俺の身長を底上げしていただろう。
 ここ5年くらいは同じような厚底スニーカーを履いていたので俺にとっては体の一部になっていた。
 今日は蒔田の得意げな顔を見ながらマイナス5㌢の世界で過ごすしかない。少しだけ部屋で休憩を取らせてもらってから着物を伯母の家で脱ぎ捨て、早く帰宅しようと決意する。
 今日はエネルギーを使いすぎ。
 倒れそう。

「川口さんに毎月下宿代を手渡しにいくんだ。今どき珍しいだろ。そうやって会話して互いを理解したいんだってさ。大家さんとして最高だよな」
「…そういうことやったん」
 義定さんというのは銘で、本名は川口悌一郎さんだったと俺は思い出した。
「珈琲か紅茶を入れるよ。文哉の好みは?」
 蒔田が小さなコンロの前で、俺に背を向けながら聞いてくる。
「珈琲がいい」
「砂糖どうする」
「いらん」
「ソファ座ってて」
「うん」
 そう返事した俺が一人で笑ったのは、蒔田が背を向けたのと同時に既にソファに俺が身を沈めていたからだ。
 モスグリーンのソファがユリノキの美しい葉の重なりのように感じて俺は引き寄せられた。

「珈琲戴いたら帰るわ。着物早く脱ぎたいねん」

 俺はソファに沈み込みながら、小さな声で言った。
 部屋の中に豊かな珈琲の香が漂ってくると俺は深く息を吸って目を閉じた。
 なんか落ち着く…。
 身に付けた着物が、急に重さを増したように俺は感じる。
 どんどん体がユリノキの葉のベッドに潜り込んでいく。
 身体がユリノキの重なった葉の暖かさで緩やかに溶けていく…と俺は思考がほどけていくのを止められずにいた。


       花を渡そうか
     どんな花がいいかな
     星を見上げようか
     隣に君を誘って
     (うた)を歌おうか
     僕の想いをなぞる詩を

     どうすれば
     君に()れられるかな


 眠りの片隅で、若い男の歌声が響いていた。
 俺はその夕方、珈琲を飲み損ねてしまった。